最近、シュテーは寝不足だった。
眠れないわけではない。
眠気はあるし、横になれば意識も落ちる。
問題は、その後だった。
「…………っ」
シュテーは勢いよく目を開けた。
暗い天井。
乱れた呼吸。
額には嫌な汗が滲んでいる。
「……またかよ」
片手で顔を覆う。
もう何度目になるのか、数える気にもならなかった。
場所は毎回違う。
見たことのない街。
知らない建物。
荒野だったこともあれば、どこかの施設だったこともある。
殺している相手にも、見覚えはない。
ただ一つ。
必ず同じことがある。
自分が。
人を殺している。
「…………」
身体を起こす。
そして、真っ先に自分の手を見た。
血はない。
当然だ。
夢なのだから。
「……分かってんだけどな」
それでも確認せずにはいられなかった。
夢の中の自分には、殺す相手を選ぶ理由すらない。
憎いからでも。
恨んでいるからでもない。
誰でもいい。
そこに人がいる。
だから殺す。
逃げる背中を追って。
命乞いをされても何も感じず。
次へ行く。
「……随分いい趣味してんな、俺」
軽口にしてみても。
笑えなかった。
◇
「お前、その顔どうした」
「朝一番で人の顔見て言うことがそれか?」
翌朝。
シュテーを見るなり、ゼウスは眉を寄せた。
「鏡見た?」
「見たよ」
「その隈でよく平然としてんな」
「男前が少々台無しになった程度だろ」
「そういう問題じゃねえよ」
「じゃあ何だよ」
「寝ろ」
「寝られるなら寝てる」
ゼウスの顔から、ふっと軽さが消えた。
「……また夢か」
「…………」
シュテーがゼウスを見る。
「何で知ってる」
「最近のお前見てりゃ分かる」
「そうか?」
「飯食ってる途中でぼーっとしてるわ、座ったまま寝かけるわ。そのくせ寝た瞬間飛び起きるわ」
「よく見てんな」
「見えるんだよ」
「暇なのか?」
「心配してんだよ!」
「おお」
「何だその反応!」
「いや、お前からそんな言葉が出るとは」
「ぶん殴るぞ」
「元気そうで安心した」
「お前なぁ……」
ゼウスがため息をつく。
「で?」
「何だよ」
「何の夢だ」
「聞きたい?」
「聞いてんだろ」
「聞いて楽しい話じゃねえぞ」
「いいから言え」
「…………」
少し迷って。
シュテーは壁へ背中を預けた。
「人を殺してる」
「…………」
「俺がな」
「誰を?」
「知らん」
「毎回同じ奴か?」
「いや」
「知ってる顔は?」
「一人も」
シュテーは肩を竦めた。
「誰でもいいみたいなんだよ」
「……どういう意味だ」
「そのまま」
「…………」
「夢の中の俺は、誰でもいいから殺して回ってる」
「…………」
「逃げようが泣こうが関係なし。次から次へとな」
「シュテー」
「いい趣味だろ?」
「笑えねえよ」
「俺だって笑ってねえよ」
そう言ってから。
シュテーは自分の手を見た。
「……妙に生々しいんだ」
「何が?」
「感触」
「…………」
「夢から覚めても残ってる」
「…………」
「だから最近、目が覚めたら最初に手を見る」
「血がついてないか?」
「ああ」
シュテーが苦笑する。
「馬鹿らしいだろ。夢なのにな」
「別に」
「ん?」
「そこまで生々しいなら仕方ねえだろ」
「…………」
シュテーが少し驚いたようにゼウスを見る。
「何だよ」
「いや」
「言えよ」
「もっと『んなもん気にすんな、酒飲め』って言われるかと思ってた」
「それも言おうと思ってた」
「台無しだな」
「うるせえ」
少しだけ。
シュテーが笑った。
「先生には?」
「言ってねえ」
「何で」
「言ったらどうなると思う?」
「…………」
「四六時中、俺の睡眠時間管理し始めるぞ」
「やりそう」
「だろ?」
「でも、もうバレてんじゃねえの?」
「何が」
「その顔」
「…………」
シュテーが目元に触れた。
「そんな酷い?」
「死人みてえ」
「それは言い過ぎだろ」
