ラウル王国に紫の雨が降り始めてから、一か月が経った。
最初の数日は、まだ誰も「国が滅びる」とまでは思っていなかった。
猛毒。
確かにそれだけでも十分すぎるほど危険だったが、ラウル王国には対抗するだけの科学技術があった。防護装備を作り、汚染された水源を切り離し、都市ごとに避難区域を作る。紫の雨そのものを防げないなら、雨が人へ届かない環境を作ればいい。
そして、雨とともに現れた敵にも。
ラウルは抗った。
獅子座。
人の姿を残しながら、巨大な獅子の力を持つ獣人。
蠍座。
都市の建造物すら踏み潰すほどの、巨大な蠍型の怪物。
他にも、紫の雨とともに現れた無数の敵。
ラウル王国軍は、そのすべてと戦った。
アイザック王が指揮を執り。
ルーク王子が前線へ立ち。
ギルバート・アタンチェルトをはじめとする親衛隊も、最後まで王家の側から退かなかった。
戦争中の映像は、隠されなかった。
むしろ隠せなかった。
地球。
ストリジア。
複数世界へ繋がる通信網を通じて、戦場の様子は絶えず流れていた。
数十機のアージェリカが蠍座へ集中砲火を浴びせる映像。
雨に打たれながら獅子座と切り結ぶ兵士。
紫色に染まった大地。
防護装備を着た民間人を地下へ誘導する軍人たち。
一つの都市を守るため、別の都市から戦力を送る。
そこが破られれば、さらに後方へ。
一日。
二日。
十日。
二十日。
それでも。
ラウル王国は残っていた。
だから。
まだ、勝てるのかもしれないと。
誰もが思った。
◇
「…………」
エルサイア城。
クイントは、窓の外を見ていた。
こちらの空は青い。
紫ではない。
雨すら降っていない。
それなのに最近は、晴れた空を見るたびに胸がざわついた。
「クイント」
「……うん?」
呼ばれて振り返る。
コウヤだった。
「大丈夫?」
「何が?」
「顔色」
「そんな悪い?」
「ちょっと」
「……寝不足かな」
「最近ずっとじゃん」
「うん」
実際。
ここ何日か、妙に身体が重かった。
食欲がないわけではない。
病気らしい症状もない。
ただ、眠い。
少し気持ち悪い時もある。
「ライベルト呼ぶ?」
「そこまでじゃ――」
言いかけて。
クイントが口元を押さえた。
「…………」
「クイント?」
「……ちょっと待って」
「え?」
「…………」
「まさか」
「分かんない」
「いやでも」
「分かんないって!」
自分でも。
ある可能性が頭をよぎった。
リリーの時。
レアの時。
似たような感覚が、なかったわけではない。
「…………」
「…………」
二人で顔を見合わせる。
「呼ぶ?」
「…………呼んで」
「分かった」
コウヤが、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「まだ決まってないからね」
「分かってるって」
「顔」
「何?」
「もう決まったみたいな顔してる」
「してない!」
「してる!」
「してないって!」
少し前まで。
二人で話したばかりだった。
もう一人くらい。
家族が増えてもいいかもしれない、と。
もし本当にそうなら。
リリーはどんな顔をするだろう。
レアは。
父さんは。
「…………」
クイントも。
少しだけ笑った。
その時だった。
城中の通信魔道具が、一斉に鳴った。
◇
『――緊急通信。ラウル王国戦域より、全世界共通通信』
その声だけで。
空気が変わった。
「…………」
コウヤの顔から笑みが消える。
クイントも。
すぐに国王へ戻った。
『神精霊ジンの反応消失を確認』
「…………え?」
クイントが。
思わず声を漏らした。
『再観測を実施。結果変わらず。神精霊ジン――消滅と判断』
「…………」
ラウル王国。
その国と深く結びついた存在。
神精霊ジン。
それが。
消えた。
『現在、ラウル王国全域において紫色の汚染を確認。主要都市との通信は――』
ノイズ。
『――大半が途絶』
「……嘘」
クイントが。
立ち上がる。
「ルークは?」
『王都との通信――』
「ルークは!?」
「クイント!」
『…………アイザック王陛下』
通信の向こう。
僅かな沈黙。
『死亡を確認』
「…………」
『親衛隊隊長ギルバート・アタンチェルト』
「…………」
『死亡』
「…………」
『ルーク王子』
クイントが。
息を止める。
『――死亡を確認しました』
◇
「…………」
エレノアは。
その報告を。
エルサイアの技術開発区画で聞いていた。
手には。
アージェリカの設計資料。
つい先ほどまで、ソーサリーと話していた。
この部品なら。
エルサイアでも作れる。
ここはラウル式のまま残した方がいい。
次は制御系を――。
そんな。
いつもの話。
『ギルバート・アタンチェルト――死亡』
「…………」
紙が。
手から落ちた。
「エレノア?」
ソーサリーが。
顔を上げる。
「…………」
「エレノア」
「今……」
声が。
上手く出ない。
「父の……」
「…………」
「名前……」
聞き間違いではない。
通信は。
続いている。
死亡。
死亡。
また。
死亡。
「…………」
膝から。
力が抜けた。
「エレノア!」
ソーサリーが支えるより早く。
エレノアは床へ崩れ落ちた。
「…………父さん」
初めて。
エルサイアへ来てから。
誰も聞いたことのない呼び方だった。
「父さん……」
親衛隊隊長。
ギルバート・アタンチェルト。
他人へ紹介する時は、いつもそう言った。
父は親衛隊です。
私は技術者です。
まるで正反対で。
似ていないと。
何度も言われた。
本人にも言われた。
