ミカエルがエルサイアへ戻ってきて、数日が経った。
クイントとコウヤとの再会は、想像していたよりずっと面倒なものになった。
十年もこの世界を観測していたせいだろう。
ミカエル自身には、長く離れていたという感覚が薄かった。
けれど二人にとって、ミカエルは長い間いなかった人間だった。
その違いを、嫌というほど思い知らされた。
もっとも。
最初こそ酷い有様だったものの、今ではクイントとコウヤも少しずつ言葉を交わすようになっている。
以前とまったく同じではない。
それでも、同じ場所でくだらないことで言い争える程度には戻ってきた。
そんなある日。
「そういえばさ」
「何です?」
執務室から出ようとしていたミカエルを、クイントが呼び止めた。
「ライベルトには会った?」
「……いいえ」
「まだなんだ」
「ええ。戻ってきてから色々ありましたから」
「まあね」
「主に貴女とコウヤのせいですが」
「まだ言う?」
「言います」
「根に持ってるなぁ」
「誰のせいですか」
「コウヤ」
「貴女もです」
「…………」
クイントは露骨に目を逸らした。
ミカエルは小さくため息をつく。
「それで、ライベルトは?」
「研究室」
「やはり」
「最近ほとんどあそこにいるよ。本読んでるか、研究してるか」
「それは知っています」
「ああ、見てたんだっけ」
「ええ」
この十年間。
エマへ転移することは禁止されていたが、観測までは禁じられていなかった。
だから知っている。
ライベルトが少しずつ言葉を覚えたことも。
文字を覚え、本を読むようになったことも。
いつしか生体に興味を持ち、医学や錬金術、人工精霊に関する資料を読み漁るようになったことも。
そして。
「…………」
「何?」
「いえ」
酒と煙草まで覚えたことも。
「行ってきたら?」
「そのつもりです」
「びっくりすると思うよ」
「何にです?」
「色々」
「観測していたので、大抵のことは知っていますよ」
「ふーん」
「何です、その顔」
「別に」
クイントは楽しそうに笑った。
「行ってらっしゃい」
「ええ」
■
研究棟。
目的の部屋を見つけたミカエルは、その扉の前で足を止めた。
「…………」
煙草臭い。
知っている。
ライベルトが煙草を吸っていることくらい、知っている。
しかし。
「……本当に吸っているのですね」
観測するのと、実際にその匂いを嗅ぐのとでは随分違う。
扉を叩く。
「…………」
返事がない。
「ライベルト?」
「…………」
「ライベルト。入りますよ」
「勝手に入れよ」
「…………」
ミカエルの手が止まった。
返事が。
返ってきた。
「……本当に喋っていますね」
「聞こえてるぞ」
「…………」
それも。
随分ぶっきらぼうになっている。
ミカエルは扉を開けた。
「失礼しま――」
そして。
止まった。
「…………」
部屋の中は、研究資料で埋め尽くされていた。
壁際には大量の本。
机の上にも本。
紙束。
人工精霊。
魔術式。
生体構造について書かれた資料。
医学書。
錬金術書。
そして。
その中央。
「…………」
白衣を着た女がいた。
眼鏡をかけ。
少し乱れた髪のまま椅子へ座り。
片手に資料。
もう片方に煙草。
机の端には。
酒瓶。
「…………」
ミカエルは何も言えなかった。
「…………」
女が顔を上げる。
「誰だよ」
ライベルトだった。
「…………」
現在、ミカエルは変身魔法を使っている。
黒髪の日本人男性。
天城怜司。
ライベルトはその名も姿も知らない。
「ここ、関係者以外立入禁止だぞ」
「…………」
「用あるなら受付通してくれ」
「ライベルト」
「…………」
煙草を持つ手が止まった。
「…………」
眼鏡越しに。
じっとこちらを見る。
「……その喋り方」
「…………」
「ミカエル?」
「ええ」
「…………」
ライベルトはしばらくミカエルを見たあと。
「何だよ、その格好」
「貴女にだけは言われたくありません!」
「は?」
「何ですか、その姿は!」
「何って」
「白衣!」
「研究してんだから普通だろ」
「眼鏡!」
「字読むのに楽なんだよ」
「煙草!」
「吸ってる」
「酒!」
「飲んでる」
「見れば分かります!」
「じゃあ聞くなよ」
「そういう意味ではありません!」
ライベルトが煙を吐いた。
「観測していたので知ってはいましたが……」
「じゃあ何で驚いてんだよ」
「実際に見ると想像以上なのです!」
「何だよそれ」
「十年前の貴女からどうすればこうなるのですか」
「知らねぇよ、それ」
「自分のことでしょう!」
「めんどくせぇな、それ」
「…………」
ミカエルは額を押さえた。
間違いない。
ライベルトだ。
だが。
「……随分喋るようになりましたね」
