エルサイア王国日本支部。
日本とエルサイアを繋ぐ窓口として設けられたその場所には、今日も朝から人の出入りが絶えなかった。
日本側から届けられた書類。
エルサイアへ送る物資の確認。
契約者に関する報告。
異世界間を行き来する人間が増えれば、それに伴って仕事も増える。
その日もティオは、執務室の机に積まれた書類を一つずつ片付けていた。
「……これは向こうに確認してからだな」
書類を一枚、別の束へ移す。
次を手に取ろうとして――。
「久しぶりね、ティオ・アウル・イアクブック」
聞き覚えのある女の声がした。
「…………」
ティオの手が止まった。
顔を上げる。
つい先ほどまで誰もいなかったはずの部屋に、一人の女が立っていた。
気品のある佇まい。
美しい容姿。
突然現れたというのに、まるで最初からそこにいたかのような顔をしている。
「……トレシィ」
願い屋。
人の手に余る怪異や怨霊を処理し、相応の対価さえ支払えば、人の願いすら叶える存在。
ティオも彼女のことは知っていた。
そして。
トレシィが何の用もなく人前に姿を現すような女ではないことも。
「今日は何の用?」
「相変わらずね。もう少し歓迎してくれてもいいんじゃない?」
「普通に遊びに来たなら歓迎するよ」
「あら。遊びに来たのかもしれないわよ?」
「だったら酒でも出すけど」
「いいわね」
「……本当に酒飲みに来たのか?」
「それも魅力的だけど、今日は別件」
やっぱりか。
ティオが小さく息を吐く。
そこでようやく気がついた。
「…………」
トレシィのすぐそば。
一人の少年がいた。
十代半ばほどだろうか。
見たことのない少年だった。
意識がないらしく、目を閉じている。
「その子は?」
「ちょっと拾ったの」
「犬や猫みたいに言うなよ」
「似たようなものよ」
「全然違うだろ」
ティオは立ち上がった。
少年の様子を確認する。
呼吸はしている。
目立った外傷もない。
「怪我は?」
「ないわ」
「病気?」
「それもない」
「じゃあ何で意識がないんだ?」
「少し疲れてるだけ」
「……何をしたんだよ」
「失礼ね」
「お前が連れてきたんだろ?」
「そうね」
悪びれる様子もない。
ティオはもう一度ため息をついた。
「とりあえず、寝かせよう」
◇
少年が目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。
「…………」
知らない天井。
知らない部屋。
少年はしばらく瞬きすらせず、それを見つめていた。
「…………ここ」
どこだろう。
そう思った。
身体を起こす。
頭が少し重い。
けれど、それ以外に痛むところはなかった。
「起きた?」
「……!」
驚いて振り向く。
銀髪の青年がいた。
「ごめん。驚かせたな」
ティオは手にしていた書類を置いた。
「気分はどう?」
「…………」
「頭痛い?」
「……少し」
「気持ち悪くは?」
「大丈夫……だと思う」
「そっか」
ティオが少し笑う。
「ならよかった。水飲む?」
「……うん」
差し出された水を受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
水を一口飲む。
少しだけ落ち着いた。
「……ここ、どこ?」
「エルサイア王国日本支部」
「…………」
「分かる?」
「……エルサイア?」
「覚えてないか」
「日本……は、分かる」
「…………」
ティオが僅かに眉を寄せた。
「じゃあ、自分がどこから来たかは?」
「…………」
少年は考えた。
どこから。
「…………」
何も浮かばない。
「分かんない」
「そっか。じゃあ名前は?」
「名前……」
そこで。
少年の顔から血の気が引いた。
「…………」
「どうした?」
「分かんない」
「…………」
「僕の……名前……」
思い出そうとする。
何かあるはずだ。
昨日まで自分が何をしていたのか。
どこに住んでいたのか。
誰と暮らしていたのか。
けれど。
「……分かんない」
「無理に思い出さなくていいよ」
「でも……」
少年が自分の胸元を掴む。
「僕……」
何もない。
「僕、だれ?」
「…………」
ティオは答えられなかった。
自分にも分からない。
「何も覚えてない……」
「…………」
「家も……家族も……僕が何してたのかも……」
「大丈夫」
「でも」
「大丈夫だよ」
ティオは穏やかに言った。
「今すぐ思い出さなくてもいい」
「…………」
「少なくとも、ここにいる間は困らないから」
「…………」
「腹減ったら飯もあるし、寝るところもある」
「……僕、ここにいていいの?」
「もちろん」
即答だった。
「だから、今はゆっくりしよう」
「…………うん」
少年が小さく頷いた。
「あら。起きたのね」
声がした。
ティオが振り返る。
「トレシィ」
少年もそちらを見る。
知らない女だった。
「…………誰?」
「トレシィ。こいつが君をここに連れてきたんだ」
「僕を?」
「そう」
「…………」
少年はトレシィを見る。
「僕のこと……知ってる?」
「ええ」
「本当?」
「もちろん」
「じゃあ!」
少年の表情が変わった。
「僕、誰なの?」
「…………」
トレシィは少年を見つめた。
それから。
いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「あなたの名前はシュテー」
「…………シュテー」
「正式名称は、シュテー・イデアール・ウングリュック」
「シュテー……イデアール……」
「ウングリュック」
「……それが、僕の名前?」
「ええ」
トレシィは頷いた。
「あなたの名前よ」
「…………」
シュテー。
自分の名前。
言われても、記憶が戻るわけではない。
懐かしいとも感じなかった。
