願い屋という存在がいる。
どこかに店を構えているわけではない。
会いたいと思って探したところで、会えるものでもない。
願いを持つ者が。
その願いに相応しい対価を支払う覚悟を持って、初めて召喚することのできる存在。
――トレシィ。
「……ったく。面倒くせえな」
ゼウスは床に描かれた術式を見下ろし、吐き捨てるように言った。
こんなものを使うことになるとは思っていなかった。
世界を渡る程度なら、自分でできる。
エマからノヴァへ。
ノヴァから別の世界へ。
普通の人間なら一生を費やしても辿り着けない場所へ、ゼウスならば行ける。
だから。
最初は自分で探した。
だが、見つからなかった。
十八年。
SH.2010年から、既にそれだけの時間が経っている。
「未来にいるってだけじゃ、探しようがねえだろうが」
アルテミス。
未来へ飛ばされた。
それだけは分かっている。
だが、どの時代へ飛ばされたのかが分からない。
十年後なのか。
五十年後なのか。
百年後なのか。
それより遥か未来なのか。
そして何より――。
未来へ辿り着いたアルテミスが、生きている保証すらなかった。
「…………」
ゼウスは目を閉じた。
そして。
「――来い」
術式へ力を流し込む。
「願い屋、トレシィ」
光が走った。
空間そのものが一瞬だけ歪む。
何もなかったはずの場所へ、一つの影が落ちた。
「――はいはい。呼ばれて来ましたよっと」
女だった。
突然召喚されたというのに驚いた様子もない。
むしろ面倒そうに髪を整えながら、トレシィは周囲を見渡した。
「それで、今回の――」
ゼウスを見た。
「…………」
「あ?」
「…………あなたなの?」
「なんだその顔」
「別に」
「言いたいことあんなら言え」
「神様が願い屋を召喚するのねえ、って」
「神に願いがあっちゃ悪いか」
「悪くないわよ。むしろ大歓迎」
トレシィは笑った。
「神様なら、いい対価を持ってそうだもの」
「最初からそれかよ」
「願い屋ですから」
悪びれもしない。
ゼウスは小さく鼻を鳴らした。
「で?」
トレシィが問う。
「何を願うの?」
「人を探せ」
「人探し?」
「ああ」
「名前は?」
少しだけ。
ゼウスが黙った。
「――アルテミス」
トレシィの目が細くなる。
「……未来へ消えた?」
「知ってんのか」
「そのくらいはね」
「なら話が早え」
ゼウスは腕を組んだ。
「未来に飛ばされたところまでは俺様も分かってる。問題はその先だ」
「年代は?」
「不明」
「場所」
「不明」
「生死」
「…………不明」
「…………」
「なんだよ」
「あなた、それを人探しって言ってるの?」
「人探しだろ」
「手掛かりが『未来にいるかもしれない』しかないじゃない」
「だからお前を呼んだんだろうが」
「なるほどね」
トレシィは顎へ指を当てた。
未来。
その一言で片付けるには、あまりにも広すぎる。
けれど。
不可能ではない。
「――いいわよ」
「あ?」
「探してあげる」
ゼウスの表情が変わった。
「本当か?」
「願い屋を何だと思ってるの?」
「胡散臭い女」
「帰っていい?」
「悪かった」
「早いわね」
「俺様は時間を無駄にするのが嫌いなんだよ」
「はいはい」
トレシィが笑う。
そして。
その笑みが少しだけ変わった。
「だったら――対価の話をしましょうか」
「何が欲しい」
「そうね」
アルテミスを探す。
未来のどこへ落ちたかも分からない存在を。
時間を越えて追跡する。
簡単な願いではない。
ならば。
簡単な対価では釣り合わない。
「…………」
トレシィはしばらくゼウスを見ていた。
やがて。
「決めた」
「言え」
「あなたの――エマへ行く権利」
「…………あ?」
「SH.2100年まで」
ゼウスが眉を寄せた。
「今がSH.2028年だから……そうね。七十二年間」
「…………」
「七十二年間、あなたはエマへ来られない」
「それだけか?」
「――それだけ?」
トレシィが呆れたように聞き返した。
「七十二年よ?」
「聞こえてる」
「ノヴァには行ける。他の世界にも行ける。あなたの世界移動能力そのものを奪うつもりはないわ」
