クイントの妊娠が分かってから。
変わったことが、一つある。
「クイント」
「ん?」
「それ俺が持つ」
「…………」
クイントは、自分の手に持っていた書類を見る。
十枚ほど。
重くもなんともない。
「これ?」
「ああ」
「なんで?」
「俺が持つから」
「だからなんで?」
「いいから貸せ」
「…………」
コウヤに書類を奪われた。
「…………」
クイントはしばらく、その背中を見つめた。
そして翌日。
「クイント」
「何?」
「階段気をつけろよ」
「うん」
「ゆっくりな」
「うん」
「手摺り持てよ」
「持ってる」
「俺につかまってもいいから」
「…………」
クイントが足を止める。
「コウヤ」
「何?」
「私、妊娠したんだよね?」
「そうだな」
「足折れてないよね?」
「知ってる」
「病気でもないよね?」
「知ってる」
「じゃあ普通に歩かせて」
「普通に歩いていいよ」
「さっきから普通に歩かせてくれないじゃん!」
「転んだらどうすんだよ!」
「今までここで転んだことない!」
「今までと今は違うだろ!」
「何が!?」
「子供いるだろ!」
「…………」
クイントは自分の腹を見る。
まだ、見た目にはほとんど分からない。
それからコウヤを見る。
「……コウヤ」
「何だよ」
「もしかして」
「何」
「すっごい心配してる?」
「してねぇ」
「してるじゃん」
「普通だろ!」
「お父さんより酷いよ」
「父さんと比べんな!」
「ふふっ」
「笑うな!」
笑いながら階段を下りようとして。
「だから走るな!」
「走ってないって!」
「今二段飛ばそうとしただろ!」
「癖!」
「直せ!」
「うるさいなぁ!」
廊下の向こうから歩いてきたギルが、二人を見た。
「何を騒いでいる」
「お父さん聞いて!」
「父さん聞いてくれ!」
「一人ずつ話せ」
二人が同時に黙る。
「コウヤが過保護」
「クイントが危なっかしい」
「…………」
ギルはクイントを見る。
次にコウヤを見る。
「コウヤ」
「ほら!」
「少し落ち着け」
「父さん!?」
「ふふっ」
「クイントも」
「何?」
「階段を二段飛ばしするな」
「…………」
「ほら!」
「お父さんまで!」
「妊娠していなくても危ない」
「そこ!?」
ギルは呆れたように息を吐いた。
「まったく……」
そう言いながら。
ギル自身、クイントが階段を下りきるまでその場を動かなかった。
「…………」
クイントが気づく。
「お父さん」
「何だ」
「もしかしてお父さんも心配?」
「していない」
「嘘」
「していない」
「じゃあ先行っていいよ」
「…………」
「…………」
「急いでいない」
「ふふっ」
「笑うな」
「親子だね」
「一緒にすんなよ!」
「お前も私と一緒にするな」
「父さん!?」
クイントはとうとう声を上げて笑った。
◇
とはいえ。
コウヤが四六時中クイントについて回れるわけではない。
二人には二人の仕事がある。
クイントは国王だ。
妊娠したからといって、王でなくなるわけではない。
「こちらについては、次回の会議までに――」
「クイント」
「何?」
「座ってろ」
「…………」
会議室。
資料を取りに立とうとしただけだった。
「コウヤ」
「俺取る」
「そこにあるよ?」
「だから俺が取る」
「三歩だよ?」
「三歩でも」
「…………」
周囲が静かになった。
ルークが面白そうに二人を見ている。
ライベルトは露骨に笑いを堪えている。
ミリィは何も言わない。
ミカエルに至っては、書類から顔すら上げなかった。
「……コウヤ」
「何」
「みんな見てる」
「だから?」
「恥ずかしい」
「じゃあ座ってろ」
「何でそうなるの!?」
ライベルトが耐えきれずに吹き出した。
「っ、はは!」
「ライベルト!」
「悪い悪い。いや、無理だわ」
「笑わないでよ!」
「コウヤ、お前それ出産まで続けんの?」
「何が?」
「それ」
「普通だろ」
「普通じゃねぇよ」
