エマ   作:篠原えれの

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第二十話『先生』

 

 

 シュテーがエルサイア王国日本支部で暮らし始めてから、しばらくが経った。

 

 記憶が戻る気配は、今のところない。

 

 自分の名前は、シュテー・イデアール・ウングリュック。

 

 それも自分で思い出したわけではなく、トレシィから教えられたものだった。

 

 どこで生まれたのか。

 

 誰と暮らしていたのか。

 

 どうしてトレシィと一緒にいたのか。

 

 何一つ分からない。

 

 けれど、不思議と最初ほどの不安はなくなっていた。

 

 理由は単純だった。

 

 分からないことがあれば、聞けばいい。

 

 今のシュテーには、そうできる相手がいた。

 

「ティオ」

 

「ん?」

 

 執務机に向かっていたティオが顔を上げる。

 

「暇」

 

「そう言われてもなあ。俺、仕事中なんだけど」

 

「朝からずっと仕事してる」

 

「仕事だからな」

 

「いつ終わる?」

 

「もう少しかな」

 

「さっきも言ってた」

 

「……そうだった?」

 

「言ってた」

 

「じゃあ、もうちょっとだけ待ってて」

 

 ティオは困ったように笑って、再び書類へ視線を落とした。

 

 シュテーは頬を膨らませたものの、邪魔をするのも悪いと思ったらしい。

 

 部屋の中をぶらぶらと歩き始める。

 

 日本支部には、シュテーの知らないものが多かった。

 

 日本で使われている機械。

 

 エルサイアから持ち込まれた道具。

 

 見たことのない文字で書かれた書類。

 

 何に使うのか分からないものも少なくない。

 

「…………」

 

 その中で。

 

 机の端に置かれた、小さな筒が目に入った。

 

「ティオ」

 

「ん?」

 

「これ何?」

 

 シュテーが指差す。

 

 銃弾の薬莢にも似た、小さなカートリッジ。

 

 ただの金属ではない。

 

 透明になっている一部から、淡い光が見える。

 

 光は一定ではなく、ゆっくりと明滅していた。

 

 まるで。

 

 中に何かが生きているように。

 

「ああ、それ?」

 

 ティオが椅子から立ち上がる。

 

「人工精霊だよ」

 

「…………これが?」

 

「そのままじゃないけどな」

 

 ティオはカートリッジを一本手に取った。

 

「人工精霊を圧縮して、扱いやすい形にしたものだよ」

 

「精霊を……圧縮?」

 

「そう」

 

 シュテーが興味深そうに覗き込む。

 

 淡い光が、小さな器の中で揺らめいていた。

 

「生きてるの?」

 

「人工精霊だからな。普通の生き物とはちょっと違うけど、ただの電池みたいなものだと思わない方がいい」

 

「ふうん……」

 

「本来はもっと精霊らしい姿をしてるよ。これは魔道具で使えるように加工されてるだけ」

 

「魔道具?」

 

「それも知らないか」

 

「知らない」

 

「そっか」

 

 ティオは少し考えてから、近くに置かれていた一つの道具を手に取った。

 

 個人が携帯できる大きさの魔道具だった。

 

「こういうの」

 

「武器?」

 

「武器として使うものもあるし、そうじゃないものもある。魔法や魔術を扱う時に補助してくれる道具だと思えばいいよ」

 

「これに、その人工精霊を入れるの?」

 

「そう」

 

 ティオが人工精霊のカートリッジを示す。

 

「対応してる魔道具にこいつを装填すると、一時的に出力を大きく上げられる」

 

「どれくらい?」

 

「それは人工精霊と魔道具次第だな。相性もあるし」

 

「…………」

 

 シュテーはカートリッジをじっと見る。

 

「小さいのに?」

 

「小さいからって油断したら駄目だよ」

 

「危ない?」

 

「使い方を間違えればな」

 

「爆発する?」

 

「可能性はある」

 

「…………」

 

 先ほどまで興味津々だったシュテーが、一歩下がった。

 

 ティオが笑う。

 

「そんなに離れなくていいよ」

 

「だって爆発するって」

 

「俺が今ここで爆発させるわけないだろ」

 

「本当に?」

 

「信用ないなあ」

 

「だって僕、何にも知らないし」

 

「だから教えてるんだよ」

 

 ティオはカートリッジを元の場所へ戻した。

 

