夕食を終えた後の城は、昼間とは違った静けさに包まれていた。
もちろん完全に静かなわけではない。廊下を歩けば夜番の兵士とすれ違うし、遅くまで仕事をしている者もいる。少し前まではリリーの声も聞こえていた。
けれど、七歳の娘もさすがに一日中走り回れば疲れるらしい。今頃は自室に戻っているはずだ。
レアも今日は朝から忙しかった。
午前中はキリナからスフロン語を習い、午後はギルと剣術の稽古。それが終わればミカエルのところへ行って、今度は無詠唱術について聞いていた。
四歳児の予定ではない気がする。
そんなことを考えながら、コウヤはギルの部屋で茶を飲んでいた。
何か用事があったわけではない。
仕事が早く片付いたから寄っただけだ。
こういう時間も、昔と比べれば随分減った。
コウヤ自身が家庭を持ったこともあるし、ギルにも仕事がある。毎日のように顔は合わせているのに、父と息子だけで何をするでもなく過ごす機会は、意外と少ない。
「父さん」
「なんだ?」
ギルは手元の資料から顔を上げなかった。
「俺ってさ」
「ああ」
「小さい頃、どんな子供だった?」
そこで。
ようやく。
ギルが顔を上げた。
「……急にどうした」
「いや、なんとなく」
「お前の『なんとなく』は昔から信用できん」
「なんでだよ」
「何かある時ほどそう言う」
「別に何もないって」
コウヤは苦笑して、椅子の背へ身体を預けた。
「今日、レアに剣教えてたんだよ」
「お前が?」
「ちょっとだけな。持ち替える時に手元見すぎてたから、それ直したくらい。あとは父さんに聞けって言っといた」
「そうか」
「リリーにも少し教えた」
「どうだった?」
「…………」
コウヤは一瞬だけ黙った。
「元気だった」
「そうか」
「なんだよ」
「何も言っていない」
「今絶対分かっただろ」
「何がだ」
「リリーがあんまり上手くなかったって」
「お前がそう言ったんだろう」
「言ってない。元気だったって言っただけ」
「なら、それでいい」
口元だけで、ギルが少し笑う。
「父さん、孫には甘いよな」
「お前も娘には甘いだろう」
「俺はちゃんと怒ってる」
「そうか?」
「怒ってるって。今日だってリリーに――」
そこまで言って。
コウヤは、今日の出来事を思い出した。
「……魔道具壊したから怒った」
「何をした?」
「スフロン語」
「…………」
「子供用の魔道具に術式流して、もっと光らせようとしたらしい」
「何故そんなことを」
「綺麗かなって」
「…………」
「その顔やめろよ。俺も聞いた時そうなったから」
ギルは何も言わなかった。
ただ、少し考えるように息子を見る。
「何」
「いや」
「なんだよ」
「お前も似たようなことをしていたと思ってな」
「俺が?」
「ああ」
「魔道具壊した?」
「それは知らん。お前は魔道具を使えんからな」
「だよな」
「だが錬金術を覚え始めた頃は、似たようなものだった」
「…………マジ?」
「興味を持ったものには、とにかく自分で触りたがった」
「それ普通じゃない?」
「止められてもやった」
「…………」
「説明を聞く前にもやった」
「…………」
「失敗してもやった」
「父さん」
「なんだ」
「俺、そんな面倒臭い子供だった?」
「そこまでは言っていない」
「今の説明で十分言ってるよ!」
思わず身を乗り出したコウヤに、ギルは肩を竦めるだけだった。
「でも俺、誰に錬金術教えてもらってたっけ。父さん?」
「俺も多少は教えたが」
「うん」
「主に教えていたのは俺じゃない」
「…………」
言われて。
記憶の奥にあるものが。
ほんの少しだけ浮かんだ。
「……ミカエル?」
「ああ」
「そうだったっけ」
「忘れたのか?」
「全部は覚えてないよ。何歳の頃だよ」
「六つか七つくらいだったか」
「リリーと同じくらいじゃん」
「そうだな」
七歳。
今のリリーを見る限り、その年頃の子供というものがどんなものかは嫌というほど分かる。
好奇心が先に走る。
できると思ったらやる。
失敗してから考える。
「……俺、リリーに怒れない気がしてきた」
