予定日が近づいてからというもの。
コウヤは、明らかにおかしくなった。
「クイント」
「なに?」
「今日、腹は?」
「あるよ」
「そういう意味じゃねぇよ!」
「なくなってたら怖いよね」
「ふざけてないで、痛くないかって聞いてんだよ!」
「今は大丈夫」
「本当に?」
「本当」
「昨日より張ってない?」
「分かんない」
「分かんないって――」
「コウヤ」
朝食の席。
クイントはパンを片手に、呆れた顔で夫を見る。
「毎朝それ聞くのやめない?」
「無理」
「即答なんだ」
「だってもういつ産まれてもおかしくねぇんだろ?」
「そうだけど」
「だったら聞くだろ」
「聞いたところでコウヤに分かるの?」
「…………」
「分かんないよね?」
「何かあったらライベルト呼ぶ」
「結局ライベルトじゃん」
「それはそう」
「ふふっ」
クイントが笑う。
すると今度は、その笑い声を聞いていたギルが口を挟んだ。
「コウヤ」
「何だよ、父さん」
「少し落ち着け」
「父さんは心配じゃねぇのかよ」
「心配している」
「じゃあ――」
「心配しているからといって、朝から同じことを六回聞いても何も変わらん」
「六回も聞いてた?」
「聞いてたよ」
「…………」
「ほら」
「……悪かったよ」
「もう」
クイントはまた笑った。
けれど。
そんな穏やかな時間も。
あと少しだった。
◇
「夜に何かあったらエーディンを呼べ」
「ライベルトじゃないの?」
「夜はあいつの担当」
数日前。
診察を終えたライベルトは、そう言った。
エルサイア王国軍少佐。
そして王宮軍医。
今ではそんな肩書きを持つライベルトだが、クイントにとっては、そんなものより遥かに昔から知っている相手だった。
「ライベルトでも夜は駄目なの?」
「駄目じゃねぇよ。ただ、私が太陽の民なのは知ってるだろ」
「うん」
「昼と夜じゃ条件が違う。だったら夜はエーディンに診てもらえばいい」
「そっか」
「ただし、設備のある場所へ移す必要が出たら私を呼べ」
「夜でも?」
「ああ」
「でも能力落ちるんでしょ?」
「瞬間移動くらいできる」
「…………」
「私が運ぶ」
「…………」
「何だよ」
「便利だね、ライベルト」
「人を輸送魔法扱いすんな」
「でも本当に便利」
「お前な……」
呆れた顔。
少し乱暴な口調。
今では、それが当たり前になった。
「…………」
クイントは、ふと思う。
昔は。
こんなに喋らなかったのに。
「何だよ」
「ん?」
「今、変な顔してた」
「昔のライベルト思い出してた」
「……昔?」
「全然喋らなかったなぁって」
「…………」
「ご飯もちゃんと食べなかったし」
「何年前の話してんだ」
「私が十歳くらい?」
「忘れろ」
「やだ」
「忘れろ」
「私が食べさせてあげてたよね」
「クイント」
「はい」
「黙れ」
「ふふっ」
ライベルトは露骨に嫌そうな顔をした。
けれど。
本気で嫌がっているわけではないことくらい。
クイントには分かる。
「でもさ」
「何だよ」
「すごいね」
「何が?」
「今はライベルトがお医者さんだもん」
「…………」
「私、いっぱい教えてあげたのに」
「十歳のくせにな」
「十歳でも私の方が詳しかったからいいの」
「まあ……」
それについては。
ライベルトも否定できなかった。
「じゃあ今度は私が教える番だな」
「何を?」
「産み方」
「ライベルト産んだことあるの?」
「ねぇよ」
「教えられないじゃん」
「医者としてだよ!」
「ふふっ」
「ったく……」
ライベルトは笑って。
カルテを閉じた。
「まあ、心配すんな」
「うん」
「お前が分かんなくても、私らが分かってりゃいい」
「…………」
「昔とは逆だな」
「そうかも」
「だから何かあったら呼べ」
「うん」
「一人で何とかしようとすんなよ」
「分かった」
「本当に?」
「コウヤみたい」
「お前が信用ねぇんだよ」
「酷い」
「昔からな」
「ライベルトに言われたくない!」
「ははっ」
◇
それから数日。
まだ太陽の昇る前だった。
「…………っ」
クイントは目を覚ました。
「…………」
痛い。
腹の奥から。
今までとは違う感覚が押し寄せてくる。
「……コウヤ」
「…………」
「コウヤ」
「ん……?」
「起きて」
「何……」
「たぶん」
「…………」
「来た」
「何が?」
「赤ちゃん」
「…………」
コウヤの目が。
一瞬で開いた。
「今!?」
「声大きい!」
「だってまだ暗いだろ!」
「私に言われても!」
「ライベルト――」
「夜はエーディン!」
「そうだった! エーディン!」
「コウヤ!」
「何!?」
「落ち着いて!」
「無理だろ!」
「私が産むんだけど!?」
「だから無理なんだよ!」
廊下にまで響いたらしい。
しばらくもしないうちに。
「何の騒ぎだ」
ギルまでやってきた。
「父さん!」
「お父さん」
「まさか」
「たぶん始まった」
「…………」
