エマ   作:篠原えれの

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第三十四話『悪夢』

 

 最近、シュテーは寝不足だった。

 

 眠れないわけではない。

 

 眠気はあるし、横になれば意識も落ちる。

 

 問題は、その後だった。

 

「…………っ」

 

 シュテーは勢いよく目を開けた。

 

 暗い天井。

 

 乱れた呼吸。

 

 額には嫌な汗が滲んでいる。

 

「……またかよ」

 

 片手で顔を覆う。

 

 もう何度目になるのか、数える気にもならなかった。

 

 場所は毎回違う。

 

 見たことのない街。

 

 知らない建物。

 

 荒野だったこともあれば、どこかの施設だったこともある。

 

 殺している相手にも、見覚えはない。

 

 ただ一つ。

 

 必ず同じことがある。

 

 自分が。

 

 人を殺している。

 

「…………」

 

 身体を起こす。

 

 そして、真っ先に自分の手を見た。

 

 血はない。

 

 当然だ。

 

 夢なのだから。

 

「……分かってんだけどな」

 

 それでも確認せずにはいられなかった。

 

 夢の中の自分には、殺す相手を選ぶ理由すらない。

 

 憎いからでも。

 

 恨んでいるからでもない。

 

 誰でもいい。

 

 そこに人がいる。

 

 だから殺す。

 

 逃げる背中を追って。

 

 命乞いをされても何も感じず。

 

 次へ行く。

 

「……随分いい趣味してんな、俺」

 

 軽口にしてみても。

 

 笑えなかった。

 

 ◇

 

「お前、その顔どうした」

 

「朝一番で人の顔見て言うことがそれか?」

 

 翌朝。

 

 シュテーを見るなり、ゼウスは眉を寄せた。

 

「鏡見た?」

 

「見たよ」

 

「その隈でよく平然としてんな」

 

「男前が少々台無しになった程度だろ」

 

「そういう問題じゃねえよ」

 

「じゃあ何だよ」

 

「寝ろ」

 

「寝られるなら寝てる」

 

 ゼウスの顔から、ふっと軽さが消えた。

 

「……また夢か」

 

「…………」

 

 シュテーがゼウスを見る。

 

「何で知ってる」

 

「最近のお前見てりゃ分かる」

 

「そうか?」

 

「飯食ってる途中でぼーっとしてるわ、座ったまま寝かけるわ。そのくせ寝た瞬間飛び起きるわ」

 

「よく見てんな」

 

「見えるんだよ」

 

「暇なのか?」

 

「心配してんだよ!」

 

「おお」

 

「何だその反応!」

 

「いや、お前からそんな言葉が出るとは」

 

「ぶん殴るぞ」

 

「元気そうで安心した」

 

「お前なぁ……」

 

 ゼウスがため息をつく。

 

「で?」

 

「何だよ」

 

「何の夢だ」

 

「聞きたい?」

 

「聞いてんだろ」

 

「聞いて楽しい話じゃねえぞ」

 

「いいから言え」

 

「…………」

 

 少し迷って。

 

 シュテーは壁へ背中を預けた。

 

「人を殺してる」

 

「…………」

 

「俺がな」

 

「誰を?」

 

「知らん」

 

「毎回同じ奴か?」

 

「いや」

 

「知ってる顔は?」

 

「一人も」

 

 シュテーは肩を竦めた。

 

「誰でもいいみたいなんだよ」

 

「……どういう意味だ」

 

「そのまま」

 

「…………」

 

「夢の中の俺は、誰でもいいから殺して回ってる」

 

「…………」

 

「逃げようが泣こうが関係なし。次から次へとな」

 

「シュテー」

 

「いい趣味だろ?」

 

「笑えねえよ」

 

「俺だって笑ってねえよ」

 

 そう言ってから。

 

 シュテーは自分の手を見た。

 

「……妙に生々しいんだ」

 

「何が?」

 

「感触」

 

「…………」

 

「夢から覚めても残ってる」

 

「…………」

 

「だから最近、目が覚めたら最初に手を見る」

 

「血がついてないか?」

 

「ああ」

 

 シュテーが苦笑する。

 

「馬鹿らしいだろ。夢なのにな」

 

「別に」

 

「ん?」

 

「そこまで生々しいなら仕方ねえだろ」

 

「…………」

 

 シュテーが少し驚いたようにゼウスを見る。

 

「何だよ」

 

「いや」

 

「言えよ」

 

「もっと『んなもん気にすんな、酒飲め』って言われるかと思ってた」

 

「それも言おうと思ってた」

 

「台無しだな」

 

「うるせえ」

 

 少しだけ。

 

 シュテーが笑った。

 

「先生には?」

 

「言ってねえ」

 

「何で」

 

「言ったらどうなると思う?」

 

「…………」

 

「四六時中、俺の睡眠時間管理し始めるぞ」

 

「やりそう」

 

「だろ?」

 

「でも、もうバレてんじゃねえの?」

 

「何が」

 

「その顔」

 

「…………」

 

 シュテーが目元に触れた。

 

