未来というものは、ひどく曖昧だ。
一秒先も未来なら、百年先も未来。
どこかの未来へ飛ばされた。
たったそれだけの情報から、一人の人間を探し出す。
普通ならば、途方もない話だった。
けれど願い屋にとって大切なのは、その願いが簡単か難しいかではない。
願いがあること。
そして――それに見合う対価が支払われること。
SH.2028年。
ゼウスは願い屋トレシィを召喚した。
願いは一つ。
SH.2010年、ワールドイーターとの戦闘によって未来へ飛ばされ、そのまま行方不明となったアルテミスを探すこと。
どの年代にいるのか。
どの世界にいるのか。
生きているのかさえ分からない。
それでも、トレシィは願いを引き受けた。
代わりにゼウスが支払った対価は――SH.2100年までの七十二年間、エマへ行く権利。
契約は成立した。
そしてトレシィは未来へ渡った。
時間を進み。
時には戻り。
途切れかけた縁を辿る。
そうして。
ようやく――。
「…………いた」
SH.2070年代。
地球。
大勢の人間が行き交う街の中で、トレシィは足を止めた。
視線の先に、一人の女性がいる。
特別なことをしているわけではなかった。
戦っているわけでもない。
神としての力を振るっているわけでもない。
この時代の服を身につけ、この時代の人間たちに混じって歩いている。
けれど。
間違えるはずがない。
SH.2010年で途絶えた縁。
その先にいる。
「随分と遠くまで飛ばされたものね」
トレシィは小さく笑った。
――アルテミス。
生きている。
見たところ、怪我をしている様子もない。
少なくとも、今この瞬間に命の危険が迫っているわけでもなさそうだった。
ならば。
願いは叶った。
ゼウスから頼まれたのは、アルテミスを過去へ連れ戻すことではない。
まして、この時代から救い出すことでもない。
ただ、探してほしい。
それだけだった。
「さて」
帰ろう。
SH.2028年。
依頼人のいる時代へ。
トレシィが踵を返した、その時だった。
「――待つのじゃ」
足を止める。
「…………」
「先ほどから、妾を見ておったじゃろう」
振り返ると。
アルテミスがこちらを見ていた。
先ほどまでとは違う。
僅かに警戒した目。
「あら。気づいていたの?」
「気づかぬほど耄碌しておらぬよ」
アルテミスはトレシィをじっと観察した。
「お主、何者じゃ?」
「トレシィ」
「名前を聞いておるのではない」
「願い屋よ」
「…………願い屋?」
「願いを叶える代わりに、それに見合う対価をいただくの」
「…………」
しばらく考え。
アルテミスは眉を寄せた。
「胡散臭いのう」
「よく言われるわ」
「それで、その願い屋が妾に何の用じゃ?」
「あなたに願いを聞きに来たわけじゃないわ」
「ならば何故、妾を見ておった」
「探していたから」
「妾を?」
「ええ」
「誰に頼まれた」
「ゼウス」
「…………」
その名前を聞いた瞬間。
アルテミスの表情が変わった。
「……ゼウスが?」
「そう」
「何故じゃ」
「あなたを探してほしいって願われたの」
「いつ」
「SH.2028年」
「…………」
今度こそ。
アルテミスは絶句した。
「待て」
「なに?」
「お主、今……2028年と言ったか?」
「言ったわ」
「今が何年なのかは分かっておるのじゃろうな」
「もちろん」
「…………なるほど」
アルテミスは少し考え。
やがて納得したように息を吐いた。
「お主、時間を渡れるのじゃな」
「理解が早くて助かるわ」
「妾自身が過去から未来へ飛ばされた身じゃ。今更、時間を越える者がおったところで驚きはせぬ」
そう言って。
アルテミスは僅かに目を伏せた。
「…………そうか」
「なに?」
「まだ、探しておったのか」
ぽつりと。
アルテミスが呟いた。
「SH.2028年なら、妾が消えてから十八年も経っておるじゃろう」
「そうね」
「十八年か」
「…………」
「それでも、あやつは探しておったのじゃな」
トレシィは何も言わなかった。
それはゼウス本人が答えるべきことだ。
「ゼウスには」
アルテミスが顔を上げる。
「妾は元気にしておる、と伝えてくれ」
「ええ」
「この時代にも慣れた。心配せずともよい、と」
「分かったわ」
「それから――」
アルテミスが言葉を止めた。
「…………」
迷っている。
トレシィは急かさない。
やがて。
「ミカエルとデメテルに注意せよ、と」
「…………」
「それも伝えてくれぬか」
「それは言えないわ」
「……何故じゃ?」