「そうだな」
「以前は私が話しかけても、ほとんど返事すらしなかったでしょう」
「喋るのめんどくさかったから」
「今は?」
「今もめんどくせぇよ」
「では何故?」
「必要だから」
「…………」
「研究やってたら人と話さなきゃなんねぇだろ。資料も欲しいし、聞かなきゃ分かんねぇこともある」
「それで?」
「慣れた」
「…………なるほど」
ライベルトが眉を寄せる。
「何だよ、その顔」
「いえ」
「子供扱いしてるだろ」
「していませんよ」
「してるだろ」
「していません」
「昔と同じ顔してんぞ」
「…………」
ミカエルは少しだけ笑った。
「そうですか」
「何だよ」
「いえ。安心しました」
「変な奴」
そう言って。
ライベルトは煙草を灰皿へ押しつけた。
「…………」
直後。
新しい一本を取り出した。
「待ちなさい」
「何だよ」
「今消したばかりでしょう」
「そうだな」
「何故もう一本出すのです?」
「吸うから」
「少しは間を空けなさい!」
「何で?」
「何でって……身体に悪いでしょう!」
「私、太陽の民だけど」
「…………」
ミカエルが止まる。
「…………」
「酒も煙草も、この程度なら別に何ともならねぇよ」
「…………」
「知ってるだろ?」
「……ええ」
「じゃあいいだろ」
「良くありません」
「何でだよ」
「生活態度の問題です!」
「何だよそれ」
「白衣を着て昼間から酒を飲みながら煙草を吸っているのですよ!?」
「だから?」
「だからって……!」
「別に害ねぇし」
「見た目が不健康です!」
「知らねぇよ、それ」
火を点ける。
「…………」
ミカエルは頭を抱えた。
「クイントが妙な顔をしていた理由が分かりました」
「クイントに会ったのか」
「ええ」
「コウヤは?」
「…………」
「何だよ」
「会いましたよ」
「何かあった?」
「別に」
「喧嘩した?」
「していません」
「したんだな」
「していません!」
「分かりやすいな、お前」
「誰がですか!」
「お前」
「…………」
ライベルトが笑った。
「変わってねぇな」
「…………」
ミカエルは少しだけ黙った。
「貴女に言われるとは思いませんでした」
「私は変わった?」
「…………」
改めて見る。
白衣。
眼鏡。
酒。
煙草。
研究資料の山。
「随分と」
「そう?」
「駄目な大人になりましたね」
「ぶっ殺すぞ」
「そういうところですよ!」
「何だよそれ」
ライベルトが笑う。
その笑い方を見て。
ミカエルも笑った。
「……久しぶり」
「…………」
不意に。
ライベルトが言った。
「ミカエル」
「…………」
ミカエルにとっては。
ずっと見ていた相手だった。
けれど。
ライベルトにとっては。
本当に久しぶりなのだ。
「ええ」
ミカエルは頷いた。
「久しぶりですね、ライベルト」
■
「で」
「何です?」
「何しに来たんだよ」
「再会して早々それですか?」
「もう再会しただろ」
「終わらせないでください」
「忙しいんだよ」
「見れば分かります」
ミカエルは研究室を見回した。
改めて見ると、凄まじい量だった。
「これを全部?」
「読んだ」
「……こちらも?」
「読んだ」
「この医学書も?」
「それはエーディンに借りた」
「錬金術関連は?」
「ソーサリー達」
「なるほど」
机の上に置かれた資料へ目を落とす。
人体。
生命。
魂。
人工精霊。
様々な分野が入り混じっている。
「……エマですか」
「…………」
ライベルトが黙った。
「観測していましたから」
「知ってる」
「研究を始めた理由も」
「そうか」
「…………」
ライベルトが煙草を吸う。
「エマ、生き返らねぇかなって思っただけだよ」
「…………」
「最初はな」
「今は違うのですか?」
「ちょっとな」
ライベルトは資料を一枚取った。
「身体作ればいいって話じゃねぇだろ」
「ええ」
「エマと同じ身体作ったって、それがエマなのか?」
「違うでしょうね」
「だろ」
「…………」
「じゃあ何があれば本人なんだよってなる」
「魂でしょうか」
「私もそう思う」
「…………」
「でも、魂って何だよ」
「……難しいですね」
「だから調べてる」
「なるほど」
「生体構造調べて、人工精霊調べて、魂調べて……気付いたらこうなってた」
「…………」
ミカエルが。
研究室を見る。
「それで酒と煙草まで?」
「それは関係ねぇよ」
「そうですか?」
「美味いから飲んで吸ってるだけ」
「…………」
「何だよ」
「随分と嗜好が増えましたね」
「お前は?」
「何がです?」
「酒」
「飲みますよ」
「平気なの?」
「天族ですからね。普通に飲む程度なら大した影響はありません」
「じゃあ同じじゃねぇか」
