その夜。
シュテーは眠っていなかった。
「…………」
正確には。
眠ることを許されていなかった。
「なあ」
「駄目だ」
「まだ何も言ってねえぞ」
「一人にしろ、だろ」
「…………」
「駄目だ」
「ゼウス」
「駄目」
「先生呼んでくれ」
「先生にも同じこと言われるぞ」
「…………」
シュテーが露骨に嫌そうな顔をした。
「じゃあ広重」
「もっと駄目だ」
「何でだよ」
「あいつ絶対俺様に丸投げする」
「ありそうだな……」
ベッドには座っている。
だが。
横にはならない。
眠るのが怖い。
それ以上に。
「…………」
自分が。
怖かった。
夢の中で。
人を殺していた。
それだけなら。
まだ、夢だった。
だが今夜。
現実で。
殺そうとした。
ゼウスがいなければ。
「…………」
シュテーは。
また自分の手を見た。
「やめろ」
「何が」
「それ」
「…………」
「もう何回見てんだよ」
「別にいいだろ」
「誰も死んでねえ」
「未遂だっただけだ」
「未遂で止まったんだよ」
「お前がいたからな」
「…………」
ゼウスが黙った。
「次は?」
「シュテー」
「次もお前がいる保証あんのか?」
「だから一人にしねえっつってんだろ」
「ずっとか?」
「…………」
「無理だろ」
「…………」
シュテーは。
乾いた笑いを漏らした。
「だったら寝なきゃいい」
「馬鹿言え」
「何日かなら死なねえよ」
「その後どうすんだ」
「その時考える」
「お前な……」
「それに」
シュテーが。
ゼウスを見る。
「俺が寝なきゃ、誰も死なねえ」
「…………」
その言葉で。
ゼウスの顔が変わった。
「……そういう考え方すんな」
「事実だろ」
「シュテー」
「何だよ」
「…………」
駄目だ。
ゼウスは思った。
これは。
もう。
自分だけで抱える段階ではない。
「呼ぶぞ」
「誰を?」
「トレシィ」
「…………」
シュテーの眉が動いた。
「願い屋?」
「ああ」
「何で」
「お前をここへ連れてきたのはあいつだ」
「…………」
「だったら聞く」
「何を」
「全部だよ」
「…………」
シュテーは。
しばらく黙っていた。
「……好きにしろ」
「ああ。好きにする」
「ただ」
「何だ」
「先生には」
「言う」
「…………」
「これは絶対言う」
「融通利かねえな」
「お前にだけは言われたくねえよ」
◇
トレシィは。
思っていたより早く現れた。
「――随分と久しぶりね」
変わらない。
何を考えているのか。
分かるようで。
分からない笑顔。
「トレシィ」
「ゼウス」
「話がある」
「でしょうね」
「…………」
ゼウスの眉が動いた。
「何で分かる」
「貴方がわざわざ私を呼んだのよ?」
「…………」
「楽しいお酒のお誘いではないでしょう?」
「お前と飲む趣味はねえよ」
「あら。残念」
トレシィの視線が。
動いた。
「…………」
シュテー。
その瞬間だけ。
ほんの僅かに。
トレシィの目が細くなった。
――そう。
そうね。
起きてしまうわよね。
けれど。
「…………」
早い。
あまりにも。
本来なら。
まだ。
ここまで表へ出る時期ではない。
「それで?」
口には出さず。
トレシィは微笑んだ。
「私に何を聞きたいの?」
「こいつ」
ゼウスがシュテーを示す。
「夢遊病みてえな状態になった」
「…………」
「寝たまま歩き回った」
「そう」
「人を殺そうとした」
「…………」
ティオの表情が。
改めて強張った。
広重も。
黙っている。
トレシィだけは。
「そう」
同じ言葉を。
もう一度。
静かに返した。
「お前」
「何?」
「驚かねえな」
「驚いているわ」
「嘘つけ」
「酷い人ね」
「トレシィ」
「…………」
ゼウスの声が低くなる。
「知ってたのか?」
「何を?」
「こうなる可能性」
「…………」
少し。
沈黙。
「可能性なら」
「…………」
「ええ」
「てめぇ……」
「ゼウス」
「何で黙ってた!」
「言えば何か変わった?」
「変わっただろ!」
「では、どうしたの?」
「…………!」
「眠らせなかった?」
「…………」
「閉じ込めた?」
「…………」
「それとも、貴方の力でシュテーの中を弄った?」
「…………」
ゼウスが。
言葉を失う。
「できなかったでしょう?」
「…………」
「私に配慮して」
「……ああ」
「正解よ」
「…………」
トレシィは。
シュテーを見る。
「少なくとも、今まではね」
「今までは?」
「状況が変わったわ」
「…………」
シュテーが。
初めて口を開いた。
「治せんのか?」
「ええ」
「…………」
「ただし」
「対価?」
「そう」
「…………」
シュテーが鼻で笑った。
「願い屋らしいな」
「私は願い屋だもの」
