エマ   作:篠原えれの

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第三十六話『願い屋の処置』

 

 その夜。

 

 シュテーは眠っていなかった。

 

「…………」

 

 正確には。

 

 眠ることを許されていなかった。

 

「なあ」

 

「駄目だ」

 

「まだ何も言ってねえぞ」

 

「一人にしろ、だろ」

 

「…………」

 

「駄目だ」

 

「ゼウス」

 

「駄目」

 

「先生呼んでくれ」

 

「先生にも同じこと言われるぞ」

 

「…………」

 

 シュテーが露骨に嫌そうな顔をした。

 

「じゃあ広重」

 

「もっと駄目だ」

 

「何でだよ」

 

「あいつ絶対俺様に丸投げする」

 

「ありそうだな……」

 

 ベッドには座っている。

 

 だが。

 

 横にはならない。

 

 眠るのが怖い。

 

 それ以上に。

 

「…………」

 

 自分が。

 

 怖かった。

 

 夢の中で。

 

 人を殺していた。

 

 それだけなら。

 

 まだ、夢だった。

 

 だが今夜。

 

 現実で。

 

 殺そうとした。

 

 ゼウスがいなければ。

 

「…………」

 

 シュテーは。

 

 また自分の手を見た。

 

「やめろ」

 

「何が」

 

「それ」

 

「…………」

 

「もう何回見てんだよ」

 

「別にいいだろ」

 

「誰も死んでねえ」

 

「未遂だっただけだ」

 

「未遂で止まったんだよ」

 

「お前がいたからな」

 

「…………」

 

 ゼウスが黙った。

 

「次は?」

 

「シュテー」

 

「次もお前がいる保証あんのか?」

 

「だから一人にしねえっつってんだろ」

 

「ずっとか?」

 

「…………」

 

「無理だろ」

 

「…………」

 

 シュテーは。

 

 乾いた笑いを漏らした。

 

「だったら寝なきゃいい」

 

「馬鹿言え」

 

「何日かなら死なねえよ」

 

「その後どうすんだ」

 

「その時考える」

 

「お前な……」

 

「それに」

 

 シュテーが。

 

 ゼウスを見る。

 

「俺が寝なきゃ、誰も死なねえ」

 

「…………」

 

 その言葉で。

 

 ゼウスの顔が変わった。

 

「……そういう考え方すんな」

 

「事実だろ」

 

「シュテー」

 

「何だよ」

 

「…………」

 

 駄目だ。

 

 ゼウスは思った。

 

 これは。

 

 もう。

 

 自分だけで抱える段階ではない。

 

「呼ぶぞ」

 

「誰を?」

 

「トレシィ」

 

「…………」

 

 シュテーの眉が動いた。

 

「願い屋?」

 

「ああ」

 

「何で」

 

「お前をここへ連れてきたのはあいつだ」

 

「…………」

 

「だったら聞く」

 

「何を」

 

「全部だよ」

 

「…………」

 

 シュテーは。

 

 しばらく黙っていた。

 

「……好きにしろ」

 

「ああ。好きにする」

 

「ただ」

 

「何だ」

 

「先生には」

 

「言う」

 

「…………」

 

「これは絶対言う」

 

「融通利かねえな」

 

「お前にだけは言われたくねえよ」

 

 ◇

 

 トレシィは。

 

 思っていたより早く現れた。

 

「――随分と久しぶりね」

 

 変わらない。

 

 何を考えているのか。

 

 分かるようで。

 

 分からない笑顔。

 

「トレシィ」

 

「ゼウス」

 

「話がある」

 

「でしょうね」

 

「…………」

 

 ゼウスの眉が動いた。

 

「何で分かる」

 

「貴方がわざわざ私を呼んだのよ?」

 

「…………」

 

「楽しいお酒のお誘いではないでしょう?」

 

「お前と飲む趣味はねえよ」

 

「あら。残念」

 

 トレシィの視線が。

 

 動いた。

 

「…………」

 

 シュテー。

 

 その瞬間だけ。

 

 ほんの僅かに。

 

 トレシィの目が細くなった。

 

 ――そう。

 

 そうね。

 

 起きてしまうわよね。

 

 けれど。

 

「…………」

 

 早い。

 

 あまりにも。

 

 本来なら。

 

 まだ。

 

 ここまで表へ出る時期ではない。

 

「それで?」

 

 口には出さず。

 

 トレシィは微笑んだ。

 

「私に何を聞きたいの?」

 

「こいつ」

 

 ゼウスがシュテーを示す。

 

「夢遊病みてえな状態になった」

 

「…………」

 

「寝たまま歩き回った」

 

「そう」

 

「人を殺そうとした」

 