「未来の情報だから」
アルテミスが眉を寄せた。
「妾が元気であることは伝えられて、それは伝えられぬのか?」
「意味が違うもの」
「どう違う」
「あなたがここで生きていることは、ゼウスが願った『アルテミスを探してほしい』という願いへの答え」
トレシィは続ける。
「でも、ミカエルとデメテルに注意しろという言葉は違う」
「…………」
「それをSH.2028年へ持ち帰れば、本来なら知るはずのない未来の情報を過去の人間が知ることになる」
「それが目的じゃ」
「でしょうね」
「ならば――」
「だからこそ、願いになるのよ」
アルテミスが黙った。
「願い……」
「未来で知った危険を、過去へ伝えてほしい」
「…………」
「そう願うのなら、叶えることはできるわ」
「ならば対価を払えばよいのじゃろう?」
「ええ」
「何がよい?」
「そうね」
トレシィは少し考える。
未来を過去へ持ち込む。
たった二つの名前。
けれど、その二つを知るだけでゼウスの行動は変わるかもしれない。
誰かが死ななくなるかもしれない。
反対に。
本来死ななかった誰かが死ぬかもしれない。
未来そのものを変える可能性がある。
それに見合うもの。
「――あなたの過去」
「…………妾の?」
「ええ」
トレシィは静かに告げた。
「その願いを叶えたら、あなたは過去へ帰れなくなるわ」
「…………」
「SH.2010年へも?」
「戻れない」
「帰還する方法を見つけたとしてもか?」
「ええ」
「誰かが迎えに来ても?」
「それでも」
アルテミスは黙った。
「未来の情報を過去へ渡す代わりに、あなた自身は過去へ戻る可能性を失う」
「…………」
「それが対価」
「……随分と高いのう」
「それだけのことを願っているのよ」
「…………」
アルテミスは目を伏せる。
「じゃが、それで救える者がおるかもしれぬ」
「そうね」
「ミカエルも、デメテルも……放っておいてよいものではない」
「…………」
「ならば妾は――」
「やめときなさい」
「…………」
アルテミスが目を丸くした。
「今、何と言った?」
「やめときなさいって言ったの」
「お主が?」
「ええ」
「願い屋が、願いを止めるのか?」
「止めてはいないわ」
トレシィはアルテミスを見る。
「あなたがそれでも願うなら、私は叶える」
「なら――」
「でも、あなたは帰りたいんでしょう?」
「…………」
アルテミスの言葉が止まった。
「違う?」
「…………」
「なら、やめときなさい」
「じゃが――」
「対価を聞いて、それでも迷わないのなら好きにすればいい。でもあなたは迷った」
「…………」
「今ここで、自分から帰る道を閉ざす必要はないわ」
アルテミスはしばらく黙っていた。
やがて。
「……そうじゃの」
小さく息を吐く。
「その願いは取り下げよう」
「そう」
「すまぬのう」
「謝ることじゃないわ」
「では、ゼウスには妾が元気であることだけ伝えてくれ」
「心配しなくていい、もね」
「うむ」
そして。
少し考えてから、アルテミスはトレシィを見る。
「もしも、妾が自分で過去へ帰ることができたなら」
「ええ」
「その時、妾自身の口から伝えることは構わぬのじゃろう?」
「もちろん」
トレシィは笑った。
「それは私への願いじゃないもの」
「そうか」
「自分の足で帰って、自分の口で何をするのかは、あなた自身が決めることよ」
「……そうじゃな」
アルテミスも僅かに笑った。
「ならば、その時まで取っておくとしよう」
◇◇◇
SH.2028年。
未来へ消えたトレシィは、依頼を受けた時代へ戻った。
「ゼウス」
「――早かったな」
ゼウスが振り返る。
「あら。そう?」
「俺様からすりゃな」
当然だ。
トレシィが未来でどれほど遠い年代まで探したとしても。
戻ってくる場所を、SH.2028年にすればいい。
「それで?」
「なに?」
「結果だよ」
「…………」
「見つかったのか」
「ええ」
その一言で。
ゼウスの表情が変わった。
「……本当か?」
「見つけたわよ」
「アルテミスを?」
「ええ」
「いつだ」
「2070年代」
「…………四十年以上先か」
「随分遠くまで飛ばされたみたいね」
「場所は?」
「地球」
「…………」
「エマよ」
「…………」
ゼウスが黙った。
「生きてんのか?」
「元気よ」
「本人か」
「間違いなく」
「話したのか?」
「ええ」
「何て言ってた」
「妾は元気にしておる。この時代にも慣れたから、心配せずともよい」
「…………」
「だって」
「……そうか」
