七月七日。
人類はついに、それを目撃した。
フィリピン海。
海上自衛隊のP-1哨戒機は、失踪事件多発海域の調査飛行を続けていた。
高度三千メートル。
空は晴れ渡り、視界は良好。
海もまた異常なほど穏やかだった。
「異常なし」
機長が呟く。
何度目になるか分からない報告だった。
ここ数週間、各国海軍は莫大な戦力を投入していた。
だが得られた成果はほとんどない。
高速で移動する正体不明のソナー反応。
それだけだった。
姿を見た者はいない。
写真もない。
映像もない。
まるで幽霊を追いかけているような状況だった。
「待ってください」
後方の観測員が声を上げた。
「海面に反応があります」
機内の空気が変わる。
「位置は?」
「右前方十一時方向。距離約八キロ」
機体がゆっくりと旋回する。
全員の視線が窓の外へ向いた。
青い海。
何もない。
そう思った瞬間だった。
「あれだ……」
誰かが呟いた。
海面に黒い影が浮かんでいる。
いや。
浮かんでいるのではない。
動いている。
猛烈な速度で。
機体が接近する。
観測カメラが最大倍率へ切り替わった。
映像が機内モニターへ映し出される。
そして全員が言葉を失った。
それは生物だった。
少なくとも最初はそう見えた。
全身を黒灰色の外殻に覆われた巨大な存在。
頭部らしき部分からは複数の赤い光が灯っている。
眼。
そう表現するしかない発光器官だった。
だが生物として見るには異様すぎた。
胴体から突き出した構造物。
砲身のような突起。
金属にも骨にも見える外殻。
肉体と機械が無理矢理融合したような姿。
誰も見たことがない。
誰も想像したこともない。
そんな存在だった。
「全長は……」
観測員の声が震える。
「推定百メートル以上……」
機内が静まり返る。
百メートル。
それは怪獣の大きさだった。
いや。
小型艦艇に匹敵する大きさと言った方が正確だった。
その時。
赤い光が動いた。
モニター越しでも分かった。
それが空を見上げたのだと。
「まさか……」
観測員の背筋を冷たいものが走る。
目が合った。
そんな錯覚を覚えた。
高度三千メートル。
本来ならあり得ない。
だが確かに感じた。
あれは自分たちを見ている。
認識している。
理解している。
獲物を見るように。
突然。
黒い巨体が海中へ潜った。
巨大な水柱が上がる。
「見失った!」
ソナー担当が叫ぶ。
次の瞬間。
レーダーが異常を示した。
「高速反応!」
「何だ!?」
「こちらへ向かっています!」
機内が騒然となる。
速度が異常だった。
潜水艦ではない。
魚雷でもない。
海中を時速二百キロ近い速度で接近してくる。
あり得ない。
そんなものは存在しない。
「距離五キロ!」
「三キロ!」
「二キロ!」
機長が操縦桿を握り締める。
「上昇!」
P-1が急上昇を開始する。
だが反応は止まらない。
まるで海中から追いかけてきているようだった。
その瞬間だった。
海が割れた。
轟音と共に巨大な黒い影が海面から飛び出す。
機内に悲鳴が響いた。
誰も理解できなかった。
百メートルを超える巨体。
それが海から跳躍したのだ。
重力を無視したように。
物理法則を嘲笑うように。
赤い眼が空を睨む。
無数の牙のような構造。
砲塔にも見える異形の器官。
悪夢そのものだった。
「撮影しろ!」
「撮ってます!」
「撮り続けろ!」
人類史上初めて。
未知の存在の映像が記録された瞬間だった。
その映像は数時間後、世界中の軍事機関へ共有された。
東京。
ワシントン。
北京。
ロンドン。
モスクワ。
世界中の専門家たちが映像を分析する。
結論は一つ。
正体不明。
分類不能。
既知の生物と一致しない。
既知の兵器とも一致しない。
人類の知るどの存在にも当てはまらなかった。
だが脅威であることだけは明白だった。
百メートルを超える巨体。
異常な機動力。
未知の構造。
そして高い知能を思わせる行動。
各国政府は直ちに警戒レベルを引き上げた。
海軍は臨戦態勢へ移行する。
世界中の海が緊張に包まれた。
だが、その時点で誰も知らなかった。
この怪物が何者なのか。
何体いるのか。
どこから来たのか。
そして何より――
これが敵の主力ですらないことを。
人類は映像に映った怪物を見て恐怖した。
だが後になって知ることになる。
その怪物はただの下級兵。
巨大な軍勢の末端に過ぎなかったことを。
深海の底にはさらに恐るべき存在がいた。
知性を持ち。
意思を持ち。
人の言葉を理解し。
そして人類そのものを憎悪する存在が。
だがその事実を知る者は、まだ誰もいなかった。
海はなおも静かだった。
まるで次に訪れる惨劇を楽しむかのように。