その日を境に。
人類は海を失った。
世界各国の海軍は敗北を認めていなかった。
認められるはずがなかった。
海を失うということは、人類文明そのものの終焉を意味する。
だから戦った。
勝てる可能性が一%でも残されている限り。
各国は持てる全てを投入した。
ワシントン。
国防総省。
緊急会議は連日続いていた。
巨大スクリーンには世界地図。
赤い光点が増え続けている。
深海の怪物出現海域。
もはや太平洋だけではない。
世界中の海が侵食されていた。
「これ以上の後退は許されない」
アメリカ統合参謀本部議長が言った。
「海上交通路を奪われれば国家が死ぬ」
誰も反論しない。
事実だからだ。
同じ頃。
東京。
北京。
ロンドン。
パリ。
モスクワ。
ニューデリー。
各国政府もまた同じ結論へ辿り着いていた。
戦うしかない。
そして。
人類史上最大規模の海上作戦が開始された。
八月二十五日。
作戦名。
国際海洋防衛作戦。
各国海軍は同時反攻を開始した。
太平洋。
大西洋。
インド洋。
北海。
南シナ海。
地中海。
世界各地の艦隊が一斉に出撃する。
空母。
巡洋艦。
駆逐艦。
潜水艦。
哨戒機。
爆撃機。
人類が百年以上かけて築き上げた海軍戦力。
その全てだった。
海は再び戦場となった。
太平洋。
アメリカ海軍第七艦隊。
上空では艦載機が飛び交い。
海中では潜水艦が待ち伏せる。
そして前方。
海面に現れた黒い群れ。
赤い眼。
異形の巨体。
無数の怪物たち。
攻撃開始。
ミサイルが飛ぶ。
爆弾が降る。
魚雷が走る。
海面が爆発で埋め尽くされた。
しかし。
結果は変わらなかった。
怪物たちは無傷だった。
砲撃を受けても。
爆撃を受けても。
魚雷を受けても。
傷一つ付かない。
まるで現実そのものを拒絶する存在。
そして。
反撃が始まった。
怪物たちが突撃する。
空母へ。
巡洋艦へ。
駆逐艦へ。
鋼鉄の船体が引き裂かれる。
数千人規模の将兵が海へ投げ出される。
通信が悲鳴で埋め尽くされる。
インド洋でも。
大西洋でも。
結果は同じだった。
人類は勝てなかった。
その報告は数時間ごとに届く。
「艦隊壊滅」
「任務失敗」
「戦線崩壊」
「敵損害確認できず」
勝利報告は一つもなかった。
そして。
世界中の海軍司令部が最も恐れていた議論が始まる。
核兵器。
人類最後の切り札。
第二次世界大戦以降、一度も実戦使用されなかった究極の兵器。
それが検討された。
反対意見はあった。
海洋汚染。
政治問題。
放射能。
国際世論。
だが。
もはやそんな段階ではない。
人類は負けていた。
九月二日。
太平洋中央海域。
深海怪物群集結を確認。
作戦決行。
世界中が見守っていた。
テレビ。
インターネット。
軍事衛星。
全てが同じ海域を映している。
爆撃機が飛来する。
投下。
閃光。
太陽が海上に落ちたようだった。
凄まじい光が世界を染める。
衝撃波。
轟音。
巨大なキノコ雲。
数百万トンの海水が蒸発した。
誰もが祈った。
効いてくれ。
頼む。
倒れてくれ。
人類は初めて。
敵ではなく希望に祈っていた。
数十分後。
偵察機が現場へ到達する。
世界中が固唾を呑んだ。
そして。
観測員が言った。
「反応を確認」
静寂。
「目標群、生存」
誰も言葉を発せなかった。
映像が送られてくる。
そこには。
海面を進む怪物たちの姿。
確かに数体は消えていた。
だが。
それだけだった。
群れはなお存在する。
数百。
あるいは数千。
その大部分が健在だった。
核兵器は効いた。
だが勝てなかった。
それが人類に突き付けられた現実だった。
九月十日。
国連本部。
緊急特別会議。
会場には異様な沈黙が流れていた。
誰もが疲弊している。
誰もが敗北を理解している。
だが。
その言葉だけは口にできなかった。
やがて。
一人の代表が口を開いた。
「我々は海を失った」
誰も反論しない。
できなかった。
太平洋は敵の海となった。
インド洋も。
大西洋も。
地中海も。
南シナ海も。
人類は陸に追い込まれた。
数百年続いた海洋時代。
大航海時代から続く海の支配。
その歴史が終わった瞬間だった。
その夜。
世界中の港で船が係留された。
出港予定は全て中止。
遠洋航海は停止。
海軍艦艇も沿岸警備へ縮小。
海へ出ること。
それ自体が死を意味していた。
そして。
誰も知らない深海の底で。
無数の赤い眼が揺れていた。
まるで勝利を祝福するように。
まるで次の段階へ進むように。
人類はまだ知らない。
この敗北ですら始まりに過ぎないことを。
そして。
海を取り戻す唯一の希望が、まだどこにも存在していないことを。
だが運命は既に動き始めていた。
人知の及ばぬ場所で。
静かに。
確実に。