ゼウスが目を閉じた。
「生きてんのか」
「ええ」
「…………そうか」
長い息を吐く。
十八年。
生きているかどうかさえ分からなかった。
それが。
未来にいる。
「……ありがとな」
「あら」
「なんだよ」
「ちゃんとお礼言えるのね」
「俺様を何だと思ってんだ!」
「ゼウス」
「名前聞いてんじゃねえよ!」
トレシィが小さく笑う。
だが。
ゼウスはすぐに黙った。
「…………待て」
「なに?」
「なんで帰ってこねえ?」
「…………」
トレシィの笑みが消えた。
「アルテミスは生きてる」
「ええ」
「元気なんだろ」
「そうね」
「この時代にも慣れてる」
「ええ」
「なら、なんでSH.2010年へ戻ってこない」
「…………」
「戻る気がねえのか?」
「それには答えられないわ」
「なんでだ」
「未来に関わるから」
「…………」
ゼウスの目が細くなる。
「未来の情報ってことか」
「そう」
「対価を払えば聞ける?」
「ええ」
「何が必要だ」
「知りたいの?」
「…………」
ゼウスは黙った。
トレシィはそれ以上何も言わない。
「……いや」
やがて。
ゼウスは首を振った。
「いい」
「あら」
「お前は、アルテミスが元気だってことは教えられた」
「ええ」
「なのに、帰ってこない理由は教えられない」
「…………」
「だったら」
ゼウスは腕を組む。
「帰ってこねえんじゃない」
「…………」
「帰れねえ理由がある。」
トレシィは何も答えなかった。
「違うか?」
「それはあなたが考えたことでしょう?」
「否定しねえんだな」
「肯定もしてないわ」
「便利だな、願い屋ってのは」
「そう?」
「褒めてねえよ」
だが。
それで十分だった。
アルテミスは生きている。
未来で何かが起きている。
そして、それは過去へ簡単に伝えていいことではない。
なら。
「…………」
自分が行けばいい。
そう考えて。
すぐに思い出す。
「…………クソ」
「なに?」
「俺様、エマに行けねえ」
「ええ」
「誰のせいだ」
「自分で対価として差し出したんでしょう?」
「分かってるよ!」
ならば。
別の天族を向かわせればいい。
ゼウスは一人の名を思い浮かべた。
◇◇◇
「――それで、私を呼んだの?」
デメテルは呆れたようにゼウスを見る。
「ああ」
「あなたが私を呼ぶ時って、大抵面倒な話よね」
「まだ何も説明してねえだろ」
「だから聞いてるんでしょう」
「2070年代の地球へ行ってこい」
「…………」
デメテルの表情が変わった。
「2070年代?」
「ああ」
「何があるの?」
「アルテミスだ」
「…………何ですって?」
「生きてる」
「本当に?」
「ああ。トレシィに探させた」
デメテルが目を見開く。
「アルテミスが……」
「2070年代の地球にいる」
「なら、あなたが会いに行けばいいでしょう?」
「俺様はSH.2100年までエマに入れねえ」
「……何をしたのよ、あなた」
「願い屋に払った対価だ」
「…………」
「説明は後だ。とりあえずお前が行ってこい」
「連れて帰ればいい?」
「いや」
ゼウスは首を振った。
「まず会え」
「…………」
「本人が帰ってこねえ理由があるらしい」
「理由は?」
「トレシィは教えられねえってよ」
「未来に関わるから?」
「察しがいいな」
「あなたよりはね」
「喧嘩売ってんのか?」
「事実でしょう?」
デメテルは小さく息を吐く。
「分かったわ」
そして。
術式を展開した。
時間座標。
SH.2070年代。
世界座標。
エマ――地球。
以前にも扱ったことのある術式だ。
問題はない。
「じゃあ、行って――」
術式が消えた。
「…………」
「どうした?」
「……失敗した」
「は?」
「もう一度やる」
デメテルが眉を寄せる。
座標を確認。
間違っていない。
もう一度。
術式を起動する。
空間が開く。
時間座標へ接続――。
「――っ!」
弾かれた。
今度は明確だった。
デメテルが咄嗟に術式を解除する。
「おい」
「…………」
「何があった」
「拒絶された」
「エマに?」
「違う」
デメテルは術式の残滓へ触れる。
「時間座標そのもの」
「どういうことだ」
「2070年代への接続を拒絶されたの」
「そんなわけあるか」
「私だってそう思ってる」
デメテルの表情が険しくなる。
「だって――」
「なんだ」
「ついこの間まで行けたもの」
「…………」
おかしい。
術式が壊れたわけではない。
ゼウスとの会話中に、突然能力を失ったわけでもない。
ならば。
向こう側だ。