「じゃあ、僕はどこから来たの?」
「それはまた今度」
「え?」
「今は、自分の名前だけ覚えておけばいいわ」
「でも……」
「トレシィ」
ティオが口を挟んだ。
「本人が知りたがってるんだから、知ってるなら教えてやればいいんじゃないか?」
「いずれね」
「今じゃ駄目なの?」
「ええ」
「…………」
何か理由があるのだろう。
トレシィは、それ以上答えようとはしなかった。
「それより」
トレシィがティオを見る。
「あなたにお願いがあるの」
「…………俺?」
「ええ」
「何?」
「この子を育ててほしいの」
「…………」
ティオが瞬きをした。
「……俺が?」
「そう」
「何で?」
「私はずっとこの世界にいられるわけじゃないから」
「それは分かるけど……」
ティオはシュテーを見る。
シュテーも困った顔をしていた。
「何で俺なんだ?」
「あなたなら安心だから」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
「人一人預かる理由としては軽すぎない?」
「そうね」
トレシィが笑う。
「なら、こうしましょう」
その声が。
ほんの少しだけ変わった。
「ティオ・アウル・イアクブック」
「…………」
トレシィは、彼をいつものようにフルネームで呼んだ。
「この子を育ててくれたら、あなたの願いを一つ叶えてあげるわ」
「…………」
ティオが黙った。
それまでの軽い空気が消えた。
「……本気?」
「ええ」
「願いを一つ?」
「一つ」
「対価は?」
「この子を育てること。それで十分」
「…………」
願い屋に願いを叶えてもらう。
それがどれほど大きな意味を持つのか。
ティオは知っている。
だからこそ。
簡単には頷けなかった。
「どう?」
トレシィが微笑む。
「あるでしょう?」
「…………」
「私に叶えてほしい願い」
ティオは答えなかった。
けれど。
否定もしなかった。
「……ずるいな」
「あら、何が?」
「それ言われたら、簡単に断れないだろ」
「断ってもいいのよ?」
「絶対そう思ってないだろ」
「ふふっ」
トレシィは楽しそうだった。
「…………」
ティオは少し考えてから、シュテーを見る。
「シュテー」
「……うん」
「君はどうしたい?」
「僕?」
「トレシィが勝手に話を進めてるけど、君のことだからな」
「…………」
「俺と一緒にいるのが嫌なら、嫌って言っていいよ」
「…………」
シュテーは迷った。
何も覚えていない。
自分の名前だって、たった今知ったばかりだ。
目の前の青年についても何も知らない。
でも。
目を覚ました時。
最初に「大丈夫」と言ってくれた。
自分が誰なのか分からなくても。
ここにいていいと言ってくれた。
「……僕」
「うん」
「ここにいても、いい?」
「もちろん」
「迷惑じゃない?」
「大丈夫だよ」
「でも……」
「俺も分からないことはあるし、できないこともある」
ティオは少し笑った。
「一緒に覚えていけばいいだろ」
「…………」
その言葉に。
シュテーはようやく少しだけ笑った。
「じゃあ……お願いします」
「うん」
ティオが頷く。
「よろしくな、シュテー」
「よろしく……ティオ」
「それでいいよ」
トレシィは二人のやり取りを眺めていた。
「決まりね」
「お前はもう帰るの?」
「ええ」
「シュテーについて、他に何か教えておくことは?」
「今はないわ」
「今は、ね」
「そのうち分かることもあるでしょう」
「……相変わらずだな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
トレシィの身体が淡く透け始める。
「じゃあ、お願いね」
「分かったよ」
「ティオ・アウル・イアクブック」
「……毎回フルネームで呼ぶのやめない?」
「嫌よ」
「何でだよ」
「気に入ってるから」
「俺の名前を?」
「ええ」
「変な奴」
「知っているでしょう?」
トレシィが微笑む。
「また来るわ」
「ああ」
その姿が消えた。
「…………」
シュテーは、何もなくなった場所を見つめていた。
「……不思議な人だね」
「まあ、願い屋だからな」
「願い屋?」
「その話も知らないか」
「うん」
「じゃあ、それもそのうち教えるよ」
「……いっぱいあるね」
「何が?」
「僕が知らないこと」
「そりゃそうだな」
ティオは笑った。
「でも、急がなくていいよ」
「…………」
「一個ずつ覚えていけばいい」
「うん」
シュテーは頷いた。
「じゃあ最初は?」
「最初?」
「何教えてくれるの?」
「そうだな……」
ティオは少し考える。
この世界について。
エルサイアについて。
魔法や契約について。
教えなければならないことはいくらでもある。
けれど。
「飯にしよう」
「…………ご飯?」
「腹減ってるだろ」
「…………」
ぐう、と。
あまりにも分かりやすく腹が鳴った。
「…………」
「ほら」
「今のなし」
「無理だろ」
「聞かなかったことにして」
「ははっ。分かったよ」
「絶対聞いてたじゃん……」
恥ずかしそうにするシュテーを連れて。
ティオは部屋を出た。
自分が何者なのか。
どこから来たのか。
何故、何一つ覚えていないのか。
シュテーにはまだ、何も分からない。
けれど、この日。
自分の名前を知った。
帰る場所を一つ得た。
そして。
知らないことを一つずつ教えてくれる人と出会った。
やがてシュテーは。
その人を――
「先生」
と呼ぶようになる。
けれど。
それは、もう少し先の話だった。
書きたかった話をチャッピーにまとめて貰い
これだよこれ!とリメイク前にできなかったことをやろうと思います
この二人知ってる人からみるとファッ?!ってなりますがお口チャックですステイステイ