ラウル王国が滅びた。
紫の雨との開戦から、僅か一ヶ月。
神精霊ジンの消滅が確認され。
アイザック王は死亡。
ルーク王子もまた、アージェリカで星魅の巫女へ最後の一撃を叩き込んだ後、その命を落とした。
そして今。
かつてラウル王国と呼ばれた土地は、猛毒の紫に染まっている。
国が一つ。
世界から消えた。
ならば次は。
「…………」
星魅の巫女は、一つの国を見つめていた。
――エルサイア。
次に滅ぼすべき国。
しかし。
ラウル王国と同じ方法は使えない。
「困りましたね」
エルサイアが強大だからではない。
もちろん、弱い国ではなかった。
魔法。
魔術。
魔道具。
スフロン水晶を利用した技術。
優秀な騎士や魔術師も数多く存在する。
それでも。
正面から戦うだけなら、方法はいくらでもある。
問題は。
場所だった。
エルサイアの近くには。
塔コアスピアがある。
三つの世界の秩序を管理する塔。
そして。
そこには。
「ジャンヌ・ダルク」
調停者がいる。
敵ではない。
味方でもない。
ジャンヌ・ダルクにとって重要なのは。
どちらが善で。
どちらが悪か。
そんなことではない。
世界の均衡。
ただ、それだけ。
星魅の巫女がエルサイアへ大規模な軍勢を送り込む。
エルサイアがそれを迎え撃つ。
戦火が拡大する。
その結果。
塔コアスピアにまで影響が及べば。
ジャンヌは。
おそらく双方を裁く。
「それは避けたいですね」
勝てるかどうか。
そんな話ではない。
戦う必要のない相手と戦う理由がない。
ならば。
ジャンヌ・ダルクが介入できない形で。
エルサイアを滅ぼせばいい。
「…………」
星魅の巫女は考える。
そして。
やがて。
「ああ」
小さく笑った。
「簡単なことでした」
星魅の巫女が。
エルサイアと戦う必要などない。
エルサイアを滅ぼすのは。
エルサイア人でいい。
「戦争にしなければいいんですね」
軍勢は送らない。
雨も降らせない。
宣戦布告もしない。
ただ。
国の内側にいる人間を。
壊す。
精神を汚染し。
認識を歪ませ。
愛情も。
憎悪も。
忠誠も。
少しずつ。
別のものへ変えていく。
そして。
エルサイア人自身に。
エルサイアを殺してもらう。
それなら。
表面上。
星魅の巫女は何もしていない。
◇
問題は。
誰を選ぶか。
強ければいいわけではない。
強者一人を暴れさせたところで。
軍を投入され。
鎮圧されれば終わる。
必要なのは。
殺した時。
国そのものが揺らぐ人物へ。
自然に近づける人間。
「…………」
何人もの人間を見て。
星魅の巫女は。
一人の男で止まった。
「コウヤ」
ギルの息子。
クイントの夫。
王族の内側にいて。
聖騎士にも近い。
何より。
その二人が。
コウヤを信頼している。
「いいですね」
これ以上の人選はない。
最初に殺すのは。
ギル。
ただ。
殺すだけでは。
勿体ない。
「《聖騎士》」
王を守るための力。
ギルが持つそのスキルを。
まず。
コウヤに奪わせる。
その後。
ギルを殺す。
父を殺した息子が。
父の《聖騎士》を持つ。
そして。
次は。
「クイント」
国王。
コウヤの妻。
ギルから奪った。
王を守るための力で。
王を殺す。
「…………」
星魅の巫女は。
しばらく。
その未来を眺めるように目を細めた。
聖騎士ギルが死ぬ。
国王クイントが死ぬ。
そして。
二人を殺したのは。
敵国の兵士でも。
怪物でもない。
コウヤ。
ギルの息子。
クイントの夫。
それだけで。
エルサイアは大きく揺らぐ。
だが。
それだけではない。
「ここまでやれば」
星魅の巫女は笑った。
「あなたも、黙ってはいないでしょう?」
――ミカエル。
ギルが殺され。
クイントが殺され。
コウヤが壊された。
そして。
その原因が。
自分だと分かれば。
ミカエルは。
必ず動く。
それも。
計画のうちだった。
◇◇◇
同じ頃。
エルサイア王宮では。
コウヤが。
長い廊下を歩いていた。
落ち着かなかった。
何度座っても。
すぐに立ってしまう。
だからといって。
何かできるわけでもない。
「…………」
扉を見る。
その向こうに。
クイントがいる。
もう。
随分長い。
「大丈夫だ」
突然。
横から声がした。
コウヤが顔を上げる。
