エマ   作:篠原えれの

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第十九話『シュテー・イデアール・ウングリュック』

 

 

 エルサイア王国日本支部。

 

 日本とエルサイアを繋ぐ窓口として設けられたその場所には、今日も朝から人の出入りが絶えなかった。

 

 日本側から届けられた書類。

 

 エルサイアへ送る物資の確認。

 

 契約者に関する報告。

 

 異世界間を行き来する人間が増えれば、それに伴って仕事も増える。

 

 その日もティオは、執務室の机に積まれた書類を一つずつ片付けていた。

 

「……これは向こうに確認してからだな」

 

 書類を一枚、別の束へ移す。

 

 次を手に取ろうとして――。

 

「久しぶりね、ティオ・アウル・イアクブック」

 

 聞き覚えのある女の声がした。

 

「…………」

 

 ティオの手が止まった。

 

 顔を上げる。

 

 つい先ほどまで誰もいなかったはずの部屋に、一人の女が立っていた。

 

 気品のある佇まい。

 

 美しい容姿。

 

 突然現れたというのに、まるで最初からそこにいたかのような顔をしている。

 

「……トレシィ」

 

 願い屋。

 

 人の手に余る怪異や怨霊を処理し、相応の対価さえ支払えば、人の願いすら叶える存在。

 

 ティオも彼女のことは知っていた。

 

 そして。

 

 トレシィが何の用もなく人前に姿を現すような女ではないことも。

 

「今日は何の用?」

 

「相変わらずね。もう少し歓迎してくれてもいいんじゃない?」

 

「普通に遊びに来たなら歓迎するよ」

 

「あら。遊びに来たのかもしれないわよ?」

 

「だったら酒でも出すけど」

 

「いいわね」

 

「……本当に酒飲みに来たのか?」

 

「それも魅力的だけど、今日は別件」

 

 やっぱりか。

 

 ティオが小さく息を吐く。

 

 そこでようやく気がついた。

 

「…………」

 

 トレシィのすぐそば。

 

 一人の少年がいた。

 

 十代半ばほどだろうか。

 

 見たことのない少年だった。

 

 意識がないらしく、目を閉じている。

 

「その子は?」

 

「ちょっと拾ったの」

 

「犬や猫みたいに言うなよ」

 

「似たようなものよ」

 

「全然違うだろ」

 

 ティオは立ち上がった。

 

 少年の様子を確認する。

 

 呼吸はしている。

 

 目立った外傷もない。

 

「怪我は?」

 

「ないわ」

 

「病気?」

 

「それもない」

 

「じゃあ何で意識がないんだ?」

 

「少し疲れてるだけ」

 

「……何をしたんだよ」

 

「失礼ね」

 

「お前が連れてきたんだろ?」

 

「そうね」

 

 悪びれる様子もない。

 

 ティオはもう一度ため息をついた。

 

「とりあえず、寝かせよう」

 

 ◇

 

 少年が目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。

 

「…………」

 

 知らない天井。

 

 知らない部屋。

 

 少年はしばらく瞬きすらせず、それを見つめていた。

 

「…………ここ」

 

 どこだろう。

 

 そう思った。

 

 身体を起こす。

 

 頭が少し重い。

 

 けれど、それ以外に痛むところはなかった。

 

「起きた?」

 

「……!」

 

 驚いて振り向く。

 

 銀髪の青年がいた。

 

「ごめん。驚かせたな」

 

 ティオは手にしていた書類を置いた。

 

「気分はどう?」

 

「…………」

 

「頭痛い?」

 

「……少し」

 

「気持ち悪くは?」

 

「大丈夫……だと思う」

 

「そっか」

 

 ティオが少し笑う。

 

「ならよかった。水飲む?」

 

「……うん」

 

 差し出された水を受け取った。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 水を一口飲む。

 

 少しだけ落ち着いた。

 

「……ここ、どこ?」

 

「エルサイア王国日本支部」

 

「…………」

 

「分かる?」

 

「……エルサイア?」

 

「覚えてないか」

 

「日本……は、分かる」

 

「…………」

 

 ティオが僅かに眉を寄せた。

 

「じゃあ、自分がどこから来たかは?」

 

「…………」

 

 少年は考えた。

 

 どこから。

 

「…………」

 

 何も浮かばない。

 

「分かんない」

 

「そっか。じゃあ名前は?」

 

「名前……」

 

 そこで。

 

 少年の顔から血の気が引いた。

 

「…………」

 

「どうした?」

 

「分かんない」

 

「…………」

 

「僕の……名前……」

 

 思い出そうとする。

 

