結婚した。
だからといって。
翌朝、世界が何か変わっているわけではなかった。
「クイント」
「んー?」
「起きろ」
「起きてる」
「目を閉じたまま言うな」
「起きてるってば」
「じゃあ俺の方見ろよ」
「…………」
寝台の中で、クイントがゆっくりと顔を上げた。
眠そうな目がコウヤを見る。
「おはよう」
「おはよう」
「…………」
「…………」
「じゃ、おやすみ」
「寝るな!」
布団へ戻ろうとした身体を、コウヤが慌てて引き止める。
「今日会議あるだろ!」
「午後からでしょ」
「午前中にも書類あるって昨日言ってただろ!」
「コウヤやっといて」
「俺は宰相じゃねぇ!」
「じゃあミリィ」
「神精霊を何だと思ってんだよ!」
「ミリィならやってくれそう」
「やってくれそうだけど頼むな!」
結婚して数週間。
夫婦となった二人の生活は、驚くほど変わらなかった。
同じ城で暮らし。
同じように喧嘩をして。
同じように笑う。
変わったことといえば、以前よりも互いの部屋を行き来する理由を考えなくてよくなったことくらいだろうか。
「……ねえ」
「何?」
「結婚した感じしないね」
「俺も今思ってた」
「でしょ?」
「昨日までと何が違うんだろうな」
「うーん」
クイントは少し考える。
「コウヤが夫になった」
「それは知ってる」
「私が妻になった」
「それも知ってる」
「お父さんがお義父さんに――」
「いや、そこは二人とも父さんだろ」
「そうだった」
「ややこしいな俺ら!」
「今さら?」
クイントが笑う。
コウヤもつられて笑った。
「まあ、いいんじゃない?」
「何が?」
「変わらなくても」
「…………」
「結婚したからって、別人になるわけじゃないし」
「……それもそうだな」
コウヤがクイントの額を軽く小突く。
「でも仕事はしろ」
「痛い」
「痛くしてねぇよ」
「夫から暴力を受けた」
「言い方!」
「ミリィー!」
「呼ぶな!」
「ふふっ」
何も変わらない。
それでよかった。
少なくとも二人は、そう思っていた。
◇
同じ頃。
エルサイア王国日本支部では。
「先生」
「何?」
「暇」
「そう」
「…………」
「…………」
「先生」
「何?」
「暇」
「聞いた」
「何かない?」
「あるよ」
「何?」
「勉強」
「じゃあ暇でいい」
「おい」
机へ突っ伏したシュテーを、ティオは呆れたように見た。
「お前なぁ。記憶がないんだから、せめて一般常識くらい覚えろよ」
「一般常識なくても生きていけるだろ」
「生きていけないから教えてんの」
「先生いるし」
「俺が一生お前の横にいる前提で話すな」
「…………」
シュテーが顔を上げる。
「いないの?」
「え?」
「先生、そのうちいなくなる?」
あまりにも真っ直ぐ聞かれて。
ティオは一瞬、言葉に詰まった。
「……そういう意味じゃないよ」
「じゃあどういう意味?」
「お前が一人でも困らないようにってこと」
「ふーん」
「分かった?」
「分かった」
「じゃあ勉強」
「それは嫌」
「分かってねぇじゃねぇか!」
そこへ。
「よお、ティー坊」
「最悪のタイミングで来たな」
「何でだよ」
「広重!」
シュテーが起き上がった。
「何か面白いことない?」
「あるぞ」
「教えて」
「広重」
「何だよ、ティー坊」
「こいつに余計なこと教えるな」
「まだ何も言ってねぇだろ」
「お前の場合、存在が不安なんだよ」
「酷くね?」
「先生」
「何?」
「ティー坊」
「やめろ」
「ティー坊」
「やめろって!」
「ははっ! いい感じに育ってんな」
「お前のせいだよ!」
シュテーが笑う。
ティオが怒る。
広重が面白がる。
いつの間にか。
それが日本支部の日常になりつつあった。
最初にここへ来た頃のシュテーは、もっと大人しかった。
知らない世界。
知らない人間。
自分自身のことさえ分からない。
不安そうにティオの後ろを歩いていた少年は。
少しずつ。
この世界に、自分の居場所を作り始めていた。
◇
数か月後。
「…………」
「クイント?」
「…………」
「おい」
執務室。
書類を読んでいたコウヤが顔を上げた。
向かい側に座っていたクイントの手が止まっている。
「どうした?」
「んー……」
「眠い?」
「ちょっと」
「昨日ちゃんと寝た?」
「寝たよ」
「何時?」
「普通」
「お前の普通は信用できない」
「酷い」
クイントは再び書類へ目を落とした。
だが。
数分もしないうちに。
「…………」
また止まる。
「クイント」
「何?」
「今日は休め」
「大丈夫」
「大丈夫な奴は書類一枚読むのに十分もかからねぇよ」
「…………そんな経ってた?」
「経ってた」
「うーん……」
最近。
妙に身体が重かった。