「何持ってく?」
「記憶」
「…………」
ティオが。
すぐに反応した。
「待って」
「先生」
「記憶って何?」
「そのままよ」
「シュテーの記憶を消すの?」
「正確には」
トレシィが答える。
「私が貰う」
「同じじゃないか!」
「結果としてはね」
「だったら駄目だ」
「先生」
「他の方法を探そう」
「…………」
「ゼウスなら」
「先生」
今度は。
シュテーが少し強く呼んだ。
「ゼウスなら対価なしでできんのか?」
「…………」
ゼウスが。
答えない。
「ゼウス」
「……無理だ」
「…………」
ティオが振り返る。
「どういうこと?」
「俺様がやっても同じだ」
「でもゼウスは願い屋じゃないだろ」
「そういう問題じゃねえ」
「じゃあ何なんだよ」
「こいつの中から」
ゼウスが。
シュテーを見る。
「今起きてる異常だけを切り離す。その時点で、何かが欠ける」
「…………」
「俺様がやっても」
ゼウスが。
トレシィを見る。
「こいつがやってもな」
「そういうこと」
「…………」
広重が口を開く。
「何で?」
「シュテーの中で繋がってるからだよ」
ゼウスが答えた。
「記憶と、今の異常が」
「じゃあ夢だけ消すのは」
「だから無理なんだって」
「…………」
「切り離した部分にくっついてる何かは、一緒に持ってかれる」
「…………」
「だったら」
ゼウスは。
少し苦い顔をして。
「対価の扱いに慣れてる願い屋本人にやらせた方がマシだ」
「…………」
ティオが。
シュテーを見る。
「嫌だ」
「先生」
「嫌だよ」
「俺だって好きで記憶なくすわけじゃねえよ」
「じゃあやめよう」
「それでまた人殺しかけたら?」
「…………」
「今度は?」
「…………」
「先生」
「…………」
「俺が本当に殺したらどうすんだよ」
「それは……」
「俺は」
シュテーが。
一瞬。
言葉を止めた。
「…………」
そして。
「……いや」
「シュテー?」
「何でもねえ」
だが。
トレシィは。
見逃さなかった。
「…………」
この男は。
次に。
本当に誰かを殺したら。
どうするつもりなのか。
今。
言いかけた。
――その時は。
自分がいなくなればいい。
おそらく。
そう続けるつもりだった。
「…………」
駄目ね。
トレシィは。
静かに判断した。
選ばせてはいけない。
少なくとも。
今のシュテーには。
◇
「それで?」
シュテーが言った。
「どの記憶持ってくんだ」
「選びたい?」
「選べるならな」
「そうね」
「…………」
「何がいい?」
「昔の記憶」
「駄目」
「即答かよ」
「持っていないものは貰えないもの」
「……じゃあ適当にどうでもいい記憶」
「それでは足りない」
「面倒くせえな」
「対価だもの」
「…………」
シュテーが。
考える。
「酒の味とか」
「ふざけているの?」
「割と本気」
「ゼウスが泣くぞ」
「泣かねえよ!」
「じゃあ何だよ」
「…………」
トレシィが。
シュテーを見る。
「私が選ぶわ」
「は?」
「その方が確実」
「待てよ」
「大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ」
「貴方が貴方でなくなるほどは貰わない」
「そういう問題じゃ――」
そこで。
トレシィの指が。
シュテーの額へ触れた。
「――っ!」
「トレシィ!」
ティオが立ち上がる。
「待て!」
ゼウスが止めた。
「でも!」
「今触るな!」
「シュテー!」
「…………っ」
シュテーの身体が。
ぐらりと揺れた。
「て、めぇ……」
「ごめんなさいね」
「勝手に……」
「ええ」
「…………」
トレシィが。
ほんの少し。
悲しそうに笑った。
「今回は、貴方に選ばせないわ」
「……何で……」
「貴方」
「…………」
「次に誰かを殺したら」
「…………」
シュテーの目が。
僅かに揺れた。
「自分を殺すでしょう?」
「…………!」
ティオが。
息を呑んだ。
広重も。
言葉を失った。
「…………違う」
「嘘」
「…………」
「だから駄目」
「トレシィ……」
「周りがどう思おうが」
トレシィは。
静かに。
言った。
「私は貴方を生かすわ」
「…………」
光が。
シュテーを包む。
「やめ……」
「シュテー!」
「先生……」
伸ばした手が。
途中で。
落ちた。
「…………」
意識を失う。
ティオが。
その身体を受け止めた。
「シュテー!」
「大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ!」
「眠っただけ」
「何を取った!?」
「…………」
トレシィが。
ティオを見る。
「この世界へ来てから」
「…………」
