エマ   作:篠原えれの

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第五十五話『願いのない契約者』

 

 

 SH.2087年。

 

 その年を、トレシィは長く見届けるつもりはなかった。

 

 獅子座。

 

 灰かぶり――シンデレラ。

 

 そして、それらを迎え撃つ戦艦アルテミス。

 

 未来へ取り残されたはずのアルテミスは、もう一人ではなかった。

 

 契約者がいる。

 

 仲間がいる。

 

 自ら率いる部隊がある。

 

 守るべきものがある。

 

 だから。

 

「私が出る幕じゃないわね」

 

 願われてもいないのに手を貸すのは、願い屋の仕事ではない。

 

 ましてや。

 

 今のトレシィには、別の目的があった。

 

 細い。

 

 けれど、確実に存在する縁。

 

 まだ見ぬ契約者。

 

 この時代にはもう、先ほどまでのような奇妙な感覚はなかった。

 

 かつて途中で途切れていた縁が。

 

 今は。

 

 確かに、この世界のどこかへ続いている。

 

「…………」

 

 トレシィは目を閉じる。

 

 いる。

 

 もう生まれている。

 

 けれど。

 

「まだ、違うわね」

 

 時期ではない。

 

 そう感じた。

 

 縁そのものが幼い。

 

 契約者となる人間は存在している。

 

 だが。

 

 まだトレシィと出会うべき時ではない。

 

「もう少し先、か」

 

 急ぐ理由はない。

 

 何十年も未来を探してきたのだ。

 

 数年くらい。

 

 今更どうということもない。

 

 トレシィは一度だけ振り返った。

 

 遠く。

 

 空を切り裂く光が見えた。

 

「頑張りなさい、アルテミス」

 

 届くはずのない声で呟いて。

 

 願い屋は。

 

 再び時間を渡った。

 

     ◇

 

 SH.2088年。

 

 違う。

 

 SH.2089年。

 

「…………」

 

 近い。

 

 かなり近くなった。

 

 縁を辿れば、その人間がいる場所まで行くこともできるだろう。

 

 それでも。

 

 トレシィは会わなかった。

 

「まだね」

 

 理由は分からない。

 

 ただ。

 

 願い屋として長い間、数え切れないほどの人間と関わってきた勘がそう告げている。

 

 今ではない。

 

 そして――。

 

 さらに一年。

 

 時間を進める。

 

     ◇

 

 SH.2090年。

 

「…………」

 

 今度は。

 

 目を開けた瞬間に分かった。

 

「ああ」

 

 トレシィは笑った。

 

「ここなのね」

 

 縁が。

 

 はっきりと見える。

 

 今までとは違う。

 

 未来へ伸びていない。

 

 この時代。

 

 この世界。

 

 そして。

 

 この街のどこか。

 

「ようやく会えるわね」

 

 何十人もの人間を見た。

 

 力の強い者。

 

 魔力の多い者。

 

 特殊な能力を持つ者。

 

 神や精霊との親和性が高い者。

 

 誰も違った。

 

 では。

 

 どんな人間なのだろう。

 

 少しくらい期待しても罰は当たらない。

 

「さて」

 

 トレシィは歩き出した。

 

 縁を辿る。

 

 それは。

 

 思っていたよりずっと簡単だった。

 

 そして。

 

「…………」

 

 見つけた。

 

 一人の青年。

 

「……あれ?」

 

 トレシィは思わず声を漏らした。

 

 普通だった。

 

 本当に。

 

 どこからどう見ても。

 

 普通の青年。

 

 軍人ではない。

 

 魔術師でもない。

 

 特別な力が身体から溢れているわけでもない。

 

 それどころか。

 

「…………」

 

 トレシィは青年の周囲を一周した。

 

「何ですか?」

 

「あら」

 

「いや、『あら』じゃなくて」

 

 気づかれた。

 

 青年が怪訝そうにトレシィを見る。

 

「さっきから俺のこと見てますよね」

 

「見てるわよ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「そこ否定しないんですね」

 