「じゃあエマだけか」
「ええ」
「なら別に――」
「最後まで聞きなさい」
珍しく強い声で遮られた。
ゼウスが黙る。
「七十二年」
トレシィが指を立てる。
「その間、エマで何が起きても来られない」
「…………」
「戦争が起きても」
「…………」
「あなたを必要とする人が現れても」
「…………」
「今は存在すら知らない、大切な誰かができても」
ゼウスが僅かに眉を動かした。
「それでも来られない」
「……随分念押しするじゃねえか」
「対価だからよ」
トレシィは笑わなかった。
「後から『そんなつもりじゃなかった』は通らない」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
「SH.2100年までよ」
「しつけえな」
ゼウスが鼻を鳴らした。
「俺様は元々、今のエマに大した未練なんざねえ」
「…………」
「それよりアルテミスだ」
十八年間。
手掛かりすらなかった。
生きているのか。
死んでいるのか。
それくらいは知りたい。
「七十二年程度で分かるなら」
ゼウスが手を差し出した。
「――安いもんだ」
「…………」
「持ってけ」
トレシィは、その手を見た。
「後悔するかもしれないわよ」
「俺様が決めたことだ」
「そう」
トレシィも手を伸ばす。
「なら――契約成立」
二人の手が触れた瞬間。
ゼウスの中から、何かが抜け落ちた。
力そのものではない。
もっと曖昧で。
それでいて、確実なもの。
世界へ繋がる無数の道。
その中の一本だけが。
閉ざされた。
「…………」
ゼウスが目を細める。
「これで?」
「ええ」
トレシィが頷く。
「SH.2100年まで、あなたはエマへ入れない」
「分かった」
「……本当に軽いわね、あなた」
「うるせえ」
ゼウスはそう言って。
ふと思い出したようにトレシィを見る。
「お前」
「なに?」
「ノヴァには来れんのか?」
「私が?」
「ああ」
「召喚されれば」
「そうじゃねえ」
ゼウスが手を伸ばした。
今度は契約ではない。
「アルテミスを探してる間、いちいち俺様がお前を召喚すんのも面倒だ」
「それはそうね」
「なら――やる」
「何を?」
ゼウスの指先に光が集まった。
「道だ」
「…………?」
「エマとノヴァを繋ぐ道」
トレシィが目を見開く。
「ちょっと待って。それって――」
「俺様が使ってる世界移動の一部だ」
「そんなもの、簡単に人へ渡していいの?」
「全部じゃねえ」
光がトレシィへ触れる。
「エマとノヴァだけだ」
トレシィの中へ。
新しい感覚が流れ込んだ。
場所ではない。
距離でもない。
二つの世界を隔てる境界。
その向こう側が。
突然、見えるようになった。
「…………すご」
思わず。
そんな言葉が漏れた。
「これで俺様がいなくてもノヴァには来れる」
「……ずいぶん気前がいいのね」
「仕事を頼んだんだ。途中経過くらい報告しろ」
「あら」
トレシィが笑う。
「心配?」
「違えよ」
「アルテミスのこと」
「…………」
「心配なのね」
「うるせえ」
「はいはい」
トレシィは楽しそうに笑った。
「分かった。何か分かったらノヴァへ行くわ」
「ああ」
「生きてるかどうかだけでも?」
「全部だ」
「全部?」
「どこにいる。いつにいる。何してる」
そして。
一瞬だけ。
声が低くなる。
「……生きてるのか」
「…………」
「分かったこと全部、俺様に持ってこい」
トレシィは。
今度はからかわなかった。
「分かった」
願い屋として。
契約を交わした者として。
「必ず探してあげる」
◇
こうして。
願い屋トレシィの、長い人探しが始まった。
SH.2028年。
この時。
二人とも知らない。
アルテミスが辿り着いた先が。
ゼウスが七十二年間、唯一立ち入ることのできなくなった世界――エマであることを。
そして。
トレシィ自身も知らない。
アルテミスを探して未来へ進む旅の途中。
自分自身をエマへ繋ぎ止めるための契約者を、探すことになることを。
その男の名は。
神崎十夜。
まだ。
この時代には――
生まれてすらいなかった。