「父さん」
ギルだった。
「…………」
「そんな顔をするな」
「どんな顔だよ」
「今にも自分が死にそうな顔だ」
「…………」
否定できなかった。
「クイントは強い」
「分かってるよ」
「なら信じろ」
「信じてる」
即答だった。
それでも。
「……心配なもんは心配なんだよ」
「そうだな」
珍しく。
ギルは否定しなかった。
コウヤが。
隣を見る。
「父さんも?」
「何がだ」
「俺が生まれた時」
「…………」
ギルは。
少し考えた。
「心配だった」
「へえ」
「何だ、その反応は」
「いや。父さんでもそうなるんだなって」
「俺を何だと思っている」
「聖騎士」
「その前にお前の父親だ」
「…………」
コウヤは。
少し笑った。
「そっか」
「ああ」
再び。
扉を見る。
今度は。
少しだけ。
落ち着いて待つことができた。
そして。
どれほど経った頃だろう。
「――――」
小さな声がした。
「…………」
コウヤが。
顔を上げる。
ギルも。
同じように扉を見る。
もう一度。
聞こえた。
赤ん坊の。
泣き声。
「…………父さん」
「ああ」
コウヤは。
立ち上がった。
けれど。
扉へ駆け寄ることはしなかった。
ただ。
その場で。
待った。
やがて。
扉が開く。
「コウヤ様」
「クイントは?」
最初に出たのは。
それだった。
「大丈夫です。母子ともに無事ですよ」
「…………」
コウヤが。
大きく息を吐いた。
肩から。
力が抜ける。
「よかった……」
「女の子ですよ」
「…………そっか」
女の子。
その言葉を聞いて。
ようやく。
笑った。
「会える?」
「ええ。ただ、奥様もお疲れですから」
「分かってる。無理させないよ」
◇
部屋へ入る時。
コウヤは。
自然と足音を小さくしていた。
ベッドの上。
クイントがいる。
顔には。
疲労が滲んでいた。
それでも。
コウヤを見つけると。
柔らかく笑った。
「コウヤ」
「…………クイント」
コウヤは。
まず。
彼女の傍へ行った。
「大丈夫?」
「うん」
「しんどくない?」
「しんどい」
「そりゃそうだよな」
苦笑する。
「何かいる?」
「今は大丈夫」
「水は?」
「さっき飲んだ」
「痛いところは」
「コウヤ」
「何?」
「大丈夫だから」
「…………」
「心配しすぎ」
「するだろ」
コウヤは。
小さく息を吐いた。
「ずっと心配だったんだから」
「……うん」
「無事でよかった」
その言葉に。
クイントが。
少しだけ目を細める。
「ありがと」
「…………」
そこで。
ようやく。
コウヤは。
クイントの腕の中を見る。
「…………」
いた。
小さな。
赤ん坊。
「…………」
「見る?」
「うん」
近づく。
けれど。
手は出さない。
まず。
ただ。
見る。
「……小さいな」
「小さいね」
「これ」
「うん」
「俺たちの子なんだよな」
「そうだよ」
「…………」
不思議だった。
ずっと。
分かっていたはずなのに。
実際に目の前にすると。
何も言葉が出てこない。
「抱いてみる?」
「いいの?」
「いいに決まってるでしょ」
「でも、クイントしんどいだろ。もう少しそのままでいいよ」
「私は大丈夫」
「…………」
「抱いてあげて」
「……うん」
恐る恐る。
腕を出す。
クイントに教えてもらいながら。
慎重に。
受け取った。
「…………」
軽い。
温かい。
腕の中に。
命がある。
「…………怖いな」
「何が?」
「小さすぎて」
力を入れたら。
壊してしまいそうで。
「俺さ」
「うん」
「魔道具なら、壊れてても直せるんだけど」
「……うん」
「この子は、そういうわけにいかないだろ」
「当たり前でしょ」
「だから怖い」
クイントは。
少しだけ笑った。
「大丈夫」
「…………」
「ちゃんと抱けてるよ」
「ほんと?」
「うん」
「…………そっか」
それだけで。
少し。
安心した。
赤ん坊が。
小さく動く。
「…………!」
「どうしたの?」
「動いた」
「動くよ」
「俺の腕で」
「そこにいるんだから」
「…………」
コウヤは。
思わず笑った。
「すごいな」
「何が?」
「分かんない」
「何それ」
「でも」
腕の中を見る。
「すごい」
クイントも。
笑った。
そして。
少し離れたところで。
