夜も更けた頃、コウヤはようやく自分たちの寝室へ戻ってきた。
今日の仕事はとっくに終わっていたはずなのだが、夕食を終えればリリーに捕まり、その後はレアに捕まり、二人を寝かせているうちにこんな時間になってしまった。
七歳と四歳。
少し前まで、どちらも抱き上げなければ何もできなかったような気がするのに、今では一人で城の中を歩き回り、それぞれにやりたいことまで持っている。
「おかえり」
「ただいま」
寝台の上で本を読んでいたクイントが顔を上げた。
コウヤは返事をしながら上着を脱ぎ、いつもの場所へ掛ける。そのまま寝台へ腰を下ろした途端、身体から一気に力が抜けた。
「疲れた……」
「お疲れ様。二人とも寝た?」
「寝た。レアはすぐだったけど、リリーがなかなか寝なくてさ」
「また?」
「『眠くない』って言いながら欠伸してんの。絶対眠いだろって言っても『眠くない』って」
「あの子、昔からそうだよね」
「誰に似たんだろうな」
「コウヤじゃない?」
「俺?」
「寝たくないって言ってたじゃん。昔」
「いつの話だよ」
「結婚したばっかりの頃」
「覚えてねえよ」
「私は覚えてる」
クイントは楽しそうに笑って、読みかけの本へ栞を挟んだ。
「それで? 結局どうやって寝かせたの?」
「父さんに剣術の話してもらった」
「ギルに?」
「うん。俺じゃ全然寝なかったのに、父さんが話し始めたら五分くらいで寝た」
「ふふっ」
「笑い事じゃないって。俺、一時間くらい頑張ったんだぞ?」
「負けたね」
「何に?」
「お父さんとして」
「父さん相手なら仕方ないだろ!」
不服そうに言いながらも、コウヤ自身、本気で悔しがっているわけではない。
ギルが孫娘たちを可愛がっていることは知っているし、娘たちもギルによく懐いている。特に最近は二人とも剣に興味を持つようになったから、余計に一緒にいる時間が増えた。
「レアも今日、父さんのところ行ってたよ」
「剣術?」
「うん。最近すごいぞ、あいつ。父さんに剣教えてもらって、ミカエルにも教えてもらって、キリナにはスフロン語だろ? 人工精霊使った移動まで練習してる」
「四歳なのにね」
「四歳なんだよなぁ……」
口に出してみると、改めておかしい。
コウヤはそのまま後ろへ倒れ込み、天井を見上げた。
「俺、四歳の時何してたんだろ」
「覚えてないの?」
「覚えてるわけないだろ」
「じゃあ普通だったんじゃない?」
「少なくとも高速移動の練習はしてない」
「それはそう」
「スフロン語もやってない」
「当たり前じゃん」
「剣術も……たぶんやってない」
「じゃあ全部負けてるね」
「なんで娘と張り合わなきゃいけないんだよ」
笑いながら返して、コウヤは寝台の上で身体をずらした。
クイントの隣まで来ると、ようやく一日が終わった気がした。
王として忙しくしているクイントと、こうして何も考えずに話せる時間は、娘たちが生まれてから随分と減った。それでも、なくなったわけではない。
「そういや、リリーの魔道具直した」
「壊したの?」
「そこからなんだよ」
コウヤは思わず笑った。
「本人は『壊してない、勝手に壊れた』って言い張ってたけどな。よくよく聞いたら、魔道具にスフロン語の術式流してた」
「何してるの、あの子」
「もっと光らせたかったらしい」
「なんで?」
「綺麗かなって」
「…………」
クイントが口元を押さえた。
「笑うなって。俺も聞いた時、同じ反応したけど」
「だって、リリーらしすぎる」
「まあな。で、中がちょっと焼けてたから作り直して直した」
「ちゃんと動いた?」
「動いた。俺じゃ起動できないから、最後はリリーにやらせたけど」
「ああ、そっか」
「作れて直せるのに、起動確認だけ本人にやらせるの毎回ちょっと納得いかないんだよな」
「仕方ないじゃん」
「分かってるけどさ。構造も分かるし、どこが壊れてるかも分かるし、錬成もできるのに、最後だけ『ちょっとこれ動かして』だぞ?」
「便利な修理屋さん」
「王の夫に向かって何てこと言うんだ」
「でも直してあげるんでしょ?」
「そりゃ直すよ」
「やっぱり修理屋さんじゃん」
「娘限定な」
そこまで言ってから、コウヤは少し考えた。
「……いや、父さんに頼まれても直すな」
「ミカエルは?」
「物による」
「ゼウス」
「面倒じゃなかったら」
「私」
「直す」
「即答」
「当たり前だろ」
「ふーん」
「なんだよ、その顔」
「別に」
クイントが少し嬉しそうにしている。
