シュテーがエルサイア王国日本支部で暮らし始めてから、しばらくが経った。
記憶が戻る気配は、今のところない。
自分の名前は、シュテー・イデアール・ウングリュック。
それも自分で思い出したわけではなく、トレシィから教えられたものだった。
どこで生まれたのか。
誰と暮らしていたのか。
どうしてトレシィと一緒にいたのか。
何一つ分からない。
けれど、不思議と最初ほどの不安はなくなっていた。
理由は単純だった。
分からないことがあれば、聞けばいい。
今のシュテーには、そうできる相手がいた。
「ティオ」
「ん?」
執務机に向かっていたティオが顔を上げる。
「暇」
「そう言われてもなあ。俺、仕事中なんだけど」
「朝からずっと仕事してる」
「仕事だからな」
「いつ終わる?」
「もう少しかな」
「さっきも言ってた」
「……そうだった?」
「言ってた」
「じゃあ、もうちょっとだけ待ってて」
ティオは困ったように笑って、再び書類へ視線を落とした。
シュテーは頬を膨らませたものの、邪魔をするのも悪いと思ったらしい。
部屋の中をぶらぶらと歩き始める。
日本支部には、シュテーの知らないものが多かった。
日本で使われている機械。
エルサイアから持ち込まれた道具。
見たことのない文字で書かれた書類。
何に使うのか分からないものも少なくない。
「…………」
その中で。
机の端に置かれた、小さな筒が目に入った。
「ティオ」
「ん?」
「これ何?」
シュテーが指差す。
銃弾の薬莢にも似た、小さなカートリッジ。
ただの金属ではない。
透明になっている一部から、淡い光が見える。
光は一定ではなく、ゆっくりと明滅していた。
まるで。
中に何かが生きているように。
「ああ、それ?」
ティオが椅子から立ち上がる。
「人工精霊だよ」
「…………これが?」
「そのままじゃないけどな」
ティオはカートリッジを一本手に取った。
「人工精霊を圧縮して、扱いやすい形にしたものだよ」
「精霊を……圧縮?」
「そう」
シュテーが興味深そうに覗き込む。
淡い光が、小さな器の中で揺らめいていた。
「生きてるの?」
「人工精霊だからな。普通の生き物とはちょっと違うけど、ただの電池みたいなものだと思わない方がいい」
「ふうん……」
「本来はもっと精霊らしい姿をしてるよ。これは魔道具で使えるように加工されてるだけ」
「魔道具?」
「それも知らないか」
「知らない」
「そっか」
ティオは少し考えてから、近くに置かれていた一つの道具を手に取った。
個人が携帯できる大きさの魔道具だった。
「こういうの」
「武器?」
「武器として使うものもあるし、そうじゃないものもある。魔法や魔術を扱う時に補助してくれる道具だと思えばいいよ」
「これに、その人工精霊を入れるの?」
「そう」
ティオが人工精霊のカートリッジを示す。
「対応してる魔道具にこいつを装填すると、一時的に出力を大きく上げられる」
「どれくらい?」
「それは人工精霊と魔道具次第だな。相性もあるし」
「…………」
シュテーはカートリッジをじっと見る。
「小さいのに?」
「小さいからって油断したら駄目だよ」
「危ない?」
「使い方を間違えればな」
「爆発する?」
「可能性はある」
「…………」
先ほどまで興味津々だったシュテーが、一歩下がった。
ティオが笑う。
「そんなに離れなくていいよ」
「だって爆発するって」
「俺が今ここで爆発させるわけないだろ」
「本当に?」
「信用ないなあ」
「だって僕、何にも知らないし」
「だから教えてるんだよ」
ティオはカートリッジを元の場所へ戻した。
「扱い方さえちゃんと覚えれば便利なものだよ。勝手に使わなければ大丈夫」
「じゃあ僕も使える?」
「今は駄目」
「なんで?」
「今説明したばっかりだろ?」
「でも使ってみたい」
「駄目」
「ちょっとだけ」
「駄目だよ」
「…………ケチ」
「ケチでいいよ。怪我されるよりは」
穏やかな声だった。
強く叱られたわけでもない。
けれど、これ以上頼んでも駄目なのだろう。
シュテーにもそれくらいは分かった。
「……分かった」
「うん。ちゃんと勉強して、扱えるようになったらな」
「教えてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ覚える」
「その意気だな」
シュテーはもう一度、魔道具を見る。
「こういうのって、全部人工精霊で動くの?」
「いや。そういうわけじゃないよ」
「じゃあ何で動いてるの?」
「色々あるな。魔道具自体も用途によって仕組みが違うし……」
ティオは少し考える。
「スフロン水晶って聞いたことある?」
「ない」
「だよな」
「それも精霊?」
「違うよ」
ティオが笑った。
「もっと大きなものを動かすために使われる、高出力のエネルギー源だよ」
「大きなもの?」
「アージェリカは見たことある?」
「あのでっかいやつ?」
「そうそう」
「あれは覚えてる」
「アージェリカの動力源にもスフロン水晶が使われてる」
「…………」
シュテーが固まった。
「……あれを動かせるの?」
「そういうこと」
「すご……」
「ものによっては扱うのに資格もいるくらいだからな」
「ここにもある?」
「ないよ」
「ないんだ」
「日本支部に置いておくようなものじゃないから」
「よかった」
「何が?」
「さっきみたいに僕が触ったら怖いじゃん」