「クイントに何かあったらどうすんだよ」
「三歩歩いたくらいで何かあったら、国王なんてやってらんねぇだろ」
「それとこれとは別だ」
「別じゃねぇよ」
「別だ」
「…………」
ライベルトがクイントを見る。
「大変だな」
「助けて」
「無理」
「なんで!?」
「こいつ止める方が面倒だから」
「ライベルト!」
ルークが笑った。
「いいじゃない。大事にされてるんだから」
「限度があるよ!」
「コウヤらしいと思うけど」
「ルークまで!」
「クイント」
ミリィが穏やかに口を挟む。
「はい」
「コウヤの心配も分かります」
「ミリィ!」
「ただし」
ミリィがコウヤを見る。
「クイントは妊婦であって病人ではありません」
「…………」
「必要以上に行動を制限するのもよくありませんよ」
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
「よかった」
クイントが安心して立ち上がる。
「どこ行く?」
「資料取るだけ!」
「俺が――」
「コウヤ」
「…………」
ミリィに名前を呼ばれ。
コウヤは渋々座った。
「…………」
「…………」
クイントが三歩歩く。
資料を取る。
三歩戻る。
座る。
「…………」
「何?」
「いや」
「ずっと見てたでしょ」
「見てねぇ」
「見てた」
「見てない」
「見てたよね、ライベルト」
「ずっと見てた」
「ライベルト!」
「私に振るなよ!」
笑い声が上がった。
ミカエルだけは。
相変わらず書類を読んでいた。
「……くだらん」
「ミカエル」
「何だ」
「絶対ちょっと笑ってたよね」
「気のせいだ」
「口元」
「気のせいだ」
「ねえゼウス――」
「俺様を巻き込むな」
「まだ何も聞いてない!」
「面倒な予感しかしねぇ」
◇
そんなエルサイアから遠く離れた。
エルサイア王国日本支部。
「先生」
「何?」
「これ何?」
「携帯電話」
「何するやつ?」
「離れた人と話したり、文章送ったり」
「へえ」
シュテーがティオの携帯をひっくり返す。
「これで先生と話せる?」
「使い方覚えればね」
「じゃあ欲しい」
「…………」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
「買って」
「何で俺が!?」
「俺、金ない」
「堂々と言うな」
「仕事もない」
「それもこれから考えるんだよ」
「先生が養って」
「お前いつまで俺に養われるつもりだよ!」
「ずっと?」
「疑問形でも駄目!」
「ケチ」
「ケチじゃない!」
ソファに寝転がっていた広重が笑った。
「買ってやれよ、ティー坊」
「簡単に言うな」
「連絡取れた方が便利だろ」
「それはそうだけど」
「先生」
「何?」
「先生の番号だけ入れて」
「…………」
「他に連絡する人いないし」
「…………」
ティオが黙る。
「先生?」
「……分かったよ」
「買ってくれる?」
「安いやつな」
「やった」
「ただし」
「何?」
「使い方覚えること。勝手に変なところ電話しない。変なもの買わない」
「分かった」
「あと――」
「先生」
「何」
「お母さんみたい」
「…………」
広重が吹き出した。
「ぶっ!」
「広重!」
「いや、無理! 今のは無理だって!」
「笑うな!」
「ティー坊母ちゃん!」
「お前まで言うな!」
「先生、お母さんなの?」
「違う!」
「じゃあお父さん?」
「どっちでもない!」
「先生?」
「それでいい!」
「分かった、先生」
「…………」
ティオが頭を抱える。
「何で俺こんなことになってんだ……」
「嫌?」
「…………」
シュテーが何気なく聞いた。
ティオが顔を上げる。
「俺がここにいるの」
「…………」
さっきまでの軽い空気が。
ほんの少しだけ変わった。
「何でそうなるんだよ」
「先生、いつも大変そうだから」
「それはお前が余計なことするから」
「じゃあやっぱ――」