「何故だ」
「同じことやってたんだろ?」
「だからこそ怒れるんじゃないのか」
「え?」
「自分が失敗したのなら、何が危険なのかも分かるだろう」
「…………」
「ただ禁止するだけではなく、何故駄目なのかを教えてやればいい」
「……父さん、たまにすごい父親っぽいこと言うよな」
「たまにとは何だ」
「いや、父さんなんだけど」
「お前は俺を何だと思っている」
「父さん」
「ならいい」
「いいんだ」
思わず笑ってしまう。
その時だった。
「何の話だ?」
背後から声がした。
「うわっ」
コウヤが振り返る。
扉のところに、ミカエルが立っていた。
「何故、私の顔を見て『うわ』と言う」
「急にいるからだよ!」
「今来たところだ」
「ノックしろよ」
「した」
「聞こえなかった」
「お前が騒いでいたからだ」
「俺のせい!?」
ミカエルは気にする様子もなく部屋へ入ってくると、ギルの向かいにある空席へ腰を下ろした。
「それで?」
「何が?」
「私の名前が聞こえた」
「聞こえてるじゃん」
「名前だけだ。何の話をしていた?」
「……俺の昔の話」
「昔?」
「小さい頃」
「…………」
ほんの一瞬。
ミカエルが黙った。
「その顔!」
「何だ」
「父さんもさっき同じ顔した!」
「私は何もしていない」
「絶対なんか思い出しただろ!」
「いくつか」
「いくつかあるの!?」
「かなりある」
「増えた!」
ギルが静かに茶を飲んでいる。
助けてくれる気はないらしい。
「俺、そんなに問題児だった?」
「問題児というほどではない」
「ほら!」
「話を聞かなかっただけだ」
「それ問題児寄りじゃん!」
「好奇心は強かった」
「それはいいことだろ」
「強すぎた」
「…………」
「一つ教えると、三つ先まで勝手に試した」
「…………」
「止めると、『できる』と言った」
「…………」
「失敗すると、『今のなし』と言った」
「…………」
「コウヤ」
「ちょっと待って」
「なんだ」
「なんか記憶戻ってきた」
「そうか」
「やめて。恥ずかしい」
「何故だ」
「子供の頃の話って恥ずかしいだろ!」
けれど。
思い出してしまった。
◇
まだ。
今よりずっと世界が大きく見えていた頃。
椅子に座れば足が床まで届かず、机の上に置かれた道具一つ一つが妙に大きく見えた。
『コウヤ』
『なに?』
『触るな』
『触ってない』
『今、触ろうとした』
『触ってないよ』
『手を戻せ』
『…………』
小さな手が。
渋々。
机の下へ引っ込む。
その目の前には、いくつかの金属片が並んでいた。
形も。
大きさも。
色も違う。
幼いコウヤには、それが何に使うものなのかさえ分からなかった。
『今日はこれを使う』
『剣作る?』
『作らない』
『なんで?』
『お前にはまだ早い』
『できるよ』
『できない』
『できる!』
『なら』
ミカエルが。
一つの金属片を持ち上げた。
『これは何だ』
『鉄』
『それだけか?』
『鉄だよ』
『何が含まれている』
『…………』
『答えろ』
『…………鉄』
『分からないんだろう』
『分かる』
『では答えろ』
『…………』
しばらく。
沈黙。
『ミカエル』
『なんだ』
『教えて』
『最初からそう言え』
『だって分かると思ったんだもん』
『思うことと、理解することは違う』
『難しい』
『だから教えている』
ミカエルは。
金属片を机へ戻した。
『錬金術は、何もないところから好きなものを作る術ではない』
『知ってる』
『最後まで聞け』
『はい』
『まず、そこに何があるのかを理解する』
指先で。
金属を示す。
『何で出来ている。どんな性質を持っている。何を残し、何を取り除く。形を変えれば、どこに負荷がかかる』
『…………』
『理解してから錬成する』
『全部?』
『全部だ』
『めんどくさい』
『ならやめるか』
『やる!』
『では覚えろ』
『はい』
しばらくは。
ちゃんと聞いていた。
少なくとも。
本人はそのつもりだった。
『ここが不純物だ』
『これ?』
『そうだ』
『取るの?』
『今回はな』