「そんな酷い?」

 

「死人みてえ」

 

「それは言い過ぎだろ」

 

「先生ー!」

 

「おい馬鹿!」

 

 ゼウスが廊下へ向かって声を張る。

 

「何ー?」

 

 遠くからティオの声が返ってきた。

 

「最近のシュテーの顔どう思う!?」

 

「隈すごい! 全然寝てないでしょ!」

 

「ほら!」

 

「てめぇ……!」

 

「今日絶対昼寝させるから!」

 

「聞いたか?」

 

「聞こえたよ!」

 

 シュテーは深々とため息をついた。

 

「……酒飲みてえ」

 

「まだ朝だぞ」

 

「お前が言うな」

 

「それはそう」

 

 ◇

 

 ゼウスは。

 

 何もできないわけではなかった。

 

「…………」

 

 少なくとも。

 

 シュテーの中へ干渉すること自体は可能だ。

 

 記憶。

 

 精神。

 

 夢。

 

 原因を探り。

 

 場合によっては、異常そのものを取り除くことだって。

 

 できるかもしれない。

 

 けれど。

 

「……勝手に触れねえんだよな」

 

 シュテーには記憶がない。

 

 自分が誰だったのか。

 

 どこで生まれ。

 

 どう生きて。

 

 何をしてきたのか。

 

 何一つ覚えていない。

 

 そしてゼウスは。

 

 それが単なる記憶喪失ではないと考えていた。

 

 何より。

 

 シュテーをここへ連れてきたのは。

 

 願い屋――トレシィだ。

 

 シュテーはエマの人間ではない。

 

 ノヴァの人間ですらない。

 

 別の地球。

 

 本来なら、この世界と交わることすらなかった場所から来た。

 

 そんな真似をしておいて。

 

 何の意味もなく記憶だけ失わせたとは思えない。

 

「……対価、だろうな」

 

 ならば。

 

 ゼウスが勝手に記憶を戻すわけにはいかない。

 

 願い屋が成立させた何かを。

 

 外から壊すことになるかもしれない。

 

 夢だけを消す。

 

 それも危険だった。

 

 悪夢が失われた記憶に繋がっているなら。

 

 結局は同じものに触れる。

 

「…………」

 

 ゼウスは舌打ちした。

 

 できるかもしれない。

 

 なのに。

 

 できない。

 

「……面倒なことしやがって、トレシィ」

 

 ◇

 

「シュテー」

 

「嫌だ」

 

「まだ何も言ってないけど」

 

「寝ろ、だろ?」

 

「そう」

 

「嫌だ」

 

「何で」

 

「夢見るから」

 

「…………」

 

 昼過ぎ。

 

 ティオ――先生に捕まったシュテーは、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「じゃあ俺がいる」

 

「先生がいても夢の内容は変わらんだろ」

 

「苦しそうだったら起こせる」

 

「…………」

 

「それならいいでしょ」

 

「先生」

 

「何?」

 

「俺をいくつだと思ってる?」

 

「知らない」

 

「…………」

 

「シュテーも知らないじゃん」

 

「それ言われると弱いな……」

 

 記憶がない。

 

 正確な年齢だって、本人には分からない。

 

「ほら」

 

「一時間」

 

「分かった」

 

「絶対一時間だからな」

 

「うん」

 

「それ以上寝かせんなよ」

 

「分かったって」

 

「あと」

 

「何?」

 

「寝言は聞かなかったことにしろ」

 

「内容による」

 

「そこは分かったって言えよ」

 

「はいはい」

 

「適当だなぁ……」

 

 諦めてソファへ横になる。

 

 しばらくして。

 

「……先生」

 

「何?」

 

「もし俺が急に暴れたら逃げろよ」

 

「…………」

 

 ティオの表情が変わった。

 

「夢の話?」

 

「まあな」

 

「…………」

 

「念のため」

 

「逃げないけど」

 

「逃げろよ」

 

「起こす」

 

「先生なぁ」

 

「何」

 

「俺が本気で暴れたらどうするつもりだよ」

 

「その時考える」

 

「雑だな」

 

「シュテーが一人で寝ないためだからいいの」

 

「…………」

 

「ほら、寝る」

 

「…………分かったよ」

 

 シュテーは目を閉じた。

 

「先生」

 

「今度は何?」

 

「……そこにいろよ」

 

「うん」

 

「起きるまで」

 

「いるよ」

 

「…………そうか」

 

 それだけ確認すると。

 

 今度こそ。

 

 シュテーは眠りについた。

 

 ◇

 

「治さねえの?」

 

 ティオのいる部屋から少し離れた場所で。

 

 広重が尋ねた。

 

「何を」

 

「シュテー君」

 

「…………」

 

「お前なら何とかできそうじゃん」

 

「できるかもしれねえ」

 

「じゃあ」

 

「やらねえ」

 

「何で?」

 

「トレシィだよ」

 

「……願い屋?」

 

「ああ」

 

 ゼウスが壁にもたれる。

 

「シュテーの記憶は、おそらく対価だ」

 

