レア・R・エルネアが生まれてから。
数か月。
エルサイア城での生活は。
すっかり四人家族のものになっていた。
「レアー」
「…………」
「レアー?」
「…………」
「おねえちゃんだよー」
「…………」
返事はない。
当然だった。
「おかあさま」
「なに?」
「レア、しゃべらない」
「まだ赤ちゃんだからね」
「いつしゃべる?」
「もうちょっと大きくなったらかな」
「きょう?」
「今日は無理かなぁ」
「じゃああした?」
「明日も無理かなぁ」
「…………」
リリーが。
難しい顔で。
妹を見る。
「レア」
「…………」
「あしたしゃべってね」
「無茶言うなよ」
コウヤが笑う。
「おとうさま」
「お」
「レア、あしたしゃべる」
「そうか」
「うん」
「楽しみだな」
「うん!」
「コウヤまで適当なこと教えないでよ」
「いいだろ。本人が信じてんだから」
「明日絶対『しゃべらない!』って怒るよ?」
「その時考える」
「駄目なお父さんだ」
「お前に言われたくねぇ」
「何で!?」
「お前も大概甘いだろ」
「私はちゃんと――」
「おかあさま」
「なに?」
「おべんきょう、きょうおやすみ?」
「いいよ」
「クイント」
「…………」
背後。
車椅子に座ったキリナが。
にこやかに。
こちらを見ていた。
「…………」
「今」
「…………」
「何と?」
「…………今日はお休みでもいいんじゃないかなーって」
「昨日も聞きましたね」
「そうだっけ?」
「一昨日も」
「…………」
「三日前も」
「キリナ、記憶力いいね」
「ありがとうございます」
「褒めてない!」
「知っています」
◇
リリーの教育は。
少しずつ。
本当に少しずつ。
進んでいた。
「おとうさま」
「はい」
「おかあさま」
「はい!」
「おじいちゃん」
「ああ」
「ライベルト」
「おう」
「キリナせんせい!」
「はい」
そして。
「ミカエル!」
「…………」
キリナが。
止まった。
「リリー」
「なあに?」
「ミカエル様です」
「…………」
リリーが。
ミカエルを見る。
「ミカエルさま」
「別にミカエルで構わない」
「駄目です」
「何故だ」
「貴方は身内ではないでしょう」
「…………」
「ライベルトは?」
ミカエルが聞く。
「…………」
キリナが。
ライベルトを見る。
「こっち見るなよ」
「何故ライベルトだけ呼び捨てなのだ」
「本人が許可したからです」
「なら私も許可する」
「…………」
「ミカエル!」
「リリー」
「…………ミカエルさま!」
「何故だ」
「王女教育です」
「納得できん」
「諦めろ」
ライベルトが笑った。
「お前だけ『様』だ」
「お前が言うと腹が立つな」
「知らん」
「…………」
そんな。
どうでもいい会話をしている間。
「…………」
ミカエルの腕には。
レアがいた。
◇
「それにしても」
クイントが。
不思議そうに。
二人を見る。
「何だ」
「レア、ミカエルが抱っこすると静かだよね」
「元から大人しいだろう」
「そうだけど」
「…………」
確かに。
レアは。
あまり手のかからない赤ん坊だった。
泣かないわけではない。
腹が減れば泣く。
眠ければぐずる。
嫌なら嫌だと。
ちゃんと訴える。
けれど。
不思議と。
ミカエルに抱かれると。
静かになる。
「…………」
赤い瞳が。
じっと。
ミカエルを見る。
「何だ」
「…………」
「私を見ても何もないぞ」
「赤ちゃんに何言ってんの?」
「ずっと見てくる」
「気になるんじゃない?」
「何が」
「髪とか?」
「…………」
青。
ミカエルの髪。
そして。
レアの髪も。
青。
「同じだね」
「偶然だ」
「分かってるよ」
「…………」
クイントが。
少し笑う。
「でも似てる」
「似ていない」
「髪だけ」
「それなら最初からそう言え」
「細かいなぁ」
レアが。
小さな手を。
伸ばした。
「…………?」
その指が。
ミカエルの髪を。
掴む。
「…………」
「あ」
「…………」
「掴んだ」
「見れば分かる」
「かわいい」
「取ってくれ」
「嫌」
「クイント」
「レアが自分で離すまで待って」
「何故」
「かわいいから」
「理由になっていない」
「なるよ」
「ならない」
ぐい。
「…………」
ミカエルの頭が。
少し傾く。
「痛い」
「ふふっ」
「笑うな」
「ごめんごめん」
「クイント」
「レア、離そうね」
「…………」
小さな手を。
そっと開かせる。
「はい」
「…………」
「助かった」
「ミカエル」
「何だ」
「顔ちょっと怖かった」
「痛かったんだ」
「赤ちゃん相手に怒らないでよ」
