ラウル王国が滅亡して、翌朝。
エルサイア王国の空は、腹が立つほど綺麗に晴れていた。
紫の雨は降っていない。
緑の雨も。
黄色の雨も。
窓を開ければ朝の風が入ってきて、城下ではいつも通り人々が一日を始めている。
店が開き。
子供たちが道を走り。
兵士が交代し。
工房からは、朝早くから金属を叩く音が聞こえてくる。
昨日。
一つの国が滅びたというのに。
世界は普通に朝を迎えた。
◇
「…………」
エレノア・アタンチェルトは、いつもと同じ時間に技術開発区画へ来ていた。
扉を開ける。
誰もいない。
まだ早い。
それも、いつも通りだった。
「……よし」
小さく呟いて。
灯りをつける。
作業台の上には、昨日までと何一つ変わらないものが置かれている。
アージェリカの設計資料。
エルサイアで製造した試作品。
分解した制御機構。
ソーサリーが錬金術による代替を試している部品。
コウヤが「これなら俺にも作れそう」と勝手に印を付けた図面。
「……また勝手に書き込んで」
赤い印。
その横に。
『ここの素材、スフロン水晶じゃ駄目?』
という文字。
「駄目です」
誰もいないのに。
エレノアは答えた。
「それだと制御系統に干渉しますから。何度説明したら――」
言葉が。
止まった。
「…………」
昨日と同じ。
いつもと同じ。
だから。
仕事をすればいい。
椅子へ座る。
資料を開く。
今日やるべきことは決まっている。
β型アージェリカの制御機構。
エルサイア側の技術で製造可能な部品と、ラウル王国独自の製法を必要とする部品の分類。
既に大部分は終わっている。
あと少し。
「…………」
ペンを取る。
書く。
一行。
二行。
昨日の続き。
できる。
仕事なら。
できる。
「エレノア?」
「…………」
後ろから声がした。
ソーサリーだった。
「おはようございます」
「……おはよう」
「少し早いですね」
「それはこっちの台詞なんだけど」
「そうですか?」
「そうだよ」
ソーサリーは。
少し困ったように。
エレノアを見る。
「エレノア」
「はい」
「今日は休んだ方がいい」
「何故です?」
「…………」
「作業が残っています」
「それは……」
「β型の制御系統、今日中に一度組んでしまいましょう。昨日話していた錬金術による部品代替も試したいです」
「…………」
「それからα型についてですが、縮小機構をそのまま再現するのは難しいので――」
「エレノア」
「はい」
「今日は」
「大丈夫です」
即答だった。
「…………」
「大丈夫ですから」
「……そう」
「はい」
ソーサリーは。
それ以上言わなかった。
ただ。
隣の作業台へ向かった。
「じゃあ」
「はい」
「昨日の続き、やろうか」
「お願いします」
いつも通り。
それでいい。
エレノアは。
そう思った。
◇
「この部分」
「はい」
「エルサイアの錬成技術で代替できると思う」
「材質は?」
「まだ試してる。これと、これ」
「…………」
「どう?」
「二つ目ですね」
「やっぱり?」
「一つ目では耐久性が足りません」
「じゃあ――」
エレノアが。
棚へ手を伸ばす。
「ラウルから持ってきた試作品があるので、それと比較を……」
箱を。
引き出す。
「…………」
止まった。
「エレノア?」
「…………」
木箱。
何の変哲もない。
少し古い。
角に。
傷がある。
「…………」
「どうしたの?」
「これ」
「うん?」
「…………父が」
声が。
少し。
掠れた。
「父が運んでくれたんです」
「…………」
ソーサリーは。
何も言わなかった。
「エルサイアへ来る時」
箱を。
指でなぞる。
傷。
あの日。
ぶつけた。
◇
『重いな』
『落とさないでくださいよ』
『落とさん』
『絶対ですよ』
『俺を何だと思ってる』
『父さんです』
『なら信用しろ』
『父さんだから言ってるんです』
『どういう意味だ』
『そのままの意味です』
ギルバートが。
大きな箱を抱えていた。
『しかし、何が入ってるんだ』
『アージェリカの部品です』
