「彩葉!当選した!SAOのβテストっ!!」「………は?」 作:未完成な人
「彩葉〜!早くぅ!もう準備できてる!?」
「ちょっと!かぐや!?急に抱きつかないでよ!?
……え?まってお兄ちゃん違うって!…もう切るね!」
「ごめん彩葉〜!電話してたの全然気が付かなかったよー。誰との電話?」
嘘つけ、という言葉が喉の直前まで競り上がったが、なんとか胃の奥へ押し戻して息を整えた。
「ふー…兄。」
「えー!?彩葉お兄ちゃんいたの!?かぐや全然知らなかったんだけど!」
「だって話してないし。」
「話してよー!彩葉とかぐやの仲でしょ~。」
駄々をこねるかぐやは、彩葉の身体にしがみついたまま、軟体動物のように体をくねらせてまとわりついてくる。
「気持ち悪い動きで纏わりつかないでよ!?」
「ひどっ! 気持ち悪いってー! 可愛いかぐやちゃんでしょぉ?」
「……いいから離れて、準備が進まないでしょ」
彩葉は、まるで大型犬のようにすり寄ってくるかぐやの額を手で押し返し、なんとか自身の身の安全を確保した。
気を取り直して、今日はついに『ソードアート・オンライン』の正式サービス開始日だ。
クローズドβテストが終了してから早数ヶ月。全国で限定一万本という超狭き門だった製品版パッケージだったが、βテスト参加者には優先購入権が与えられるという優遇っぷりのおかげで地獄の争奪戦には参加せずに済んだ。
勉強机の上には、すでに製品版のソフトのセットを完了した二台のナーブギアが並んでいる。
「で、お兄ちゃんとは何話してたの? なんか深刻そうな顔してたけど」
「……別に、深刻じゃないわよ。時々ある連絡と『気をつけろよ』っていう確認。うちの人たち、昔からちょっと新しいものに過保護気味なところがあるからさ」
彩葉は素っ気なく答えて、視線をナーブギアへと落とした。
スマホ越しの兄の言葉を思い返す。
——『彩葉、本当にそのゲームやるのか? ナーブギアのシステム、なんか嫌な胸騒ぎがするんだよな……。開発者の茅場晶彦って男も俺は怪しいと思うんだが。』
兄は仕事柄、最新のテクノロジーやVR業界の動向に敏感だった。それなのに、時折、チラ見していた配信の中では爆発的な盛り上がりを見せるSAOに対しては、あまり反応せず傍観して何かわざと避けているような印象だった。
(……考えすぎ。βテストで安全性は確認済みでしょ?遠慮する理由がない。)
自分に言い聞かせるように小さく首を振り、彩葉はアパートの時計を見上げた。
時刻は、正式サービスの開始時刻である13時まで、あと数分というところまで迫っていた。
「……よし。かぐや、忘れ物はない? トイレは行った?」
「行った! 水分補給もバッチリ! おやつは次元の狭間に置いてきた!」
「最後のは意味が分からないけど……それじゃ、ベッド横になって」
二人は並んでアパートのベッドに横たわり、ずっしりと重いナーブギアを頭部に装着した。
視界が暗転し、タイマーの数字がカウントダウンを開始する。
『10、9、8……』
「ねえ彩葉!」
「なに? 直前に大声出さないでよ」
暗闇の中で、かぐやの弾んだ声がナーブギアのスピーカー越しに耳に届く。
「かぐや、また彩葉と一緒にあの世界に行けるのが、ほんっとーに嬉しい! 今日からこそ本当の大冒険の始まりだね!」
「……そうね。今度こそ、一番最初から最後まで、二人で駆け抜けましょ。」
『3、2、1……』
二人は息をぴったりと合わせ、待ち望んだその「始まりの呪文」を世界へ向けて解き放った。
「「『リンク・スタート』!!」」