熱があるわけではない。
どこかが痛いわけでもない。
ただ。
眠い。
そして、疲れやすい。
「忙しかったからかな」
「結婚式終わってからそんな忙しくないだろ」
「じゃあ季節?」
「何でも季節のせいにするなよ」
「じゃあ何?」
「俺が知るかよ。だから診てもらえって」
「面倒」
「王様!」
コウヤが頭を抱えた。
「自分の身体くらいちゃんと管理してくれ!」
「分かったって」
「本当に?」
「うん」
「今日行けよ」
「明日」
「今日」
「…………」
「今日」
「コウヤ、結婚してからうるさくなったね」
「誰のせいだと思ってんだ!」
「ふふっ」
クイントは笑った。
◇
その日の夕方。
「…………」
クイントは食卓を見つめていた。
「どうした?」
ギルが尋ねる。
「いらないのか?」
「……なんか」
「何だ?」
「匂いが嫌」
「…………」
コウヤが顔を上げた。
「お前それ好きだったじゃん」
「私もそう思ってる」
「体調悪い?」
「分かんない」
「昼も変だっただろ」
「ちょっと疲れてるだけだって」
「だから診てもらえって言っただろ!」
「明日行くって」
「今日行けって言った!」
「もう夕方じゃん」
「まだ行ける!」
「面倒」
「クイント!」
そのやり取りを。
ミリィが静かに見ていた。
「…………」
「ミリィ?」
「はい」
「何?」
「いえ……」
少し考える。
「クイント」
「ん?」
「最近、眠くありませんか?」
「眠い」
「食欲は?」
「日によるかな」
「匂いが気になるようになったのは?」
「最近」
「…………」
ミリィが瞬きをする。
「何?」
「念のため、診てもらいましょう」
「ミリィまで?」
「はい」
「ほら!」
「コウヤうるさい」
「俺は朝から同じこと言ってる!」
ギルだけが。
ミリィの表情を見て、僅かに眉を上げた。
「ミリィ」
「はい?」
「何か心当たりがあるのか?」
「まだ分かりません」
ミリィは微笑んだ。
「ですから、確認してからにしましょう」
◇
そして翌日。
「…………」
「…………」
「…………」
妙な沈黙があった。
「えっと」
クイントが最初に口を開く。
「もう一回言って?」
「ご懐妊です」
「…………」
「…………」
クイントが自分の腹を見る。
まだ何も変わっていない。
当然だった。
「……子供?」
「はい」
「私の?」
「はい」
「…………」
横にいたコウヤが、ようやく動いた。
「……子供?」
「はい」
「俺とクイントの?」
「コウヤ」
クイントが振り返る。
「他に誰がいるの」
「いや、そうだけど!」
「ふふっ」
「笑うなよ! びっくりするだろ!」
「私もびっくりしてるよ」
「全然そう見えねぇ!」
「だってコウヤの方が面白い」
「お前な!」
そう言いながら。
コウヤはもう一度クイントを見る。
それから。
まだ何の変化もない腹を見る。
「…………いるの?」
「いるみたい」
「…………」
「コウヤ?」
「…………マジか」
「うん」
「俺、父親になるの?」
「そうみたい」
「…………」
コウヤが固まった。
「大丈夫?」
「ちょっと待って」
「何を?」
「理解するから」
「ゆっくりでいいよ」
「お前は何でそんな冷静なんだよ!」
「まだ実感ないし」
「俺もねぇよ!」
「じゃあ一緒じゃん」
「そういうこと!?」
「ふふっ」
笑っていたクイントも。
やがて。
そっと自分の腹へ手を置いた。
「…………」
ここに。
いる。
そう考えた瞬間。
少しだけ。
表情が変わった。
「……そっか」
「クイント?」
「私、お母さんになるんだ」
「…………」
今度はコウヤも笑った。
「そうだな」
「コウヤもお父さん」
「……ああ」
「大丈夫?」
「何が?」
「お父さんできる?」
「お前に言われたくねぇよ!」
「私はできるよ」
「根拠は!?」
「何となく」
「一番信用できねぇ!」
それでも。
二人とも笑っていた。
◇
その日の夜。
「お父さん」
「何だ?」
ギルが振り返る。
そこにはクイントとコウヤが並んでいた。
「話があるんだけど」
「…………」
ギルは二人を見る。
「何だ」
「えっとね」
クイントがコウヤを見る。
「コウヤ言って」
「何で俺!?」
「言いたそうだから」
「お前が話あるって言ったんだろ!」
「じゃあ一緒に言う?」
「何でそんな大袈裟なんだよ!」
「緊張してる?」
「してねぇ!」
「してるね」
「クイント!」
「何なんだ、お前たちは」
ギルが呆れる。
「話があるなら早く言え」
「じゃあ」
クイントが笑った。
「お父さん」
「ああ」
「孫できたよ」
「…………」
ギルが止まった。
「…………」
「父さん?」
「…………孫?」
「うん」
「クイントが?」
