ラウルの使節団がエルサイアを訪れてから、三日目。
ルークとクイントの縁談は、まだ正式な返事を出さないまま保留になっていた。
そもそも、急いで決めるような話ではない。
国家同士の婚姻ともなれば、本人たちの意思だけでなく、今後の外交や王位の扱い、互いの国でどのような立場を取るのかまで考えなければならない。
アイザックもそれは承知しているらしく、親書には返答を急かすような文言は一つもなかった。
だからクイントも、すぐに答えを出すつもりはなかった。
――少なくとも、コウヤはそう思っていた。
「ルーク殿下なら、相手として不足はないでしょう」
午後。
執務室の前を通りかかったコウヤは、扉の向こうから聞こえてきたギルの声に足を止めた。
「うん。それは私も思ってる」
クイントの声。
別に聞き耳を立てるつもりはなかった。
ただ、自分の名前こそ出ていないものの、何の話をしているのかはすぐに分かってしまった。
「ラウルとの関係も良好です。アイザック王とも長い付き合いがある。何より、ルーク殿下の人柄を我々はよく知っている」
「そうだね」
「もちろん、陛下が望まないのであれば断って構いません」
「分かってるよ」
「政治的な理由だけで決める必要もないでしょう」
「うん」
そこで一度、会話が途切れた。
コウヤはその場を離れればよかった。
これはクイントとギルの話だ。
自分が盗み聞きしていいものではない。
そう思うのに。
足が動かなかった。
「……でもね、ギル」
「はい」
「私、ルークなら嫌じゃないよ」
「…………」
胸の奥が、妙にざわついた。
「昔から知ってるし。信用できるし。一緒にいて嫌な人でもない」
「ええ」
「ラウルのことも知ってる。アイザック王だって信用してる」
「では、考えてみるおつもりですか?」
「……うん」
短い返事だった。
それだけだった。
「ちゃんと考えてみる」
その言葉を聞いて。
コウヤは音を立てないよう、そっと扉から離れた。
■
「…………」
城の廊下を歩く。
目的地なんてなかった。
ただ、あの場所にはいたくなかった。
――僕がクイント取っちゃうから。
昨日、ルークに言われた言葉が頭の中に蘇る。
「……本当に取る気じゃねぇか」
思わず呟いた。
けれど、すぐに自分でも違うと思った。
ルークは何も悪くない。
むしろ、わざわざ忠告してくれたのだ。
クイントとの縁談を隠すこともしなかった。
自分がクイントを好きだと知っても、笑いながら背中を押してくれた。
それに。
クイントがルークを選ぶのなら、ルークはきっと大切にする。
それをコウヤ自身が一番よく知っていた。
だからこそ。
「……嫌だな」
ぽつりと漏れた。
クイントがルークと並ぶところを想像する。
似合わないとは思わなかった。
王と王子。
国同士の関係も良い。
二人は昔から仲がいい。
ルークならクイントを理解してくれるだろう。
きっと喧嘩をしても、コウヤのように何年も意地を張ったりしない。
それでも。
「嫌だ」
今度は、はっきり口にした。
誰に聞かせるわけでもない。
自分自身に認めるためだけに。
クイントが誰かのものになるのは嫌だった。
■
「父さん」
「ん?」
その日の夜。
仕事を終えたギルが顔を上げると、部屋の入口にコウヤが立っていた。
「どうした?」
「ちょっといい?」
「ああ」
ギルは読んでいた書類を閉じた。
「座れ」
「うん」
コウヤが向かいの椅子に座る。
しかし。
何も言わない。
「…………」
「…………」
「コウヤ」
「何?」
「話があるのではなかったのか?」
「あるよ」
「なら話せ」
「……今考えてる」
「何をだ」
「どう言えばいいのか」
「…………」
ギルは急かさず待った。
しばらくして。
ようやくコウヤが口を開く。
「クイントに縁談来てるの、知ってる?」
「ああ」
「ルークとの」
「知っている」
「どう思う?」
「どう、とは?」
「……いいと思う?」
「そうだな」
ギルは少し考えてから頷いた。
「悪い話ではない」
「…………」
「ルーク殿下の人柄は分かっている。アイザック王も信用できる。国家間の関係という意味でも、エルサイアにとって不利益になる婚姻ではないだろう」
「……そっか」
「何だ?」
「別に」
「…………」
俯いたコウヤを、ギルはしばらく眺めていた。