「怒っていない」
「…………」
レアは。
そんな二人を気にすることもなく。
また。
ミカエルを見る。
「…………」
赤い瞳。
青い瞳。
「…………何だ」
「気に入られたな」
ライベルトが言った。
「そう見えるか?」
「少なくとも嫌われちゃいない」
「…………」
ミカエルが。
レアを見る。
「そうか」
「…………」
それだけ。
だった。
◇
「ミカエルさま!」
「何だ」
「レアかえして!」
「返す?」
「リリーのいもうと!」
「知っている」
「だっこする!」
「できるのか?」
「できる!」
「できません」
キリナだった。
「できる!」
「座って、大人に支えてもらってください」
「できるもん!」
「レアを落としたら?」
「…………」
リリーが。
固まった。
「…………やだ」
「でしょう?」
「…………」
素直に。
椅子へ座る。
「おかあさま」
「はいはい」
「てつだって」
「もちろん」
クイントが。
リリーの隣へ座る。
ミカエルから。
レアを受け取って。
慎重に。
リリーの腕へ。
「ここ支えて」
「うん」
「頭もね」
「うん」
「そうそう」
「…………」
リリーが。
緊張した顔で。
妹を抱く。
「…………」
「どう?」
「…………おもい」
「大きくなったからね」
「でも」
「?」
「かわいい」
「でしょ?」
「うん!」
レアが。
姉を見る。
「レア」
「…………」
「おねえちゃんだよ」
「…………」
「リリーだよ」
「…………」
小さな手が。
今度は。
リリーの服を掴んだ。
「…………!」
茶色の髪を揺らして。
リリーが勢いよく顔を上げる。
「おかあさま!」
「うん」
「レア、リリーもにぎった!」
「よかったね」
「ミカエルさまだけじゃない!」
「何故張り合っている」
「リリーのいもうとだから!」
「私は別に奪わない」
「ほんと?」
「当然だ」
「…………」
じーっ。
「何だ」
「ほんと?」
「本当だ」
「じゃあいい!」
「何なんだ……」
◇
夕方。
レアは。
眠っていた。
リリーも。
遊び疲れて。
その隣で眠っている。
「…………」
青い髪の妹。
茶色い髪の姉。
二人の娘。
「平和ですね」
キリナが言った。
「そうだね」
クイントが答える。
「ずっとこうならいいのにね」
「…………」
キリナは。
すぐには。
答えなかった。
「キリナ?」
「そうですね」
「何、その間」
「何でもありませんよ」
「怪しい」
「考えすぎです」
「…………」
クイントが。
キリナを見る。
「ねえ」
「はい」
「レア、大丈夫だよね」
「…………」
「パヌトが言ってたこと」
「後継者、ですか」
「うん」
「…………」
キリナが。
眠る赤子を見る。
「未来のことは分かりません」
「キリナが言うと変な感じ」
「ふふっ」
「予知できるでしょ」
「予知は万能ではありませんよ」
「…………」
「それに」
「?」
「未来が見えたからといって」
静かに。
キリナが言う。
「その人が、必ずその通りに生きなければならないわけではありません」
「…………」
「レアが何になるかは」
「…………」
「レアが決めることです」
「……うん」
◇
その頃。
城の外。
「まだ気になるのか」
「…………」
ライベルトの問いに。
ミカエルは。
空を見たまま答えなかった。
「パヌト」
「…………ああ」
「レアじゃなくて?」
「違う」
「…………」
「あの女が何を考えているのか分からん」
「私もだよ」
「…………」
しばらく。
沈黙。
「でもさ」
「何だ」
「レアに懐かれてんじゃん」
「それがどうした」
「別に」
「…………」
「赤ん坊に好かれるタイプには見えなかったから」
「喧嘩を売っているのか?」
「事実だろ」
「…………」
ライベルトが。
小さく笑った。
「大事にしてやれよ」
「何を」
「懐かれてるうちは」
「…………」
ミカエルが。
怪訝そうに。
ライベルトを見る。
「どういう意味だ」
「そのまんま」
「…………」
「子供なんて、すぐ大きくなるからな」
「…………」
ミカエルは。
もう一度。
空を見る。
「そうか」
「ああ」
この時。
二人は。
知らない。
あの小さな赤子が。
やがて。
剣を取ることを。
誰かに命じられたからではない。
星魅の巫女の後継者だからでもない。
自分自身の意思で。
戦うことを選ぶ。
そして。
いつの日か。
星魅の巫女を。
己のものとするために。
たった一人で。
その前へ立つ。
その理由の一つが。
「…………」
今。
何でもない顔で。
空を眺めている。
この男になることを。
まだ。
誰も知らなかった。