「この場所を」
少し。
間を置く。
「自分の居場所だと思えるようになるまでの記憶」
「…………」
ティオの顔が。
固まった。
「それって……」
「貴方を忘れたわけではない」
「…………」
「ゼウスも。広重も。ここがどこなのかも」
「じゃあ」
「でも」
「…………」
トレシィが。
眠るシュテーを見る。
「どうして貴方を信じるようになったのか」
「…………」
「どうして先生と呼ぶようになったのか」
「…………」
「どうしてここにいていいと思えたのか」
「…………」
それらは。
もう。
シュテーの中にはない。
「……酷いよ」
「ええ」
「…………」
「そうね」
「トレシィ」
「でも」
トレシィは。
目を逸らさなかった。
「死ぬよりいいわ」
「…………」
誰も。
すぐには。
何も言えなかった。
◇
数時間後。
「…………」
シュテーが。
目を開けた。
「…………ん」
「シュテー!」
真っ先に。
ティオが覗き込む。
「…………」
シュテーは。
ぼんやり。
その顔を見る。
「…………先生」
「…………!」
ティオの顔が。
一気に明るくなる。
「覚えてる!?」
「…………」
シュテーが。
眉を寄せた。
「何を」
「俺!」
「先生だろ」
「…………うん」
「何だよ」
「じゃあ……大丈夫」
「…………?」
ティオが。
ほっと息を吐く。
「心配したんだから」
「…………」
シュテーは。
そんなティオを。
しばらく見ていた。
「先生」
「何?」
「俺」
「うん」
「何で先生のこと先生って呼んでんだ?」
「…………」
空気が。
止まった。
「……え?」
「いや」
シュテーが。
自分でも分からないように。
眉を寄せる。
「先生なのは分かるんだよ」
「…………」
「ティオ」
「…………」
「俺をここで引き取った奴」
「…………うん」
「それも分かる」
「…………」
「でも」
シュテーが。
周囲を見る。
ゼウス。
広重。
先生。
「…………何だこれ」
「シュテー」
「俺」
困ったように。
笑った。
「何でこんなに、あんたらと仲良かったんだ?」
「…………」
ティオが。
何も言えなくなった。
「おい」
ゼウスが声をかける。
「俺様は?」
「ゼウス」
「それだけ?」
「酒飲み」
「ぶっ飛ばすぞ!」
「違うのか?」
「合ってるけどよ!」
「…………」
シュテーが。
少し笑う。
その笑い方は。
変わっていない。
「ほら」
ゼウスが。
グラスを差し出した。
「飲め」
「起き抜けだぞ」
「飲めるだろ」
「…………」
シュテーは。
何故か。
何の警戒もなく。
それを受け取った。
一口。
「…………薄い」
「…………」
「何だよ」
「いや」
「?」
「そこは残ってんのかと思って」
「何の話だ?」
「……何でもねえよ」
習慣は。
残っている。
身体が覚えたものも。
言葉も。
呼び方も。
けれど。
そこへ至るまでの。
思い出だけが。
綺麗に。
抜け落ちていた。
◇
「本当にこれでよかったの?」
後で。
広重がゼウスへ聞いた。
「よくはねえよ」
「…………」
「でも仕方ねえ」
「ゼウスがやっても?」
「ああ」
「同じ?」
「程度は違ったかもしれねえけどな」
「…………」
「何かは持っていかれた」
「そっか」
「だから」
ゼウスが。
離れた場所にいるトレシィを見る。
「少なくとも、あいつが意地悪で奪ったわけじゃねえ」
「…………」
「必要だったんだよ」
「…………」
ティオは。
まだ納得していなかった。
当然だ。
それでも。
「先生」
シュテーに呼ばれるたび。
「何?」
ちゃんと。
返事をした。
何故そう呼ぶようになったのか。
シュテー自身が。
もう覚えていなくても。
◇
「…………」
帰り際。
トレシィは。
一度だけ。
シュテーを振り返った。
夢遊病は。
これで止まる。
少なくとも。
今は。
「…………」
けれど。
治したわけではない。
眠らせた。
それだけ。
本来。
これが目覚めるのは。
もっと先だった。
まだ。
早い。
今のシュテーには。
あまりにも。
早すぎる。
「トレシィ?」
「何?」
「どうした」
ゼウスだった。
「いいえ」
「…………」
「何でもないわ」
「本当に止まったんだろうな」
「ええ」
「ならいい」
「…………」
トレシィは。
微笑んだ。
「今はね」
「…………?」
ゼウスが眉を寄せる。
けれど。
トレシィは。
それ以上。
何も言わなかった。
まだ。
誰も知らない。
この異常が。
いつか。
星魅の巫女によって。
本当の意味で目覚めさせられることを。
そして。
その頃には。
今。
シュテーを心配している者たちの中から。
もう。
一人。
失われていることを。