「先生ー!」
「おい馬鹿!」
ゼウスが廊下へ向かって声を張る。
「何ー?」
遠くからティオの声が返ってきた。
「最近のシュテーの顔どう思う!?」
「隈すごい! 全然寝てないでしょ!」
「ほら!」
「てめぇ……!」
「今日絶対昼寝させるから!」
「聞いたか?」
「聞こえたよ!」
シュテーは深々とため息をついた。
「……酒飲みてえ」
「まだ朝だぞ」
「お前が言うな」
「それはそう」
◇
ゼウスは。
何もできないわけではなかった。
「…………」
少なくとも。
シュテーの中へ干渉すること自体は可能だ。
記憶。
精神。
夢。
原因を探り。
場合によっては、異常そのものを取り除くことだって。
できるかもしれない。
けれど。
「……勝手に触れねえんだよな」
シュテーには記憶がない。
自分が誰だったのか。
どこで生まれ。
どう生きて。
何をしてきたのか。
何一つ覚えていない。
そしてゼウスは。
それが単なる記憶喪失ではないと考えていた。
何より。
シュテーをここへ連れてきたのは。
願い屋――トレシィだ。
シュテーはエマの人間ではない。
ノヴァの人間ですらない。
別の地球。
本来なら、この世界と交わることすらなかった場所から来た。
そんな真似をしておいて。
何の意味もなく記憶だけ失わせたとは思えない。
「……対価、だろうな」
ならば。
ゼウスが勝手に記憶を戻すわけにはいかない。
願い屋が成立させた何かを。
外から壊すことになるかもしれない。
夢だけを消す。
それも危険だった。
悪夢が失われた記憶に繋がっているなら。
結局は同じものに触れる。
「…………」
ゼウスは舌打ちした。
できるかもしれない。
なのに。
できない。
「……面倒なことしやがって、トレシィ」
◇
「シュテー」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないけど」
「寝ろ、だろ?」
「そう」
「嫌だ」
「何で」
「夢見るから」
「…………」
昼過ぎ。
ティオ――先生に捕まったシュテーは、露骨に嫌そうな顔をした。
「じゃあ俺がいる」
「先生がいても夢の内容は変わらんだろ」
「苦しそうだったら起こせる」
「…………」
「それならいいでしょ」
「先生」
「何?」
「俺をいくつだと思ってる?」
「知らない」
「…………」
「シュテーも知らないじゃん」
「それ言われると弱いな……」
記憶がない。
正確な年齢だって、本人には分からない。
「ほら」
「一時間」
「分かった」
「絶対一時間だからな」
「うん」
「それ以上寝かせんなよ」
「分かったって」
「あと」
「何?」
「寝言は聞かなかったことにしろ」
「内容による」
「そこは分かったって言えよ」
「はいはい」
「適当だなぁ……」
諦めてソファへ横になる。
しばらくして。
「……先生」
「何?」
「もし俺が急に暴れたら逃げろよ」
「…………」
ティオの表情が変わった。
「夢の話?」
「まあな」
「…………」
「念のため」
「逃げないけど」
「逃げろよ」
「起こす」
「先生なぁ」
「何」
「俺が本気で暴れたらどうするつもりだよ」
「その時考える」
「雑だな」
「シュテーが一人で寝ないためだからいいの」
「…………」
「ほら、寝る」
「…………分かったよ」
シュテーは目を閉じた。
「先生」
「今度は何?」
「……そこにいろよ」
「うん」
「起きるまで」
「いるよ」
「…………そうか」
それだけ確認すると。
今度こそ。
シュテーは眠りについた。
◇
「治さねえの?」
ティオのいる部屋から少し離れた場所で。
広重が尋ねた。
「何を」
「シュテー君」
「…………」
「お前なら何とかできそうじゃん」
「できるかもしれねえ」
「じゃあ」
「やらねえ」
「何で?」
「トレシィだよ」
「……願い屋?」
「ああ」
ゼウスが壁にもたれる。
