船が港に着いた頃には、日はとうに落ちていた。
潮の匂いと、まだ火照りの残る石畳の熱が入り混じる。ザバンシティ近郊、ドール港。鴉澄が乗ってきた小型船から降りると、そこにはすでに人だかりができ始めていた。
港に降り立ってすぐ、簡素な受付台の前で列に並ばされた。無愛想な係員が、一人ひとりに小さな金属プレートを手渡していく。鴉澄の番が来ると、係員は一瞥もくれずに数字だけを読み上げた。
「231番」
手渡されたプレートを、鴉澄は無言で懐にしまった。名前も、素性も問われない。ただの数字が一つ、今この瞬間から自分に与えられた識別子になる。それが妙に心地よかった。
――そういえば、と鴉澄は思い出す。数日前、この試験に紛れ込ませる形で受けた、もう一つの依頼のことを。
「今年のハンター試験に、儂の孫が受けるんじゃ」
そう告げたのは、電話越しの、枯れてはいるが芯の通った老爺の声だった。ゼノ゠ゾルディック。裏の世界に生きる者なら誰もが名を聞くだけで背筋を伸ばす、暗殺者の名門一族の長老。だが鴉澄にとっては、幾度となく顔を合わせてきた古い付き合いの一つに過ぎない。
シルバとゼノに、かつて本気で襲われたことがある。それも一度や二度ではない。それでも今こうして生きているという事実だけで、あの一族の中では相応の"信用"を得られる。おまけに、あの一族が誇る情報網をもってしても摑みきれない情報を、鴉澄は易々と引き出してみせた実績がある。八咫烏の目に、血縁の絆など関係ない。
「見つけたら、遠くから見ていてやってくれ。危ない場面があれば、助けてやってほしい」
依頼料は、いつもの相場よりも桁が一つ多かった。
――キルア゠ゾルディック。
その名前だけを頭の片隅に置いたまま、鴉澄は雑踏に視線を這わせた。
**\* \* \***
見つけるのに、そう時間はかからなかった。
人だかりの中、白い髪をした少年が一人、壁に寄りかかるようにして立っていた。面倒くさそうな態度を崩さず、周囲の誰とも目を合わせようとしない。だがその瞳の奥には、隠しきれない鋭さが確かに宿っている。歳の頃は、まだ十二、三といったところだろう。
――こんな試験に、こんな歳で。
驚きはしなかった。ただ、小さな感慨のようなものが、胸の底をかすめただけだ。自分もまた、幼い頃から普通ではない道を歩かされてきた身だ。年齢だけで人を測る資格など、初めから持ち合わせていない。
鴉澄は目立たない位置を保ったまま、少年――キルアから、視線だけをさりげなく外さずにいた。近づきすぎず、遠すぎず。依頼はあくまで見守ることだ。今この瞬間、キルアに危険が迫っている様子はない。ならば、余計な接触は不要だった。
腰の後ろに提げた小さな革袋の感触を、指先でそっと確かめる。中には、二十二枚のカード。今日は隠者を引いていない。だから烏たちの声は聞こえない。単なる、名も無い受験者の一人として、この場に立っているに過ぎなかった。
それが、少しだけ心地よくもあった。
「よう、兄ちゃん。一人か?」
不意に声をかけてきたのは、恰幅のいい、如何にも人当たりの良さそうな中年の男だった。丸い顔に愛想笑いを貼り付け、手には缶ジュースをいくつも抱えている。腕にも首にも、押し出すような貫禄がある。
「よかったら一本どうだ。長旅で喉も渇いてるだろ。仲良くしようや、こういうのは持ちつ持たれつだ」
差し出された缶を、鴉澄は一瞥した。表面についた水滴が、街灯の光を細かく反射している。差し出す仕草も、声のトーンも、何もかもが計算し尽くされていた。愛想笑いの下に張り付いた、妙にねっとりとした気配――何百人と受験者を見送ってきた者だけが纏う、独特の"手慣れ"。
今日、隠者は引いていない。正義も引いていない。目の前の男が嘘をついているかどうか、念の力で見抜く術は今の鴉澄にはない。それでも、長年の勘というやつは、こういう時に限って正直だった。
「結構だ」
短く、抑揚のない声で断る。男は一瞬だけ、笑顔の下でぴくりと頬を強張らせた。だがそれもほんの刹那のことで、すぐにまた人好きのする笑みを貼り直すと、
「そうか、そりゃ残念だ。また今度な」
軽く肩を叩く仕草だけを残して、男は別の獲物を探すように、人混みの奥へと消えていった。ちらりと見れば、キルアにも同じように声をかけていたが、素っ気なく無視されている。あの少年も、ああいう手合いの相手はしないらしい。
――ああいう手合いは、毎年いる。
古株の受験者崩れが、新参者を潰して回る。手口はいつも似たり寄ったりだ。今のところ、キルアにも鴉澄自身にも実害はない。放っておいて構わないだろう。
