レア・R・エルネアが生まれて。
数日が経った。
あの日。
エルサイア城を覆っていた大雨は、すっかり姿を消していた。
第二王女は健康。
母親であるクイントの体調も順調に回復している。
それだけなら。
何も問題はなかった。
――星魅の巫女が現れたことを除けば。
◇
「久しぶりですね」
エルサイア城の廊下を。
一台の車椅子が静かに進んでいく。
誰かが押しているわけではない。
キリナの手も。
車輪には触れていない。
周囲を漂う人工精霊が淡く瞬くたび。
まるで本人の意思を読み取っているかのように、車椅子が滑らかに進んでいく。
「…………」
久しぶりに訪れた城内を眺めながら。
キリナは一人。
目的の部屋へ向かっていた。
今回。
キリナがエルサイアへ来た理由は。
一つ。
星魅の巫女。
そして。
彼女が後継者と呼んだという。
クイントの第二子。
「レア・R・エルネア……ですか」
その名を。
小さく呟く。
「…………」
やがて。
目的の部屋が見えてきた。
――その時。
「キリナ!!」
「…………」
ものすごい勢いで。
小さな何かが飛び出してきた。
「キリナ! キリナきた!」
「こんにちは、リリー」
「きた!」
「ええ。来ましたよ」
「ママー! キリナきたー!」
「…………」
キリナの車椅子が。
すっと止まった。
「リリー」
「なあに?」
「今、何と?」
「キリナきた!」
「その前です」
「…………?」
分かっていない。
キリナは。
そのまま部屋の中を見る。
「…………」
クイントと。
目が合った。
「キリナ!」
「クイント」
「久しぶり!」
「お久しぶりです」
「来てくれたんだ」
「星魅の巫女が現れたと聞けば、さすがに」
「そっか」
「それより」
「?」
「クイント」
「なに?」
「リリーの王女教育は?」
「…………」
沈黙。
「…………」
「…………」
「…………これから?」
「何故疑問形なのですか」
「いや、だってまだ三歳だよ?」
「もう三歳ですよ」
「まだ三歳!」
「もう三歳です」
「キリナ厳しい!」
「貴女が甘いのでは?」
「そんなことないよ!」
「ママ!」
「ほら」
「これは今から直すの!」
「今決めましたね?」
「…………」
「クイント?」
「……はい」
◇
「では」
「…………」
何故か。
キリナが来て十分もしないうちに。
リリーは。
椅子へ座らされていた。
「なにするの?」
「お勉強です」
「やだ」
「即答ですね」
「リリーおべんきょうしない」
「では、王女様をやめます?」
「やだ!」
「でしたらお勉強しましょう」
「…………」
リリーが。
ものすごく難しい顔をする。
「ずるい」
「ありがとうございます」
「ほめてない!」
「知っていますよ」
少し離れたところで。
クイントが笑っていた。
「キリナ、リリーの扱いうまいね」
「クイントも覚えてください」
「私!?」
「母親でしょう」
「そうだけど……」
「それに」
「?」
「国王です」
「…………はい」
「返事だけはいいですね」
「キリナが怖い」
「聞こえていますよ」
◇
「まずは」
キリナが。
リリーを見る。
「呼び方からにしましょう」
「よびかた?」
「はい」
「ママ!」
「それです」
「?」
「クイントは、リリーのお母様ですね」
「うん!」
「ですが同時に国王でもあります」
「…………」
「ですから、人がいる場所では少しずつ呼び方を変えましょう」
「なんて?」
「お母様」
「おかあさま」
「そうです」
「…………」
リリーが。
クイントを見る。
「おかあさま!」
「…………!」
クイントの顔が。
ぱっと明るくなった。
「リリー!」
「はい、クイント」
「だって!」
「分かっています」
「もう一回言って!」
「おかあさま!」
「かわいい!」
「クイント」
「何!?」
「教育中です」
「ごめんなさい……」
続いて。
コウヤ。
「では、お父様」
「おとうさま」
「そう」
「…………」
コウヤを見る。
「おとうさま!」
「おう」
「パパ!」
「もう戻ったぞ」
「ふふっ」
「笑うなよクイント!」
「だって早いんだもん」
「三歳なんだから仕方ねぇだろ」
「私もそう言った!」
