エマ   作:篠原えれの

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第三十五話『夢と現実の境界』

 

 

 その日のシュテーは。

 

 珍しく、よく眠っていた。

 

「…………」

 

 少なくとも。

 

 傍から見れば。

 

「やっと寝たか」

 

 ゼウスは、部屋の隅に置かれた椅子へ深く腰掛けた。

 

 ここ数日。

 

 シュテーの睡眠時間は酷いものだった。

 

 眠れば悪夢を見る。

 

 目を覚ます。

 

 酒を飲む。

 

 眠気に負けてまた眠る。

 

 そして。

 

 また夢を見る。

 

 本人は軽口を叩いて誤魔化していたが。

 

 目の下にできた隈は。

 

 もう笑って済ませられるものではない。

 

「…………ったく」

 

 ゼウスは腕を組んだ。

 

 今夜だけは。

 

 ここにいることにした。

 

 シュテーには言っていない。

 

 言えばどうせ、

 

『俺をいくつだと思ってんだよ』

 

 だの。

 

『寝顔見られる趣味はねえぞ』

 

 だの。

 

 面倒なことを言う。

 

 だから勝手に見張ることにした。

 

「…………」

 

 静かな寝息。

 

 今のところ。

 

 悪夢を見ている様子もない。

 

「今日は大丈夫か……?」

 

 そう思った。

 

 その時だった。

 

「…………」

 

 シュテーの目が。

 

 開いた。

 

「ん?」

 

 ゼウスが身体を起こす。

 

「シュテー?」

 

「…………」

 

 返事がない。

 

「おい」

 

「…………」

 

 ゆっくり。

 

 シュテーが身体を起こした。

 

「…………」

 

 ベッドから降りる。

 

「トイレか?」

 

「…………」

 

 返事はない。

 

「おい、シュテー」

 

「…………」

 

 そのまま。

 

 扉へ向かう。

 

「…………?」

 

 妙だった。

 

 足取りはしっかりしている。

 

 ふらついてはいない。

 

 けれど。

 

 起きている人間の動きではない。

 

「シュテー」

 

 ゼウスが肩へ手を伸ばした。

 

 その瞬間。

 

「――っ」

 

 シュテーの腕が動いた。

 

「!」

 

 ゼウスが反射的に身体を逸らす。

 

 顔のすぐ横を。

 

 拳が通り過ぎた。

 

「…………」

 

 ゼウスの表情が変わる。

 

「お前……」

 

 シュテーが。

 

 こちらを見る。

 

「…………」

 

 目は開いている。

 

 だが。

 

 見ていない。

 

「寝てんのか……?」

 

 答えはない。

 

 シュテーは。

 

 再び。

 

 扉へ向かった。

 

「待て」

 

 腕を掴む。

 

「…………」

 

 シュテーが止まる。

 

「どこ行く気だ」

 

「…………」

 

 そして。

 

 ぽつり。

 

「……次」

 

「…………は?」

 

 シュテーが。

 

 ゼウスを見る。

 

「次を」

 

「何だよ」

 

「殺さないと」

 

「…………」

 

 ゼウスの顔から。

 

 完全に笑みが消えた。

 

「シュテー」

 

「…………」

 

「起きろ」

 

「…………」

 

「おい!」

 

「邪魔だ」

 

「…………!」

 

 振りほどく。

 

 速い。

 

「おいおい……」

 

 ゼウスが腕を掴み直す。

 

 シュテーが身体を捻る。

 

 今度は。

 

 明確に。

 

 ゼウスの首を狙った。

 

「っぶねぇな!」

 

 受け止める。

 

「…………」

 

 力も。

 

 普段より妙に迷いがない。

 

 相手を傷つけることに。

 

 一切の躊躇がない。

 

「……マジかよ」

 

 ゼウスは。

 

 ようやく理解した。

 

 夢を見ている。

 

 シュテーは今。

 

 あの夢の続きを。

 

 現実でやろうとしている。

 

 ◇

 

「…………」

 

 ゼウスは。

 

 あえて腕を離した。

 

「…………」

 

 シュテーが歩き出す。

 

 廊下へ。

 

「どこまでやる気だ……?」

 

 もちろん。

 

