# 序章「隠者の店が開く日」
その裏路地に看板はない。
あるのはただ、軒先に吊るされた古びた提灯がひとつ。灯りが点いている日と、点いていない日がある。点いている日だけ、その店は"開いて"いる。
今日は、点いていた。
「……本当に、ここでいいのか?」
依頼人の男は、上等な仕立ての外套の裾を汚れた石畳から浮かせるようにしながら、何度も背後を振り返った。裏社会の噂を頼りに、金を積んで積んで、ようやく辿り着いた場所がこんな、今にも崩れそうな軒先だとは思っていなかったのだろう。
奥の暗がりに、鴉澄は腰掛けていた。
地味な色の外套、目立たない顔立ち。すれ違えば十秒後には忘れてしまうような、そんな佇まい。だが提灯の灯りの下、こちらを見上げたその目だけは、奇妙に静かで、奇妙に鋭かった。
「依頼の内容は」
抑揚のない声だった。男は一瞬怯んだが、金のためだと自分に言い聞かせるように、懐から一枚の紙を取り出す。
「探して欲しい人物がいる。……五年前に姿を消した、私の弟だ。名前は――」
男が続けて口にした名を聞きながら、鴉澄は表情も変えずに小さく頷いた。この程度の"行方知れず"なら、造作もない。ただし、それでも報酬は最低ラインを下回ることはない。
「うちの相場は知っているな。最低でも一億からだ」
男は喉を鳴らして頷いた。頭上でカサリと羽音がした。見上げれば、暗闇に紛れるようにして、何羽もの烏が軒先の梁に並んでとまっている。
『おやおや』
『また無理難題だ』
『あの男を探すなんて、ハンター協会でさえ音を上げてるのに』
烏たちは口々に囀った。まるで人の言葉を話しているかのように——いや、実際に話しているのだ。鴉澄はちらりと視線を上げ、彼らに小さく頷いてみせる。
「できるか」
『できるかできないかで言えば、できる』
『できるが、割に合わない』
『供物は弾んでもらわないと。安酒じゃ動かないよ、今日は』
烏の一羽が、明らかに面倒くさそうに翼を広げた。鴉澄は懐から小さな包みを取り出し、軒先に置く。乾いた木の実と、清められた酒。烏たちはそれを見て、ようやく満足げに喉を鳴らした。
『ま、いいだろう』
『じゃ、行ってくる』
数羽が羽ばたき、闇の向こうへ散っていく。残った一羽が、依頼人の男の肩先に降り立ち、じっとその顔を覗き込んだ。
『……この男、後ろ暗いね』
『依頼の裏に何かある』
鴉澄は表情を変えなかった。ただ、静かに言う。
「依頼の中身までは詮索しない主義だ。報酬さえ間違いなければ」
男はぎょっとしたように鴉澄を見た。まるで心の中を見透かされたかのような感覚に、額に汗が滲む。だが鴉澄はそれ以上何も言わず、ただ提灯の灯りを見つめていた。
この店が開くのは、烏たちが顕れている日だけだ。それがいつになるかは、鴉澄自身にも分からない。今日引いた札が、明日も引けるとは限らない。だから、この情報屋の噂は常に半信半疑で語られる。
この店が扱うのは、ただ一つ。**人探し**。それ以外の依頼は、どれだけ金を積まれても断る。
――「見つけられないものはない」らしい。ただし、店が開いていれば、の話だが。
依頼人が去ったあと、鴉澄はしばらくその場に座ったまま、提灯の灯りをぼんやりと眺めていた。
肩先に、また一羽の烏が降りてくる。今度は先ほどとは違う、もう少し人懐っこい声だった。
『ねえ、今年もやるの?』
鴉澄は答えなかった。代わりに、懐から一枚の折れた紙——ハンター試験の告知が記された古い新聞の切れ端を取り出す。何度も読み返した跡があった。
『毎年その顔で見てるくせに、毎年受けないよね』
『今年もそう?』
しばらくの沈黙のあと、鴉澄は小さく息を吐いた。脳裏に、数日前のやり取りが蘇る。
「――いい加減にしなさいよ、アンタ」
小柄な体に、不釣り合いなほど大きな金づちを担いだ女が、腰に手を当てて鴉澄を見下ろしていた。ビスケット・クルーガー。あの手この手で誤魔化そうとする弟子を、何年もかけて見抜き続けてきた師匠の目は、今日も一切の誤魔化しを許さなかった。
「あれだけの力持っといて、いつまでも無免許の情報屋気取りって、さすがに恰好つかないでしょ。今年こそ試験受けなさい。受けなかったら――」
言葉の続きは、あえて聞かなかったことにしている。ただ、あの後に見せられた笑顔だけは、今でも鮮明に思い出せる。あれは、本気の目だった。
「今年は、受ける」
烏がぴくりと羽を震わせた。
『……理由、聞いてもいい?』
「別に。ただ――」
鴉澄は紙を折り畳み、懐にしまい直す。目に、ほんの一瞬だけ、隠しきれない何かが揺れた。それはすぐに、いつもの静かな無表情の奥に沈んでいった。
「潮時だと思っただけだ」
半分は本音で、半分は誤魔化しだった。師匠に脅されたから、とは、さすがに烏にも言いたくない。
提灯の灯りが、風もないのに小さく揺れた。
烏は何も言わず、ただ主の肩に留まり続けていた。
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数日後。鴉澄は、ハンター試験の会場へと向かう長い船旅の中にいた。
甲板の隅、他の受験者たちの喧騒から少し離れた場所で、鴉澄は静かに海を眺めている。
――ここから先で、何人の人間と出会い、何人の人間の運命に触れることになるのか。まだ、この時の鴉澄は知らない。
ただ、腰に提げた小さなカードの束だけが、いつものように静かに、そして確かに、そこにあった。
見たいから読んでる作ってる