「親二人で甘やかさないでください」
「「はい」」
◇
「では」
キリナが。
今度はギルを見る。
「祖父については――」
「おじいちゃん!」
「…………」
ギルが。
普通に返事をした。
「何だ」
「おじいちゃん!」
「ああ」
「…………」
キリナが。
ギルを見る。
「いいのですか?」
「構わん」
「一応、聖騎士で――」
「身内でまで聖騎士様などと呼ばれてたまるか」
「…………なるほど」
「おじいちゃん!」
「何だ」
「よんだだけ!」
「そうか」
「…………」
キリナが。
小さく息を吐いた。
「では、そこはそのままにしましょう」
「やった!」
「ただし、公の場ではまた別ですよ」
「こうのば?」
「それは後で覚えましょう」
「うん!」
「じゃあライベルト!」
「…………」
全員が。
ライベルトを見る。
「何で私見るんだよ」
「ライベルト!」
「何」
「…………」
キリナが。
考える。
「本来なら、ライベルトにも――」
「いいよ」
「まだ何も言っていません」
「呼び捨てでいい」
「しかし」
「今更だろ」
「…………」
「リリー」
「なあに?」
「好きに呼べ」
「ライベルト!」
「はいはい」
「ライベルト!」
「聞こえてるって」
「ライベルトー!」
「何回呼ぶんだよ」
「ふふっ」
クイントが。
笑う。
「諦めよ、キリナ」
「……そうですね」
「諦めるの早くね?」
「本人に直す意思がありませんから」
「賢いな」
「褒めていません」
「そうかよ」
◇
「ところで」
「?」
リリーが。
今度はキリナを見る。
「キリナ」
「はい」
「なんでひとりでうごくの?」
「…………」
リリーの視線は。
キリナではなく。
その下。
車椅子へ向いていた。
「これ?」
「うん!」
「人工精霊ですよ」
「じんこうせいれい?」
「そうです」
「キリナうごかしてないよ?」
「手では動かしていません」
「じゃあどうやって?」
「人工精霊に手伝ってもらっています」
「…………」
リリーが。
目を輝かせる。
「みたい!」
「もう見ているでしょう?」
「うごいて!」
「…………」
キリナが。
少しだけ笑う。
次の瞬間。
ふわり。
車椅子の周囲に。
人工精霊の光が集まった。
「わあ……!」
誰も触れていないのに。
車椅子が。
すーっ。
前へ進む。
「すごい!」
「そうですか?」
「もういっかい!」
「一度だけです」
「くるってして!」
「…………」
キリナが。
小さく息を吐く。
くるり。
その場で。
車椅子が綺麗に方向転換した。
「わあああ!!」
「キリナ」
クイントが笑う。
「普通にやってあげるんだ」
「これくらいなら」
「キリナせんせい!」
「…………」
キリナが。
止まった。
「今」
「キリナせんせい!」
「…………」
「だめ?」
「いいえ」
「じゃあキリナせんせい!」
「はい」
「もういっかい!」
「それは駄目です」
「なんでー!」
「一度だけと言ったでしょう?」
「…………」
リリーが。
車椅子を見る。
そして。
何か。
思いついた。
「キリナせんせい」
「何です?」
「リリーものりたい!」
「…………」
キリナが。
リリーを見る。
「乗りたいのですか?」
「うん!」
「…………」
「のっていい?」
「危ないですよ」
「おちない!」
「そういう子ほど落ちるのですが」
「おちないもん!」
「…………」
じーっ。
「…………」
「キリナせんせい」
「…………」
「ちょっとだけ!」
「…………」
キリナが。
根負けした。
「少しだけですよ」
「やったー!!」
「ちょっとキリナ!?」
「クイント」
「危なくない!?」
「ゆっくり動かします」
「でも――」
「おかあさま!」
「…………!」
クイントが。
止まった。
「今、お母様って」
「リリーのる!」
「うん! 乗っておいで!」
「クイント、単純ですね」
「だってお母様って呼んだ!」
「教育の成果ですね」
「まだ十分くらいだよ!?」
「優秀なのでしょう」
「リリーゆうしゅう!」
「自分で言うのですね」
◇
キリナの膝へ。
リリーが。
ちょこん。
と座った。
「いいですか?」
「うん!」
「動かない」
「はい!」