 すぐ後ろをついていく。

 

 止めるのは簡単だ。

 

 だが。

 

 確かめたかった。

 

 シュテーが。

 

 どこへ行くのか。

 

 何をしようとしているのか。

 

「…………」

 

 廊下を歩く。

 

 曲がる。

 

 階段を降りる。

 

 迷いがない。

 

 そして。

 

「…………」

 

 前方から。

 

 一人の職員が歩いてきた。

 

「あれ、シュテーさん?」

 

「…………」

 

 シュテーが止まった。

 

「こんな時間にどうし――」

 

 一歩。

 

 シュテーが踏み込んだ。

 

「――シュテー!」

 

 ゼウスが動いた。

 

「え?」

 

 職員の目の前から。

 

 シュテーの姿が消える。

 

 直後。

 

 壁へ。

 

 叩きつけられた。

 

「――っ!」

 

 ただし。

 

 叩きつけたのは。

 

 ゼウスだ。

 

「…………!」

 

 シュテーの腕を背中へ回し。

 

 床へ押さえ込む。

 

「ゼ、ゼウス様!?」

 

「行け!」

 

「え?」

 

「いいから離れろ!」

 

「は、はい!」

 

 職員が逃げていく。

 

「…………」

 

 シュテーは。

 

 その背中を見ていた。

 

「…………逃げる」

 

「シュテー」

 

「追わないと」

 

「…………」

 

「殺さないと」

 

「…………」

 

 ゼウスの背筋に。

 

 冷たいものが走った。

 

「おい」

 

「…………」

 

「起きろ」

 

「…………」

 

「シュテー!」

 

「邪魔だ」

 

「誰が邪魔だ!」

 

「…………」

 

 押さえ込まれているのに。

 

 シュテーは暴れる。

 

 逃げた人間を追おうとする。

 

「……っ!」

 

 これは。

 

 寝ぼけている人間の力ではない。

 

 殺す。

 

 ただ。

 

 それだけを目的に。

 

 身体が動いている。

 

「いい加減にしろ!」

 

 ゼウスが。

 

 シュテーの額へ手を当てる。

 

「起きろ!!」

 

「――――っ!」

 

 シュテーの身体が。

 

 大きく跳ねた。

 

「…………っ」

 

「シュテー!」

 

「…………」

 

 瞬きをする。

 

 一度。

 

 二度。

 

「…………ゼウス?」

 

「…………」

 

 目が。

 

 戻った。

 

「…………何してんだ?」

 

「それ俺様の台詞だよ!」

 

「…………は?」

 

 シュテーが周囲を見る。

 

 廊下。

 

 床。

 

 そして。

 

 自分を押さえ込んでいるゼウス。

 

「…………」

 

「…………」

 

「何だこれ」

 

「覚えてねえのか?」

 

「何を」

 

「…………」

 

 ゼウスが。

 

 ゆっくりシュテーから離れる。

 

「お前」

 

「…………?」

 

「今、寝てたぞ」

 

「……は?」

 

「寝たままここまで歩いてきた」

 

「…………」

 

「で」

 

「…………」

 

「人殺しかけた」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 止まった。

 

「……何て?」

 

「職員一人殺そうとした」

 

「…………」

 

「俺様が止めなかったら」

 

「…………」

 

 ゼウスが。

 

 もう。

 

 誤魔化さなかった。

 

「死んでた」

 

「…………」

 

 シュテーの顔から。

 

 血の気が引いた。

 

「…………俺が?」

 

「ああ」

 

「…………」

 

「シュテー」

 

「俺が……」

 

「未遂だ」

 

「…………」

 

「誰も死んでねえ」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 自分の手を見る。

 

 いつもと同じ。

 

 夢から覚めた時と。

 

 同じように。

 

「…………」

 

 だが。

 

 今回は。

 

 夢ではなかった。

 

「……ゼウス」

 

「何だ」

 

「本当に?」

 

「嘘ついてどうすんだ」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 震える手を握る。

 

「夢は……」

 

「覚えてるか?」

 

「…………少し」

 

「何してた?」

 

「…………」

 

 答えたくない。

 

 それが。

 

 顔に出ていた。

 

「シュテー」

 

「……いつもと同じだ」

 