ギルが。
黙って。
その光景を見ている。
「父さん」
「何だ」
「見て」
「見ている」
「俺の娘」
「ああ」
「…………」
コウヤが。
赤ん坊を見る。
「俺、父親なんだな」
今まで。
何度も考えた。
もうすぐ。
父親になる。
そう思っていた。
でも。
今。
ようやく。
その意味が。
分かった気がした。
「よろしくな」
赤ん坊へ。
静かに。
声をかける。
「俺が父さんだから」
ちゃんと。
守る。
クイントも。
この子も。
自分の家族を。
その言葉を。
口にはしなかった。
でも。
そう思った。
「…………」
ギルが。
そんな息子を見ている。
そして。
「父さん」
「何だ」
「抱く?」
「…………」
「無理にとは言わないけど」
「いや」
ギルが。
少しだけ。
腕を出した。
「抱かせてくれ」
「うん」
今度は。
コウヤが慎重に。
娘を渡す。
「…………」
ギルは。
しばらく。
何も言わなかった。
「父さん?」
「…………小さいな」
「俺と同じ感想じゃん」
「仕方ないだろう」
「俺が生まれた時もこんなだった?」
「もっと騒がしかった」
「俺が?」
「お前が」
「覚えてるじゃん」
「…………」
「さっき覚えてないって言ってたのに」
「細かいことは忘れた」
「はいはい」
クイントが。
小さく笑った。
コウヤも。
笑う。
そして。
ギルも。
ほんの少しだけ。
笑っていた。
家族が。
一人増えた日だった。
誰も。
その先にあるものなど。
知らなかった。
◇◇◇
「――生まれましたか」
星魅の巫女は。
遠く離れた場所から。
その光景を見ていた。
クイント。
コウヤ。
ギル。
そして。
生まれたばかりの娘。
「…………」
少しだけ。
予定が変わった。
いや。
変わったというほどではない。
むしろ。
「都合がよくなりましたね」
コウヤは。
父親になった。
守るものが。
さらに増えた。
ギル。
クイント。
娘。
家族。
その全てを。
愛している。
「なら」
壊した後。
自分が何をしたのか理解した時。
より深く。
壊れる。
「…………」
だが。
娘を殺す必要はない。
そんなことをしなくても。
十分だった。
ギルを殺す。
クイントを殺す。
それだけで。
目的は果たせる。
「コウヤ」
あなたに。
父を殺してもらう。
そして。
妻を殺してもらう。
それで。
エルサイアは。
大きく崩れる。
そして。
もう一人。
「シュテー」
映像が変わる。
青年。
個人戦闘力の高さだけでも。
十分な価値がある。
だが。
それ以上に。
「トレシィの後継者」
星魅の巫女は。
最初から知っていた。
だからこそ。
選んだ。
「あなたなら、どうします?」
願い屋。
トレシィ。
自分の後継者が。
精神を汚染され。
敵として。
国を破壊し始める。
「助けますか?」
それとも。
願いと対価がなければ。
動かないのか。
「楽しみですね」
星魅の巫女は。
微笑んだ。
シュテーは。
エルサイアを壊すための戦力。
そして。
トレシィへの。
明確な挑発。
だが。
コウヤは。
違う。
コウヤには。
そのさらに先がある。
「…………」
ギルが死ぬ。
クイントが死ぬ。
その原因が。
星魅の巫女による精神汚染だと。
明らかになる。
そうすれば。
必ず。
一人の男が。
動く。
「ミカエル」
星魅の巫女は。
静かに。
その名を呼んだ。
来る。
必ず。
そして。
自分を。
殺す。
「それでいいんです」
むしろ。
そうしてもらわなければ。
困る。
星魅の巫女は。
既に。
あまりにも大きな存在になっていた。
軍。
配下。
兵器。
領域。
星魅の巫女という存在を中心に。
あまりにも多くのものが。
動いている。
もし。
それを放置したまま。
星魅の巫女だけが。
不自然に消滅すれば。
軍を束ねる者が。
いなくなる。
命令する者も。
止める者も。
いなくなる。
そして。
星魅の巫女という巨大な存在が。
何の代替もなく。
突然。
世界から消えれば。
エマそのものも。
存在を維持することが難しくなる。
「それだけは」
星魅の巫女は。
静かに呟いた。
「避けなければなりません」
だから。
後継が必要になる。
自分が消えた後。
星魅の巫女へ。
成り代わる者。
軍を束ね。