ギルが固まる。
「お父さん?」
「……そうか」
「父さん何すりゃいい!?」
「待て」
「何を!?」
「今考えている」
「お父さんも落ち着いて!」
「私は落ち着いている」
「全然落ち着いてないよ!」
「…………そうか」
「父さん!」
クイントは痛い腹を抱えながら。
なぜか少し笑ってしまった。
「もう、二人とも役に立たない!」
「酷くねぇ!?」
「否定できんな」
「父さん!?」
◇
夜間はエーディンが診た。
状態を確認し。
まだ時間がかかるだろうと判断する。
「まだ?」
「コウヤ」
「何?」
「さっきからそれ何回目?」
「だって」
「座って」
「無理」
「歩き回られる方が気になる」
「でも――」
「お父さん」
「何だ」
「コウヤ連れてって」
「クイント!?」
「邪魔」
「俺、夫!」
「知ってる」
「父親!」
「それも知ってる」
「じゃあここに――」
「邪魔」
「…………」
「行くぞ、コウヤ」
「父さん!」
「本人が邪魔だと言っている」
「助けてくれよ!」
「無理だ」
「父さんまで!」
ギルに引っ張られ。
コウヤが部屋を出ていく。
「何かあったら絶対呼べよ!」
「分かった!」
「絶対だぞ!」
「分かったって!」
「クイント!」
「うるさい!」
扉が閉じた。
「…………」
静寂。
「……あっちの方が産みそう」
エーディンが小さく笑った。
◇
やがて。
窓の外が白み始める。
夜が終わる。
遠くの空から。
少しずつ光が差し込んでくる。
そして。
「クイント」
聞き慣れた声がした。
「……ライベルト」
「来たぞ」
ライベルトが部屋へ入ってくる。
「早いね」
「お前が産むって聞いて普通に寝てられるかよ」
「ふふっ」
「笑う余裕あんなら大丈夫そうだな」
「痛いけど」
「そりゃな」
まずエーディンから経過を聞く。
それからクイントの状態を確認した。
手際がいい。
迷いがない。
「…………」
クイントは。
そんなライベルトを眺めていた。
「何?」
「いや」
「何だよ」
「本当にお医者さんなんだなって」
「まだ言うか?」
「だって昔――」
「昔の話は禁止」
「えー」
「十歳のお前に飯食わせてもらってた話とか絶対すんな」
「自分で言ったじゃん」
「…………」
「ふふっ」
「クイント」
「なに?」
「元気そうだからもっと痛くなるまで放置するぞ」
「医者がそんなこと言っていいの!?」
「冗談だよ」
笑って。
ライベルトがクイントの腹へ視線を落とした。
「…………」
目を細める。
身体の奥。
まだ生まれていないリリーを見る。
「どう?」
「元気」
「本当?」
「ああ」
「ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
「…………」
「位置も問題ない」
「そっか……」
クイントの肩から力が抜けた。
「よかった」
「だから言ったろ。お前が分かんなくても、私が分かってる」
「うん」
「心配すんな」
「……うん」
◇
太陽が昇った。
朝日が窓から差し込む。
その光を浴びるにつれて。
ライベルトの身体に満ちる力も変わっていく。
太陽の民。
太陽の光がある限り。
彼女の身体は驚異的な再生能力を発揮する。
透視。
サイコキネシス。
瞬間移動。
獣化。
そのすべてが、夜よりも遥かに安定する。
「……ライベルト」
「何?」
「元気になってない?」
「太陽出たからな」
「ずるい」
「何がだよ」
「私どんどん疲れてるのに」
「代われるなら代わってやる」
「代わって」
「無理」
「じゃあ言わないで!」
「ははっ」
けれど。
時間が進むにつれて。
笑う余裕も少しずつなくなっていった。
「っ……!」
「クイント」
「痛い……!」
「分かってる」
「ライベルト」
「いる」
「手」
「ん?」
クイントが手を伸ばす。
「握って」
「…………」
ライベルトは。
一瞬だけ、その手を見た。
小さい手だった。
昔も。
◇
――大丈夫。
自分よりずっと小さな少女が。
何度もそう言っていた。
食べていいよ。
なくならないよ。
明日もあるから。
分からなかったら、私が教える。
十歳の子供が。
ろくに言葉も発せず。
何をするにも怯えていた自分へ。
何度も。
何度も。
手を差し出した。
――今度は私がやる番。
そう言って。
クイントは笑った。
◇
「ライベルト?」
「…………」
ライベルトは。
伸ばされた手を握った。
「いるよ」
「…………」
「離さねぇから」
「……うん」
「だから私見ろ」
「…………うん」
「大丈夫」
「…………」
クイントが。
ほんの少しだけ目を見開いた。
「なに?」
「何が?」
「今の」
「大丈夫?」
「うん」
「それが?」
「……昔、私がライベルトによく言ってた」
「…………」
ライベルトが鼻で笑う。
「覚えてたか」
「覚えてるよ」
「じゃあ今日は」
「…………」
「私が言う番だ」
「…………」