「扱い方さえちゃんと覚えれば便利なものだよ。勝手に使わなければ大丈夫」

 

「じゃあ僕も使える?」

 

「今は駄目」

 

「なんで?」

 

「今説明したばっかりだろ?」

 

「でも使ってみたい」

 

「駄目」

 

「ちょっとだけ」

 

「駄目だよ」

 

「…………ケチ」

 

「ケチでいいよ。怪我されるよりは」

 

 穏やかな声だった。

 

 強く叱られたわけでもない。

 

 けれど、これ以上頼んでも駄目なのだろう。

 

 シュテーにもそれくらいは分かった。

 

「……分かった」

 

「うん。ちゃんと勉強して、扱えるようになったらな」

 

「教えてくれる?」

 

「もちろん」

 

「じゃあ覚える」

 

「その意気だな」

 

 シュテーはもう一度、魔道具を見る。

 

「こういうのって、全部人工精霊で動くの?」

 

「いや。そういうわけじゃないよ」

 

「じゃあ何で動いてるの?」

 

「色々あるな。魔道具自体も用途によって仕組みが違うし……」

 

 ティオは少し考える。

 

「スフロン水晶って聞いたことある?」

 

「ない」

 

「だよな」

 

「それも精霊?」

 

「違うよ」

 

 ティオが笑った。

 

「もっと大きなものを動かすために使われる、高出力のエネルギー源だよ」

 

「大きなもの?」

 

「アージェリカは見たことある?」

 

「あのでっかいやつ?」

 

「そうそう」

 

「あれは覚えてる」

 

「アージェリカの動力源にもスフロン水晶が使われてる」

 

「…………」

 

 シュテーが固まった。

 

「……あれを動かせるの?」

 

「そういうこと」

 

「すご……」

 

「ものによっては扱うのに資格もいるくらいだからな」

 

「ここにもある?」

 

「ないよ」

 

「ないんだ」

 

「日本支部に置いておくようなものじゃないから」

 

「よかった」

 

「何が?」

 

「さっきみたいに僕が触ったら怖いじゃん」

 

「そもそも勝手に触らせないよ」

 

「絶対?」

 

「絶対」

 

「じゃあ安心」

 

「俺が安心できないんだけどな」

 

 ティオが苦笑する。

 

 シュテーは楽しそうに笑った。

 

 ◇

 

「よ、ティー坊」

 

 数日後。

 

 日本支部に、広重がやって来た。

 

「広重」

 

「暇だから来た」

 

「堂々と言うことじゃないだろ」

 

「ティー坊は?」

 

「見て分からない? 仕事中」

 

「つまんねぇ奴だな」

 

「仕事中だからな」

 

 いつものやり取りをしながら。

 

 広重が、部屋の奥にいるシュテーに気づいた。

 

「ん? 誰?」

 

「ああ」

 

 ティオが手招きする。

 

「シュテー」

 

「何?」

 

 少年が近づいてくる。

 

「こいつは広重。俺の幼馴染」

 

「へえ」

 

「広重。こっちはシュテー」

 

「シュテー?」

 

「シュテー・イデアール・ウングリュック」

 

「長っ」

 

「…………」

 

 シュテーが少しだけ眉を寄せた。

 

「僕も長いと思う」

 

「本人が言うんかい」

 

「だって長いし」

 

「ははっ。面白いな、お前」

 

 広重は気さくに笑った。

 

「よろしくな、シュテー」

 

「よろしく」

 

「で、ティー坊。この子何?」

 

「その聞き方やめろよ」

 

「弟?」

 

「違う」

 

「親戚?」

 

「違うよ」

 

「じゃあ隠し子?」

 

「何でそうなるんだよ」

 

「ティー坊、やるじゃん」

 

「やってない」

 

「…………隠し子って何?」

 

 シュテーが尋ねる。

 

「広重」

 

 ティオが少しだけ低い声で名前を呼んだ。

 

「悪かったって!」

 

 広重が笑う。

 

 シュテーはよく分からないまま首を傾げていた。

 

「トレシィから預かってるんだよ」

 

「トレシィ?」

 

 広重の顔から、僅かにふざけた色が消えた。

 

「願い屋の?」

 

「うん」

 

「へえ……」

 

「僕、何も覚えてないんだ」

 

「…………何も?」

 

「自分の名前もトレシィに教えてもらった」

 

「マジか」

 

「…………マジ?」

 