「見てるもの」

 

「何か用ですか?」

 

「ええ」

 

「じゃあ普通に声掛けてもらえません?」

 

「そうね」

 

 トレシィは改めて青年を見る。

 

「名前は?」

 

「……先にそっちが名乗るものじゃないですか?」

 

「あら」

 

 なるほど。

 

「トレシィよ」

 

「トレシィ?」

 

「そう」

 

「…………外国の人?」

 

「まあ、似たようなものね」

 

「はあ」

 

「あなたは?」

 

 青年はまだ少し警戒していた。

 

 当然だろう。

 

 知らない女が突然現れて。

 

 周囲をぐるりと一周して。

 

 名前を聞いている。

 

「……神崎です」

 

「下は?」

 

「そこまで必要です?」

 

「必要よ」

 

「何に?」

 

「確認」

 

「何の?」

 

「いいから」

 

「…………」

 

 青年が小さく息を吐いた。

 

「十夜です」

 

「…………」

 

 神崎。

 

 十夜。

 

「神崎十夜」

 

「そうですけど」

 

 その名を口にした瞬間。

 

 確信した。

 

 間違いない。

 

 この男。

 

 いや。

 

 この青年だ。

 

「見つけた」

 

「……はい?」

 

「あなたよ」

 

「何がです?」

 

「私の契約者」

 

「…………」

 

 十夜の表情が固まった。

 

「すみません」

 

「なに?」

 

「俺、もう帰っていいですか?」

 

「どうして?」

 

「どうしてって……」

 

 明らかに怪しまれている。

 

「明日から訓練校なんで、準備もあるんですよ」

 

「訓練校?」

 

「警察の」

 

「あら」

 

 これから警察官になるらしい。

 

「だから、変なことに巻き込まれたくないんです」

 

「変なこととは失礼ね」

 

「初対面の人に契約者って言われたら普通そう思いますよ」

 

「私は願い屋なの」

 

「余計怪しくなったんですけど」

 

 十夜が頭を抱える。

 

 けれど。

 

 その直後だった。

 

「…………願い屋?」

 

 十夜の動きが止まった。

 

「ええ」

 

「願いって……」

 

「叶えるわよ」

 

 トレシィは笑う。

 

「相応の対価をいただければね」

 

「…………」

 

 十夜の顔から。

 

 困惑が消えた。

 

 その代わり。

 

 トレシィには見慣れたものが浮かんだ。

 

 願い。

 

「あるのね」

 

「…………」

 

「叶えたい願いが」

 

 十夜はしばらく黙っていた。

 

「本当に?」

 

「なに?」

 

「本当に願いを叶えられるんですか?」

 

「ええ」

 

「どんなものでも?」

 

「それは願い次第ね」

 

「…………」

 

 十夜が迷う。

 

 それから。

 

 意を決したように口を開いた。

 

「三年前の事件」

 

「三年前?」

 

「2087年」

 

「…………」

 

 その年なら。

 

 トレシィも覚えている。

 

「ジャンヌ・ダルクと、緑の雨」

 

「…………ええ」

 

「知ってるんですね」

 

「もちろん」

 

 十夜は少し俯いた。

 

「九里って夫婦がいたんです」

 

「九里?」

 

「俺の幼馴染の両親です」

 

「…………」

 

「龍牙っていうんですけど」

 

 九里龍牙。

 

「昔から一緒で」

 

 十夜は淡々と話していた。

 

 けれど。

 

 その声の奥にあるものは分かる。

 

「俺も、あの家にはよく行ってました」

 

「そう」

 

「飯食わせてもらったり。泊まったり。龍牙と馬鹿なことして二人まとめて怒られたり」

 

 少しだけ。

 

 十夜が笑った。

 

「俺にとっても、よく知ってる人たちでした」

 

「…………」

 

「でも」

 

 笑みが消える。

 

「二人とも、あの事件で死んだ」

 

 2087年。

 

 ジャンヌ・ダルク。

 

 緑の雨。

 

 その犠牲者。

 

「だから」

 