「…………」

 

 ティオの表情が。

 

 改めて強張った。

 

 広重も。

 

 黙っている。

 

 トレシィだけは。

 

「そう」

 

 同じ言葉を。

 

 もう一度。

 

 静かに返した。

 

「お前」

 

「何?」

 

「驚かねえな」

 

「驚いているわ」

 

「嘘つけ」

 

「酷い人ね」

 

「トレシィ」

 

「…………」

 

 ゼウスの声が低くなる。

 

「知ってたのか?」

 

「何を?」

 

「こうなる可能性」

 

「…………」

 

 少し。

 

 沈黙。

 

「可能性なら」

 

「…………」

 

「ええ」

 

「てめぇ……」

 

「ゼウス」

 

「何で黙ってた!」

 

「言えば何か変わった?」

 

「変わっただろ!」

 

「では、どうしたの?」

 

「…………!」

 

「眠らせなかった?」

 

「…………」

 

「閉じ込めた?」

 

「…………」

 

「それとも、貴方の力でシュテーの中を弄った?」

 

「…………」

 

 ゼウスが。

 

 言葉を失う。

 

「できなかったでしょう?」

 

「…………」

 

「私に配慮して」

 

「……ああ」

 

「正解よ」

 

「…………」

 

 トレシィは。

 

 シュテーを見る。

 

「少なくとも、今まではね」

 

「今までは?」

 

「状況が変わったわ」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 初めて口を開いた。

 

「治せんのか?」

 

「ええ」

 

「…………」

 

「ただし」

 

「対価?」

 

「そう」

 

「…………」

 

 シュテーが鼻で笑った。

 

「願い屋らしいな」

 

「私は願い屋だもの」

 

「何持ってく?」

 

「記憶」

 

「…………」

 

 ティオが。

 

 すぐに反応した。

 

「待って」

 

「先生」

 

「記憶って何?」

 

「そのままよ」

 

「シュテーの記憶を消すの?」

 

「正確には」

 

 トレシィが答える。

 

「私が貰う」

 

「同じじゃないか!」

 

「結果としてはね」

 

「だったら駄目だ」

 

「先生」

 

「他の方法を探そう」

 

「…………」

 

「ゼウスなら」

 

「先生」

 

 今度は。

 

 シュテーが少し強く呼んだ。

 

「ゼウスなら対価なしでできんのか?」

 

「…………」

 

 ゼウスが。

 

 答えない。

 

「ゼウス」

 

「……無理だ」

 

「…………」

 

 ティオが振り返る。

 

「どういうこと?」

 

「俺様がやっても同じだ」

 

「でもゼウスは願い屋じゃないだろ」

 

「そういう問題じゃねえ」

 

「じゃあ何なんだよ」

 

「こいつの中から」

 

 ゼウスが。

 

 シュテーを見る。

 

「今起きてる異常だけを切り離す。その時点で、何かが欠ける」

 

「…………」

 

「俺様がやっても」

 

 ゼウスが。

 

 トレシィを見る。

 

「こいつがやってもな」

 

「そういうこと」

 

「…………」

 

 広重が口を開く。

 

「何で?」

 

「シュテーの中で繋がってるからだよ」

 

 ゼウスが答えた。

 

「記憶と、今の異常が」

 

「じゃあ夢だけ消すのは」

 

「だから無理なんだって」

 

「…………」

 

「切り離した部分にくっついてる何かは、一緒に持ってかれる」

 

「…………」

 

「だったら」

 

 ゼウスは。

 

 少し苦い顔をして。

 

「対価の扱いに慣れてる願い屋本人にやらせた方がマシだ」

 

「…………」

 

 ティオが。

 

 シュテーを見る。

 

「嫌だ」

 

「先生」

 

「嫌だよ」

 

「俺だって好きで記憶なくすわけじゃねえよ」

 

「じゃあやめよう」

 

「それでまた人殺しかけたら?」

 

「…………」

 

「今度は?」

 

「…………」

 

「先生」

 

「…………」

 

「俺が本当に殺したらどうすんだよ」

 

「それは……」

 

「俺は」

 

 シュテーが。

 

 一瞬。

 

 言葉を止めた。

 

「…………」

 

 そして。

 

「……いや」

 

「シュテー?」

 

「何でもねえ」

 

 だが。

 

 トレシィは。

 

 見逃さなかった。

 

「…………」

 

 この男は。

 

 次に。

 

 本当に誰かを殺したら。

 

 どうするつもりなのか。

 

 今。

 

 言いかけた。

 

 ――その時は。

 

 自分がいなくなればいい。

 

 おそらく。

 

 そう続けるつもりだった。

 

「…………」

 

