商人たちだった。
七月下旬。
東京港。
大型コンテナターミナル。
港湾職員たちは異変に気付き始めていた。
「また遅延か」
荷役担当者が呟く。
大型コンテナ船の到着予定が次々と変更されている。
一隻や二隻ではない。
十隻。
二十隻。
それ以上だった。
理由は単純だった。
船が来ない。
いや。
来られないのだ。
海上自衛隊艦隊壊滅の報告は世界中を震撼させた。
だが一般社会への影響はまだ限定的だった。
ニュース番組では連日、未知の海洋生物について議論が行われている。
専門家たちは意見を戦わせていた。
未知の生物。
海底文明。
新種の生命体。
誰もが好き勝手な推測を語る。
だが海の上では、既に現実が始まっていた。
インド洋。
原油タンカー「アル・サラーム」。
船団を組みながらアラビア海を航行中。
船長は艦橋でレーダーを確認していた。
異常なし。
海況良好。
いつも通りの航海。
そのはずだった。
「船長」
通信士が振り返る。
「海軍護衛艦との通信が途絶えています」
「故障だろう」
そう答えた直後だった。
見張り員が叫ぶ。
「海面に何かいます!」
全員が窓へ駆け寄った。
海面。
数百メートル先。
黒い何かが並んでいた。
一つではない。
十。
二十。
それ以上。
水平線まで続いている。
赤い光が海上に浮かんでいた。
無数の眼のように。
その瞬間。
通信は途絶えた。
アル・サラームからの最後の通信だった。
同日。
南シナ海。
貨物船団消失。
翌日。
北大西洋。
輸送船団消失。
三日後。
南太平洋。
大型客船消息不明。
一週間後。
失踪船舶数は三百隻を超えた。
そして。
人類はついに気付く。
敵は日本近海だけではない。
ワシントン。
アメリカ海軍司令部。
巨大スクリーンに世界地図が映し出されていた。
赤い点が表示されている。
失踪地点。
襲撃地点。
目撃地点。
最初はまばらだった。
しかし報告が増える度に赤い点は増えていく。
太平洋。
インド洋。
大西洋。
北極海。
南シナ海。
地中海。
黒海。
世界中の海に。
会議室は静まり返っていた。
誰も言葉を発しない。
発せなかった。
理解してしまったからだ。
「……世界規模だ」
誰かが呟く。
それは報告ではなく絶望だった。
深海の怪物は一地域の脅威ではない。
一国家の問題でもない。
海そのものを支配していた。
八月。
世界中の海運会社が運航停止を発表し始めた。
保険会社は危険海域を拡大。
一部航路では保険契約そのものが打ち切られた。
船を出せば帰ってこない。
そんな状況で航海を続ける企業はいない。
最初に消えたのは贅沢品だった。
輸入食品。
海外ブランド。
嗜好品。
人々は多少不便を感じるだけだった。
まだ楽観していた。
しかし。
その一か月後。
状況は変わる。
ガソリン価格が高騰した。
食料価格が上昇した。
工場が部品不足に陥る。
物流網が目に見えて弱っていく。
スーパーの棚から商品が減り始めた。
テレビでは専門家が冷静な説明を続けている。
「供給の一時的な停滞です」
「政府は十分な備蓄を保有しています」
「過度な買い占めは控えてください」
だが。
市民たちは本能的に理解していた。
何かがおかしい。
海が機能していない。
それは現代社会にとって致命傷だった。
世界の物流の大部分は海によって支えられている。
その海が失われれば。
世界経済そのものが崩壊する。
八月十七日。
国連緊急会議。
各国代表が集められた。
議題は一つ。
海。
それだけだった。
各国海軍は被害報告を提出した。
襲撃件数。
沈没艦艇。
失踪船舶。
そして。
敵の目撃情報。
その結果。
ある事実が判明する。
世界中の海域で確認されている怪物は、ほぼ同一個体だった。
黒灰色の外殻。
百メートルを超える巨体。
赤く発光する眼。
そして。
人類の兵器を一切受け付けない異常な耐久性。
同じ怪物。
同じ群れ。
同じ脅威。
それが世界中にいる。
会議室は沈黙した。
誰もが理解していた。
これは国家間の問題ではない。
人類全体の問題だ。
その夜。
世界各国で海運会社の運航停止が相次いだ。
貨物船は港に留まる。
漁船は出港しない。
遠洋航路は閉鎖される。
海へ出ること自体が自殺行為となり始めていた。
かつて人類は海を征服したと思っていた。
蒸気機関で。
鉄で。
石油で。
ミサイルで。
空母で。
海を支配したと信じていた。
だが違った。
海は人類のものではなかった。
ほんの数か月で。
海はその事実を突き付けてきた。
そして深い海の底では。
無数の赤い眼が静かに揺れていた。
まるで獲物を追い詰める捕食者のように。
まるで人類の苦しみを眺めるように。
後に歴史家たちは、この時期をこう呼ぶことになる。
『海上物流崩壊期』
と。
人類が海を失い始めた時代。
そして。
本当の絶望が始まる前夜として。