SH.2087年。
その年を、トレシィは長く見届けるつもりはなかった。
獅子座。
灰かぶり――シンデレラ。
そして、それらを迎え撃つ戦艦アルテミス。
未来へ取り残されたはずのアルテミスは、もう一人ではなかった。
契約者がいる。
仲間がいる。
自ら率いる部隊がある。
守るべきものがある。
だから。
「私が出る幕じゃないわね」
願われてもいないのに手を貸すのは、願い屋の仕事ではない。
ましてや。
今のトレシィには、別の目的があった。
細い。
けれど、確実に存在する縁。
まだ見ぬ契約者。
この時代にはもう、先ほどまでのような奇妙な感覚はなかった。
かつて途中で途切れていた縁が。
今は。
確かに、この世界のどこかへ続いている。
「…………」
トレシィは目を閉じる。
いる。
もう生まれている。
けれど。
「まだ、違うわね」
時期ではない。
そう感じた。
縁そのものが幼い。
契約者となる人間は存在している。
だが。
まだトレシィと出会うべき時ではない。
「もう少し先、か」
急ぐ理由はない。
何十年も未来を探してきたのだ。
数年くらい。
今更どうということもない。
トレシィは一度だけ振り返った。
遠く。
空を切り裂く光が見えた。
「頑張りなさい、アルテミス」
届くはずのない声で呟いて。
願い屋は。
再び時間を渡った。
◇
SH.2088年。
違う。
SH.2089年。
「…………」
近い。
かなり近くなった。
縁を辿れば、その人間がいる場所まで行くこともできるだろう。
それでも。
トレシィは会わなかった。
「まだね」
理由は分からない。
ただ。
願い屋として長い間、数え切れないほどの人間と関わってきた勘がそう告げている。
今ではない。
そして――。
さらに一年。
時間を進める。
◇
SH.2090年。
「…………」
今度は。
目を開けた瞬間に分かった。
「ああ」
トレシィは笑った。
「ここなのね」
縁が。
はっきりと見える。
今までとは違う。
未来へ伸びていない。
この時代。
この世界。
そして。
この街のどこか。
「ようやく会えるわね」
何十人もの人間を見た。
力の強い者。
魔力の多い者。
特殊な能力を持つ者。
神や精霊との親和性が高い者。
誰も違った。
では。
どんな人間なのだろう。
少しくらい期待しても罰は当たらない。
「さて」
トレシィは歩き出した。
縁を辿る。
それは。
思っていたよりずっと簡単だった。
そして。
「…………」
見つけた。
一人の青年。
「……あれ?」
トレシィは思わず声を漏らした。
普通だった。
本当に。
どこからどう見ても。
普通の青年。
軍人ではない。
魔術師でもない。
特別な力が身体から溢れているわけでもない。
それどころか。
「…………」
トレシィは青年の周囲を一周した。
「何ですか?」
「あら」
「いや、『あら』じゃなくて」
気づかれた。
青年が怪訝そうにトレシィを見る。
「さっきから俺のこと見てますよね」
「見てるわよ」
「…………」
「…………」
「そこ否定しないんですね」
「見てるもの」
「何か用ですか?」
「ええ」
「じゃあ普通に声掛けてもらえません?」
「そうね」
トレシィは改めて青年を見る。
「名前は?」
「……先にそっちが名乗るものじゃないですか?」
「あら」
なるほど。
「トレシィよ」
「トレシィ?」
「そう」
「…………外国の人?」
「まあ、似たようなものね」
「はあ」
「あなたは?」
青年はまだ少し警戒していた。
当然だろう。
知らない女が突然現れて。
周囲をぐるりと一周して。
名前を聞いている。
「……神崎です」
「下は?」
「そこまで必要です?」
「必要よ」
「何に?」
「確認」
「何の?」
「いいから」
「…………」
青年が小さく息を吐いた。
「十夜です」
「…………」
神崎。
十夜。
「神崎十夜」
「そうですけど」
その名を口にした瞬間。
確信した。
間違いない。
この男。