 駄目ね。

 

 トレシィは。

 

 静かに判断した。

 

 選ばせてはいけない。

 

 少なくとも。

 

 今のシュテーには。

 

 ◇

 

「それで?」

 

 シュテーが言った。

 

「どの記憶持ってくんだ」

 

「選びたい?」

 

「選べるならな」

 

「そうね」

 

「…………」

 

「何がいい?」

 

「昔の記憶」

 

「駄目」

 

「即答かよ」

 

「持っていないものは貰えないもの」

 

「……じゃあ適当にどうでもいい記憶」

 

「それでは足りない」

 

「面倒くせえな」

 

「対価だもの」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 考える。

 

「酒の味とか」

 

「ふざけているの?」

 

「割と本気」

 

「ゼウスが泣くぞ」

 

「泣かねえよ!」

 

「じゃあ何だよ」

 

「…………」

 

 トレシィが。

 

 シュテーを見る。

 

「私が選ぶわ」

 

「は?」

 

「その方が確実」

 

「待てよ」

 

「大丈夫」

 

「何が大丈夫なんだよ」

 

「貴方が貴方でなくなるほどは貰わない」

 

「そういう問題じゃ――」

 

 そこで。

 

 トレシィの指が。

 

 シュテーの額へ触れた。

 

「――っ!」

 

「トレシィ!」

 

 ティオが立ち上がる。

 

「待て!」

 

 ゼウスが止めた。

 

「でも!」

 

「今触るな!」

 

「シュテー!」

 

「…………っ」

 

 シュテーの身体が。

 

 ぐらりと揺れた。

 

「て、めぇ……」

 

「ごめんなさいね」

 

「勝手に……」

 

「ええ」

 

「…………」

 

 トレシィが。

 

 ほんの少し。

 

 悲しそうに笑った。

 

「今回は、貴方に選ばせないわ」

 

「……何で……」

 

「貴方」

 

「…………」

 

「次に誰かを殺したら」

 

「…………」

 

 シュテーの目が。

 

 僅かに揺れた。

 

「自分を殺すでしょう?」

 

「…………!」

 

 ティオが。

 

 息を呑んだ。

 

 広重も。

 

 言葉を失った。

 

「…………違う」

 

「嘘」

 

「…………」

 

「だから駄目」

 

「トレシィ……」

 

「周りがどう思おうが」

 

 トレシィは。

 

 静かに。

 

 言った。

 

「私は貴方を生かすわ」

 

「…………」

 

 光が。

 

 シュテーを包む。

 

「やめ……」

 

「シュテー!」

 

「先生……」

 

 伸ばした手が。

 

 途中で。

 

 落ちた。

 

「…………」

 

 意識を失う。

 

 ティオが。

 

 その身体を受け止めた。

 

「シュテー!」

 

「大丈夫」

 

「何が大丈夫なんだよ!」

 

「眠っただけ」

 

「何を取った!?」

 

「…………」

 

 トレシィが。

 

 ティオを見る。

 

「この世界へ来てから」

 

「…………」

 

「この場所を」

 

 少し。

 

 間を置く。

 

「自分の居場所だと思えるようになるまでの記憶」

 

「…………」

 

 ティオの顔が。

 

 固まった。

 

「それって……」

 

「貴方を忘れたわけではない」

 

「…………」

 

「ゼウスも。広重も。ここがどこなのかも」

 

「じゃあ」

 

「でも」

 

「…………」

 

 トレシィが。

 

 眠るシュテーを見る。

 

「どうして貴方を信じるようになったのか」

 

「…………」

 

「どうして先生と呼ぶようになったのか」

 

「…………」

 

「どうしてここにいていいと思えたのか」

 

「…………」

 

 それらは。

 

 もう。

 

 シュテーの中にはない。

 

「……酷いよ」

 

「ええ」

 

「…………」

 

「そうね」

 

「トレシィ」

 

「でも」

 

 トレシィは。

 

 目を逸らさなかった。

 

「死ぬよりいいわ」

 

「…………」

 

 誰も。

 

 すぐには。

 

 何も言えなかった。

 

 ◇

 

 数時間後。

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 目を開けた。

 

「…………ん」

 

「シュテー!」

 

 真っ先に。

 

 ティオが覗き込む。

 

「…………」

 

 シュテーは。

 

 ぼんやり。

 

 その顔を見る。

 

「…………先生」

 

「…………!」

 

 ティオの顔が。

 

 一気に明るくなる。

 

「覚えてる!?」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 眉を寄せた。

 

「何を」

 

「俺!」

 

「先生だろ」

 

「…………うん」

 

「何だよ」

 

「じゃあ……大丈夫」

 