握った手に力を込める。
「大丈夫だ、クイント」
「…………」
「私がいる」
「……うん」
クイントも。
その手を握り返した。
◇
昼が近づく。
「ライベルト!」
「いる!」
「痛い!」
「分かってる!」
「もう嫌!」
「今さら帰れねぇよ!」
「何とかして!」
「してる!」
「もっと何とかして!」
「無茶言うな!」
「ライベルトならできるでしょ!」
「私を何だと思ってんだ!」
「ライベルト!」
「答えになってねぇよ!」
苦しい。
痛い。
それでも。
名前を呼べば。
必ず返事がある。
「クイント」
「…………っ」
「こっち見ろ」
「…………」
「リリーも頑張ってる」
「分かる……?」
「ああ」
「…………」
「私には見えてる」
「元気?」
「元気だ」
「……よかった」
「だからお前も頑張れ」
「うん……」
「もう少しだ」
「それ何回目……?」
「今度は本当にもう少し」
「信用できない……」
「昔から私のこと散々信用してるだろ」
「昔はライベルトが私を信用してたの!」
「じゃあ今日は逆だ!」
「……分かった!」
「よし!」
◇
太陽が高く昇った。
真昼。
窓から差し込む光が、部屋を明るく照らしている。
「クイント」
「……っ」
「次だ」
「本当?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対」
「ライベルト」
「何?」
「手」
「握ってる」
「もっと」
「…………」
ライベルトは。
強く握った。
「いいか」
「うん」
「私見ろ」
「…………」
「大丈夫」
「……うん」
「リリーはすぐそこだ」
「うん」
「いける」
「…………うん!」
「よし――!」
呼吸。
痛み。
力を込める。
「そう!」
「っ――!」
「そのまま!」
「ライベルト!」
「いる!」
「っ……!」
「クイント、あと少し!」
「――っ!」
「そう、そのまま――!」
そして。
「――よし!」
小さな身体を。
ライベルトの両手が受け止めた。
「…………」
一瞬。
何も聞こえなかった。
そして。
「――ぁ……!」
産声。
小さく。
けれど確かに。
生きていると告げる声が。
部屋いっぱいに響いた。
「…………」
ライベルトは。
腕の中の赤ん坊を見下ろした。
「……ライベルト」
「ああ」
「…………」
「女の子だ」
「…………」
ライベルトが笑った。
「元気だぞ」
「……本当?」
「ああ」
「リリー?」
「そうだよ」
「…………」
クイントの目から。
涙が零れた。
「……よかった」
「ああ」
「よかったぁ……」
「…………」
ライベルトは。
その顔を見つめた。
あの日。
自分に手を差し出してきた。
十歳の少女。
何も知らなかった自分に。
何でも教えようとした。
小さな王様。
その少女が。
「…………」
母親になった。
「クイント」
「なに……?」
「お前さ」
「うん」
「本当に母親になったんだな」
「……何それ」
「いや」
「当たり前じゃん」
「そうだけどよ」
「ライベルト変なの」
「うるせぇ」
ライベルトは笑った。
そして。
腕の中の小さな命を。
クイントの元へ運ぶ。
「ほら」
「…………」
クイントが。
両腕を伸ばす。
「リリー……」
「ああ」
その腕へ。
そっと。
リリーを預けた。
「…………」
クイントが。
自分の娘を初めて抱く。
「ちっちゃい……」
「そりゃな」
「可愛い」
「そうだな」
「…………」
ライベルトは。
そんな二人を見て。
「クイント」
「なに?」
「今度はお前がやる番だ」
「…………」
クイントが。
顔を上げた。
「それ……」
「覚えてるだろ」
「…………うん」
「昔、お前が私に言った」
「…………」
「今度は私がやる番って」
ライベルトは。
リリーを見る。
「だから」
「…………」
「今度はお前が、この子に教えてやれ」
「…………」
食べること。
歩くこと。
笑うこと。
怖くないこと。
そして。
明日があること。
「…………うん」
クイントは。
涙を拭わずに笑った。
「いっぱい教える」
「ああ」
「私が知ってること、全部」
「……そうしてやれ」
「でも」
「何だ?」
「分かんないことあったら」
「…………」
「ライベルトにも聞くね」
「…………」
ライベルトは目を細めた。
「しょうがねぇな」
「ふふっ」
「昔からお前は」
「何?」
「最後は私に振る」
「だって」
「ん?」
「ライベルトだから」
「…………」
それには。
何も返せなかった。
「……ったく」
代わりに。
クイントの頭へ。
軽く手を置いた。
「よく頑張ったな」
「…………」
「クイント」
「……うん」
昔は。
その小さな手に。
自分が引っ張られていた。
今日は。
自分がその手を握った。
そして今。
クイントの腕の中には。
さらに小さな手がある。
三人を照らすように。
真昼の太陽が。
静かに輝いていた。