『取ったらできる?』
『まだだ』
『でも分かった』
『まだ錬成するな』
『できるよ』
『コウヤ』
『見てて!』
『待て』
小さな手が。
金属へ伸びる。
錬成。
光が走った。
次の瞬間。
ぱきん。
『…………』
出来上がったものは。
見事に。
真ん中から割れた。
『…………』
『…………』
沈黙。
『ミカエル』
『なんだ』
『今のなし』
『なしにはならない』
『もう一回』
『駄目だ』
『今度できる!』
『先ほどもそう言った』
『今度はほんと!』
『駄目だ』
『お願い!』
『駄目だ』
『一回だけ!』
『話を聞け』
『聞く!』
『本当か?』
『聞くから!』
『…………』
長い沈黙。
『一回だ』
『やった!』
『その代わり、最初から説明する』
『うん!』
『途中で触るな』
『うん!』
『勝手に錬成するな』
『うん!』
『返事だけはいいな』
『早くやろ!』
『…………』
『ミカエル?』
『ギル』
少し離れたところで見ていたギルへ。
ミカエルが顔を向けた。
『何だ』
『返していいか』
『駄目だ』
『父さん!?』
『自分でミカエルに教わると言ったんだろう』
『言ったけど!』
『最後までやりなさい』
『…………はい』
◇
「…………」
現在。
コウヤは両手で顔を覆っていた。
「思い出した」
「そうか」
「なんで父さんあの時助けてくれなかったんだよ」
「お前が自分で言い出したからだ」
「子供だぞ!?」
「だからこそだ」
「厳しくない!?」
「途中で投げ出す癖をつけるよりいい」
「…………」
反論できない。
「でも」
コウヤは手を下ろして、ミカエルを見る。
「よく教えてたな、お前」
「何がだ」
「俺、めちゃくちゃ面倒じゃん」
「面倒だった」
「そこは否定しろよ!」
「何度かギルに返そうとした」
「さっき思い出したよ!」
「だが、次の日になるとまた来た」
「俺が?」
「ああ」
「自分から?」
「朝から」
「…………」
「『昨日の続き』と言ってな」
「…………」
それは。
何となく。
覚えている。
失敗したことよりも。
できなかったことよりも。
昨日より少しだけ分かるようになることが。
楽しかった。
『ミカエル!』
『走るな』
『昨日のやつ!』
『まず挨拶をしろ』
『おはよう! 昨日の続き!』
『…………』
『今日はできるから!』
『昨日も聞いた』
『今日はほんと!』
毎日のように。
そんなことを言っていた気がする。
「俺、お前のこと好きだったんだな」
「何だ、急に」
「いや。錬金術だけだったら、別の奴に教えてもらってもよかっただろ?」
「…………」
「それでも毎日ミカエルのとこ行ってたんだろ?」
「そうだな」
「父さん」
「なんだ」
「俺、そんなにミカエルに懐いてた?」
「かなりな」
「かなり!?」
「ミカエルがいないと探しに来た」
「嘘だろ」
「本当だ」
「どこに行ったって?」
「ああ」
「…………」
「見つけると、そのままついていった」
「…………」
「仕事中でも」
「父さんもういい」
「そうか」
「恥ずかしくなってきた」
ミカエルは。
そんなコウヤを見ながら。
昔を思い出すように言った。
「質問が多かった」
「俺?」
「ああ」
「どんな?」
「『これは何』『何故こうなる』『自分でもできるか』」
「…………」
「大抵その三つだった」
「今も変わらんな」
ギルが言う。
「父さん?」
「アージェリカ」
「…………」
「エレノアにも似たようなことを聞いていただろう」
「なんで知ってんの」
「ソーサリーから聞いた」
「あいつ何でも喋るな!?」
「違うのか?」
「違わないけど!」
否定できない。
アージェリカの構造を見た時もそうだった。
これは何だ。
どうやって動いている。
何故この機構が必要なのか。
エルサイアの技術で代用できるのか。
自分でも作れるか。
気になった。
知りたかった。
できるなら。
自分でも触ってみたかった。
「……変わってないじゃん、俺」
「そう言っただろう」
「ミカエル、もっと早く教えてくれよ」
「聞かれなかった」
「確かに」