いや。
この青年だ。
「見つけた」
「……はい?」
「あなたよ」
「何がです?」
「私の契約者」
「…………」
十夜の表情が固まった。
「すみません」
「なに?」
「俺、もう帰っていいですか?」
「どうして?」
「どうしてって……」
明らかに怪しまれている。
「明日から訓練校なんで、準備もあるんですよ」
「訓練校?」
「警察の」
「あら」
これから警察官になるらしい。
「だから、変なことに巻き込まれたくないんです」
「変なこととは失礼ね」
「初対面の人に契約者って言われたら普通そう思いますよ」
「私は願い屋なの」
「余計怪しくなったんですけど」
十夜が頭を抱える。
けれど。
その直後だった。
「…………願い屋?」
十夜の動きが止まった。
「ええ」
「願いって……」
「叶えるわよ」
トレシィは笑う。
「相応の対価をいただければね」
「…………」
十夜の顔から。
困惑が消えた。
その代わり。
トレシィには見慣れたものが浮かんだ。
願い。
「あるのね」
「…………」
「叶えたい願いが」
十夜はしばらく黙っていた。
「本当に?」
「なに?」
「本当に願いを叶えられるんですか?」
「ええ」
「どんなものでも?」
「それは願い次第ね」
「…………」
十夜が迷う。
それから。
意を決したように口を開いた。
「三年前の事件」
「三年前?」
「2087年」
「…………」
その年なら。
トレシィも覚えている。
「ジャンヌ・ダルクと、緑の雨」
「…………ええ」
「知ってるんですね」
「もちろん」
十夜は少し俯いた。
「九里って夫婦がいたんです」
「九里?」
「俺の幼馴染の両親です」
「…………」
「龍牙っていうんですけど」
九里龍牙。
「昔から一緒で」
十夜は淡々と話していた。
けれど。
その声の奥にあるものは分かる。
「俺も、あの家にはよく行ってました」
「そう」
「飯食わせてもらったり。泊まったり。龍牙と馬鹿なことして二人まとめて怒られたり」
少しだけ。
十夜が笑った。
「俺にとっても、よく知ってる人たちでした」
「…………」
「でも」
笑みが消える。
「二人とも、あの事件で死んだ」
2087年。
ジャンヌ・ダルク。
緑の雨。
その犠牲者。
「だから」
十夜がトレシィを見る。
「もし、本当に何でも叶えられるなら」
その目は。
真剣だった。
「九里夫妻を、生き返らせてほしい」
「駄目よ」
「…………」
即答だった。
「え?」
「それは叶えられない」
「……対価が足りないってことですか?」
「違う」
「なら、何が必要です?」
「何を出されても駄目」
「…………どうして」
「禁忌だから」
トレシィの声から。
先ほどまでの軽さが消えた。
「死者の蘇生は、願い屋でも簡単に手を出していいものじゃない」
「でも、できるんですよね?」
「…………」
「できないとは言わなかった」
鋭い。
トレシィは少しだけ目を細めた。
「そうね」
「なら――」
「知ってるでしょう」
十夜の言葉を遮る。
「…………?」
「ワールドイーター」
「…………」
その名前は。
この世界で生きる者なら知っている。
「死者を蘇らせる」
「…………」
「本来終わった命を、世界へ無理矢理戻す」
それは。
単に人を一人生き返らせるという話ではない。
「世界の理そのものに手を加える行為よ」
「…………」
「それを繰り返せば」
トレシィは静かに十夜を見る。
「ワールドイーターが、この世界を食べに来るわよ」
「…………」
十夜は何も言わなかった。
「一人くらい」
「…………」
「二人くらい」
「…………」
「大切な人だから」
トレシィは首を振る。
「そんな例外を作っていけば、いつか世界そのものが壊れる」
「…………そうですか」
「ええ」
「…………」
十夜は俯いた。
トレシィは待った。
こういう時。
大抵の人間が言うことを知っている。
それなら別の願いを。
せっかく願い屋が目の前にいるのだ。
何か。
