その日のシュテーは。
珍しく、よく眠っていた。
「…………」
少なくとも。
傍から見れば。
「やっと寝たか」
ゼウスは、部屋の隅に置かれた椅子へ深く腰掛けた。
ここ数日。
シュテーの睡眠時間は酷いものだった。
眠れば悪夢を見る。
目を覚ます。
酒を飲む。
眠気に負けてまた眠る。
そして。
また夢を見る。
本人は軽口を叩いて誤魔化していたが。
目の下にできた隈は。
もう笑って済ませられるものではない。
「…………ったく」
ゼウスは腕を組んだ。
今夜だけは。
ここにいることにした。
シュテーには言っていない。
言えばどうせ、
『俺をいくつだと思ってんだよ』
だの。
『寝顔見られる趣味はねえぞ』
だの。
面倒なことを言う。
だから勝手に見張ることにした。
「…………」
静かな寝息。
今のところ。
悪夢を見ている様子もない。
「今日は大丈夫か……?」
そう思った。
その時だった。
「…………」
シュテーの目が。
開いた。
「ん?」
ゼウスが身体を起こす。
「シュテー?」
「…………」
返事がない。
「おい」
「…………」
ゆっくり。
シュテーが身体を起こした。
「…………」
ベッドから降りる。
「トイレか?」
「…………」
返事はない。
「おい、シュテー」
「…………」
そのまま。
扉へ向かう。
「…………?」
妙だった。
足取りはしっかりしている。
ふらついてはいない。
けれど。
起きている人間の動きではない。
「シュテー」
ゼウスが肩へ手を伸ばした。
その瞬間。
「――っ」
シュテーの腕が動いた。
「!」
ゼウスが反射的に身体を逸らす。
顔のすぐ横を。
拳が通り過ぎた。
「…………」
ゼウスの表情が変わる。
「お前……」
シュテーが。
こちらを見る。
「…………」
目は開いている。
だが。
見ていない。
「寝てんのか……?」
答えはない。
シュテーは。
再び。
扉へ向かった。
「待て」
腕を掴む。
「…………」
シュテーが止まる。
「どこ行く気だ」
「…………」
そして。
ぽつり。
「……次」
「…………は?」
シュテーが。
ゼウスを見る。
「次を」
「何だよ」
「殺さないと」
「…………」
ゼウスの顔から。
完全に笑みが消えた。
「シュテー」
「…………」
「起きろ」
「…………」
「おい!」
「邪魔だ」
「…………!」
振りほどく。
速い。
「おいおい……」
ゼウスが腕を掴み直す。
シュテーが身体を捻る。
今度は。
明確に。
ゼウスの首を狙った。
「っぶねぇな!」
受け止める。
「…………」
力も。
普段より妙に迷いがない。
相手を傷つけることに。
一切の躊躇がない。
「……マジかよ」
ゼウスは。
ようやく理解した。
夢を見ている。
シュテーは今。
あの夢の続きを。
現実でやろうとしている。
◇
「…………」
ゼウスは。
あえて腕を離した。
「…………」
シュテーが歩き出す。
廊下へ。
「どこまでやる気だ……?」
もちろん。
すぐ後ろをついていく。
止めるのは簡単だ。
だが。
確かめたかった。
シュテーが。
どこへ行くのか。
何をしようとしているのか。
「…………」
廊下を歩く。
曲がる。
階段を降りる。
迷いがない。
そして。
「…………」
前方から。
一人の職員が歩いてきた。
「あれ、シュテーさん?」
「…………」
シュテーが止まった。
「こんな時間にどうし――」
一歩。
シュテーが踏み込んだ。
「――シュテー!」
ゼウスが動いた。
「え?」
職員の目の前から。
シュテーの姿が消える。
直後。
壁へ。
叩きつけられた。
「――っ!」
ただし。
叩きつけたのは。
ゼウスだ。
「…………!」
シュテーの腕を背中へ回し。
床へ押さえ込む。
「ゼ、ゼウス様!?」
「行け!」
「え?」
「いいから離れろ!」
「は、はい!」
職員が逃げていく。
「…………」
シュテーは。
その背中を見ていた。
「…………逃げる」
「シュテー」
「追わないと」
「…………」
「殺さないと」
「…………」
ゼウスの背筋に。
冷たいものが走った。
「おい」
「…………」
「起きろ」
「…………」
「シュテー!」
「邪魔だ」
「誰が邪魔だ!」
「…………」
押さえ込まれているのに。
シュテーは暴れる。
逃げた人間を追おうとする。
「……っ!」
これは。
寝ぼけている人間の力ではない。
殺す。
ただ。
それだけを目的に。
身体が動いている。
「いい加減にしろ!」
ゼウスが。
シュテーの額へ手を当てる。
「起きろ!!」
「――――っ!」
シュテーの身体が。
大きく跳ねた。
「…………っ」
「シュテー!」
「…………」
瞬きをする。
一度。
二度。
「…………ゼウス?」
「…………」
目が。