——五感が解き放たれ、光の奔流が脳内を駆け巡る。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚。ひとつひとつデータが全身に接続されていき、現実世界の感覚から抜け出していく、そして眩い光のトンネルを抜けた先。
「……帰ってきたよーっ! アインクラッドー!!」
爽やかな風と、澄み切った青空。そして、どこか懐かしく感じる石畳の匂い。
「はじまりの街」の転送門広場で、かぐやは両手を思い切り広げて歓声をあげた。周囲には、製品版の開始と同時にログインしてきた数千人のプレイヤーたちが、一ように歓喜の声をあげ、活気に包まれている。
「やっぱり……すごいわね。あの時との感動と変わってない。いや、一度離れてるからそれ以上かも。」
彩葉もまた、自身の身体の感触を確かめながら、新しく生成されたばかりの初期アバターで微笑んだ。
「さあ彩葉行こ!レベルもリセットされてるから上げ直さなきゃ!」
「こういうのは、βテストと何がマイナーチェンジしてるのか細かいところまで楽しまないと——」
「講釈はあとあと! ほら彩葉、行くよっ!!」
「ちょっと!? 引っ張らないでってば!」
彩葉の小難しい理屈をスパッと遮ると、かぐやは躊躇なくその手を取り、転送門広場の雑踏を押し分けるように走り出した。
石造りの重厚なアーチをくぐり抜け、街を覆う巨大な防壁の外へ。視界が一気に開け、どこまでも続く瑞々しい緑の草原が広がった。
「うわぁぁぁ……! やっぱり外の風、超気持ちいいーーーっ!」
広大なフィールドに出た瞬間、かぐやは彩葉の手を放して大きく深呼吸をした。
少し離れた草原のそこかしこには、ピンク色の丸っこいイノシシのようなモンスターたちが、のんびりと草を食んでいる。
「見て見て彩葉! フレンゼルボアだ! こいつも懐かし~っ!」
「フレンゼルボアじゃなくて、フレンジーボアでしょ……まったく、落ち着きなさいって」
呼吸を整えながら呆れ顔で訂正する彩葉を置き去りにして、かぐやは腰の初期装備の直剣に手をかけた。
「よーし! 久しぶりのSAO初狩り、いっちゃうよ~っ! 突撃ーーーッ!!」
「ちょっと!? まだ群れの配置とか確認してないでしょうが!?」
かぐやは何の躊躇もなく、ボアが4匹固まっている群れのど真ん中に向かって一直線に突っ込んでいった。
直剣を右後ろに引き、鮮やかな青い光を刀身に纏わせる。一瞬のシステムアシストとともに繰り出される《スラッシュ》が、先頭のボアを豪快に一刀両断した。
ポリゴンの光が弾け飛ぶと同時に、残りの3匹がかぐやに向かって牙を剥く。
「もうっ……本当に手がかかるんだから!」
彩葉は毒づきながらも速やかにレイピアを抜き、かぐやの背後をカバーするように跳び込んだ。
深く息を吐き、意識を集中させる。刀身に赤色の光が走り、突き技《リニア》がボアの側面を正確に穿った。
——ズバァンッ! ポリゴンの破片が舞い散る。
しかし、βテスト以来久しぶりとなるフルダイブ環境での全身運動だ。システム・アシストが働くとはいえ、現実の肉体感覚と仮想体(アバター)の挙動の微小なズレが、彩葉の動きを微妙に鈍らせていた。
「あっ——」
二匹目のボアが繰り出した足元への突進(タックル)をかわしきれず、彩葉の脚に鈍い衝撃が走る。痛覚抑制のおかげで痛みはないものの、派手に体勢を崩して草原の上に転び倒れてしまった。
「彩葉、大丈夫!? 超ハッピースラーッシュ!!」
すかさず割り込んできたかぐやが、大振りな一撃で残りのボアを叩き潰し、戦闘が終了した。
パラパラと軽快なファンファーレとともにログが流れる中、かぐやは剣を収めると、地面にへたり込んだまま息を上がらせている彩葉の顔を覗き込んだ
。
「ねえ彩葉~」