 十夜がトレシィを見る。

 

「もし、本当に何でも叶えられるなら」

 

 その目は。

 

 真剣だった。

 

「九里夫妻を、生き返らせてほしい」

 

「駄目よ」

 

「…………」

 

 即答だった。

 

「え?」

 

「それは叶えられない」

 

「……対価が足りないってことですか?」

 

「違う」

 

「なら、何が必要です?」

 

「何を出されても駄目」

 

「…………どうして」

 

「禁忌だから」

 

 トレシィの声から。

 

 先ほどまでの軽さが消えた。

 

「死者の蘇生は、願い屋でも簡単に手を出していいものじゃない」

 

「でも、できるんですよね?」

 

「…………」

 

「できないとは言わなかった」

 

 鋭い。

 

 トレシィは少しだけ目を細めた。

 

「そうね」

 

「なら――」

 

「知ってるでしょう」

 

 十夜の言葉を遮る。

 

「…………?」

 

「ワールドイーター」

 

「…………」

 

 その名前は。

 

 この世界で生きる者なら知っている。

 

「死者を蘇らせる」

 

「…………」

 

「本来終わった命を、世界へ無理矢理戻す」

 

 それは。

 

 単に人を一人生き返らせるという話ではない。

 

「世界の理そのものに手を加える行為よ」

 

「…………」

 

「それを繰り返せば」

 

 トレシィは静かに十夜を見る。

 

「ワールドイーターが、この世界を食べに来るわよ」

 

「…………」

 

 十夜は何も言わなかった。

 

「一人くらい」

 

「…………」

 

「二人くらい」

 

「…………」

 

「大切な人だから」

 

 トレシィは首を振る。

 

「そんな例外を作っていけば、いつか世界そのものが壊れる」

 

「…………そうですか」

 

「ええ」

 

「…………」

 

 十夜は俯いた。

 

 トレシィは待った。

 

 こういう時。

 

 大抵の人間が言うことを知っている。

 

 それなら別の願いを。

 

 せっかく願い屋が目の前にいるのだ。

 

 何か。

 

 何でもいい。

 

 自分のために。

 

「分かりました」

 

「…………」

 

 それだけだった。

 

「……それだけ?」

 

「はい?」

 

「他には?」

 

「他?」

 

「願いよ」

 

「…………」

 

「九里夫妻は無理。でも、あなたには他にも願いがあるでしょう?」

 

 十夜は少し考えた。

 

「別に」

 

「…………」

 

「ないです」

 

「ない?」

 

「はい」

 

「お金」

 

「いりません」

 

「出世」

 

「明日から訓練校ですよ、俺」

 

「だからよ。将来、警察で偉くなりたいとか」

 

「それは自分でやることじゃないですか?」

 

「…………」

 

「力」

 

「何に使うんです?」

 

「長生き」

 

「今のところ普通に生きられれば」

 

「恋愛」

 

「何で初対面の人にそこまで話さないといけないんですか」

 

「じゃあ未来を知りたい?」

 

「嫌ですよ」

 

「どうして?」

 

「分かってたらつまらないでしょう」

 

「…………」

 

 トレシィは黙った。

 

 十夜が困ったように笑う。

 

「せっかくなのに、すみません」

 

「…………」

 

「?」

 

「ねえ」

 

「はい?」

 

「さっきの願い」

 

「九里さんたち?」

 

「そう」

 

 トレシィは改めて聞いた。

 

「あなたが、もう一度会いたかったの?」

 

「…………」

 

 十夜は少し考えた。

 

「そりゃ、会えたら嬉しいですよ」

 

「なら」

 

「でも」

 

 十夜は首を振る。

 

「龍牙に返してやりたかったんです」

 

「…………」

 

「あいつの両親だから」

 

「…………」

 

「俺は二人には十分よくしてもらいましたし」

 

 十夜は少し寂しそうに笑った。

 

「だから、戻せるなら龍牙のところに戻してやりたかった」

 

「…………」

 

 その瞬間。

 