「そう」
「コウヤとの?」
「お父さんまでそれ聞くの!?」
「いや、すまん」
ギルは額を押さえた。
「少し驚いた」
「俺も同じこと聞いた」
「コウヤは黙ってて」
「何でだよ!」
ギルはしばらく二人を見つめていた。
自分の実の息子と。
自分が娘として育てたクイント。
その二人に。
子供ができた。
「…………」
不思議な気分だった。
けれど。
やがて。
ギルは静かに笑った。
「そうか」
「うん」
「おめでとう」
「ありがとう、お父さん」
「父さん」
「何だ」
「俺には?」
「お前にも言っている」
「何かクイントだけ見てたじゃん」
「細かいな」
「今日くらいいいだろ!」
「ふふっ」
クイントが笑う。
「お父さん」
「何だ?」
「楽しみ?」
「ああ」
「本当?」
「当然だろう」
ギルは答えた。
「私の孫だからな」
「…………」
クイントの顔が綻ぶ。
「そっか」
「ああ」
まだ。
男の子か女の子かも分からない。
どんな顔なのか。
どんな性格なのか。
何も分からない。
ただ。
新しい命が一つ。
この家族に加わろうとしていた。
◇
それから数日後。
エルサイア王国日本支部。
「先生」
「何?」
「赤ちゃんってどうやってできるの?」
「…………」
ティオの手が止まった。
「誰から聞いた」
「広重」
「広重ぇぇぇ!!」
「まだ何も教えてねぇよ!」
隣室から声が飛んできた。
「クイントに子供できたって話しただけだ!」
「何でそこからその質問になるんだよ!」
「俺が聞きたい」
「シュテー!」
「何?」
「そういうのは――」
「そういうのは?」
「…………」
「先生?」
「…………学校で習え」
「学校って何?」
「…………」
ティオが頭を抱えた。
「記憶喪失ってこういう時まで面倒なのか……」
「先生」
「何」
「顔赤い」
「うるさい」
「何で?」
「うるさい!」
「広重ー。先生が教えてくれない」
「俺に振るな!」
「お前が責任取れ!」
「何の責任だよ!」
「先生」
「何だ!」
「やっぱ先生って面白いな」
「誰のせいだよ!」
シュテーが楽しそうに笑う。
その笑い声は。
いつの間にか。
この場所に当たり前のように馴染んでいた。
記憶は戻らない。
自分が誰だったのかも。
どこから来たのかも。
どうして願い屋に連れられて、この世界へ来たのかも。
何一つ分からない。
それでも。
今のシュテーには。
先生と呼ぶ人がいた。
帰る場所があった。
そして少しずつ。
新しい記憶が増えていた。
――失ったものを埋めるように。
けれど。
それがいつまで続くのかを。
シュテー自身は、まだ知らなかった。
◇
それから。
季節が巡った。
クイントの腹は少しずつ大きくなった。
コウヤは以前にも増して心配性になり。
ミリィはそんな二人を見守り。
ギルは何も言わないくせに、クイントが階段を上ろうとすると妙に近くを歩くようになった。
「お父さん」
「何だ」
「一人で歩けるよ」
「知っている」
「じゃあ何でずっと横にいるの?」
「偶然だ」
「三階まで?」
「偶然だ」
「ふふっ」
「笑うな」
「コウヤと同じことしてる」
「一緒にするな」
「父さん、俺も今それ言おうと思ってた」
「お前は黙っていろ」
「何で!?」
平和だった。
本当に。
穏やかな時間だった。
そして。
その日の夜。
「…………!」
クイントが腹へ手を当てた。
「クイント?」
コウヤがすぐに気づく。
「どうした?」
「今」
「何?」
「動いた」
「…………」
コウヤが固まる。
「え?」
「赤ちゃん」
「…………」
恐る恐る。
コウヤがクイントの腹へ手を当てる。
「…………」
「分かる?」
「分かんねぇ」
「もうちょっと待って」
「…………」
「…………」
「…………!」
小さな動き。
「今!」
「分かった!?」
「分かった!」
「ふふっ」
「動いた!」
「うん」
「クイント、動いた!」
「私のお腹なんだから知ってるよ」
「そうだけど!」
コウヤは。
子供みたいに笑った。
「……すげぇ」
「うん」
「本当にいるんだな」
「いるよ」
「…………」
もう一度。
コウヤが腹へ触れる。
「早く会いたいな」
「私も」
「どっちだと思う?」
「女の子」
「何で?」
「何となく」
「またそれかよ」
「当たる気がする」
「じゃあ俺は男」
「何で?」
「対抗して」
「意味ないじゃん」
「いいだろ別に」
「ふふっ」
二人はまだ知らない。
その子が。
母であるクイントよりも。
かつてギルが愛した一人の女性に、驚くほどよく似た少女として生まれてくることを。
そして。
その小さな身体の奥に。
さらに古い血が眠っていることを。
今はまだ。
誰も知らなかった。