「…………」

 

「俺様が勝手に戻したら、トレシィが成立させたもんに何が起きるか分からねえ」

 

「夢だけ消すとかは?」

 

「その夢が記憶に繋がってたら?」

 

「……無理か」

 

「無理っつうより、やっちゃいけねえ」

 

「…………」

 

 広重が少し黙る。

 

「珍しいね」

 

「あ?」

 

「ゼウスがそこまで慎重なの」

 

「俺様を何だと思ってんだよ」

 

「ゼウス」

 

「答えになってねえ!」

 

「でも、心配なんでしょ」

 

「…………」

 

「シュテー君のこと」

 

「…………」

 

 ゼウスは答えなかった。

 

「治せるかもしれないのに、治せない」

 

「……ああ」

 

「きつい?」

 

「うるせえ」

 

「図星?」

 

「酒持ってこい」

 

「まだ昼」

 

「…………」

 

「シュテー君と同じこと言ってる」

 

「誰の影響だろうな」

 

「絶対お前だよ」

 

 ゼウスが鼻を鳴らす。

 

「別に何もしねえわけじゃねえ」

 

「うん」

 

「眠れなきゃ付き合う」

 

「うん」

 

「夢見たら起こす」

 

「うん」

 

「酒飲みたきゃ付き合う」

 

「それはお前が飲みたいだけ」

 

「うるせえ」

 

「はいはい」

 

「でも」

 

 ゼウスの表情が少しだけ変わった。

 

「それ以上はやらねえ」

 

「…………」

 

「そこから先はトレシィの領分だ」

 

「そっか」

 

「ああ」

 

 ◇

 

 夜。

 

「ゼウス」

 

「何だ」

 

「酒ある?」

 

「ある」

 

「飲もう」

 

「昼寝したんじゃねえの?」

 

「したよ」

 

「夢は?」

 

「見た」

 

「……またか」

 

「ああ」

 

 シュテーが椅子へ座る。

 

「ただ、途中で先生に起こされた」

 

「よかったじゃねえか」

 

「起こし方が雑なんだよ」

 

「何された?」

 

「頬叩かれた」

 

「はははは!」

 

「笑うな!」

 

「先生やるじゃねえか!」

 

「もっと優しく起こせるだろ!」

 

「起きたならいいだろ」

 

「よくねえよ」

 

「飲む?」

 

「飲む」

 

「ほら」

 

「…………」

 

 シュテーがグラスを受け取る。

 

 一口。

 

「薄い」

 

「お前ほんと強くなったな」

 

「誰のせいだよ」

 

「俺様の教育の成果」

 

「ろくでもねえ教育だな」

 

「でも飲むんだろ?」

 

「飲めるものは飲む」

 

「いい性格になったじゃねえか」

 

「ゼウスにだけは言われたくねえよ」

 

 グラスを傾ける。

 

 しばらくは。

 

 どうでもいい話をした。

 

 そして。

 

「……なあ、ゼウス」

 

「ん?」

 

「一つ聞いていいか」

 

「何だ」

 

「俺さ」

 

「うん」

 

「昔、人を殺してたと思う?」

 

「…………」

 

 ゼウスの手が止まった。

 

「夢が?」

 

「ああ」

 

「…………」

 

「ただの夢にしちゃ、どうにも生々しい」

 

「…………」

 

「記憶がないから余計にな」

 

「シュテー」

 

「何?」

 

「知らねえよ」

 

「…………」

 

「俺様は昔のお前を知らねえ」

 

「……まあ、そうだよな」

 

「でも」

 

「?」

 

「今のお前はどうなんだ」

 

「…………」

 

「誰か殺してえか?」

 

「いや」

 

「先生は?」

 

「ない」

 

「広重は?」

 

「ない」

 

「俺様は?」

 

「…………たまに」

 

「おい!」

 

「冗談だよ」

 

「間が長ぇんだよ!」

 

「はは……」

 

 久しぶりに。

 

 シュテーが声を出して笑った。

 

「…………」

 

 そして。

 

 グラスの中を見る。

 

「じゃあ」

 

「何だ」

 

「それでいいか」

 

「おう」

 

「今は」

 

「ああ」

 

「…………」

 

 ゼウスは。

 

 何も教えなかった。

 

 シュテーの過去を探ろうとも。

 

 記憶を無理に開こうとも。

 

 悪夢を力で消そうとも。

 

 しなかった。

 

 ただ。

 

 空になったグラスへ酒を注ぐ。

 

「もう一杯」

 

「お前飲みすぎんなよ」

 

「ゼウスに言われたくねえって」

 

「俺様と張り合うな」

 

「まだ負ける気しねえけど」

 

「言ったな?」

 

「おう」

 

「よし飲め」

 

「お前、俺のこと心配してたんじゃねえの?」

 

「してるぞ」

 

「説得力ねえなぁ……」

 

 それくらいしか。

 

 今のゼウスには。

 

 してやれなかった。

 

 そして。

 

 それでいいと。

 

 少なくとも今は。

 

 そう思うことにした。

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