願いは叶った。
未来へ消えたアルテミスを探してほしい。
SH.2028年。
ゼウスから受け取ったその願いに対する答えを、トレシィは既に持ち帰っている。
アルテミスは生きている。
SH.2070年代。
地球。
そこにいる。
ゼウスへ伝えるべきことは伝えた。
ならば。
本来なら、これで終わりだった。
「…………」
SH.2070年代。
トレシィは再び地球へ戻っていた。
ゼウスのためではない。
アルテミスのためでもない。
今度は――自分のためだった。
「困ったわねえ」
人通りの少ない道を歩きながら、トレシィは自分の手を見る。
指先が僅かに透けていた。
向こう側の景色が見えるほどではない。
ほんの一瞬。
輪郭が揺らいだだけ。
瞬きをすれば元に戻る。
けれど。
見間違いではない。
「やっぱり、無理をしすぎたかしら」
何度も時間を越えた。
未来へ進み。
過去へ戻り。
世界と世界の境界を渡った。
ゼウスから与えられた力によって、エマとノヴァを行き来することもできるようになった。
できることは増えた。
それ自体は悪くない。
問題は――。
「私自身が追いついてないのよね」
願い屋は、願われることで現れる。
誰かが願う。
対価を支払う。
その縁によって、願い屋はそこへ現れる。
ところが今のトレシィは違う。
召喚を待たず、自ら世界を渡っている。
時間さえ越えている。
あまりにも自由になりすぎた。
どこへでも行けるということは。
裏を返せば。
どこにも属していないということだった。
「…………」
また。
指先が揺らぐ。
今度は先ほどより長い。
「これは……さすがに放っておけないわね」
死ぬ。
そういうものではない。
もっと曖昧だ。
自分という存在が、この世界から少しずつ外れていく。
どこにも繋がらないまま時間を渡り続ければ、いずれトレシィ自身がどの時代にも存在できなくなる。
それでは願い屋として商売にならない。
「縁、か」
トレシィは呟いた。
自分を世界へ繋ぐもの。
願い屋を呼び出すだけの一時的な縁ではない。
もっと深いもの。
こちら側へ自分を留めてくれる存在。
――契約者。
「必要みたいね」
認めると、少しだけ面倒だった。
誰でもいいわけではない。
力が強ければいいわけでもない。
魔力が多ければいいわけでもない。
トレシィと契約し。
願い屋という存在そのものを支えられる者。
そんな相手を探す必要がある。
「まあ」
トレシィは顔を上げる。
「未来まで来たんだもの」
口元に笑みを浮かべた。
「ついでに探して帰りましょうか」
◇
ところが。
見つからなかった。
「違う」
一人目。
「この人も違う」
二人目。
「……惜しいけど、違うわね」
三人目。
強い人間ならいくらでもいた。
珍しい能力を持つ者もいた。
神や精霊との親和性が高い者もいる。
けれど。
違う。
トレシィが求めているのは、そういうものではない。
「難しいものねえ」
願いなら簡単なのに。
何を望む。
何を支払う。
それを見ればいい。
ところが縁というものは、値段を付けることができない。
欲しいからといって買えるものでもない。
「私が対価を払う側になると、こんなに面倒なのね」
少しだけ可笑しくなった。
願い屋が。
自分のために誰かを探している。
随分と皮肉な話だ。
そして。
未来を進む。
SH.2070年代。
さらに先へ。
時間を渡るたび、街並みは少しずつ変わっていった。
技術も。
人も。
世界を取り巻く情勢も。
その中で。
時折、見覚えのある縁が視界へ入る。
「…………」
アルテミスだった。
最初に見つけた頃とは違う。
一人ではない。
誰かと話している。
誰かと行動している。
この時代に、少しずつ自分の居場所を作っていた。
「馴染んでるじゃない」
トレシィは遠くから眺めるだけだった。
もう依頼は終わっている。
ゼウスに報告する義務もない。
まして、アルテミスの人生へ介入する理由もない。