「もう一度調べる」
デメテルが術式を展開する。
今度は渡るためではない。
拒絶の原因を探るため。
「…………」
そして。
気づいた。
「違う」
「何が」
「2070年代が閉ざされてるわけじゃない」
「じゃあなんだ」
「拒絶されてるのは――私」
「お前?」
「…………いや」
デメテルが首を振った。
「違う」
「どっちだよ」
「私だけじゃない」
術式を広げる。
条件を読む。
対象。
種族。
存在情報。
「…………」
デメテルの顔から、ゆっくりと表情が消えた。
「おい」
「…………天族」
「何?」
「天族よ」
デメテルがゼウスを見る。
「全ての天族が、2070年代への干渉を拒絶されてる。」
「…………は?」
「私だけじゃない。あなたも、ミカエルも。他の天族も全部」
「誰がそんな真似をしてる」
「待って」
デメテルは拒絶術式をさらに解析する。
誰が作った。
何のために。
どの時点で。
そして。
「…………嘘」
「どうした」
「この術式……」
デメテルの指が止まった。
「知ってる」
「誰のだ」
「…………」
「デメテル」
「私」
「は?」
「私の術式よ」
ゼウスが眉を寄せる。
「お前、今ここにいるだろ」
「だから違う」
デメテル自身も信じられないというように首を振る。
「今の私じゃない」
「じゃあ誰だ」
「未来」
デメテルは拒絶術式を見つめた。
間違えるはずがない。
力の性質。
術式を構築する時の癖。
魔力の流し方。
自分自身だからこそ分かる。
「――未来の私」
「…………」
「未来の私が、この術式を作った」
ゼウスの表情が変わる。
「何のために」
「分からない」
「解除できねえのか?」
「できるかもしれない」
「なら――」
「でも」
デメテルがゼウスを遮った。
「やらない方がいい」
「…………」
「これ、ただの結界じゃない」
未来の自分から。
過去の自分へ。
明確な意思が込められている。
拒絶。
禁止。
そして。
警告。
「来るな」
「…………」
「未来の私は、そう言ってる」
デメテルが呟く。
「私だけじゃない」
「…………」
「全ての天族に、ここへ来るなって。」
沈黙が落ちた。
ゼウスが腕を組む。
「……アルテミスは?」
「え?」
「あいつも天族だ」
「…………」
デメテルが黙る。
SH.2070年代。
アルテミスはそこにいる。
しかし。
未来のデメテルは、天族がその年代へ干渉することを拒絶している。
「……なるほどな」
「何が?」
「いや」
ゼウスは考える。
アルテミスは生きている。
元気にしている。
だが帰ってこない。
理由を聞けば、トレシィは未来に関わるから答えられないと言った。
そして。
未来のデメテルが、全ての天族を拒絶している。
「…………」
偶然。
そう片付けるには、出来すぎていた。
「デメテル」
「なに?」
「もういい」
「でもアルテミスは?」
「行くな」
「…………」
「未来のお前自身が来るなって言ってんだろ」
「そうだけど」
「だったら、今のお前が無理矢理こじ開けるな」
「…………」
「未来で何が起きてるか知らねえが」
ゼウスは術式を見る。
「お前がそこまでして、全天族を締め出した理由がある」
「…………」
「その理由も知らずに壊す方が危ねえ」
デメテルは何も言わなかった。
それでも。
自分の術式を見つめ続ける。
「アルテミスは生きてる」
ゼウスが言った。
「トレシィも、元気にしてるって言ってた」
「…………ええ」
「なら今は、それでいい」
「あなた、それで納得できるの?」
「できるわけねえだろ」
即答だった。
「でも俺様が何でも好き勝手やった結果、未来がぶっ壊れたら意味ねえ」
「…………」
「だから待つ」
ゼウスが吐き捨てる。
「気に入らねえけどな」
デメテルは少しだけ笑った。
「珍しい」
「あ?」
「あなたが我慢するなんて」
「うるせえ」
「褒めてるのよ」
「絶対嘘だろ」
デメテルは答えなかった。
代わりに。
もう一度だけ、未来の自分が残した術式を見る。
何故。
未来の私は。
ここまで徹底して、天族を拒絶したのか。
何があった。
誰を守ろうとした。
それとも――。
誰を入れてはいけなかった?
「…………」
デメテルは静かに術式を閉じた。
SH.2070年代。
そこにはアルテミスがいる。
そして。
未来のデメテルがいる。
けれど。
その時代は今。
過去にいる全ての天族に対して、たった一つの言葉を突きつけていた。
――来るな。
その意味を。
二人が知るのは、まだ先のことだった。