『お前は俺には似なかったな』
『悪かったですね』
『悪いとは言ってない』
『では何です?』
『好きなことをやれ』
それが。
最後に直接交わした言葉だったか。
思い出せない。
「…………っ」
涙が。
落ちる。
「帰れば……」
帰れば。
また会えると。
思っていた。
「技術提供が終わったら……」
報告するつもりだった。
エルサイアの技術者は思った以上に科学に詳しかった。
ソーサリーという錬金術師は、本当にアージェリカを作り始めそうだ。
第一王女は危なっかしい。
第二王女は四歳とは思えない。
話すことなんて。
いくらでもあった。
「…………っ、父さん……!」
ソーサリーは。
何も言わなかった。
ただ。
泣き崩れるエレノアの隣に座った。
◇
『――なお』
通信は。
まだ終わっていなかった。
『ルーク王子の最終戦闘記録が確認されています』
「…………」
クイントが。
顔を上げる。
「映像?」
『現在、戦時共有映像として配信されています』
画面が。
切り替わった。
◇
紫。
世界そのものが。
紫色だった。
雨。
毒。
崩壊した王都。
地面には。
既に動かなくなったアージェリカが何機も倒れている。
その中を。
一機だけ。
まだ動く機体があった。
『――出力、残り十八』
ノイズ混じりの音声。
『右腕部、応答なし』
ルークの声。
『推進系統――』
警告音。
『分かってる!』
それでも。
機体は進む。
正面。
雨の中。
一人の女が立っていた。
星魅の巫女。
パヌト。
『…………』
何かを。
彼女が言った。
音声までは。
拾えていない。
『うるせえよ』
ルークが。
笑った。
『こっちは一か月、お前の相手してんだ』
アージェリカが。
剣を構える。
『いい加減――』
推進器。
最後の出力。
『一発くらい!』
加速。
『殴らせろ!!』
紫の雨を。
切り裂いて。
機体が。
突っ込んだ。
「ルーク……」
クイントが。
画面を見つめる。
パヌトが。
初めて。
僅かに。
身構えた。
遅い。
アージェリカの一撃。
剣が。
振り抜かれる。
光。
爆発。
映像が激しく乱れた。
そして。
一瞬だけ。
映った。
パヌトの身体から。
血が。
飛んだ。
「…………!」
ルークの一撃が。
届いた。
倒せない。
それだけでは。
足りない。
けれど。
確かに。
一撃。
『…………は』
ルークの。
小さな笑い声。
『やっと……当たった』
そして。
映像が。
切れた。
◇
その映像は。
地球にも。
ストリジアにも。
流れた。
一か月。
ラウル王国が。
どれだけ戦ったのか。
世界中が見ていた。
だから。
最後も。
世界中が見た。
負けた。
ラウル王国は。
負けた。
神精霊ジンは消滅。
アイザック王死亡。
ルーク王子死亡。
ギルバート・アタンチェルト死亡。
国土の大半は。
猛毒の紫に染まった。
それでも。
最後の一瞬まで。
戦っていた。
「…………馬鹿」
クイントが。
ぽつりと。
言った。
「ルークの馬鹿……」
コウヤは。
何も言えなかった。
クイントの肩へ。
手を置く。
「嫌な予感がするって……」
「…………」
「言ってたくせに」
だから。
技術を渡した。
技術者を送った。
記録を。
設計図を。
ラウルにしかないものを。
エルサイアにも残した。
『俺の予感が外れたら、それが一番いい』
あの日。
ルークは。
そう笑っていた。
外れなかった。
「…………」
クイントが。
泣いた。
静かに。
声を押し殺して。
コウヤが。
抱き寄せる。
今は。
それしか。
できなかった。
◇
「……クイント」
どれくらい。
経ったのか。
ライベルトが。
部屋へ来た。
「…………」
「今じゃなくてもいい」
「…………ううん」
クイントが。
顔を上げる。
「診て」
「いいのか?」
「うん」
ラウル王国が。
滅んだ日。
友人の死を。
知った日。
本当なら。
後日にしても。
よかった。
それでも。
クイントは。
知りたかった。
ライベルトが。
診察する。
「…………」
しばらく。
誰も。
何も言わない。
「……クイント」
「うん」
「コウヤ」
「…………うん」
ライベルトが。
二人を見る。
「妊娠してる」
「…………」
クイントが。
瞬いた。
「…………ほんと?」
「ああ」
「…………」
コウヤも。
何も言えない。
少し前なら。
きっと。
真っ先に喜んでいた。
抱き締めて。
何度も確認して。
リリーとレアにはいつ言おうかと。
そんな話を。
すぐに始めていた。
でも。
今は。
「…………そっか」
クイントが。
自分の腹へ。
そっと。
手を置いた。
涙が。
まだ。
頬に残っている。
「いるんだ」
「ああ」
「…………」
悲しい。
嬉しい。
どちらか一つには。
できなかった。
今日。
大切な人たちが。
たくさん。
死んだ。
そして。
今日。
新しい命が。
ここにいると分かった。
「コウヤ」
「うん」
「…………」
クイントが。
手を伸ばす。
コウヤが。
握る。
「いるって」
「うん」
「…………俺たちの?」
「そうだよ」
「…………そっか」
コウヤが。
少しだけ。
笑った。
泣きそうな。
笑顔だった。
「そっか……」
それ以上は。
何も。
言わなかった。
今夜は。
喜ぶだけの日には。
できなかったから。
それでも。
二人は。
手を離さなかった。
外では。
ラウル王国の最後の映像が。
何度も。
世界中へ流れていた。
紫の雨の中。
最後まで戦った。
一人の王子が。
星魅の巫女へ。
確かに。
一撃を届かせた映像が。