「え?」

 

「それどういう意味?」

 

「ああ。『本当?』みたいな感じ」

 

「へえ」

 

 シュテーの目が少し輝いた。

 

 ティオはそれを見ていた。

 

 嫌な予感がした。

 

 ◇

 

 予感は。

 

 その日のうちに的中した。

 

「先生、これマジですごくない?」

 

「…………」

 

 ティオの手が止まった。

 

「シュテー」

 

「何?」

 

「今、何て言った?」

 

「マジですごい」

 

「…………」

 

「何?」

 

「いや、そこじゃなくて」

 

 ティオが顔を上げる。

 

「先生?」

 

「うん」

 

「俺が?」

 

「うん」

 

「……いつから?」

 

「今」

 

「今!?」

 

 シュテーは悪びれもせず笑った。

 

「だって先生みたいじゃん」

 

「俺が?」

 

「うん。色々教えてくれるし」

 

「それだけ?」

 

「駄目?」

 

「駄目じゃないけど……俺、教師じゃないよ」

 

「知ってる」

 

「じゃあティオでいいだろ」

 

「先生がいい」

 

「何で?」

 

「そっちの方がしっくりくる」

 

「…………」

 

 ティオは少し考えた。

 

 嫌というほどでもない。

 

 むしろ。

 

 シュテーが自分でそう呼びたいというのなら、わざわざ否定する理由もなかった。

 

「……まあ、いいか」

 

「いいの?」

 

「好きに呼べばいいよ」

 

「やった」

 

 シュテーが笑う。

 

「先生」

 

「ん?」

 

「先生」

 

「何?」

 

「呼んだだけ」

 

「なんだよ、それ」

 

「先生」

 

「はいはい」

 

 ティオも笑った。

 

「それで?」

 

「何が?」

 

「さっき何がすごいって言ってたんだ?」

 

「あ、これ!」

 

 シュテーが持っていた本を開く。

 

「ここ分かんない」

 

「すごいんじゃなかったの?」

 

「絵がすごい」

 

「中身分かってなかったのか」

 

「うん」

 

「……貸してみ」

 

 ティオが隣へ座る。

 

 シュテーもすぐそばへ寄った。

 

「ここはな――」

 

「先生」

 

「何?」

 

「もっと簡単に」

 

「まだ何も説明してないよ」

 

「難しそうな顔してた」

 

「どんな顔だよ」

 

「こんな顔」

 

「してないって」

 

「してた」

 

「……広重と会わせるの、早かったかな」

 

「なんで広重?」

 

「何でもない」

 

 シュテーが不思議そうに首を傾げる。

 

 ティオは苦笑しながら、本を指差した。

 

「ほら。ここから説明するぞ」

 

「うん」

 

 シュテーは素直に本へ視線を落とした。

 

 自分の過去は知らない。

 

 昨日までの自分が何を知っていたのかも分からない。

 

 だから。

 

 知らないものを一つずつ知っていく。

 

 人工精霊。

 

 魔道具。

 

 スフロン水晶。

 

 エルサイア。

 

 この世界の常識。

 

 そして、広重から覚えた少しくだけた言葉。

 

 そのすべてを。

 

 シュテーは新しい記憶として積み重ねていった。

 

「先生」

 

「今度は何?」

 

「腹減った」

 

「さっき菓子食べてなかった?」

 

「あれはおやつ」

 

「そうだけど」

 

「飯は別」

 

「……それも広重?」

 

「うん」

 

「やっぱり」

 

「先生、広重のこと好きだね」

 

「何でそうなるんだよ」

 

「ずっと名前出してる」

 

「お前が変なこと覚えてくるからだろ」

 

「ははっ」

 

 シュテーが笑う。

 

 ティオも、つられて笑った。

 

 この日から。

 

 シュテーはティオを「先生」と呼ぶようになった。

 

 ただ、それだけのことだった。

 

 知らないことを教えてくれるから。

 

 困った時に助けてくれるから。

 

 自分が何者なのか分からなくても、ここにいていいと言ってくれたから。

 

 シュテーにとって。

 

 ティオは、先生だった。

 

 そしてティオもまた。

 

 その呼び方を当たり前のように受け入れていくことになる。

 

 何年経っても。

 

 シュテーの口調が変わっても。

 

 「僕」が「俺」に変わっても。

 

 その呼び方だけは。

 

 ずっと、変わらなかった。

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