だから声は掛けなかった。
ただ。
少し安心した。
SH.2010年へ帰れない事情があるとしても。
アルテミスは未来で孤独ではない。
「…………」
トレシィは歩き出す。
また未来へ。
◇
それから、どれほどの時間を飛び越えただろう。
ある時。
トレシィは足を止めた。
「…………?」
何かが違う。
世界そのものではない。
時間でもない。
自分だ。
胸へ手を当てる。
今までとは違う感覚。
何かに引かれている。
「……縁?」
細い。
今にも切れてしまいそうなほど細い。
それでも確かに。
自分へ繋がっている何かがある。
トレシィは目を閉じた。
辿る。
しかし。
「…………あら」
途中で途切れた。
いや。
違う。
存在しない。
「まだ、いない?」
トレシィが目を開ける。
奇妙な感覚だった。
縁はある。
なのに。
その縁の先にいるはずの相手が、この時代には存在していない。
なら。
答えは一つしかない。
「……まだ生まれてないのね」
思わず笑った。
「随分、気の長い話だこと」
未来へ行けばいい。
それだけのこと。
願い屋にとって時間は、絶対的な壁ではない。
それに。
急ぐ必要もない。
自分はまだ消えてはいない。
ただ。
これで探すべき方向は分かった。
「待ってなさい」
誰とも知れない未来の契約者へ向けて。
トレシィは呟いた。
「あなたが誰なのか、見に行ってあげる」
◇
さらに未来へ。
その途中。
再びアルテミスの縁が大きく動いた。
「…………」
トレシィは足を止めた。
今度は、以前とは比べものにならない。
アルテミス一人の縁ではない。
複数の人間。
組織。
そして。
一人の男。
「……契約したのね」
安藤。
アルテミスが、この時代で選んだ契約者。
トレシィは遠くから二人を見る。
「そう」
少しだけ微笑んだ。
「あなたも見つけたんだ」
不思議なものだ。
過去へ帰ることのできない神が。
未来で新しい縁を結んだ。
それによって。
アルテミスは、この時代により深く根を下ろしていく。
仲間が増えた。
やがて部隊を持った。
そして――。
「…………」
巨大な艦を見上げ。
さすがのトレシィも少しだけ呆れた。
「自分の名前を付けたの?」
戦艦《アルテミス》。
神の名を冠した巨大な艦。
アルテミスが未来で得た仲間たちと共に戦うためのもの。
「随分と大きな居場所を作ったものね」
最初に見つけた時は。
ただ一人。
未来の地球を歩いていた。
それが今では。
自分の部隊まで持っている。
「ゼウスが見たら、何て言うかしら」
少し考えて。
「……面倒だから教えなくていいわね」
そもそも頼まれていない。
それに、これも未来の情報だ。
余計なことを過去へ持ち帰る必要はない。
トレシィは再び歩き出そうとした。
その時。
空気が変わった。
「…………」
足が止まる。
空を見上げる。
嫌な気配。
一つではない。
「これは……」
強大な力が近づいている。
人ではない。
もっと異質なもの。
やがて。
この時代の人々が、その二つを呼ぶ声を聞いた。
――獅子座。
そして。
――灰かぶり。
「…………」
トレシィは戦艦《アルテミス》を見る。
警報が鳴り響く。
人々が動き出す。
そして。
アルテミスもまた。
戦いへ向かおうとしていた。
「SH.2087年」
トレシィは静かに呟いた。
「なるほど」
ここにも。
まだ自分の契約者はいない。
けれど。
どうやら。
ただ通り過ぎるには――。
「随分と物騒な時代みたいね」
願い屋は空を見上げた。
獅子座。
灰かぶり――シンデレラ。
そして。
戦艦《アルテミス》。
後に大きな戦いとして記録される出来事が。
今。
トレシィの目の前で始まろうとしていた。
そのさらに先。
まだ見えない未来には。
一本の細い縁が続いている。
願い屋トレシィを、この世界へ繋ぎ止める男。
神崎十夜。
その男と出会うまで。
――もう少し。