付き合い始めた頃から変わらない。こういう時に素直に喜べばいいのに、何でもないような顔をする。
コウヤは起き上がると、そんなクイントの頬を指で軽くつついた。
「なに?」
「いや、昔から変わらないなって」
「どこが?」
「そういうとこ」
「分かんない」
「分からなくていいよ」
「変なの」
今度はクイントが、コウヤの指を払いながら笑った。
しばらく他愛のない話をしているうちに、話題は昼間のことへ移っていった。
ラウル王国から提供されたアージェリカの技術資料。エレノアから説明を受けたソーサリーが、予想以上の速さでその構造を理解し始めていること。そして、その話を聞いたコウヤ自身も興味を持っていること。
「……でさ」
「うん」
「やっぱり俺も作れると思うんだよ」
「何を?」
「アージェリカ」
「まだ言ってるの?」
「だって資料見たら分かるんだって。全部じゃないぞ? 全部じゃないけど、錬金術で代用できるところ結構あるんだよ」
さっきまで寝転がっていた男が、急に元気になった。
クイントは露骨に呆れた顔をする。
「ソーサリーに任せたら?」
「それはそれ。俺もやってみたい」
「なんで?」
「面白そうだから」
「子供みたい」
「技術者にそれ言ったら怒られるぞ」
「コウヤ、技術者じゃないでしょ」
「錬金術できるもん」
「王族側でしょ」
「王じゃない」
「国王の夫」
「仕事はちゃんとやってる!」
「それは知ってるけど」
「だったらいいじゃん。仕事終わってから」
「趣味で機動兵器作るの?」
「言い方!」
「違うの?」
「……だいたい合ってる」
クイントが吹き出した。
「ほら!」
「いや、でもさ。面白いんだって」
コウヤは身体を起こすと、少し熱の入った口調で続けた。
「エルサイアにも機動兵器はあるし、科学技術だって別に珍しくない。でもラウルのアージェリカは、こっちと設計思想が全然違うんだよ。特にα型。八十メートル級を十五メートルまで縮小するんだぞ?」
「それは私も聞いた」
「どうやってんだよって思うだろ?」
「説明されたんじゃないの?」
「された。でも説明聞いたら今度は実物見たくなるだろ」
「ならエレノアに見せてもらえばいいじゃん」
「見たら作りたくなるだろ」
「なんでそうなるの?」
「なるだろ!」
「ならないよ!」
夫婦なのに、こういうところはまるで理解し合えない。
「ソーサリーは分かってくれたぞ」
「ソーサリーを基準にしないで。あの人は本当に作るから」
「だから一緒に作れば――」
「コウヤ」
「はい」
「あなた、アージェリカ作ってる暇ある?」
「…………」
「仕事して」
「してる」
「リリーの相手して」
「してる」
「レアの相手して」
「してる」
「私の相手は?」
「…………」
コウヤが止まった。
「ほら」
「いや待て。それは卑怯だろ」
「何が?」
「それ言われたら何も言えないじゃん」
「知らない」
「クイントさん?」
「なに?」
「もしかして寂しかった?」
「別に」
「ほら、それ」
「何」
「昔から変わらないところ」
「うるさい」
少しだけ拗ねたように、クイントが横を向く。
コウヤは笑いながら、その肩へ頭を乗せた。
「重い」
「我慢して」
「嫌」
「俺、今日娘二人の面倒見たんだけど」
「それとこれ関係ある?」
「じゃあご褒美」
「何の?」
「父親頑張ったご褒美」
「自分で言う?」
「言わないともらえないだろ」
「何が欲しいの?」
「このままでいい」
「…………」
それなら。
クイントも追い払わなかった。
少しだけ身体を寄せて、二人で同じ方向を見る。
寝室は静かだった。
城そのものも、昼間とはまるで違う。
朝になればまた国王と、その夫としての一日が始まる。リリーが走り回って、レアが何かを習いに行って、父さんやミカエルたちがいて。何かしら騒ぎが起きて、一日があっという間に終わる。
だから、こんな時間くらいは。
何者でもなくていい。
「クイント」
「ん?」
「俺さ」
「うん」
「結婚した頃、こんな生活になると思ってなかった」
「どんな?」
「子供二人いてさ。片方に『パパって呼ぶな、お父様って呼べ』って毎日注意して、もう片方に剣教えて」
「魔道具直して」
「そう。魔道具直して。父さんに娘の寝かしつけ負けて」
「ふふ」
「笑うなって」
「だって」
「それでお前は王様やってて、俺はアージェリカ作りたいって怒られてる」
「怒ってないよ」
「止めてるじゃん」
「止めないと本当に作るでしょ」
「作る」
「ほら」
また二人で笑った。
「でも」