「シュテーの記憶は、おそらく対価だ」
「…………」
「俺様が勝手に戻したら、トレシィが成立させたもんに何が起きるか分からねえ」
「夢だけ消すとかは?」
「その夢が記憶に繋がってたら?」
「……無理か」
「無理っつうより、やっちゃいけねえ」
「…………」
広重が少し黙る。
「珍しいね」
「あ?」
「ゼウスがそこまで慎重なの」
「俺様を何だと思ってんだよ」
「ゼウス」
「答えになってねえ!」
「でも、心配なんでしょ」
「…………」
「シュテー君のこと」
「…………」
ゼウスは答えなかった。
「治せるかもしれないのに、治せない」
「……ああ」
「きつい?」
「うるせえ」
「図星?」
「酒持ってこい」
「まだ昼」
「…………」
「シュテー君と同じこと言ってる」
「誰の影響だろうな」
「絶対お前だよ」
ゼウスが鼻を鳴らす。
「別に何もしねえわけじゃねえ」
「うん」
「眠れなきゃ付き合う」
「うん」
「夢見たら起こす」
「うん」
「酒飲みたきゃ付き合う」
「それはお前が飲みたいだけ」
「うるせえ」
「はいはい」
「でも」
ゼウスの表情が少しだけ変わった。
「それ以上はやらねえ」
「…………」
「そこから先はトレシィの領分だ」
「そっか」
「ああ」
◇
夜。
「ゼウス」
「何だ」
「酒ある?」
「ある」
「飲もう」
「昼寝したんじゃねえの?」
「したよ」
「夢は?」
「見た」
「……またか」
「ああ」
シュテーが椅子へ座る。
「ただ、途中で先生に起こされた」
「よかったじゃねえか」
「起こし方が雑なんだよ」
「何された?」
「頬叩かれた」
「はははは!」
「笑うな!」
「先生やるじゃねえか!」
「もっと優しく起こせるだろ!」
「起きたならいいだろ」
「よくねえよ」
「飲む?」
「飲む」
「ほら」
「…………」
シュテーがグラスを受け取る。
一口。
「薄い」
「お前ほんと強くなったな」
「誰のせいだよ」
「俺様の教育の成果」
「ろくでもねえ教育だな」
「でも飲むんだろ?」
「飲めるものは飲む」
「いい性格になったじゃねえか」
「ゼウスにだけは言われたくねえよ」
グラスを傾ける。
しばらくは。
どうでもいい話をした。
そして。
「……なあ、ゼウス」
「ん?」
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「俺さ」
「うん」
「昔、人を殺してたと思う?」
「…………」
ゼウスの手が止まった。
「夢が?」
「ああ」
「…………」
「ただの夢にしちゃ、どうにも生々しい」
「…………」
「記憶がないから余計にな」
「シュテー」
「何?」
「知らねえよ」
「…………」
「俺様は昔のお前を知らねえ」
「……まあ、そうだよな」
「でも」
「?」
「今のお前はどうなんだ」
「…………」
「誰か殺してえか?」
「いや」
「先生は?」
「ない」
「広重は?」
「ない」
「俺様は?」
「…………たまに」
「おい!」
「冗談だよ」
「間が長ぇんだよ!」
「はは……」
久しぶりに。
シュテーが声を出して笑った。
「…………」
そして。
グラスの中を見る。
「じゃあ」
「何だ」
「それでいいか」
「おう」
「今は」
「ああ」
「…………」
ゼウスは。
何も教えなかった。
シュテーの過去を探ろうとも。
記憶を無理に開こうとも。
悪夢を力で消そうとも。
しなかった。
ただ。
空になったグラスへ酒を注ぐ。
「もう一杯」
「お前飲みすぎんなよ」
「ゼウスに言われたくねえって」
「俺様と張り合うな」
「まだ負ける気しねえけど」
「言ったな?」
「おう」
「よし飲め」
「お前、俺のこと心配してたんじゃねえの?」
「してるぞ」
「説得力ねえなぁ……」
それくらいしか。
今のゼウスには。
してやれなかった。
そして。
それでいいと。
少なくとも今は。
そう思うことにした。