戻った。
「…………何してんだ?」
「それ俺様の台詞だよ!」
「…………は?」
シュテーが周囲を見る。
廊下。
床。
そして。
自分を押さえ込んでいるゼウス。
「…………」
「…………」
「何だこれ」
「覚えてねえのか?」
「何を」
「…………」
ゼウスが。
ゆっくりシュテーから離れる。
「お前」
「…………?」
「今、寝てたぞ」
「……は?」
「寝たままここまで歩いてきた」
「…………」
「で」
「…………」
「人殺しかけた」
「…………」
シュテーが。
止まった。
「……何て?」
「職員一人殺そうとした」
「…………」
「俺様が止めなかったら」
「…………」
ゼウスが。
もう。
誤魔化さなかった。
「死んでた」
「…………」
シュテーの顔から。
血の気が引いた。
「…………俺が?」
「ああ」
「…………」
「シュテー」
「俺が……」
「未遂だ」
「…………」
「誰も死んでねえ」
「…………」
シュテーが。
自分の手を見る。
いつもと同じ。
夢から覚めた時と。
同じように。
「…………」
だが。
今回は。
夢ではなかった。
「……ゼウス」
「何だ」
「本当に?」
「嘘ついてどうすんだ」
「…………」
シュテーが。
震える手を握る。
「夢は……」
「覚えてるか?」
「…………少し」
「何してた?」
「…………」
答えたくない。
それが。
顔に出ていた。
「シュテー」
「……いつもと同じだ」
「…………」
「人を殺してた」
「うん」
「次の奴を探して……」
「…………」
「…………」
シュテーが。
廊下を見る。
「それから?」
「覚えてねえ」
「…………」
「目が覚めたら」
「俺様がいた?」
「ああ」
「…………」
シュテーは。
何も言わなくなった。
◇
「先生には言うな」
「言う」
「ゼウス」
「これは言う」
「…………」
「もう隠していい段階じゃねえ」
「でも」
「でもじゃねえ」
「…………」
シュテーが。
珍しく。
何も言い返さない。
「…………先生、心配するだろ」
「当たり前だ」
「…………」
「お前も分かってんだろ」
「…………ああ」
そして。
「今夜から一人で寝るな」
「…………」
「俺様かティオがいるところで寝ろ」
「……先生って呼べよ」
「何で俺様まで先生って呼ばなきゃなんねえんだよ!」
「いや、俺が先生って呼んでんのに、お前がティオって言うとなんか調子狂う」
「知らねえよ!」
「…………」
少しだけ。
いつもの軽口。
だが。
続かなかった。
「ゼウス」
「何」
「もし」
「…………」
「次」
「…………」
「お前がいなかったら?」
「…………」
答えは。
分かっている。
だから。
ゼウスは答えなかった。
「…………そうか」
シュテーも。
それで理解した。
◇
「――呼ぶ」
「誰を?」
広重が聞いた。
「トレシィ」
「…………」
その名前を聞いて。
広重の顔も変わる。
「いいの?」
「よくねえよ」
「願い屋の対価には触らないって」
「言った」
「…………」
「だから」
ゼウスが。
苛立ったように頭を掻く。
「俺様が触らねえために、本人呼ぶんだよ」
「なるほど」
「これはもう悪夢じゃねえ」
「…………」
「夢遊病なんて言葉で済ませていいかも怪しい」
「シュテー君は?」
「部屋」
「先生と?」
「ああ」
「…………」
ゼウスが。
しばらく黙る。
「俺様が見てなかったら」
「…………」
「一人死んでた」
「…………」
「その次も探してた」
「……マジ?」
「ああ」
「…………」
広重が息を吐く。
「それは……呼ぶしかないね」
「ああ」
ゼウスが立ち上がる。
今まで。
トレシィには配慮していた。
シュテーの記憶が対価なら。
勝手に戻さない。
悪夢も。
その記憶に繋がるものなら。
自分からは触れない。
それでいいと思っていた。
だが。
「…………」
もう。
そんなことを言っている段階ではない。
シュテー自身が。
人を殺しかけた。
本人に。
その記憶すらない。
「トレシィ」
「…………」
ゼウスの声が。
低くなる。
「てめぇが何やったのか知らねえけど」
「…………」
「これは説明してもらうぞ」
願い屋に。
喧嘩を売るつもりはない。
それは。
今でも変わらない。
だからこそ。
勝手には治さない。
勝手には記憶を戻さない。
その代わり。
――願い屋本人を呼ぶ。
「……ったく」
ゼウスが。
深く息を吐いた。
「面倒なもん連れてきやがって」
その声には。
苛立ちだけではなく。
はっきりと。
心配が混じっていた。
そして。
この時になって初めて。
ゼウスは。
シュテーの悪夢を。
ただの失われた記憶の残滓ではなく。
放置してはいけない異常として扱うことにした。