『それは聞いた』
『では聞かないでください』
『これ全部必要なのか?』
『必要です』
『エルサイアにも材料くらいあるだろう』
『材料があれば同じものが作れるわけじゃありません』
『そういうものか』
『そういうものです』
『俺には分からんな』
『でしょうね』
『お前、父親に冷たくないか?』
『今更です』
『エレノア』
『なんです?』
『これ、どこに置く』
『そこです』
『ここ?』
『もう少し右』
『ここか』
『右です』
『右だろ』
『それは父さんから見た右です。私から見て右』
『先に言え』
『普通分かるでしょう』
『分かるか』
ごん。
『あ』
『…………』
『…………』
『父さん』
『何だ』
『今、ぶつけましたよね』
『ぶつけてない』
『音しましたよ』
『気のせいだ』
『箱見せてください』
『何もない』
『あります! 傷ついてるじゃないですか!』
『箱だろ』
『精密部品が入ってるんですよ!?』
『中身は無事だ』
『どうして分かるんです!』
『軽く当たっただけだからだ』
『だから持たせたくなかったんです!』
『一人で持てなかっただろう』
『台車があります!』
『最初から使え!』
『父さんが持つって言ったんでしょう!』
喧嘩して。
最後には。
二人で笑った。
『まあ』
ギルバートが。
箱を置く。
『頑張ってこい』
『…………急ですね』
『しばらく向こうにいるんだろ』
『はい』
『なら、好きなだけ学んでこい』
『教える側なんですけど』
『お前が教えるだけで終わるわけないだろ』
『…………』
『向こうの技術も盗んでこい』
『人聞きが悪い』
『学んでこい』
『最初からそう言ってください』
『同じだ』
『違います』
『エレノア』
『はい?』
『好きなことをやれ』
『…………』
『お前は俺とは違うんだから』
『それ、褒めてます?』
『褒めてる』
『本当に?』
『たぶんな』
『父さん』
『冗談だ』
◇
「…………」
木箱。
傷は。
まだ残っていた。
「…………」
あの日と。
何も変わっていない。
だから。
帰ったら。
言うつもりだった。
『ほら、傷まだ残ってましたよ』
そう言えば。
『まだ言ってるのか』
きっと。
返ってくる。
そう思っていた。
「…………」
手が。
震えた。
「エレノア」
「…………」
「座ろう」
「大丈夫です」
「…………」
「大丈夫……」
箱を。
開けようとする。
指が。
上手く動かない。
「これを……比較すれば」
「エレノア」
「制御機構の問題が……」
「もういい」
「よくありません」
「今日はいい」
「駄目です」
声が。
大きくなった。
「だって」
エレノアが。
ソーサリーを見る。
「これを作るために、私はここに来たんですよ」
「うん」
「父が……」
「うん」
「父が、送り出してくれたんです」
「…………」
「だから」
涙が。
一滴。
木箱へ落ちた。
「…………」
エレノア自身が。
一番驚いた。
「…………あ」
拭う。
もう一滴。
「…………」
また。
落ちる。
「……なんで」
止まらない。
「昨日は……」
昨日。
泣いた。
父の死亡報告を聞いて。
床に崩れて。
散々。
泣いた。
だから。
もう。
仕事くらいできると思っていた。
「……帰ったら」
声が。
震える。
「これ、見せるつもりだったんです」
「…………」
「エルサイアで作ったアージェリカを」
「うん」
「父は……技術のことなんて全然分からないから」
「…………」
「見せても、きっと」
笑おうとした。
「『よく分からん』って……」
無理だった。
「……言うんです」
膝から。
力が抜けた。
ソーサリーが。
支える。
「帰ったら……」
帰る。
その言葉で。
ようやく。
理解してしまった。
「…………あ」
帰れない。
「私……」
父が。
いないだけじゃない。
「もう……」
家も。
街も。
工房も。
いつも通っていた道も。
王城も。
全部。
紫の雨の下。
「帰れないんですね」
その一言を口にした瞬間。
何かが。