 何かあるはずだ。

 

 昨日まで自分が何をしていたのか。

 

 どこに住んでいたのか。

 

 誰と暮らしていたのか。

 

 けれど。

 

「……分かんない」

 

「無理に思い出さなくていいよ」

 

「でも……」

 

 少年が自分の胸元を掴む。

 

「僕……」

 

 何もない。

 

「僕、だれ?」

 

「…………」

 

 ティオは答えられなかった。

 

 自分にも分からない。

 

「何も覚えてない……」

 

「…………」

 

「家も……家族も……僕が何してたのかも……」

 

「大丈夫」

 

「でも」

 

「大丈夫だよ」

 

 ティオは穏やかに言った。

 

「今すぐ思い出さなくてもいい」

 

「…………」

 

「少なくとも、ここにいる間は困らないから」

 

「…………」

 

「腹減ったら飯もあるし、寝るところもある」

 

「……僕、ここにいていいの?」

 

「もちろん」

 

 即答だった。

 

「だから、今はゆっくりしよう」

 

「…………うん」

 

 少年が小さく頷いた。

 

「あら。起きたのね」

 

 声がした。

 

 ティオが振り返る。

 

「トレシィ」

 

 少年もそちらを見る。

 

 知らない女だった。

 

「…………誰?」

 

「トレシィ。こいつが君をここに連れてきたんだ」

 

「僕を?」

 

「そう」

 

「…………」

 

 少年はトレシィを見る。

 

「僕のこと……知ってる?」

 

「ええ」

 

「本当?」

 

「もちろん」

 

「じゃあ!」

 

 少年の表情が変わった。

 

「僕、誰なの?」

 

「…………」

 

 トレシィは少年を見つめた。

 

 それから。

 

 いつもの穏やかな笑みを浮かべる。

 

「あなたの名前はシュテー」

 

「…………シュテー」

 

「正式名称は、シュテー・イデアール・ウングリュック」

 

「シュテー……イデアール……」

 

「ウングリュック」

 

「……それが、僕の名前?」

 

「ええ」

 

 トレシィは頷いた。

 

「あなたの名前よ」

 

「…………」

 

 シュテー。

 

 自分の名前。

 

 言われても、記憶が戻るわけではない。

 

 懐かしいとも感じなかった。

 

「じゃあ、僕はどこから来たの?」

 

「それはまた今度」

 

「え?」

 

「今は、自分の名前だけ覚えておけばいいわ」

 

「でも……」

 

「トレシィ」

 

 ティオが口を挟んだ。

 

「本人が知りたがってるんだから、知ってるなら教えてやればいいんじゃないか?」

 

「いずれね」

 

「今じゃ駄目なの?」

 

「ええ」

 

「…………」

 

 何か理由があるのだろう。

 

 トレシィは、それ以上答えようとはしなかった。

 

「それより」

 

 トレシィがティオを見る。

 

「あなたにお願いがあるの」

 

「…………俺?」

 

「ええ」

 

「何?」

 

「この子を育ててほしいの」

 

「…………」

 

 ティオが瞬きをした。

 

「……俺が?」

 

「そう」

 

「何で?」

 

「私はずっとこの世界にいられるわけじゃないから」

 

「それは分かるけど……」

 

 ティオはシュテーを見る。

 

 シュテーも困った顔をしていた。

 

「何で俺なんだ?」

 

「あなたなら安心だから」

 

「それだけ?」

 

「それだけじゃ駄目?」

 

「人一人預かる理由としては軽すぎない?」

 

「そうね」

 

 トレシィが笑う。

 

「なら、こうしましょう」

 

 その声が。

 

 ほんの少しだけ変わった。

 

「ティオ・アウル・イアクブック」

 

「…………」

 

 トレシィは、彼をいつものようにフルネームで呼んだ。

 

「この子を育ててくれたら、あなたの願いを一つ叶えてあげるわ」

 

「…………」

 

 ティオが黙った。

 

 それまでの軽い空気が消えた。

 

「……本気?」

 

「ええ」

 

「願いを一つ?」

 

「一つ」

 

「対価は?」

 

「この子を育てること。それで十分」

 

「…………」

 

 願い屋に願いを叶えてもらう。

 

 それがどれほど大きな意味を持つのか。

 

 ティオは知っている。

 

 だからこそ。

 

 簡単には頷けなかった。

 

「どう?」

 

 トレシィが微笑む。

 

「あるでしょう?」

 

「…………」

 

「私に叶えてほしい願い」

 

 ティオは答えなかった。

 

 けれど。

 