「私は煙草を吸いません」
「まだ言ってんのかよ」
「言います」
「めんどくせぇな、それ」
ライベルトが酒瓶を持ち上げた。
「飲む?」
「…………」
「何」
「今までの会話は何だったのです?」
「飲まない?」
「…………」
ミカエルがグラスを見る。
「いただきます」
「飲むんじゃねぇか」
「私も酒は好きですよ」
「なら最初から文句言うなよ」
「貴女の生活態度と私が飲むことは別です」
「何だよそれ」
グラスに酒が注がれる。
ミカエルが一口。
「…………」
「どう?」
「美味しいですね」
「だろ?」
「エルサイア産ですか?」
「そう。最近またいい酒作るようになった」
「へえ……」
もう一口。
「気に入りました」
「じゃあ持って帰る?」
「結構です」
「そう?」
「またここへ飲みに来ればいいでしょう」
「…………」
ライベルトが。
眼鏡越しにミカエルを見る。
「また来るの?」
「駄目ですか?」
「別に」
「では来ます」
「勝手にしろよ」
「ええ。勝手にします」
「何だよそれ」
少し。
ライベルトが笑った。
■
「そういや」
「はい?」
「ゼウスは?」
「秋人ですか?」
「うん」
「城内にいると思いますよ」
「呼ぼうぜ」
「今から?」
「酒あるし」
「理由がそれだけですか?」
「他にいる?」
「…………」
ミカエルが少し考える。
「いりませんね」
「だろ?」
「ええ」
「呼んでこいよ」
「何故私が?」
「私めんどくせぇ」
「堂々と言わないでください」
「じゃあ誰かに頼む」
「本当に自由ですね……」
結局。
しばらくして。
「おい!」
研究室の扉が勢いよく開いた。
「酒があるって聞いたぞ!」
「…………」
「…………」
ライベルトとミカエルが。
同時に秋人を見る。
「何だよ」
「第一声がそれですか」
「だって酒あるんだろ?」
「ある」
「飲む」
「即答ですね……」
秋人が勝手に椅子を引っ張ってくる。
「珍しいな。お前ら二人で飲んでたのか」
「さっきから」
「ミカエル、お前一杯だけとか言ってなかった?」
「何故知っているのです?」
「顔」
「何ですかそれ」
ライベルトが横から言う。
「もう二杯目」
「ライベルト」
「嘘つくなよ」
「まだ二杯目の途中です!」
「ほぼ二杯だろ」
「細かいですね!」
「お前が言う?」
「はははは!」
秋人が豪快に笑う。
「しかしお前、変わったなぁライベルト」
「またそれかよ」
「昔なんか全然喋らなかったじゃねぇか」
「必要なかったから」
「今は?」
「必要だから喋ってる」
「なるほどな!」
「何でお前は一発で納得すんだよ」
「細かいこと気にしても仕方ねぇだろ」
「ミカエルと真逆だな」
「どういう意味です?」
「そのまま」
「ライベルト!」
「はははは!」
三人分のグラスが並ぶ。
ライベルトが酒を注ぐ。
秋人が机の上の資料を適当に横へ退かす。
「ゼウス」
「何だよ」
「資料は丁寧に扱いなさい」
「俺様のじゃねぇぞ」
「私のだから別にいい」
「ほら、本人がいいってよ」
「そういう問題では――」
「細けぇな」
「ライベルトまで!」
秋人が笑いながら酒瓶を取る。
「これ美味いな」
「だろ?」
「もう一本ないのか?」
「あるぞ」
「出せ出せ」
「自分で取れよ」
「客だぞ、俺様は」
「私も客ですが」
「お前ら二人とも勝手に来てるだけだろ」
「…………」
「…………」
「何だよ」
「確かに」
「認めるのかよ!」
笑い声が。
研究室に響いた。
昔とは違う。
ライベルトはよく喋るようになった。
酒を覚えた。
煙草を覚えた。
白衣を着て。
眼鏡をかけて。
難しい本に囲まれて。
あの頃には想像もしなかった姿で生きている。
「ミカエル」
「何です?」
「これも飲んでみろよ」
「まだあるのですか?」
「ある」
「俺様にも寄越せ」
「自分で取れ」
「近いんだから取ってくれよ!」
「めんどくせぇ」
「お前そればっかだな!」
「ミカエル取って」
「何故私が!?」
「一番近い」
「貴女という人は……!」
文句を言いながら。
それでもミカエルは酒瓶を取った。
「ほら」
「ありがと」
「俺様にも」
「自分で取りなさい」
「何でライベルトには取って俺様には取らねぇんだよ!」
「日頃の行いです」
「俺様何した!?」
「色々です」
「具体的に言え!」
「めんどくせぇな、それ」
「ライベルトは黙ってろ!」
「何だよ!」
また。
笑い声が上がる。
「…………」
ミカエルは。
ほんの少しだけ。
目を細めた。
変わったものは。
たくさんある。
それでも。
こうして同じ場所に座って。
酒を飲んで。
くだらないことで笑える。
それなら。
今は。
それで十分だった。