完全に。
切れた。
「……っ」
顔を覆う。
「帰るところ……なくなっちゃった……」
声が。
子供みたいになった。
「父さん……!」
ソーサリーは。
何も言わず。
ただ。
隣にいた。
◇
その日の午後。
クイントは一人で技術開発区画を訪れた。
「…………」
扉の前で。
一度。
止まる。
何を言えばいいのか。
分からなかった。
国王として。
言わなければならない言葉なら。
いくらでもある。
ラウル王国の犠牲者へ哀悼を。
生存者の捜索を。
汚染区域の調査を。
国際協力を。
復興可能性の検討を。
そんな言葉なら。
いくらでも。
でも。
エレノアに。
何を言えばいい。
結局。
答えが出ないまま。
扉を開けた。
「……エレノア」
「クイント陛下」
目が。
赤かった。
それでも。
エレノアは立ち上がろうとした。
「いい」
「ですが」
「今日はいいよ」
「…………」
クイントは。
向かいへ座った。
「ごめん」
「…………」
それしか。
出なかった。
「何故、陛下が謝るんです?」
「私は」
クイントが。
膝の上で。
手を握る。
「一か月」
「…………」
「見てた」
毎日。
戦況報告が来た。
蠍座が倒された日は。
勝てると思った。
獅子座が初めて大きな傷を負った日は。
あと少しだと思った。
希望の教会へ追い詰めた時には。
本当に。
終わると思った。
その後。
緑の雨が降った。
黄色の雨まで。
降った。
「軍を出せた」
「…………」
「ミカエルもいる。ギルもいる。エルサイアには機動兵器も、魔道具もある」
「陛下」
「でも出さなかった」
「…………」
「一人も」
クイントが。
俯く。
「ルークに来るなって言われたから」
分かっている。
あれは。
正しい判断だった。
一人でも介入すれば。
エルサイアが第二戦域になる。
今度は。
ここに雨が降る。
リリーも。
レアも。
国民も。
巻き込まれる。
「王としては」
クイントが。
小さく言った。
「間違ってないと思う」
「はい」
「でも」
唇を。
噛む。
「友達としては……」
助けたかった。
「……行きたかった」
エレノアは。
しばらく。
何も言わなかった。
「送らなくて」
やがて。
口を開く。
「正解です」
「…………」
「父も、そう言います」
「エレノア」
「ルーク王子も」
「…………」
「だから、最後まで来るなと仰ったのでしょう」
「…………」
「もしエルサイアまで同じことになっていたら」
エレノアが。
少し。
笑った。
「ルーク王子、怒りますよ」
「…………うん」
「『何のために技術渡したと思ってんだ』って」
「言いそう」
「言います」
「絶対?」
「絶対です」
二人とも。
少しだけ。
笑った。
そして。
同時に。
泣いた。
◇
「陛下」
「なに?」
「見ましたか」
「…………最後の?」
「はい」
ルーク王子。
最後の戦闘映像。
「見た」
「私もです」
エレノアが。
作業台の端にある端末を操作した。
映像。
紫の雨。
壊れかけたアージェリカ。
その前に。
星魅の巫女。
『国一個潰しといて』
ルークの声。
『そんな顔してんじゃねえ!!』
加速。
一撃。
そして。
血。
映像停止。
「…………」
エレノアが。
目元を拭った。
「……あの人」
「うん」
「最後まで格好つけて」
「うん」
「馬鹿ですよね」
「うん」
「勝てないのに」
「…………」
「でも」
画面を見る。
「当てた」
「うん」
「星魅の巫女に」
「…………」
「攻撃は通る」
その時。
「その通りだ」
後ろから。
声。
「ミカエル?」
いつからいたのか。
ミカエルが。
画面を見ていた。
「映像を借りる」
「何をするの?」
「解析する」
「…………」
「ルーク王子の攻撃が命中する直前」
映像を。
巻き戻す。
「ここだ」
停止。
星魅の巫女。
その腕。
「防御してる……?」
クイントが。
画面へ近づく。
「ああ」
「偶然じゃ」
「ない」
ミカエルが。
さらに。
数フレーム戻す。