「…………?」

 

 ティオが。

 

 ほっと息を吐く。

 

「心配したんだから」

 

「…………」

 

 シュテーは。

 

 そんなティオを。

 

 しばらく見ていた。

 

「先生」

 

「何?」

 

「俺」

 

「うん」

 

「何で先生のこと先生って呼んでんだ?」

 

「…………」

 

 空気が。

 

 止まった。

 

「……え?」

 

「いや」

 

 シュテーが。

 

 自分でも分からないように。

 

 眉を寄せる。

 

「先生なのは分かるんだよ」

 

「…………」

 

「ティオ」

 

「…………」

 

「俺をここで引き取った奴」

 

「…………うん」

 

「それも分かる」

 

「…………」

 

「でも」

 

 シュテーが。

 

 周囲を見る。

 

 ゼウス。

 

 広重。

 

 先生。

 

「…………何だこれ」

 

「シュテー」

 

「俺」

 

 困ったように。

 

 笑った。

 

「何でこんなに、あんたらと仲良かったんだ?」

 

「…………」

 

 ティオが。

 

 何も言えなくなった。

 

「おい」

 

 ゼウスが声をかける。

 

「俺様は?」

 

「ゼウス」

 

「それだけ?」

 

「酒飲み」

 

「ぶっ飛ばすぞ!」

 

「違うのか?」

 

「合ってるけどよ!」

 

「…………」

 

 シュテーが。

 

 少し笑う。

 

 その笑い方は。

 

 変わっていない。

 

「ほら」

 

 ゼウスが。

 

 グラスを差し出した。

 

「飲め」

 

「起き抜けだぞ」

 

「飲めるだろ」

 

「…………」

 

 シュテーは。

 

 何故か。

 

 何の警戒もなく。

 

 それを受け取った。

 

 一口。

 

「…………薄い」

 

「…………」

 

「何だよ」

 

「いや」

 

「?」

 

「そこは残ってんのかと思って」

 

「何の話だ?」

 

「……何でもねえよ」

 

 習慣は。

 

 残っている。

 

 身体が覚えたものも。

 

 言葉も。

 

 呼び方も。

 

 けれど。

 

 そこへ至るまでの。

 

 思い出だけが。

 

 綺麗に。

 

 抜け落ちていた。

 

 ◇

 

「本当にこれでよかったの?」

 

 後で。

 

 広重がゼウスへ聞いた。

 

「よくはねえよ」

 

「…………」

 

「でも仕方ねえ」

 

「ゼウスがやっても?」

 

「ああ」

 

「同じ?」

 

「程度は違ったかもしれねえけどな」

 

「…………」

 

「何かは持っていかれた」

 

「そっか」

 

「だから」

 

 ゼウスが。

 

 離れた場所にいるトレシィを見る。

 

「少なくとも、あいつが意地悪で奪ったわけじゃねえ」

 

「…………」

 

「必要だったんだよ」

 

「…………」

 

 ティオは。

 

 まだ納得していなかった。

 

 当然だ。

 

 それでも。

 

「先生」

 

 シュテーに呼ばれるたび。

 

「何?」

 

 ちゃんと。

 

 返事をした。

 

 何故そう呼ぶようになったのか。

 

 シュテー自身が。

 

 もう覚えていなくても。

 

 ◇

 

「…………」

 

 帰り際。

 

 トレシィは。

 

 一度だけ。

 

 シュテーを振り返った。

 

 夢遊病は。

 

 これで止まる。

 

 少なくとも。

 

 今は。

 

「…………」

 

 けれど。

 

 治したわけではない。

 

 眠らせた。

 

 それだけ。

 

 本来。

 

 これが目覚めるのは。

 

 もっと先だった。

 

 まだ。

 

 早い。

 

 今のシュテーには。

 

 あまりにも。

 

 早すぎる。

 

「トレシィ?」

 

「何?」

 

「どうした」

 

 ゼウスだった。

 

「いいえ」

 

「…………」

 

「何でもないわ」

 

「本当に止まったんだろうな」

 

「ええ」

 

「ならいい」

 

「…………」

 

 トレシィは。

 

 微笑んだ。

 

「今はね」

 

「…………?」

 

 ゼウスが眉を寄せる。

 

 けれど。

 

 トレシィは。

 

 それ以上。

 

 何も言わなかった。

 

 まだ。

 

 誰も知らない。

 

 この異常が。

 

 いつか。

 

 星魅の巫女によって。

 

 本当の意味で目覚めさせられることを。

 

 そして。

 

 その頃には。

 

 今。

 

 シュテーを心配している者たちの中から。

 

 もう。

 

 一人。

 

 失われていることを。

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