「そもそも勝手に触らせないよ」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあ安心」
「俺が安心できないんだけどな」
ティオが苦笑する。
シュテーは楽しそうに笑った。
◇
「よ、ティー坊」
数日後。
日本支部に、広重がやって来た。
「広重」
「暇だから来た」
「堂々と言うことじゃないだろ」
「ティー坊は?」
「見て分からない? 仕事中」
「つまんねぇ奴だな」
「仕事中だからな」
いつものやり取りをしながら。
広重が、部屋の奥にいるシュテーに気づいた。
「ん? 誰?」
「ああ」
ティオが手招きする。
「シュテー」
「何?」
少年が近づいてくる。
「こいつは広重。俺の幼馴染」
「へえ」
「広重。こっちはシュテー」
「シュテー?」
「シュテー・イデアール・ウングリュック」
「長っ」
「…………」
シュテーが少しだけ眉を寄せた。
「僕も長いと思う」
「本人が言うんかい」
「だって長いし」
「ははっ。面白いな、お前」
広重は気さくに笑った。
「よろしくな、シュテー」
「よろしく」
「で、ティー坊。この子何?」
「その聞き方やめろよ」
「弟?」
「違う」
「親戚?」
「違うよ」
「じゃあ隠し子?」
「何でそうなるんだよ」
「ティー坊、やるじゃん」
「やってない」
「…………隠し子って何?」
シュテーが尋ねる。
「広重」
ティオが少しだけ低い声で名前を呼んだ。
「悪かったって!」
広重が笑う。
シュテーはよく分からないまま首を傾げていた。
「トレシィから預かってるんだよ」
「トレシィ?」
広重の顔から、僅かにふざけた色が消えた。
「願い屋の?」
「うん」
「へえ……」
「僕、何も覚えてないんだ」
「…………何も?」
「自分の名前もトレシィに教えてもらった」
「マジか」
「…………マジ?」
「え?」
「それどういう意味?」
「ああ。『本当?』みたいな感じ」
「へえ」
シュテーの目が少し輝いた。
ティオはそれを見ていた。
嫌な予感がした。
◇
予感は。
その日のうちに的中した。
「先生、これマジですごくない?」
「…………」
ティオの手が止まった。
「シュテー」
「何?」
「今、何て言った?」
「マジですごい」
「…………」
「何?」
「いや、そこじゃなくて」
ティオが顔を上げる。
「先生?」
「うん」
「俺が?」
「うん」
「……いつから?」
「今」
「今!?」
シュテーは悪びれもせず笑った。
「だって先生みたいじゃん」
「俺が?」
「うん。色々教えてくれるし」
「それだけ?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど……俺、教師じゃないよ」
「知ってる」
「じゃあティオでいいだろ」
「先生がいい」
「何で?」
「そっちの方がしっくりくる」
「…………」
ティオは少し考えた。
嫌というほどでもない。
むしろ。
シュテーが自分でそう呼びたいというのなら、わざわざ否定する理由もなかった。
「……まあ、いいか」
「いいの?」
「好きに呼べばいいよ」
「やった」
シュテーが笑う。
「先生」
「ん?」
「先生」
「何?」
「呼んだだけ」
「なんだよ、それ」
「先生」
「はいはい」
ティオも笑った。
「それで?」
「何が?」
「さっき何がすごいって言ってたんだ?」
「あ、これ!」
シュテーが持っていた本を開く。
「ここ分かんない」
「すごいんじゃなかったの?」
「絵がすごい」
「中身分かってなかったのか」
「うん」
「……貸してみ」
ティオが隣へ座る。
シュテーもすぐそばへ寄った。
「ここはな――」
「先生」
「何?」
「もっと簡単に」
「まだ何も説明してないよ」
「難しそうな顔してた」
「どんな顔だよ」
「こんな顔」
「してないって」
「してた」
「……広重と会わせるの、早かったかな」
「なんで広重?」
「何でもない」
シュテーが不思議そうに首を傾げる。
ティオは苦笑しながら、本を指差した。
「ほら。ここから説明するぞ」
「うん」
シュテーは素直に本へ視線を落とした。
自分の過去は知らない。
昨日までの自分が何を知っていたのかも分からない。
だから。
知らないものを一つずつ知っていく。
人工精霊。
魔道具。
スフロン水晶。
エルサイア。
この世界の常識。
そして、広重から覚えた少しくだけた言葉。
そのすべてを。
シュテーは新しい記憶として積み重ねていった。
「先生」
「今度は何?」
「腹減った」
「さっき菓子食べてなかった?」
「あれはおやつ」
「そうだけど」
「飯は別」
「……それも広重?」
「うん」
「やっぱり」
「先生、広重のこと好きだね」
「何でそうなるんだよ」
「ずっと名前出してる」
「お前が変なこと覚えてくるからだろ」
「ははっ」
シュテーが笑う。
ティオも、つられて笑った。
この日から。
シュテーはティオを「先生」と呼ぶようになった。
ただ、それだけのことだった。
知らないことを教えてくれるから。
困った時に助けてくれるから。
自分が何者なのか分からなくても、ここにいていいと言ってくれたから。
シュテーにとって。
ティオは、先生だった。
そしてティオもまた。
その呼び方を当たり前のように受け入れていくことになる。
何年経っても。
シュテーの口調が変わっても。
「僕」が「俺」に変わっても。
その呼び方だけは。
ずっと、変わらなかった。