**\* \* \***
それから数時間が経った。
港の空気は次第に人いきれで蒸し、集まった受験者の数もさらに膨れ上がっていた。鴉澄は相変わらず群れの端、目立たない位置を保ったまま、時折キルアの様子を視界の端で確かめている。
ふと、遠くの方から賑やかな声が近づいてくるのが聞こえた。
「――だからよぉ! 船の上であんな目に遭ったんだから、もう少し労ってくれてもいいだろ!」
眼鏡をかけた、体格のいい青年が、疲れきった声でぼやいている。その隣を歩くのは、金色の瞳を伏せがちにした青年。誰とも群れない、研ぎ澄まされた刃のような気配を纏っていた。
――緋色。
見間違いだったかもしれない。夜の闇の中、街灯の光の加減でそう見えただけかもしれない。青年の瞳は今、確かに金色をしている。だが一瞬、瞬きの合間に走った赤い煌めきを、鴉澄は見逃さなかった。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ気がした。
その二人の少し前を、日に焼けた肌の少年が一人、目を輝かせながら歩いていた。不釣り合いなほど大きな釣り竿のようなものを担ぎ、初めて見る景色すべてが珍しいとでも言うように、屈託のない笑顔を隠しもしない。先ほどまで一人だった少年――キルアが、その屈託のない笑顔にふと目を留めるのが、離れた場所からでも分かった。
まだ言葉は交わしていない。ただ視線が、一瞬だけ絡んだ。それだけだ。
――もし、そうだとしたら。
自分がまだ何一つ知らない真実が、あの金色の瞳の青年の中には眠っている。かつて滅ぼされた一族。奪われた瞳。そして、濡れ衣を着せられたまま今も憎まれ続けている、幼馴染たちの旅団。
鴉澄は静かに視線を逸らし、何事もなかったかのように懐のカードの束に指先で触れた。今この手札の中に、あの青年の真実を暴く力は無い。審判も、正義も、死神でさえも、今日は顕れていない。ただの一人の、地味な受験者として、ここに立っているだけだ。
それでいい。今はまだ。
「――全員揃ったようですね」
低く落ち着いた声が、ざわめきを一瞬で静めた。振り返ると、痩身の男が一人、いつの間にか群衆の前にすっと現れていた。長い顔立ちに、感情の読めない静かな目。まるで最初からそこにいたかのような、自然な立ち姿だった。
「これより、諸君を試験会場までご案内します。私についてきてください」
淡々とした口調に、周囲がざわりと色めき立つ。誰もが、その先に待つ何かを想像し始めていた。
男が歩き出す。ざわめきながらも、受験者たちがその後に続いていく。鴉澄も、群れに紛れるようにして歩を進めた。視界の端では、キルアが、あの釣り竿の少年たちの少し後ろをついていくのが見える。まだ二人の間に会話はない。だが、何かが始まる予感だけは、確かにそこにあった。
案内の男――彼らを先導するその静かな背中を追い、受験者たちの列は夜の港町を抜けていく。石造りの街並みが途切れ、やがて地下へと続く古い階段が見えてきた。案内の男はそのまま迷いなく地下道へと足を踏み入れていく。
「これより先は徒歩での移動になります。遅れた方は置いていきますので、そのつもりで」
淡々とした声に、受験者たちの間にどよめきが走った。地下道はどこまでも続いているように見え、灯りも乏しい。ただの移動ではない――これ自体が、もう試験の一部なのだと、誰もが薄々気づき始めていた。
鴉澄も、群れに紛れるようにして地下道へと足を踏み入れた。
――潮時だと言った。あの日、烏にそう答えた。
だが本当のところ、理由の半分は師匠に脅されたからだ、というのは、さすがに誰にも言うつもりはない。皇統の責務。破天会という一つの区切り。まだ見ぬ黒幕への布石。ゾルディック家からの、割のいい依頼。もっともらしい理由なら、いくらでも並べられる。だが、そのどれもが、今この胸の奥に灯っている感覚の正体を、正確には言い当てていない気がした。
ただ、あの緋色を見た瞬間の胸の軋みが、この足を前に進ませているような、そんな気もしていた。
地下道の先に、ぼんやりとした明るさが見えてくる。潮風とは違う、乾いた土の匂い。この先に何が待っているのか、まだ誰も知らない。
視界の端では、キルアが、少し先を歩く釣り竿の少年の背中を、まだ物珍しそうに眺めていた。
ただ一つ確かなのは――この道を歩き出した瞬間から、鴉澄という一人の"受験者"の物語が、静かに幕を開けるということだけだった。