「…………」

 

「人を殺してた」

 

「うん」

 

「次の奴を探して……」

 

「…………」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 廊下を見る。

 

「それから?」

 

「覚えてねえ」

 

「…………」

 

「目が覚めたら」

 

「俺様がいた?」

 

「ああ」

 

「…………」

 

 シュテーは。

 

 何も言わなくなった。

 

 ◇

 

「先生には言うな」

 

「言う」

 

「ゼウス」

 

「これは言う」

 

「…………」

 

「もう隠していい段階じゃねえ」

 

「でも」

 

「でもじゃねえ」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 珍しく。

 

 何も言い返さない。

 

「…………先生、心配するだろ」

 

「当たり前だ」

 

「…………」

 

「お前も分かってんだろ」

 

「…………ああ」

 

 そして。

 

「今夜から一人で寝るな」

 

「…………」

 

「俺様かティオがいるところで寝ろ」

 

「……先生って呼べよ」

 

「何で俺様まで先生って呼ばなきゃなんねえんだよ!」

 

「いや、俺が先生って呼んでんのに、お前がティオって言うとなんか調子狂う」

 

「知らねえよ!」

 

「…………」

 

 少しだけ。

 

 いつもの軽口。

 

 だが。

 

 続かなかった。

 

「ゼウス」

 

「何」

 

「もし」

 

「…………」

 

「次」

 

「…………」

 

「お前がいなかったら?」

 

「…………」

 

 答えは。

 

 分かっている。

 

 だから。

 

 ゼウスは答えなかった。

 

「…………そうか」

 

 シュテーも。

 

 それで理解した。

 

 ◇

 

「――呼ぶ」

 

「誰を?」

 

 広重が聞いた。

 

「トレシィ」

 

「…………」

 

 その名前を聞いて。

 

 広重の顔も変わる。

 

「いいの?」

 

「よくねえよ」

 

「願い屋の対価には触らないって」

 

「言った」

 

「…………」

 

「だから」

 

 ゼウスが。

 

 苛立ったように頭を掻く。

 

「俺様が触らねえために、本人呼ぶんだよ」

 

「なるほど」

 

「これはもう悪夢じゃねえ」

 

「…………」

 

「夢遊病なんて言葉で済ませていいかも怪しい」

 

「シュテー君は?」

 

「部屋」

 

「先生と?」

 

「ああ」

 

「…………」

 

 ゼウスが。

 

 しばらく黙る。

 

「俺様が見てなかったら」

 

「…………」

 

「一人死んでた」

 

「…………」

 

「その次も探してた」

 

「……マジ?」

 

「ああ」

 

「…………」

 

 広重が息を吐く。

 

「それは……呼ぶしかないね」

 

「ああ」

 

 ゼウスが立ち上がる。

 

 今まで。

 

 トレシィには配慮していた。

 

 シュテーの記憶が対価なら。

 

 勝手に戻さない。

 

 悪夢も。

 

 その記憶に繋がるものなら。

 

 自分からは触れない。

 

 それでいいと思っていた。

 

 だが。

 

「…………」

 

 もう。

 

 そんなことを言っている段階ではない。

 

 シュテー自身が。

 

 人を殺しかけた。

 

 本人に。

 

 その記憶すらない。

 

「トレシィ」

 

「…………」

 

 ゼウスの声が。

 

 低くなる。

 

「てめぇが何やったのか知らねえけど」

 

「…………」

 

「これは説明してもらうぞ」

 

 願い屋に。

 

 喧嘩を売るつもりはない。

 

 それは。

 

 今でも変わらない。

 

 だからこそ。

 

 勝手には治さない。

 

 勝手には記憶を戻さない。

 

 その代わり。

 

 ――願い屋本人を呼ぶ。

 

「……ったく」

 

 ゼウスが。

 

 深く息を吐いた。

 

「面倒なもん連れてきやがって」

 

 その声には。

 

 苛立ちだけではなく。

 

 はっきりと。

 

 心配が混じっていた。

 

 そして。

 

 この時になって初めて。

 

 ゼウスは。

 

 シュテーの悪夢を。

 

 ただの失われた記憶の残滓ではなく。

 

 放置してはいけない異常として扱うことにした。

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