「……なに……」
「まだボア4匹倒しただけなのに、彩葉のHPゲージ、もう半分以下のイエローゲージになってるんだけど~? ウチの足引っ張らないでよね~?」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、指で彩葉の視界の隅にあるHPバーを突っつくような仕草をするかぐや。
「〜〜っ! ひ、久しぶりだからだし……っ! アバターの感覚と現実の感覚を同期させるのに時間がかかってるだけ! 慣れればすぐに元通りになるわよ!」
真っ赤になった顔を背け、彩葉は必死に言い訳をしながら立ち上がった。
草の汚れを払うフリをしながら、小さく「うぅ……」と唸る。βテストではかぐやと一緒にそこそこ上の階でも問題なく狩りができていただけに、初戦でのこの大失態は苦労性の優等生として非常にプライドが傷つくものだった。
「はいはい、分かった分かった! 彩葉がリハビリ終わるまでは、かぐやがしっかり守ってあげるから安心してね!」
「頼んでない! ……はぁ、やっぱり一回街に戻って、ポーション買い足してから仕切り直すわよ」
「ポーション補充ついでに、ちゃんとリハビリつきあいなさいよ!」
「りょーかい、隊長~!」
軽口を叩き合いながら一度街へと戻った二人は、アイテムショップで回復薬を補充すると、再び意気揚々と広大なフィールドへと繰り出していった。
最初の不覚を取り戻すべく、彩葉は真剣そのものの表情でレイピアを構え、システムアシストとの感覚を徐々に研ぎ澄ませていく。踏み込みの深さ、視線の誘導、そしてスキルの発動条件——。苦労性の優等生らしく一つひとつ動きをアジャストさせていく彩葉の攻撃は、次第にベータテスト時のキレを取り戻していった。
「そこっ!!」
「ナイス彩葉~! ウチの必殺ハッピー斬りも喰らいなさーいッ!」
鮮やかな赤と青のスキルエフェクトが草原を彩り、次々とモンスターがポリゴンの破片となって弾けていく。連携も見事に繋がり始め、かぐやの無鉄砲な突撃を彩葉が正確にカバーする黄金パターンが完成する頃には、広大なフィールドはノスタルジックな赤橙色に染まり始めていた。
沈みゆく夕日がアインクラッド1層の巨大な底面を照らし出し、雲の隙間から美しい黄金の光が降り注ぐ。
「……ふわぁ。すっかり夕方になっちゃったね」
かぐやが剣を鞘に納め、草原に腰を下ろして夕日を仰いだ。
「うん、久しぶりにしては上出来じゃない? アバターの感覚も完璧に戻ったし。」
彩葉も隣に並んで腰を下ろし、自身のHPバーの横にある残弾数——回復アイテムの欄を覗き込んだ。
「でも、そろそろ回復ポーションも切れかけてるし……一度ログアウトして、夕飯にしようか。今日はあんたが昨日作りすぎた夕食の残りがあったはずだし」
「え~! もうちょっと冒険しようよ彩葉~! ウチ、全然お腹空いてないし!」
「ダメ。長時間ダイブは集中力落ちるって言ったでしょ。ほら、さっさとログアウトする」
「ちぇーっ、彩葉の分からず屋ー! 鬼ー! 悪魔ー!……ぷっぷくぷー!」
不満たらたらに文句を言いながらも、かぐやは右手の人差し指を空中で上から下へとスワイプさせた。空間に紫色のメニューウィンドウがポップアップする。
ポチポチとメニューをタップしていたかぐやだったが、ふと、その指先がぴたりと止まった。
「……あれ?」
「何? 押し間違えたの?」
「……ねえ彩葉。ログアウトボタンって、メニューの一番下だったよね?」
「え、そうだけど……何言ってるのよ。設定カテゴリの一番下にあるでしょ」
「……ない」
「は?」
「ないの。ログアウトボタンが、どこにも見当たらないんだけど……」