「ルーク王子の攻撃を認識した後、自ら防御姿勢を取っている」
「…………」
「そして」
進める。
血。
「負傷した」
「…………」
「なら」
ミカエルが。
静かに言った。
「殺せる」
エレノアが。
顔を上げた。
「……殺せますか」
「少なくとも」
ミカエルは。
画面から目を逸らさなかった。
「無敵ではない」
「…………」
「これは重要な記録だ」
ルークは。
勝てなかった。
ラウル王国を。
救えなかった。
それでも。
最後に。
一つだけ。
世界へ残した。
星魅の巫女にも。
攻撃は届く。
◇
数日後。
エルサイア城の一角に。
小さな慰霊碑が作られた。
特別。
豪華なものではない。
白い石。
そこへ。
確認された。
ラウル王国戦役の犠牲者たちの名が。
刻まれている。
アイザック王。
ルーク王子。
ギルバート・アタンチェルト。
カイル・レヴァンス。
マリア・セレン。
兵士。
医師。
技術者。
一般市民。
確認できた名前だけでも。
石一枚には。
到底。
収まらなかった。
「…………」
エレノアは。
一人で。
その前に立っていた。
花を。
一輪。
置く。
墓ではない。
ここに。
父はいない。
遺体すら。
帰ってきていない。
それでも。
「父さん」
呼んだ。
返事は。
ない。
「…………」
分かっている。
「私」
少し。
息を吸う。
「こっちでやりますね」
アージェリカを。
作る。
ラウルで生まれた技術を。
ここで。
残す。
「ソーサリーって人がいるんです」
何故か。
父に。
報告したくなった。
「錬金術師なんですけど……すごいですよ。教えたらすぐ理解して」
少し笑う。
「コウヤ様も、勝手に混ざってきます」
また。
少し。
笑えた。
「魔道具は作れるのに自分では起動できないんですよ。変ですよね」
風が。
吹いた。
「……エルサイア」
空を見る。
「いい国ですよ」
父が。
自分を送り出した国。
ルークが。
技術を託した国。
「だから」
もう一度。
慰霊碑を見る。
「心配しないでください」
言ってから。
少し考える。
「…………いや」
首を振った。
「それは無理ですよね」
父なら。
きっと。
心配する。
「じゃあ」
今度こそ。
笑った。
「見ててください」
その方が。
父には。
似合う気がした。
◇
その日の夕方。
技術開発区画では。
「ソーサリー!」
「何?」
「これなんだけど!」
「コウヤ様、仕事は?」
「終わらせた!」
「クイント陛下の許可は?」
「取った!」
「本当に?」
「なんでみんな疑うの!?」
いつもの声が響いていた。
「エレノア、ここ!」
「はい?」
「やっぱスフロン水晶――」
「駄目だと言いましたよね」
「最後まで聞いて!」
「制御系統に干渉します」
「まだ言ってないじゃん!」
「昨日書いてあったので」
「…………」
「違いますか?」
「……合ってる」
「でしょう?」
ソーサリーが。
横で笑う。
「じゃあ別の素材探す?」
「そうしましょう」
「俺もやる」
「お願いします」
「お」
「何です?」
「いや」
コウヤが。
少し驚いた顔をした。
「今日は追い出されないんだなって」
「…………」
エレノアが。
ほんの少し。
笑った。
「人手は多い方がいいですから」
「よっしゃ」
「ただし」
「何?」
「勝手に作らないでください」
「ミカエルと同じこと言う!」
「では、ちゃんと聞いてください」
「はい!」
机の上。
傷のついた木箱は。
まだ。
そこにある。
捨てなかった。
直しもしなかった。
あの傷だけは。
そのままでいいと思った。
箱の中から。
ラウル王国で作られた部品を。
一つ。
取り出す。
「では」
エレノアが。
設計図を広げた。
「続きを始めましょう」
国は。
なくなった。
人も。
たくさん失った。
帰る場所だって。
もうない。
それでも。
残ったものまで。
なくなったわけではない。
技術も。
記録も。
記憶も。
そして。
人も。
ここに。
残っている。
だから。
エレノアは。
もう一度。
作り始めた。