何でもいい。
自分のために。
「分かりました」
「…………」
それだけだった。
「……それだけ?」
「はい?」
「他には?」
「他?」
「願いよ」
「…………」
「九里夫妻は無理。でも、あなたには他にも願いがあるでしょう?」
十夜は少し考えた。
「別に」
「…………」
「ないです」
「ない?」
「はい」
「お金」
「いりません」
「出世」
「明日から訓練校ですよ、俺」
「だからよ。将来、警察で偉くなりたいとか」
「それは自分でやることじゃないですか?」
「…………」
「力」
「何に使うんです?」
「長生き」
「今のところ普通に生きられれば」
「恋愛」
「何で初対面の人にそこまで話さないといけないんですか」
「じゃあ未来を知りたい?」
「嫌ですよ」
「どうして?」
「分かってたらつまらないでしょう」
「…………」
トレシィは黙った。
十夜が困ったように笑う。
「せっかくなのに、すみません」
「…………」
「?」
「ねえ」
「はい?」
「さっきの願い」
「九里さんたち?」
「そう」
トレシィは改めて聞いた。
「あなたが、もう一度会いたかったの?」
「…………」
十夜は少し考えた。
「そりゃ、会えたら嬉しいですよ」
「なら」
「でも」
十夜は首を振る。
「龍牙に返してやりたかったんです」
「…………」
「あいつの両親だから」
「…………」
「俺は二人には十分よくしてもらいましたし」
十夜は少し寂しそうに笑った。
「だから、戻せるなら龍牙のところに戻してやりたかった」
「…………」
その瞬間。
トレシィは理解した。
「ああ」
「?」
「そういうこと」
「何がです?」
「やっと分かった」
SH.2070年代。
自分を世界へ繋ぎ止める契約者を探し始めた。
何人も見た。
強い者。
賢い者。
特別な力を持つ者。
誰も違った。
当然だった。
見る場所を。
間違えていたのだから。
「あなたじゃなきゃ駄目だった理由」
「……俺?」
「ええ」
トレシィは笑った。
「あなた、私を必要としてないのね」
「…………はい?」
「願い屋を」
「いや……」
「私と契約したい人なんて五万といるわ」
願いを叶える存在。
その力を手元へ置ける。
そんな契約を欲しがる者など。
数え切れないほどいる。
金。
地位。
力。
愛。
命。
復讐。
トレシィは。
そんな願いを、あまりにも多く見てきた。
「私ね」
「…………」
「願いを叶えすぎたの」
「願い屋なんだから、そうなんじゃないですか?」
「そうね」
誰かのため。
何かのため。
呼ばれるたびに。
願われるたびに。
願いを叶えた。
そのために世界を渡り。
時間を越え。
やがて。
自分自身が、どこにも属さなくなった。
「でもね」
トレシィは自分の手を見る。
「願いを叶えてほしい人と契約するのは、駄目だったのよ」
「……どういう意味です?」
「いつか私そのものより、私の力を必要とするようになるでしょう?」
「…………」
「願い屋と契約したいんじゃない」
願いを叶えてくれるから。
契約したい。
「それじゃ駄目なの」
自分を世界へ繋ぎ止める。
その役割を任せるには。
「だから」
トレシィは十夜を見る。
「私を必要としない人が必要だった」
「…………」
「願い屋を前にして、自分の願いが何も出てこない人」
「…………」
「唯一出てきた願いさえ」
九里夫妻を。
龍牙へ返してやりたい。
「自分のためじゃない」
「…………」
「自分は二の次」
トレシィは小さく笑った。
「そんな人だから」
「…………」
「私の契約者になれるのよ」
十夜は。
しばらく何も言わなかった。
「……よく分からないんですけど」
「あら」
「俺、願い屋と契約するのに一番向いてない人間なんじゃないですか?」
「普通ならね」
「でしょう?」
「でも」
トレシィは手を差し出した。
「私は、そんなあなたがいい」
「…………」
「神崎十夜」
願い屋が。
初めて。
自分のために願う。