 トレシィは理解した。

 

「ああ」

 

「?」

 

「そういうこと」

 

「何がです?」

 

「やっと分かった」

 

 SH.2070年代。

 

 自分を世界へ繋ぎ止める契約者を探し始めた。

 

 何人も見た。

 

 強い者。

 

 賢い者。

 

 特別な力を持つ者。

 

 誰も違った。

 

 当然だった。

 

 見る場所を。

 

 間違えていたのだから。

 

「あなたじゃなきゃ駄目だった理由」

 

「……俺?」

 

「ええ」

 

 トレシィは笑った。

 

「あなた、私を必要としてないのね」

 

「…………はい?」

 

「願い屋を」

 

「いや……」

 

「私と契約したい人なんて五万といるわ」

 

 願いを叶える存在。

 

 その力を手元へ置ける。

 

 そんな契約を欲しがる者など。

 

 数え切れないほどいる。

 

 金。

 

 地位。

 

 力。

 

 愛。

 

 命。

 

 復讐。

 

 トレシィは。

 

 そんな願いを、あまりにも多く見てきた。

 

「私ね」

 

「…………」

 

「願いを叶えすぎたの」

 

「願い屋なんだから、そうなんじゃないですか?」

 

「そうね」

 

 誰かのため。

 

 何かのため。

 

 呼ばれるたびに。

 

 願われるたびに。

 

 願いを叶えた。

 

 そのために世界を渡り。

 

 時間を越え。

 

 やがて。

 

 自分自身が、どこにも属さなくなった。

 

「でもね」

 

 トレシィは自分の手を見る。

 

「願いを叶えてほしい人と契約するのは、駄目だったのよ」

 

「……どういう意味です?」

 

「いつか私そのものより、私の力を必要とするようになるでしょう?」

 

「…………」

 

「願い屋と契約したいんじゃない」

 

 願いを叶えてくれるから。

 

 契約したい。

 

「それじゃ駄目なの」

 

 自分を世界へ繋ぎ止める。

 

 その役割を任せるには。

 

「だから」

 

 トレシィは十夜を見る。

 

「私を必要としない人が必要だった」

 

「…………」

 

「願い屋を前にして、自分の願いが何も出てこない人」

 

「…………」

 

「唯一出てきた願いさえ」

 

 九里夫妻を。

 

 龍牙へ返してやりたい。

 

「自分のためじゃない」

 

「…………」

 

「自分は二の次」

 

 トレシィは小さく笑った。

 

「そんな人だから」

 

「…………」

 

「私の契約者になれるのよ」

 

 十夜は。

 

 しばらく何も言わなかった。

 

「……よく分からないんですけど」

 

「あら」

 

「俺、願い屋と契約するのに一番向いてない人間なんじゃないですか?」

 

「普通ならね」

 

「でしょう?」

 

「でも」

 

 トレシィは手を差し出した。

 

「私は、そんなあなたがいい」

 

「…………」

 

「神崎十夜」

 

 願い屋が。

 

 初めて。

 

 自分のために願う。

 

「私の契約者になって」

 

「…………」

 

「これは」

 

 少しだけ。

 

 可笑しくなった。

 

「私からの願いよ」

 

「…………」

 

 十夜が差し出された手を見る。

 

「願いには対価が必要なんでしょう?」

 

「…………」

 

 トレシィが目を瞬く。

 

「私の言ったこと、ちゃんと聞いてたのね」

 

「さっき散々聞きましたから」

 

「そうね」

 

「俺が契約する」

 

「ええ」

 

「それであなたは、この世界にいられるようになる」

 

「そう」

 

「じゃあ俺は何を貰うんです?」

 

「…………」

 

 トレシィは少し考える。

 

 けれど。

 

 答えは案外簡単だった。

 

「私を呼べる」

 

「願いないですけど」

 

「…………」

 

「…………」

 

「本当に可愛くないわね、あなた」

 

「なんでですか」

 

 十夜が困った顔をする。

 

 トレシィは溜息を吐いた。

 

「じゃあ」

 