「嫌なのか?」
「…………」
「クイントがルーク殿下と結婚するのが」
「…………」
答えない。
けれど。
それだけで十分だった。
「嫌なら、そう言えばいい」
「誰に?」
「クイントにだ」
「……無理だよ」
「何故だ?」
「だって」
コウヤは膝の上で手を握った。
「俺にそんなこと言う権利ないだろ」
「何故ない?」
「父さん分かってるだろ」
「何をだ」
「俺、あいつとずっと……」
そこまで言って。
言葉が詰まった。
エマがいなくなったあと。
二人とも酷い状態だった。
喧嘩をした。
傷つけた。
意地を張った。
そして。
気付けば、顔を合わせても話さなくなっていた。
そんな状態が長く続いた。
ようやく。
本当にようやく。
今は普通に話せる。
「やっと戻ったんだよ」
「…………」
「普通に話せるようになって。飯食って。くだらないことで喧嘩して」
「ああ」
「今は……楽なんだ」
「そうか」
「だから」
コウヤが唇を噛む。
「また変なことして、壊したくない」
「…………」
ギルはすぐには答えなかった。
コウヤの言葉を一度受け止めて。
それから静かに口を開く。
「一つ、勘違いしているな」
「何が?」
「お前だけが壊したわけではない」
「…………」
「あの頃のお前たちは、二人とも余裕がなかった」
「でも」
「お前とクイントは二人で喧嘩したんだろう」
「…………」
「ならば、何故お前一人だけが責任を負う」
「…………」
コウヤは何も言えなかった。
「それに」
「何?」
「今のお前たちは、以前のお前たちとは違う」
「…………」
「一度壊れたからこそ、分かったこともあるのではないか?」
「……あるけど」
「なら、それでいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単だとは言っていない」
ギルは少し笑った。
「怖いなら怖いまま話せばいい」
「…………」
「上手く言えなくても構わん」
「…………」
「ただし、何も言わないまま後悔するな」
「…………」
コウヤが顔を上げる。
「クイントが誰を選ぶかは、クイントが決める」
「……うん」
「ルーク殿下を選ぶかもしれない」
「…………」
「お前を選ぶかもしれない」
「…………」
「だが、お前が何も伝えなければ、あの子にはお前を選ぶ機会すらない」
「…………」
その言葉は。
思った以上に深く刺さった。
「……父さん」
「何だ」
「こういう時だけまともなこと言うのやめてくれない?」
「どういう意味だ」
「余計逃げられなくなる」
「逃げるつもりだったのか?」
「……ちょっとだけ」
「なら丁度いい」
「…………」
コウヤが大きく息を吐いた。
「ルークにも似たようなこと言われた」
「そうか」
「早く告白しないと僕がクイント取っちゃうから、って」
「…………」
ギルが一瞬黙った。
「ルーク殿下らしいな」
「笑い事じゃねぇよ」
「良い友人ではないか」
「……それはそうだけど」
「なら、友人の忠告は聞いておけ」
「父さんまでルークの味方かよ」
「私はクイントの味方だ」
「…………」
「そして、お前の父親だ」
「…………」
「だから言っている」
「……分かったよ」
コウヤが立ち上がる。
「話してくる」
「今からか?」
「…………」
「…………」
「明日」
「コウヤ」
「分かってるって!」
「本当か?」
「明日! 絶対明日!」
「そうか」
「……多分」
「コウヤ」
「明日!!」
逃げるように部屋を出ていく。
閉じた扉を見ながら。
ギルは小さく笑った。
「まったく……」
■
翌日。
「言った?」
「…………」
朝食の席。
向かいに座ったルークから開口一番そう聞かれて。
コウヤはパンを持ったまま固まった。
「何を」
「告白」
「朝からその話すんなよ!」
「してないんだ」
「…………」
「昨日あれだけ言ったのに」
「うるせぇ」
「いつ言うの?」
「今日」
「本当に?」
「本当だよ」
「へえ」
「何だよ、その顔」
「いや」
「何」
「昨日も同じこと考えてたんじゃないかなって」
「…………」
「図星?」
「うるせぇな!」
「ははっ」
ルークは楽しそうに笑った。
コウヤは腹立ち紛れにパンを齧る。
「でも」
「何だよ」
「僕、明後日にはラウルへ帰るよ」
「知ってる」
