生まれてから、まだ数日。
エルサイア王宮には、これまでなかった小さな泣き声が響くようになった。
その声が聞こえるたび。
誰かが様子を見に来る。
コウヤはもちろん。
ギルも。
何かと理由をつけては顔を覗かせていた。
けれど今は。
珍しく。
部屋の中にはクイントとミリィしかいない。
「…………」
ミリィは、揺り籠の中を覗き込んでいた。
赤ん坊は眠っている。
小さな胸が、ゆっくりと上下している。
時々。
握っていた手が開いて。
また。
何かを掴むように閉じる。
「よく寝てるね」
クイントの声に。
ミリィは微笑んだ。
「そうですね」
「さっきまで全然寝なかったのに」
「疲れたんでしょうか」
「赤ちゃんって何に疲れるんだろ」
「泣くのも大変なんじゃないですか?」
「そっか」
クイントも。
揺り籠を見る。
「じゃあ、ゆっくり寝てもらお」
「はい」
ミリィは。
もう一度。
赤ん坊へ視線を戻した。
「…………」
先ほどから。
感じているものがある。
最初は。
まだ生まれたばかりだから。
はっきりしないと思っていた。
けれど。
違った。
見れば見るほど。
確信へ変わっていく。
「クイント」
「何?」
「この子なんですけど」
「うん」
ミリィは。
眠っている赤ん坊を見ながら。
ごく自然に。
告げた。
「次の王になりますよ」
「…………」
クイントが。
一度。
娘を見る。
それから。
ミリィを見る。
「この子が?」
「はい」
「私の次?」
「そうです」
「へえ……」
驚いてはいる。
けれど。
疑ってはいなかった。
どうして分かるのか。
そんなことを。
わざわざ尋ねる必要もない。
ミリィなら。
分かるのだろう。
そういうものだと。
クイントは。
昔から知っている。
「そっかぁ」
もう一度。
娘を見る。
「この子が次の王か」
「はい」
「…………」
言われても。
全く。
そうは見えない。
当然だ。
まだ。
生まれたばかりなのだから。
「全然想像できない」
「今はそれでいいと思いますよ」
「だよね」
クイントが。
少し笑う。
「だって今、この子ができることって泣くか寝るかくらいだもん」
「それも大切なお仕事ですよ」
「飲むのもあるか」
「ありますね」
「じゃあ三つ」
「十分じゃないですか?」
「王様になるにはちょっと足りないね」
「これから増えていきますよ」
「そっか」
クイントが笑う。
ミリィも。
穏やかに笑った。
それくらい。
自然な会話だった。
ただ。
しばらくして。
クイントが。
少しだけ考えるように。
娘を見た。
「……次の王ってことは」
「はい」
「いつか私から、この子に王位が移るんだよね」
「そうなります」
「いつ頃?」
「そこまでは分かりません」
「そっか」
クイントは。
それ以上。
追及しなかった。
ミリィが分からないと言うなら。
今は分からない。
それだけだ。
「…………」
ただ。
クイントには。
一つ。
思うことがあった。
「私、十歳だったんだよね」
「王になった時ですか?」
「うん」
十歳。
今になって考えれば。
幼い。
あまりにも。
幼かった。
「その時はさ」
クイントは。
娘を見ながら続ける。
「自分が王になるって言われても、よく分かってなかった」
「そうでしょうね」
「やらなきゃいけないからやってたって感じ」
もちろん。
嫌だったわけではない。
投げ出したかったわけでもない。
けれど。
王という立場の重さを。
十歳の自分が。
本当の意味で理解していたかと聞かれれば。
違う。
「だから」
クイントは。
揺り籠へ手を伸ばした。
娘の小さな手へ。
指先を触れさせる。
「この子には、ちゃんと教えてあげたいな」
「王になるためのことを?」
「それもあるけど」
クイントは。
少し考える。
「いろいろ」
「いろいろ、ですか?」
「うん」
王になる方法だけを。
教えたいわけではない。
「普通に遊んだり」
「はい」
「好きなもの見つけたり」
「はい」
「失敗したり」
「それも大切ですね」
「でしょ?」
「ええ」
「王になるからって、それだけになってほしくない」
クイント自身が。
十歳から王だったからこそ。
そう思う。
「この子には、この子の人生があるし」
「そうですね」
「それで大きくなって」
いつか。
本当に。
王位を渡す時が来たら。