残された力を制御し。
世界に生まれる空白を。
埋める者。
そして。
それができる存在を。
星魅の巫女は。
一人しか知らない。
「ミカエル」
彼なら。
自分を殺せる。
そして。
自分が残したものを。
背負うこともできる。
だが。
本人には。
教えない。
「…………」
ミカエルは。
星魅の巫女を殺す。
自分が。
災厄を止めたのだと。
そう思う。
そして。
その後。
気づく。
主を失った軍が残っている。
星魅の巫女が。
世界から。
不自然に欠落した。
エマそのものが。
その空白に耐えられない。
「その時」
星魅の巫女は。
目を細めた。
「あなたは、分かるでしょう」
殺して。
終わりではなかった。
自分は。
星魅の巫女という存在を。
世界から消してしまった。
なら。
その穴を。
誰かが。
埋めなければならない。
そして。
その場にいる。
自分なら。
できる。
「…………」
ミカエルは。
望まないだろう。
自分が。
星魅の巫女になることなど。
拒絶するかもしれない。
けれど。
「あなたは」
星魅の巫女は。
笑った。
「世界を見捨てられない」
自分が嫌だから。
それだけの理由で。
エマを。
崩壊させることなど。
できない男だ。
なら。
答えは。
最初から。
一つしかない。
星魅の巫女を殺した男が。
次の。
星魅の巫女になる。
「…………」
そのために。
まず。
コウヤを壊す。
ギルを殺させる。
《聖騎士》を奪わせる。
クイントを殺させる。
エルサイアを。
内側から崩す。
ミカエルを。
自分の前へ。
引きずり出す。
そして。
自分を。
殺してもらう。
もう一方では。
シュテーを壊す。
トレシィの後継者だと。
分かった上で。
手を出す。
「…………」
星魅の巫女は。
もう一度。
エルサイアを見る。
まだ。
そこには。
幸福な時間が流れていた。
クイントは。
疲れた身体を休めている。
その傍には。
コウヤがいる。
ギルがいる。
そして。
生まれたばかりの。
小さな娘。
「…………」
コウヤが。
娘の小さな手へ。
指を差し出した。
赤ん坊が。
それを。
握る。
「……クイント」
「何?」
「握った」
「うん」
「すげえ力」
「そんなに?」
「離さない」
「気に入られたんじゃない?」
「そっか」
コウヤが。
嬉しそうに笑う。
「じゃあ、このままでいる」
「ずっと?」
「離してくれるまで」
「ふふ。好きにしたら」
「うん」
クイントが。
目を閉じる。
「寝ていいよ」
コウヤが。
声を落とした。
「ここにいるから」
「……うん」
「何かあったら起こして」
「分かった」
しばらくして。
クイントの呼吸が。
ゆっくりになる。
コウヤは。
それを確認してから。
赤ん坊を見る。
「…………」
小さな手は。
まだ。
コウヤの指を握っている。
「よろしくな」
もう一度。
小さく。
言った。
「ちゃんと守るから」
その言葉を。
遠くから。
星魅の巫女だけが。
聞いていた。
「…………」
そして。
静かに。
目を伏せる。
「そうですか」
守る。
父を。
妻を。
娘を。
国を。
だからこそ。
星魅の巫女は。
コウヤを選んだ。
何も持たない者を壊しても。
国は滅びない。
大切なものを。
たくさん持っている者だからこそ。
その手で。
全てを壊させる意味がある。
「今は」
星魅の巫女は。
その幸福を。
壊さなかった。
「もう少しだけ」
娘の手を握る。
父親でいればいい。
妻を愛する。
夫でいればいい。
父と笑う。
息子でいればいい。
その全てが。
後に。
コウヤ自身を。
殺すほどの記憶になる。
そして。
その先で。
ミカエルが。
自分の前へ来る。
「お待ちしています」
星魅の巫女は。
まだ何も知らない男へ。
静かに。
告げた。
「ミカエル」
私を殺してください。
その後で。
あなたは知る。
星魅の巫女を。
ただ消すことなど。
できなかったのだと。
軍を。
世界を。
エマを。
残すためには。
誰かが。
その席へ。
座らなければならない。
そして。
あなたは。
それを知ってしまえば。
決して。
世界を見捨てられない。
だから。
最後には。
自ら。
選ぶことになる。
自分が殺した存在へ。
自分自身が成り代わることを。