コウヤが、ぽつりと言う。
「嫌じゃない」
「うん」
「むしろ、結構好き」
「結構?」
「かなり」
「どっち?」
「かなり好き」
「ならよし」
「何が?」
「なんでも」
クイントが、今度はコウヤの肩へ少しだけ頭を預けた。
昔よりも。
二人だけの時間は少なくなった。
けれど、その代わりに増えたものがたくさんある。
「ねえ」
「ん?」
「もう一人いたら、どうなると思う?」
「…………子供?」
「うん」
コウヤは少し考えた。
「騒がしくなる」
「それだけ?」
「俺の仕事が増える」
「私も増えるんだけど」
「父さんがもっと孫馬鹿になる」
「それは絶対」
「リリーがめちゃくちゃ構う」
「レアも意外と構いそう」
「分かる。リリーが抱っこしたがって、レアが横から『お姉様、危ないです』とか言う」
「言いそう」
「で、二人で喧嘩する」
「ありそう」
「俺が止める」
「私も止めるよ」
「お前は笑って見てそう」
「失礼だなぁ」
「絶対最初は見てる」
「ちょっとだけ」
「ほら!」
想像しただけなのに、妙にその光景が浮かんだ。
コウヤはしばらく笑っていたが、やがて少しだけ真面目な顔になる。
「……欲しい?」
「コウヤは?」
「俺は」
少し考えて。
「欲しいかな」
「そっか」
「でも、二人でもいい」
「うん」
「今で十分だし」
「うん」
「だから、絶対じゃない」
それは、コウヤなりにちゃんと考えて出した答えだった。
「お前が嫌なら、それでいいよ。リリーとレアがいるし」
「…………」
「ただ、もう一人増えたら、それも楽しそうだなって」
「そっか」
「うん」
クイントはすぐには答えなかった。
その沈黙を、コウヤも急かさない。
少ししてから、クイントが握っていた手に自分の指を絡めた。
「じゃあ」
「うん?」
「いつかね」
「…………」
「今すぐじゃないよ?」
「分かってる」
「ほんと?」
「ほんと」
「顔が嬉しそう」
「そりゃ嬉しいだろ」
「まだ何も決まってないからね」
「分かってるって」
「絶対分かってない」
「分かってる!」
言いながら。
やっぱり。
コウヤは嬉しそうだった。
「男の子と女の子、どっちがいい?」
「どっちでも」
「即答?」
「元気ならどっちでもいいよ」
「また女の子だったら?」
「それはそれで」
「女の子三人だよ?」
「…………」
「どうしたの?」
「俺、家で一番弱くならない?」
「もう弱いんじゃない?」
「おい!」
「リリーに甘いし」
「お前もだろ!」
「レアにも甘い」
「お前もだろ!」
「私にも甘い」
「…………」
「ほら」
「それは……」
「それは?」
「…………否定しない」
「ふふっ」
「だから笑うなって」
「じゃあ男の子だったら?」
「父さんが喜びそう」
「女の子でも喜ぶよ、ギルは」
「それもそうだな」
どちらでも。
本当に。
コウヤにとってはそれでよかった。
家族が一人増えるということを想像すると、性別より先に、今よりもっと騒がしくなった城の中が浮かんだ。
それが。
悪くない。
「……名前とか考える?」
「早い」
「まだ?」
「早すぎる」
「じゃあいつ?」
「本当にそうなってから」
「分かった」
「絶対?」
「分かったって」
「明日リリーに言ったりしないでよ?」
「言わないよ!」
「『妹か弟できるかも』とか」
「言わないって! あいつ絶対その日から毎日聞いてくるじゃん!」
「分かってるならいいけど」
「レアにも言わない」
「うん」
「父さんにも」
「うん」
「ミカエルにも」
「うん」
「二人だけ?」
「二人だけ」
「分かった」
それで。
話は終わった。
何かを決めたわけでもない。
約束をしたわけでもない。
ただ、いつか。
そんな未来もいいねと。
夫婦で話しただけだった。
「そろそろ寝る?」
「寝る」
「明日早いよ」
「分かってる」
「アージェリカの資料読まないでよ?」
「…………」
「コウヤ」
「読みません」
「今の間なに?」
「何も」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
灯りを落とす。
暗くなった部屋の中で、コウヤはクイントの手を探した。
すぐに見つかる。
「おやすみ」
「おやすみ」
握ったまま。
目を閉じる。
明日になれば。
またいつもの一日が始まる。
王として。
夫として。
父親として。
きっと忙しくて。
騒がしくて。
思い通りにならないことばかりで。
それでも。
今のコウヤは。
そんな毎日を。
案外、気に入っていた。