「だから帰る前に、クイントから縁談の返事を聞こうかな」
「…………」
パンを噛む動きが止まった。
「お前」
「何?」
「ちょっと待て」
「何で?」
「何でって」
「僕だって父上に報告しないといけないし」
「それは分かるけど!」
「じゃあ今日中だね」
「…………」
「頑張って」
「他人事みたいに言いやがって……」
「他人事じゃないよ」
「どこが」
「僕、縁談相手だよ?」
「余計腹立つな!」
「ははっ」
その時。
「おはよう」
聞き慣れた声。
「…………!」
「おはよう、クイント」
「おはよ。二人とも早いね」
「ルークが朝からうるさいんだよ」
「何の話してたの?」
「コウヤの――」
「何でもない!」
「…………」
クイントが目を丸くする。
「また?」
「何が」
「私が来ると毎回話やめるじゃん」
「気のせい」
「絶対違う」
「違うって」
「ルーク?」
「僕からは言えないかな」
「ほら! 何かある!」
「ルーク!」
「僕、何も言ってないよ」
「言ってるようなもんだろ!」
「何なの二人とも!」
騒がしい朝だった。
けれど。
コウヤだけは。
昨日までとは少し違っていた。
クイントが席につく。
いつものようにパンを取る。
ルークと話して。
笑って。
自分にも話を振ってくる。
そんな。
何でもない姿を見ながら。
「…………」
コウヤは決めた。
怖い。
今の関係が壊れるのは。
やっぱり怖い。
それでも。
何も言わないまま。
誰かの隣へ行くクイントを見送る方が。
きっと。
もっと嫌だった。
■
「クイント」
「ん?」
夕方。
仕事を終えて部屋へ戻ろうとしていたクイントを、コウヤが呼び止めた。
「今日、時間ある?」
「あるけど」
「ちょっと付き合って」
「どこに?」
「……その辺」
「その辺ってどこ?」
「どこでもいい」
「何それ」
クイントが笑う。
「いいよ」
「…………」
「行こ?」
「うん」
二人で城を出た。
特別な場所を選んだわけではない。
城から少し離れた、街を見渡せる丘。
復興したエルサイアの灯りが、一つ、また一つと点き始めていた。
「綺麗になったね」
「うん」
「昔はここから見ても暗かったのに」
「そうだな」
「お店も増えたし」
「酒場も増えた」
「ライベルト喜んでるね」
「あいつ昼から飲んでるだろ」
「ふふっ」
「笑い事じゃねぇよ」
「でも元気ならいいじゃん」
「まあな」
いつも通り。
普通に話せる。
だから。
余計に言いづらい。
「…………」
「コウヤ?」
「ん?」
「今日変じゃない?」
「変じゃない」
「変だよ」
「そう?」
「うん」
「…………」
「何かあった?」
「何も」
「じゃあ何で呼び出したの?」
「…………」
逃げ道がなくなった。
「コウヤ?」
「…………」
「本当に大丈夫?」
「クイント」
「何?」
「俺さ」
「うん」
「…………」
「何?」
言え。
そう思う。
なのに。
口が動かない。
「…………」
「コウヤ?」
「……ルーク」
「ルーク?」
「縁談」
「ああ……」
クイントの表情が少し変わった。
「それがどうしたの?」
「考えてるって聞いた」
「…………」
「ごめん。父さんと話してるの聞こえた」
「そっか」
「盗み聞きするつもりじゃなかった」
「別に怒ってないよ」
「…………」
「それで?」
「…………」
コウヤは拳を握った。
「嫌なんだよ」
「何が?」
「お前がルークと結婚するの」
「…………」
クイントが黙った。
「ルークが嫌いなわけじゃない」
「うん」
「むしろ好きだよ。友達だし。いい奴なのも知ってる」
「うん」
「だから余計嫌なんだ」
「……何で?」
「…………」
もう。
ここまで来たら。
言うしかなかった。
「好きなんだよ」
「…………」
クイントが瞬きをする。
「……え?」
「だから」
顔が熱い。
逃げたい。
でも。
逃げるなと言われた。
「俺、お前が好きなんだよ」
「…………」
言った。
言ってしまった。
「ずっとかは分かんねぇ」
「…………」
「いつからとかも知らない」
「…………」
「でも今は好きだ」
「…………」
「だから」
一度。
息を吸う。
「ルークと結婚してほしくない」
「…………」
クイントは。
何も言わなかった。
「…………」
数秒が。
恐ろしく長く感じる。
「……何か言ってくれよ」