「その時、ちゃんと渡してあげられたらいいな」
「…………」
ミリィは。
そんなクイントを見て。
柔らかく微笑んだ。
「クイントなら、大丈夫ですよ」
「そう?」
「はい」
「まだ何にも考えてないよ?」
「今から全部考える必要はありません」
「それもそうか」
「この子は、まだ生まれたばかりですから」
「うん」
まだ。
王ではない。
王になるために。
何かをする必要もない。
今は。
ただ。
生まれたばかりの娘。
それだけでいい。
「ねえ、ミリィ」
「はい」
「コウヤにも言った方がいい?」
「それは、クイントが決めていいと思いますよ」
「うーん」
クイントが。
少し考える。
「まだいいかな」
「分かりました」
「今言ったら絶対いろいろ考え始めるもん」
「そうですね」
「ただでさえ今、この子のことで頭いっぱいなのに」
ミリィが。
小さく笑った。
「コウヤ、ずっと見ていますからね」
「そうなの」
「昨日もいましたね」
「夜中に目覚めたら隣で見てたよ」
「ずっとですか?」
「分かんない。でも私が起きたらいた」
「それは少し驚きますね」
「でしょ?」
「心配なんでしょうね」
「分かるけどさ」
クイントも。
娘を見る。
「私だって心配だし」
「はい」
「でも」
少し笑った。
「コウヤには今、王様とかそういうこと考えないで、この子のお父さんしててほしいかな」
「いいと思います」
「でしょ?」
「はい」
「じゃあ、まだ内緒」
「分かりました」
ミリィは。
それ以上。
何も言わなかった。
◇◇◇
それから少しして。
扉が。
静かに叩かれた。
「クイント?」
「起きてるよ」
「入っていい?」
「いいよ」
扉が開く。
コウヤだった。
「どう?」
「何が?」
「身体」
「ああ。だいぶ楽」
「ほんと?」
「ほんと」
「ならよかった」
コウヤは。
それでも。
クイントの顔を。
少しだけ確認するように見る。
「無理してない?」
「してないって」
「何か欲しいものある?」
「今は大丈夫」
「水は?」
「ある」
「食べれそう?」
「あとで」
「分かった」
「…………」
クイントが。
笑う。
「何?」
「いや」
「…………?」
「ほんと心配性だなって」
「仕方ないだろ」
「まあね」
そして。
コウヤの視線が。
自然と。
揺り籠へ向かう。
「寝てる?」
「寝てるよ」
「…………」
そっと。
覗き込む。
「よく寝てるな」
「さっきまで全然寝なかったんだけどね」
「泣いてた?」
「ちょっと」
「大丈夫だった?」
「大丈夫」
「そっか」
安心したように。
コウヤが笑う。
ミリィは。
そんな二人を見ていた。
「…………」
次の王。
それを。
今。
コウヤは知らない。
自分が見ている。
この小さな娘が。
いつか。
エルサイアの玉座に座ることを。
「抱いていい?」
「起こさないようにね」
「分かってる」
慎重に。
コウヤが。
娘を抱き上げる。
「…………」
「どう?」
「寝てる」
「よかったね」
「うん」
その声まで。
いつもより。
小さい。
クイントが。
その様子を見ながら笑っている。
ミリィも。
自然と笑った。
今は。
これでいい。
未来の国王ではなく。
ただ。
二人の娘として。
愛されていればいい。
「…………」
ただ。
ミリィは。
もう一度。
小さな赤ん坊を見る。
間違いない。
この子が。
クイントの次の。
エルサイア国王。
そのことは。
はっきりと分かる。
けれど。
分からないことが。
一つだけあった。
――いつ。
クイントから。
この子へ。
王位が渡るのか。
何十年も先なのかもしれない。
クイントが。
自ら退位して。
娘へ託すのかもしれない。
それなら。
何も問題はない。
けれど。
「…………」
「ミリィ?」
クイントに呼ばれ。
ミリィは顔を上げた。
「はい?」
「どうしたの?」
「いえ」
ミリィは。
いつものように。
穏やかに笑った。
「何でもありませんよ」
分からない未来を。
今。
心配する必要はない。
ただ。
クイントの次に。
この子が王になる。
それだけ。
それだけのことなのに。
何故か。
ほんの少しだけ。
胸の奥に。
引っかかるものがあった。
それでも。
今はまだ。
誰も知らない。
クイントが。
娘へ王位を譲る日は。
彼女たちが思っているよりも。
ずっと。
早く訪れることを。