「でも」
ティオが遮った。
「嫌なら、とっくに追い出してるよ」
「…………」
「ここにいていい」
「…………」
「ただし勉強はしろ」
「それは嫌」
「シュテー!」
「ははっ!」
また。
いつものシュテーに戻った。
広重が笑う。
「いい親子じゃねぇか」
「親子じゃない!」
「先生と生徒」
「生徒とも言ってない!」
「じゃあ何?」
「…………」
ティオが詰まった。
「何だろうな」
「先生でいいじゃん」
「……まあ、それでいいか」
「うん」
シュテーは笑った。
そして。
「俺、先生みたいに喋ろうかな」
「何で?」
「なんとなく」
「今まで『僕』だっただろ」
「俺の方がいい」
「好きにすれば?」
「じゃあ俺」
「急だな」
「俺」
「分かったって」
「俺、腹減った」
「それ言いたかっただけだろ!」
「はははっ!」
広重がまた笑った。
その日から。
シュテーは少しずつ。
自分を「俺」と呼ぶようになった。
失った過去から取り戻したものではない。
この世界で。
自分で選んだものだった。
◇
数か月が過ぎた。
「コウヤ」
「何?」
「見て」
「…………」
クイントが横を向く。
以前とは違う。
衣服の上からでも、腹の膨らみが分かるようになっていた。
「大きくなった」
「そうだな」
「触る?」
「いいの?」
「今さら何聞いてるの」
コウヤがそっと手を置く。
「…………」
温かい。
「動くかな」
「この前は動いてたよ」
「俺いなかったじゃん」
「会議行ってたからね」
「ずるい」
「赤ちゃんに言って」
「聞こえてんのかな」
「そろそろ聞こえるんじゃない?」
コウヤが腹へ顔を近づける。
「おーい」
「何してるの」
「聞こえるんだろ?」
「たぶん」
「…………」
少し考えて。
「俺、お前の父さんだからな」
「ふふっ」
「笑うなよ」
「だって急に自己紹介するから」
「初対面みたいなもんだろ」
「まだ会ってないよ」
「じゃあ先に言っとく」
「何を?」
「…………」
コウヤは腹へ触れたまま。
静かに言った。
「ちゃんと守るから」
「…………」
クイントの笑顔が止まった。
「お前も」
「私?」
「ああ」
「…………」
「二人とも俺が守る」
「コウヤ」
「何だよ」
「重い」
「は?」
「愛が重い」
「お前な!」
「ふふっ」
「真面目に言ってんだぞ!」
「分かってるよ」
クイントは笑って。
コウヤの手に、自分の手を重ねた。
「じゃあ私も守る」
「何を?」
「コウヤと、この子」
「俺はいい」
「何で?」
「俺がお前ら守るんだから」
「そういうところだよ」
「何が」
「重い」
「だから!」
その瞬間。
「…………!」
二人とも止まった。
コウヤの掌の下。
確かに。
小さな命が動いた。
「…………」
「…………」
クイントが笑う。
「返事した」
「…………マジ?」
「たぶん」
「もう一回」
「赤ちゃんに言ってよ」
「おい」
「その呼び方やめて」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ」
「まだ名前ないもん」
「…………」
コウヤは少し考えて。
また腹へ顔を近づけた。
「聞こえてるか?」
返事はない。
「……俺が守るから」
「またそれ?」
「いいだろ」
「ふふっ」
今度は動かなかった。
「無視された」
「うるさいって」
「まだ生まれてないのに!?」
「コウヤの子だもん」
「お前の子でもあるだろ!」
「じゃあ絶対うるさいね」
「何でそうなるんだよ!」
クイントが声を上げて笑う。
その笑い声を聞きながら。
コウヤはまだ、クイントの腹へ手を置いていた。
守る。
クイントを。
この子を。
これから増えていくかもしれない、自分の家族を。
それは。
コウヤにとってあまりにも単純で。
疑う必要さえない未来だった。
この時はまだ。
それを叶えられない日が来るなど。
誰一人として。
考えてもいなかった。