かぐやの思いがけない言葉に、彩葉はまたこの問題児は変なことを言うと思い眉をひそめた。
「そんなわけないでしょ。βテストの時からUIの位置なんて変わってないはず……」
そう言いながら、彩葉も自分の右手でメニューウィンドウを呼び出した。
慣れた手つきで一番下の『メインメニュー』を開き、最下部へと視線を送る。
——ない。
いつもならそこに存在するはずの、『Logout』と書かれた鮮やかなドアのアイコンが、綺麗さっぱり消え去っていた。
「……嘘でしょ? ボタンの場所、変わったのかな……?」
彩葉の指先がかすかに震え始める。あらゆる項目をスクロールし、設定の細部まで必死に確認するが、どこにもログアウトの項目は見当たらない。
(ちょっと待って……ナーブギアの物理的な電源スイッチやケーブルは現実世界の体を動かさなければ取り外せない……。今、私たちは五感のすべてを遮断してゲームに送っている状態だ。…つまりプレイヤーが自分の意思で現実世界に戻る方法は、ゲーム内のこの『ログアウトボタン』を押すこと……ただ一つしかないということ……?)
冷や汗が、すうっと彩葉の背中を伝っていく。
五感が完全に接続された仮想世界の中で、自分の体が「閉じ込められた」という事実が、恐怖となってじわじわと脳を締め付けた。
「ね、ねえ彩葉……これってシステムのバグってやつ? ヤチヨがまた何か変なイタズラでも仕掛けてるのかな……?」
かぐやの声からも、いつもの天真爛漫な明るさが消え、不安げな色が滲んでいた。
「わからない……でも、こんな致命的なバグ、開発が放置するはずが——」
彩葉が言いかけた、その時だった。
ゴォォォォン……ッ!
地鳴りのような、低く重厚な鐘の音が、世界全体を揺らすように響き渡った。
どこからともなく鳴り響くその音は、遠くの街から聞こえるようなものではなく、空全体、いや、アインクラッドという世界そのものが鳴動しているかのようだった。
「キャッ! なに!? 地震!?」
「かぐや、捕まって——っ!?」
咄嗟にかぐやの手を握ろうとした瞬間。
二人の体を、眩いほどの鮮やかな青い光のエフェクトが包み込んだ。
視界が歪み、空間がぐにゃりと捻じれ——強制的な空間転移の浮遊感が二人を襲う。
——次の瞬間。
二人が立っていたのは、夕暮れの静かな草原ではなかった。
「うわっ……!?」
「ここは……『はじまりの街』の中央広場……!?」
周囲を見渡せば、つい先ほどまで広大なアインクラッド各地に散らばっていたはずのプレイヤーたちが、次々と青い光とともに密度高く召喚されていた。その数、数千人。
「な、なんだよ急に転移させられたぞ!?」
「イベントか? 何が始まってるんだ?」
「おい、ログアウトボタンがないんだけど! どうなってんだよ!」
「運営! 早く出ろよ! バグだろこれ!」
広場を埋め尽くすプレイヤーたちから、困惑、怒り、苛立ち、そして隠しきれない不安の声が怒号となって巻き起こる。
騒然とする人込みの中、彩葉はかぐやの手を強く握り返した。かぐやもまた、かつてない深刻な表情で、空を見上げている。
上空を覆う雲が、血のような不気味な赤色へと染まり、広場全体を禍々しい陰影が包み込んでいく。
「な、なんだあれ……!?」
「演出……なのか?」
誰かが上げた叫び声に引っ張られるように、広場に集まったプレイヤーたちが一斉に天を仰いだ。
二層上の底面を覆う赤色の正体は、無数の【Warning】と【System Announcement】という文字が刻まれた巨大なシステムウィンドウの群れだった。それらが重なり合い、巨大なモザイクとなって空を埋め尽くす。