「身体を乗り出さない」
「はい!」
「私の言うことを聞く」
「はい!」
「……普段のお勉強でもそのくらい良い返事をしてください」
「しゅっぱーつ!」
「聞いていますか?」
「しゅっぱーつ!」
「…………」
キリナが。
諦めた。
人工精霊が。
ふわり。
淡く光る。
車椅子が。
ゆっくり。
動き出した。
「わあ……!」
リリーが。
目を輝かせる。
「うごいた!」
「動きましたね」
「もっとはやく!」
「駄目です」
「ちょっと!」
「駄目です」
「ちょっとだけ!」
「…………」
「キリナせんせい!」
「…………少しだけですよ」
「やった!」
人工精霊の光が。
少しだけ。
強くなる。
車椅子の速度が。
ほんの少し上がった。
「わああああ!」
「リリー、動かない」
「はやい!」
「これで速いのですか?」
「はやい!」
「そうですか」
「もういっかい!」
「一周だけです」
「にしゅう!」
「一周」
「さんしゅう!」
「増やさないでください」
「じゃあにしゅう!」
「交渉になっていません」
「キリナせんせーい!」
「…………」
キリナが。
僅かに笑う。
「二周だけですよ」
「やったー!」
「キリナ、甘くない!?」
後ろから。
クイントの声。
「何のことでしょう」
「二周になった!」
「教育の一環です」
「絶対今考えたでしょ!」
「人工精霊について学ぶ良い機会です」
「後付けだよね!?」
「おかあさま!」
「なに!?」
「リリーいってくる!」
「行ってらっしゃい!」
「クイントも甘いじゃないですか」
「…………」
「…………」
「気をつけてねー!」
「誤魔化しましたね」
「キリナせんせい、はやく!」
「はいはい」
◇
しばらくして。
本来の目的へ。
話は戻った。
「…………」
キリナの前には。
眠っている。
レア。
「青い髪」
「うん」
「赤い瞳」
「…………」
先ほどまで。
リリーと遊んでいた時とは。
キリナの顔が。
少し違う。
「ライベルト」
「何」
「検査結果を」
「健康だよ」
「それ以外は?」
「…………」
ライベルトが。
レアを見る。
「星魅の巫女由来の形質が出てる」
「やはり」
「クイントに昔組み込まれたものが、この子に遺伝したと考えるのが一番自然だ」
「…………」
クイントが。
レアを抱く。
「じゃあ」
「何?」
「やっぱりパヌトが言ってたことは」
「後継者?」
「うん」
「……多分な」
「…………」
キリナが。
静かに口を開いた。
「ですが」
「?」
「それだけです」
「…………」
「この子が星魅の巫女の形質を持っていることと」
レアを見る。
「この子自身が星魅の巫女であることは、同じではありません」
「…………」
「今はただ」
「…………」
キリナが。
少し笑った。
「クイントの娘でしょう?」
「…………うん」
その時。
「レアー!」
「リリー、走らない!」
「!」
キリナの一声で。
ぴたり。
止まる。
「…………」
そこから。
そろーり。
そろーり。
歩いてくる。
「これならいい?」
「ええ」
「レア!」
「静かに」
「……レア」
「よくできました」
「えへへ」
リリーが。
妹を見る。
「キリナせんせい」
「何です?」
「レアもおべんきょうする?」
「大きくなったら」
「リリーがおしえる!」
「…………」
キリナが。
少し考える。
「まずリリーが覚えてください」
「できる!」
「では明日から増やしましょう」
「…………」
リリーが。
固まった。
「なにを?」
「挨拶」
「…………」
「食事作法」
「…………」
「座り方」
「…………」
「言葉遣い」
「…………」
じわじわ。
リリーの顔が。
絶望していく。
「キリナせんせい」
「はい」
「くるまいすのる」
「お勉強から逃げない」
「のる!」
「駄目です」
「なんでー!!」
城に。
リリーの声が。
響く。
「ふふっ」
クイントが。
笑った。
星魅の巫女が。
何を考えているのか。
レアが。
これから何者になるのか。
まだ。
分からない。
けれど。
今は。
第二王女が生まれ。
第一王女には。
少し厳しく。
時々甘い。
新しい先生ができた。
それだけで。
十分だった。