「…………」
「クイント」
「遅い」
「……え?」
「遅いよ、コウヤ」
「…………」
クイントが。
笑った。
少し困ったような。
でも。
嬉しそうな顔で。
「もっと早く言ってよ」
「…………」
「私、ずっと分かんなかったんだから」
「何が?」
「コウヤが私のことどう思ってるのか」
「…………」
「昔みたいに戻れただけでいいのかなって」
「…………」
「私だけ、まだ好きだったら嫌だなって」
「…………」
今度は。
コウヤが固まった。
「……今なんて?」
「言わない」
「いや、言っただろ」
「言ってない」
「好きって」
「言ってない」
「言った!」
「知らない」
「クイント!」
「ふふっ」
笑って。
クイントが少しだけ近づく。
「私も」
「…………」
「コウヤが好きだよ」
「…………」
今度こそ。
何も言えなくなった。
「何その顔」
「……いや」
「何?」
「マジで?」
「嘘ついてどうするの」
「…………」
「それに」
「何?」
「ルークとの縁談、まだ受けるって言ってないよ」
「知ってる」
「ちゃんと考えようとは思ってた」
「うん」
「でも」
「…………」
「これで答え決まった」
「…………」
クイントが笑う。
「断る」
「……いいの?」
「何で告白した本人がそれ聞くの?」
「いや」
「私が決めたの」
「…………」
「だからいい」
「そっか」
「うん」
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
ただ。
隣に立って。
復興した街を眺める。
「……なあ」
「何?」
「これって」
「うん」
「俺ら、付き合ってる?」
「…………」
クイントが吹き出した。
「何でそこで確認するの!」
「だって分かんねぇだろ!」
「今お互い好きって言ったじゃん!」
「それとこれとは別だろ!」
「別じゃないよ!」
「じゃあ付き合ってんの?」
「付き合ってる!」
「そっか」
「何なのもう!」
「いや……」
コウヤが。
ようやく笑った。
「よかった」
「…………」
クイントも。
少しだけ頬を赤くして。
「うん」
笑った。
■
翌日。
「ルーク」
「ん?」
帰国の準備をしていたルークを、クイントが呼び止めた。
「縁談のことなんだけど」
「ああ」
ルークは手を止める。
「決めた?」
「うん」
「そっか」
「ごめん」
「…………」
それだけで。
答えは分かった。
「断る?」
「うん」
「分かった」
「……怒らない?」
「何で?」
「せっかくアイザック王が話を持ってきてくれたのに」
「父上も強制するつもりはないよ」
「でも」
「それに」
ルークが。
少し笑う。
「理由、何となく分かるから」
「…………」
「ねえ、コウヤ」
「…………!」
少し離れた場所にいたコウヤが固まる。
「何だよ」
「遅かったね」
「…………」
「何が?」
クイントが首を傾げる。
「ルーク」
「何?」
「余計なこと言うなよ」
「昨日?」
「お前!」
「昨日何かあったの?」
「何でもない!」
「告白したんでしょ?」
「ルーク!!」
「…………」
クイントが。
ゆっくりコウヤを見る。
「……なんでルークが知ってるの?」
「…………」
「コウヤ?」
「いや」
「何?」
「…………」
「僕が早く告白しろって言ったから」
「お前黙れ!」
「えっ?」
「それでも全然言わないから」
「ルーク!」
「早いところ告白しないと僕がクイント取っちゃうからって」
「…………」
クイントの目が丸くなる。
「そうなの?」
「…………」
「コウヤ」
「…………まあ」
「それで昨日?」
「それだけじゃねぇよ!」
「へえ」
「何だよ、その顔!」
「別に?」
「絶対何か思ってるだろ!」
「ふふっ」
クイントが笑う。
「ルーク」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「お前ら勝手に話まとめるなよ!」
「だって」
「何だよ!」
「コウヤ一人だったら、まだ言ってなさそうだし」
「…………」
「否定できないんだ?」
「うるせぇ!」
ルークが笑う。
クイントも笑う。
そして。
少し遅れて。
「……ったく」
コウヤも笑った。
長い間。
止まっていたものが。
ようやく。
ほんの少しだけ。
先へ進み始めていた。