 否定もしなかった。

 

「……ずるいな」

 

「あら、何が?」

 

「それ言われたら、簡単に断れないだろ」

 

「断ってもいいのよ?」

 

「絶対そう思ってないだろ」

 

「ふふっ」

 

 トレシィは楽しそうだった。

 

「…………」

 

 ティオは少し考えてから、シュテーを見る。

 

「シュテー」

 

「……うん」

 

「君はどうしたい?」

 

「僕?」

 

「トレシィが勝手に話を進めてるけど、君のことだからな」

 

「…………」

 

「俺と一緒にいるのが嫌なら、嫌って言っていいよ」

 

「…………」

 

 シュテーは迷った。

 

 何も覚えていない。

 

 自分の名前だって、たった今知ったばかりだ。

 

 目の前の青年についても何も知らない。

 

 でも。

 

 目を覚ました時。

 

 最初に「大丈夫」と言ってくれた。

 

 自分が誰なのか分からなくても。

 

 ここにいていいと言ってくれた。

 

「……僕」

 

「うん」

 

「ここにいても、いい?」

 

「もちろん」

 

「迷惑じゃない?」

 

「大丈夫だよ」

 

「でも……」

 

「俺も分からないことはあるし、できないこともある」

 

 ティオは少し笑った。

 

「一緒に覚えていけばいいだろ」

 

「…………」

 

 その言葉に。

 

 シュテーはようやく少しだけ笑った。

 

「じゃあ……お願いします」

 

「うん」

 

 ティオが頷く。

 

「よろしくな、シュテー」

 

「よろしく……ティオ」

 

「それでいいよ」

 

 トレシィは二人のやり取りを眺めていた。

 

「決まりね」

 

「お前はもう帰るの?」

 

「ええ」

 

「シュテーについて、他に何か教えておくことは?」

 

「今はないわ」

 

「今は、ね」

 

「そのうち分かることもあるでしょう」

 

「……相変わらずだな」

 

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 

 トレシィの身体が淡く透け始める。

 

「じゃあ、お願いね」

 

「分かったよ」

 

「ティオ・アウル・イアクブック」

 

「……毎回フルネームで呼ぶのやめない?」

 

「嫌よ」

 

「何でだよ」

 

「気に入ってるから」

 

「俺の名前を?」

 

「ええ」

 

「変な奴」

 

「知っているでしょう?」

 

 トレシィが微笑む。

 

「また来るわ」

 

「ああ」

 

 その姿が消えた。

 

「…………」

 

 シュテーは、何もなくなった場所を見つめていた。

 

「……不思議な人だね」

 

「まあ、願い屋だからな」

 

「願い屋?」

 

「その話も知らないか」

 

「うん」

 

「じゃあ、それもそのうち教えるよ」

 

「……いっぱいあるね」

 

「何が?」

 

「僕が知らないこと」

 

「そりゃそうだな」

 

 ティオは笑った。

 

「でも、急がなくていいよ」

 

「…………」

 

「一個ずつ覚えていけばいい」

 

「うん」

 

 シュテーは頷いた。

 

「じゃあ最初は?」

 

「最初?」

 

「何教えてくれるの?」

 

「そうだな……」

 

 ティオは少し考える。

 

 この世界について。

 

 エルサイアについて。

 

 魔法や契約について。

 

 教えなければならないことはいくらでもある。

 

 けれど。

 

「飯にしよう」

 

「…………ご飯?」

 

「腹減ってるだろ」

 

「…………」

 

 ぐう、と。

 

 あまりにも分かりやすく腹が鳴った。

 

「…………」

 

「ほら」

 

「今のなし」

 

「無理だろ」

 

「聞かなかったことにして」

 

「ははっ。分かったよ」

 

「絶対聞いてたじゃん……」

 

 恥ずかしそうにするシュテーを連れて。

 

 ティオは部屋を出た。

 

 自分が何者なのか。

 

 どこから来たのか。

 

 何故、何一つ覚えていないのか。

 

 シュテーにはまだ、何も分からない。

 

 けれど、この日。

 

 自分の名前を知った。

 

 帰る場所を一つ得た。

 

 そして。

 

 知らないことを一つずつ教えてくれる人と出会った。

 

 やがてシュテーは。

 

 その人を――

 

「先生」

 

 と呼ぶようになる。

 

 けれど。

 

 それは、もう少し先の話だった。




書きたかった話をチャッピーにまとめて貰い
これだよこれ!とリメイク前にできなかったことをやろうと思います
この二人知ってる人からみるとファッ?!ってなりますがお口チャックですステイステイ
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