コウヤは苦笑した。
そして。
少ししてから。
「じゃあ」
ふと。
思う。
「俺が今、錬金術できるのって」
「?」
「結構、お前のおかげなんだな」
「…………」
ミカエルが。
少しだけ黙った。
「何だよ」
「いや」
「そこで黙るなよ」
「教えたのは私だけではない」
「それは分かってる。父さんにも教えてもらったし、他にも色んな奴から習ったし」
「ああ」
「でも」
コウヤは。
自分の手を見る。
今日。
リリーが壊した魔道具を。
この手で直した。
自分では起動することすらできない魔道具。
それでも構造を理解して。
壊れた箇所を探して。
必要なものを錬成して。
娘へ返した。
「最初にちゃんと教えてくれたの、お前だったんだろ?」
「ああ」
「じゃあ、お前のおかげでもあるじゃん」
「…………」
「ありがとな」
「…………」
「何」
「珍しいと思ってな」
「何が?」
「お前が素直に礼を言うのが」
「言うわ!」
「そうだったか?」
「父さん!」
「俺に聞くな」
「なんだよ二人とも!」
コウヤは笑った。
ミカエルも。
ほんの僅かに。
口元を緩める。
「でも」
ミカエルが言った。
「教えてよかったとは思っている」
「…………」
「お前は失敗が多かった」
「そこ要る?」
「話を最後まで聞かなかった」
「それも要る?」
「勝手に試した」
「もういいって!」
「だが」
そこで。
ミカエルは言葉を切った。
「覚えるのは早かった」
「…………」
「一度、自分で理解したことは忘れなかった。失敗したことも、次には直そうとした」
「…………」
「だから教えていた」
「そっか」
「ああ」
それだけだった。
けれど。
コウヤには十分だった。
「じゃあさ」
「なんだ」
「今度も教えてよ」
「何を」
「アージェリカ」
「エレノアに聞け」
「そこをなんとか!」
「専門外だ」
「錬成部分だけ!」
「ソーサリーがいる」
「昔の先生にも教えてほしいんだよ」
「…………」
「な?」
「…………仕方ないな」
「やった!」
「ただし」
「何?」
「昔と同じだ」
「…………嫌な予感する」
「説明は最後まで聞け」
「聞くよ!」
「勝手に錬成するな」
「しない!」
「材料を無駄にするな」
「もう子供じゃないんだけど!」
「失敗した時に『今のなし』と言うな」
「それはもう忘れろ!!」
ギルが。
とうとう声を出して笑った。
「父さんまで笑うなよ!」
「いや、すまん」
「絶対すまんと思ってないだろ!」
「懐かしくてな」
「俺だけ恥ずかしいじゃん!」
文句を言いながらも。
コウヤ自身。
笑っていた。
父親になった。
夫になった。
昔とは比べものにならないくらい、背負うものも増えた。
娘に物を教える立場になって。
駄目なものは駄目だと叱るようにもなった。
けれど。
父さんの前では。
今でも息子で。
ミカエルの前では。
今でも少しくらい。
昔の弟子でいられる。
「父さんも来る?」
「どこへだ」
「アージェリカ作る時」
「俺は錬金術師ではないぞ」
「見てればいいじゃん」
「何故」
「なんとなく」
「またそれか」
「いいだろ」
コウヤが。
笑う。
「昔みたいでさ」
その言葉に。
ギルは。
少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
「だろ?」
「邪魔にならないならな」
「ならないって」
「私はまだ作るとは言っていない」
「ミカエル!」
「錬成部分を教えると言っただけだ」
「同じようなもんじゃん!」
「違う」
「いいじゃん、三人でやろうぜ」
「お前は昔から勝手に話を進めるな」
「じゃあ四人! ソーサリーも!」
「増やすな」
「エレノアも必要だな」
「コウヤ」
「何?」
「まず」
ミカエルが。
昔と。
全く同じ顔をして。
言った。
「話を最後まで聞け」
「…………」
コウヤが黙る。
ギルを見る。
助けはない。
「……はい」
「よろしい」
「…………」
数秒。
「やっぱ昔と同じじゃん!」
今度は。
三人の笑い声が。
静かな夜の部屋に響いた。