 もう一度。

 

 手を差し出す。

 

「いつか願いができたら、聞いてあげる」

 

「叶えてくれるんです?」

 

「願い次第」

 

「契約者なのに?」

 

「禁忌は禁忌よ」

 

「まあ、それはそうですね」

 

「それに」

 

 トレシィは笑った。

 

「あなたが困っていたら、少しくらいは助けてあげる」

 

「それが対価?」

 

「不満?」

 

「いや」

 

 十夜も。

 

 僅かに笑った。

 

「十分です」

 

 そして。

 

 トレシィの手を取る。

 

 瞬間。

 

「――――」

 

 世界が。

 

 変わった。

 

 大きな音がしたわけではない。

 

 光が溢れたわけでもない。

 

 ただ。

 

 分かる。

 

 ずっと曖昧だったもの。

 

 時間を渡るたびに揺らいでいた、自分という存在。

 

 それが。

 

 初めて。

 

 この世界へ根を下ろした。

 

「…………」

 

 トレシィは自分の手を見る。

 

 透けない。

 

 揺らがない。

 

 ここにいる。

 

「これでいいんですか?」

 

 十夜が尋ねる。

 

「…………ええ」

 

「意外と簡単ですね」

 

「契約なんて、そんなものよ」

 

「そうなんです?」

 

「大事なのは儀式じゃないもの」

 

「じゃあ?」

 

「誰と繋がるか」

 

「…………」

 

「それだけよ」

 

 十夜は頷いた。

 

「じゃあ俺、そろそろ帰ります」

 

「あら」

 

「明日から訓練校なんですよ」

 

「そうだったわね」

 

「遅刻したくないんで」

 

「頑張ってね」

 

「はい」

 

 数歩。

 

 十夜が歩いて。

 

「…………」

 

 止まった。

 

「トレシィさん」

 

「なに?」

 

「九里さんたちのこと」

 

「…………」

 

「やっぱり」

 

 一瞬だけ。

 

 トレシィを見る。

 

「駄目なんですよね」

 

「ええ」

 

 そこだけは。

 

 契約者になったからといって変わらない。

 

「ごめんなさい」

 

「謝らなくていいですよ」

 

 十夜は笑った。

 

「聞けただけでよかったです」

 

「…………」

 

「じゃあ、また」

 

「ええ」

 

 今度こそ。

 

 十夜は歩いていった。

 

 トレシィは。

 

 その後ろ姿を見つめる。

 

 妙な話だった。

 

 願い屋と契約できる。

 

 その事実を知れば。

 

 喜ぶ者はいくらでもいる。

 

 利用しようとする者も。

 

 自分だけの奇跡を手に入れたと思う者もいるだろう。

 

 けれど。

 

 神崎十夜は。

 

 何も願わなかった。

 

 唯一願ったものすら。

 

 自分のためではなかった。

 

「…………なるほどね」

 

 だから。

 

 この男だったのだ。

 

 自分を必要としないから。

 

 自分の力を求めないから。

 

 願い屋トレシィは。

 

 安心して、この男へ自分を繋ぐことができる。

 

 トレシィは何百、何千という願いを叶えてきた。

 

 他人のために。

 

 時には。

 

 自分自身のために。

 

 欲しいものを手に入れることにも慣れていた。

 

 けれど。

 

 今回だけは違った。

 

 願い屋が願い。

 

 人間がそれを叶えた。

 

「神崎十夜」

 

 名前を呼ぶ。

 

 不思議と。

 

 悪くない響きだった。

 

「よろしくね」

 

 SH.2090年。

 

 警察の訓練校へ入る直前。

 

 神崎十夜は。

 

 願い屋トレシィの契約者となった。

 

 願いを叶えてもらうためではない。

 

 願い屋の力が欲しかったからでもない。

 

 むしろ。

 

 何も願わなかったからこそ。

 

 数え切れないほどの願いを叶えてきた願い屋が。

 

 最後に自分を預けることのできた人間は。

 

 願い屋を必要としない男だった。

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