海を失ってから五年が過ぎた。
世界は生き延びていた。
だが、それだけだった。
かつて世界を結んでいた海上航路は消えた。
遠洋漁業は途絶えた。
貿易は縮小され、人々は限られた資源を分け合いながら暮らしている。
沿岸部には防壁が築かれ、監視塔が並ぶ。
人類は海を見張りながら生きる時代に入っていた。
海はもう希望の象徴ではない。
恐怖そのものだった。
九月。
日本近海。
旧愛知県沿岸部。
人口の大半が内陸へ移住したその街には、小さな幼稚園が残されていた。
避難困難な家庭の子供たちを預かる施設。
園児は四人だけ。
先生は二人だけ。
それでも毎日、子供たちは笑っていた。
「せんせー!」
「見て見て!」
元気よく駆け寄る女の子に、若い女性教師が笑顔を向ける。
「すごいね」
「上手に描けたね」
その隣では男性教師が積み木遊びの相手をしていた。
外の世界がどれだけ苦しくても。
この場所だけは平和だった。
少なくとも、その日までは。
正午過ぎ。
突然。
街中にサイレンが鳴り響いた。
聞いたことのない警報だった。
窓ガラスが震えるほどの大音量。
ウゥゥゥゥゥ―――――ッ!
女性教師が顔を上げる。
男性教師も表情を変えた。
嫌な予感がした。
本能的なものだった。
放送が流れる。
『緊急警報』
『緊急警報』
『深海勢力接近』
『深海勢力接近』
部屋の空気が凍り付いた。
あり得ない。
これまで深海棲艦は海から出てこなかった。
海上の船舶。
沿岸施設。
それらを襲うことはあっても、本格的な陸上攻撃は確認されていなかった。
なのに。
『直ちに避難してください』
『直ちに避難してください』
その瞬間だった。
遠くで閃光が走る。
数秒後。
轟音。
ドゴォォォォォン!!
地面が揺れた。
窓ガラスが砕け散る。
園児たちの悲鳴が上がった。
「避難する!」
男性教師が叫ぶ。
「みんな先生から離れないで!」
街の向こうで黒煙が上がっている。
建物が燃えている。
さらに。
海の方向から次々と砲撃音が響いていた。
ドン!
ドン!
ドドドドドドン!!
深海棲艦が。
陸を攻撃している。
五年前の悪夢が。
ついに陸へ上がってきた。
先生たちは園児たちを連れ避難を開始した。
泣き叫ぶ子供たち。
崩れる建物。
逃げ惑う住民。
地獄だった。
「大丈夫!」
女性教師が必死に声を上げる。
「先生がいるから!」
その言葉を言った直後だった。
ヒュウウウウウ―――――
誰かが空を見上げた。
砲弾だった。
一直線に落下してくる。
「伏せろ!!」
男性教師が叫んだ。
次の瞬間。
世界が白く染まった。
轟音。
衝撃。
熱。
何も聞こえない。
何も見えない。
しばらくして。
園児たちは恐る恐る目を開いた。
自分たちは無事だった。
二人の先生が覆い被さっていたから。
だが。
女性教師の背中は血で染まっていた。
男性教師も瓦礫の下敷きになっている。
「せんせい……?」
返事がない。
「せんせい?」
泣きながら揺する。
「起きてよ……」
「いやだよ……」
「せんせい……」
血は止まらない。
誰が見ても分かった。
早く治療しなければ助からない。
でも。
周囲は戦場だった。
どうすればいいのか分からない。
四人は泣きながら先生を囲んだ。
その時だった。
「困っているの?」
小さな声が聞こえた。
振り返る。
そこにいた。
掌に乗りそうなほど小さな存在。
白い帽子。
不思議な服。
人形のような姿。
妖精だった。
「先生を助けたいの?」
四人は必死に頷いた。
「助けたい!」
「助けて!」
「お願い!」
妖精は少しだけ悲しそうな顔をした。
「助けられるよ」
四人の顔に希望が戻る。
だが。
妖精は続けた。
「でも代償が必要」
「だいしょう?」
「うん」
妖精は静かに言った。
「先生は助かる」
「みんなも強くなれる」
「深海棲艦とも戦える」
そして。
「でもね」
「君たちのことを、みんな忘れる」
四人は首を傾げた。
意味が分からない。
「忘れる?」
「うん」
「お父さんも」
「お母さんも」
「先生も」
「友達も」
「みんな」
妖精は最後に言った。
「君たちが誰だったのか、思い出せなくなる」
沈黙。
だが。
四人はまだ幼かった。
その代償の重さを理解できない。
「それで先生助かるの?」
「うん」
「みんなも助けられる?」
「うん」
四人は顔を見合わせた。
そして。
頷いた。
「やる!」
「先生助ける!」
「みんな守る!」
「うん!」
妖精は静かに微笑んだ。
「契約成立」
その瞬間だった。
世界が光に包まれる。
眩い光。
暖かな光。
そして。
四人の身体を巨大な力が駆け抜けた。
遠くの海。
5年前に確認され人類から海を奪った異形の怪物。
5年の間に人類はこの異形の怪物をこう呼んだ。
イ級。
正式名称。
深海棲艦 駆逐イ級。
その群れが街へ砲撃を続けている。
人類は知らない。
今この瞬間。
五年間待ち続けた奇跡が。
初めてこの世界に現れようとしていることを。
そして。
その代償として。
四人の名前が。
世界から消えようとしていることを。