「私の契約者になって」
「…………」
「これは」
少しだけ。
可笑しくなった。
「私からの願いよ」
「…………」
十夜が差し出された手を見る。
「願いには対価が必要なんでしょう?」
「…………」
トレシィが目を瞬く。
「私の言ったこと、ちゃんと聞いてたのね」
「さっき散々聞きましたから」
「そうね」
「俺が契約する」
「ええ」
「それであなたは、この世界にいられるようになる」
「そう」
「じゃあ俺は何を貰うんです?」
「…………」
トレシィは少し考える。
けれど。
答えは案外簡単だった。
「私を呼べる」
「願いないですけど」
「…………」
「…………」
「本当に可愛くないわね、あなた」
「なんでですか」
十夜が困った顔をする。
トレシィは溜息を吐いた。
「じゃあ」
もう一度。
手を差し出す。
「いつか願いができたら、聞いてあげる」
「叶えてくれるんです?」
「願い次第」
「契約者なのに?」
「禁忌は禁忌よ」
「まあ、それはそうですね」
「それに」
トレシィは笑った。
「あなたが困っていたら、少しくらいは助けてあげる」
「それが対価?」
「不満?」
「いや」
十夜も。
僅かに笑った。
「十分です」
そして。
トレシィの手を取る。
瞬間。
「――――」
世界が。
変わった。
大きな音がしたわけではない。
光が溢れたわけでもない。
ただ。
分かる。
ずっと曖昧だったもの。
時間を渡るたびに揺らいでいた、自分という存在。
それが。
初めて。
この世界へ根を下ろした。
「…………」
トレシィは自分の手を見る。
透けない。
揺らがない。
ここにいる。
「これでいいんですか?」
十夜が尋ねる。
「…………ええ」
「意外と簡単ですね」
「契約なんて、そんなものよ」
「そうなんです?」
「大事なのは儀式じゃないもの」
「じゃあ?」
「誰と繋がるか」
「…………」
「それだけよ」
十夜は頷いた。
「じゃあ俺、そろそろ帰ります」
「あら」
「明日から訓練校なんですよ」
「そうだったわね」
「遅刻したくないんで」
「頑張ってね」
「はい」
数歩。
十夜が歩いて。
「…………」
止まった。
「トレシィさん」
「なに?」
「九里さんたちのこと」
「…………」
「やっぱり」
一瞬だけ。
トレシィを見る。
「駄目なんですよね」
「ええ」
そこだけは。
契約者になったからといって変わらない。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ」
十夜は笑った。
「聞けただけでよかったです」
「…………」
「じゃあ、また」
「ええ」
今度こそ。
十夜は歩いていった。
トレシィは。
その後ろ姿を見つめる。
妙な話だった。
願い屋と契約できる。
その事実を知れば。
喜ぶ者はいくらでもいる。
利用しようとする者も。
自分だけの奇跡を手に入れたと思う者もいるだろう。
けれど。
神崎十夜は。
何も願わなかった。
唯一願ったものすら。
自分のためではなかった。
「…………なるほどね」
だから。
この男だったのだ。
自分を必要としないから。
自分の力を求めないから。
願い屋トレシィは。
安心して、この男へ自分を繋ぐことができる。
トレシィは何百、何千という願いを叶えてきた。
他人のために。
時には。
自分自身のために。
欲しいものを手に入れることにも慣れていた。
けれど。
今回だけは違った。
願い屋が願い。
人間がそれを叶えた。
「神崎十夜」
名前を呼ぶ。
不思議と。
悪くない響きだった。
「よろしくね」
SH.2090年。
警察の訓練校へ入る直前。
神崎十夜は。
願い屋トレシィの契約者となった。
願いを叶えてもらうためではない。
願い屋の力が欲しかったからでもない。
むしろ。
何も願わなかったからこそ。
数え切れないほどの願いを叶えてきた願い屋が。
最後に自分を預けることのできた人間は。
願い屋を必要としない男だった。