次の瞬間、モザイクの中心から、粘度の高いドロリとした赤い液体が滴り落ちてきた。
液体は空間を削り取るように広がり、やがて巨大な血色のローブを纏った「巨人」の形を成していく。顔の存在するはずの場所には素顔がなく、暗いフードの奥にはただ果てしない闇だけが広がっていた。
『プレイヤーの諸君。ソードアート・オンラインへようこそ』
頭上から響き渡ったのは、感情の起伏が一切削ぎ落とされた、低く平坦な男の声だった。広場を埋め尽くす数千人の怒号を、その絶対的な存在感だけで一瞬にして圧し折る。
『私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ。現在、君達が目知している通り、メインメニューからログアウトボタンが削除されている。……だが、これはシステムの不具合ではない。繰り返す。これはシステムの不具合ではなく——《ソードアート・オンライン》の本来の仕様である』
「……本来の……仕様……?」
かぐやが彩葉の手をぎゅっと強く握り返してきた。普段の破天荒な彼女からは想像もつかないほど、その手は冷たく震えている。
『君達は自発的にログアウトすることはできない。そして、外部の人間がナーブギアの取り外し、あるいは解体を試みた場合——』
淡々と語られる恐怖の事実。
ナーブギアのマイクロウェーブ機。それがプレイヤーの脳を破壊し、現実の命を奪うということ。
すでに現実世界ではニュースとなり、外部からヘルメットを外されようとした二百十三人ものプレイヤーが命を落としたということ。
「嘘……嘘でしょ……そんなの……っ!」
広場のあちこちから悲鳴と悲痛な叫び声が上がった。崩れ落ちる者、暴言を吐き捨ててメニューを乱打する者。パニックの渦が広がっていく。
しかし、空に浮かぶ巨人は一切の情赦なく、冷酷な宣告を続けた。
『君達がこの脅威から解放される条件はただ一つ。この《アインクラッド》の最上層、第百層のボスを倒し、ゲームをクリアすることだ』
「百層……!?」
彩葉の頭の中に、βテスト時の光景が巡る。
一ヶ月間の死力を尽くした戦いで、かぐやたちが到達できたのは僅か八層。それを、一度の死も許されない状況で百層まで攻略しろというのか。
『最後に、君達のストレージに私からのプレゼントを贈った。確認してくれたまえ』
言葉と同時に、手元のメニューが強制的に開いた。インベントリの中に追加された一つのアイテム——『手鏡』。
戸惑いながらもそれを取り出した瞬間、広場全体が眩い光の粒子に包まれた。
「うわっ! なに!?」
光が収まった瞬間、周囲からどよめきが起きる。
彩葉が慌てて手鏡を覗き込むと、そこに映っていたのは、洗練されたアバターの姿ではなく、見慣れた現実世界の自分——「酒寄彩葉」の顔だった。
「……あ」
隣を見る。
そこには、派手なうさ耳モチーフの衣装を着た可愛らしい少女ではなく、アパートの部屋で一緒に生活している、そのままの「かぐや」が立っていた。
「彩葉……? いや、でもここはゲームの中で…え。」
混乱する広場の中で、二人は現実の姿で互いを見つめ合った。
男が女になり、大人が子供になり、虚構の皮がすべて剥がされていく。そこには誤魔化しようのない「生の人間」だけが取り残されていた。
『これにて、ソードアート・オンラインのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の健闘を祈る』
巨大な赤いローブが、唐突に霧のように霧散していく。
血のような赤い空がゆっくりと元の夕暮れ色へと戻り、広がったのは呼吸すら凍りつくような、圧倒的な不気味な静寂だった。
次の瞬間——
「「「いやぁぁぁぁぁぁーーーっ!!」」」
爆発的な悲鳴と狂乱が、はじまりの街を飲み込んだ。
逃げ惑う人々、泣き叫ぶ子供、頭を抱えて石畳に叩きつける大人たち。美しい仮想世界は、一瞬にして逃げ場のない「処刑場」へと変貌を遂げたのだ。
「……っ、かぐや! 走って!」
彩葉は瞬時にかぐやの手を強く引っ張った。パニックに巻き込まれる前に、この広場を離れなければならない。
だが、かぐやはその場に縫い付けられたように動こうとしなかった。
彼女は自分の手を見つめ、そして広場で泣き叫ぶ人々を見渡し、震える声で呟いた。
「……指切り、げんまん……」
「え……?」
「彩葉と約束したのに……『絶対にまたSAOで会おうね』って……『ハッピーエンドを作ろうね』って……かぐや、約束したのに……っ!いつの間にかこんな酷い約束に変わちゃってた…。……ごめん…ッ。」
かぐやの大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
月にあった「逃げられない宿命」から逃げ出してきた自分が、またしても逃げ場のない「デスゲーム」という箱庭に閉じ込められた絶望。そしてなりによりそれに彩葉を自分から巻き込んだのだという罪悪感が今のかぐやを支配していた。
自分が「面白そうだから」と強引に誘わなければ。
彩葉の名前を勝手に借りて、二口も応募なんてしなければ。
彩葉は今頃、現実のあたたかい部屋で普通に高校生活を送れていたはずなのに。
「ごめんね彩葉……ごめんなさい……かぐやのせいで……っ」
子供のようにしゃくりあげて謝り続けるかぐやの肩を、彩葉は両手で強く掴んだ。
「なに……言ってるのよ、バカ……」
彩葉の声は、かすかにいや、明確にわかるくらいに震えていた。
「あんたが……謝ることなんて、ひとつもないでしょ……。応募するの、いいよって言ったのは……私だし……。一緒にこのゲームやりたいって思ってたのも……私なんだから……」
必死にかぐやを元気づけようと、言葉を紡ぐ彩葉。しかし、その顔色は見る間に青ざめていた。
現実世界の兄から告げられた嫌な予感の正体。茅場晶彦の冷酷な言葉。そして「一度死んだら、現実の自分も死ぬ」という常軌を逸した恐怖。
苦労性の優等生として、ずっと一人で抱え込みがちだった彩葉の華奢な精神に、過剰なまでの心労と極度のストレスが容赦なく襲いかかっていた。
視界がぐにゃりと歪む。足元から感覚が失われていく。
「……大丈夫……。絶対に……二人で……」
「彩葉……? ねぇ、彩葉……!?」
彩葉の瞳から光が失われ、その身体からすっと力が抜けた。
支えを失った小さな身体が、糸が切れた人形のように前へと倒れ込む。
「彩葉ッ!?」
かぐやは咄嗟に腕を伸ばし、倒れそうになった彩葉の身体を必死で受け止めた。
腕の中に収まった彩葉の身体は驚くほど軽く、そして虚構のアバターでありながら、恐ろしいほど冷たく感じられた。
「嘘っしょ……彩葉!? 目を開けてよ! 彩葉ってば!!」
膝を石畳につき、かぐやは彩葉の肩を何度も揺さぶった。
だが、ストレスの限界を迎えて気絶してしまった彩葉の意識は戻らず、その瞼が開かれることはない。視界の隅に浮かぶ彩葉のHPバーは緑で何も変化はないが、今の状況では何も信じられなかった
「嫌だ……置いていかないでよ彩葉……! かぐやを一人にしないでよぉ……っ!!」
周囲では、デスゲームの開始に狂乱する人々の悲鳴と叫び声が、不協和音となって響き渡っている。
血のような不気味な夕日が落ち暗く闇が落ちていくする狂気の街の真ん中で、かぐやは彩葉を抱きしめ、返事のない名前を何度も叫び続けた。