娘が生まれてから。
コウヤの生活は、少し変わった。
大きく変わったようにも思えるし。
何も変わっていないようにも思える。
「…………」
夜。
コウヤはベッドから少しだけ身体を起こした。
隣を見る。
クイントが眠っている。
疲れているのだろう。
娘が生まれてから、以前のように朝までずっと眠れる日はほとんどない。
起こさないように。
そっと。
ベッドから出る。
向かった先は。
小さな揺り籠。
「…………」
覗き込む。
眠っている。
「……よし」
何が、よしなのか。
自分でもよく分からない。
ただ。
ちゃんと息をしている。
それを確認したかった。
「…………」
もう一度。
クイントを見る。
眠っている。
こちらも。
大丈夫。
「……よし」
今度こそ。
コウヤはベッドへ戻った。
横になる。
目を閉じる。
眠る前。
ぼんやりと思う。
不思議だ。
少し前まで。
この部屋には。
自分とクイントしかいなかった。
それが。
今は。
一人増えている。
家族が。
増えた。
「…………」
守らないとな。
クイントも。
娘も。
ちゃんと。
守らないと。
そんなことを考えながら。
コウヤは。
眠りへ落ちた。
◇
――暗い。
「…………?」
何も見えない。
自分が立っているのか。
座っているのか。
それすら。
よく分からない。
「…………」
どこだ。
そう思った。
けれど。
声にはならなかった。
身体がないような。
意識だけが。
そこに浮いているような。
妙な感覚。
そして。
「――あなたは」
声がした。
「…………」
女の声。
知らない。
聞き覚えもない。
なのに。
不思議なくらい。
はっきり聞こえる。
「あなたは、聖騎士になりたかったんでしょう?」
「…………」
何を。
言っている。
そう思ったところで。
◇
「…………」
目が覚めた。
「…………?」
天井。
見慣れた。
自分たちの部屋。
「…………」
コウヤは。
しばらく。
天井を見ていた。
「……夢?」
身体を起こす。
まだ。
夜。
隣には。
クイントがいる。
娘も。
眠っている。
「…………」
何だったんだ。
今の。
怖い夢ではない。
何かに追われたわけでも。
傷つけられたわけでもない。
ただ。
知らない女から。
一言。
言われただけ。
――あなたは、聖騎士になりたかったんでしょう?
「…………」
コウヤは。
小さく。
息を吐いた。
「懐かしいな……」
本当に。
昔の話だ。
まだ。
自分が子供だった頃。
父親の背中は。
今より。
ずっと大きく見えた。
聖騎士ギル。
王を守り。
国を守る。
エルサイアの騎士。
その姿に。
憧れていた。
自分も。
父親みたいになりたい。
いつか。
聖騎士になりたい。
そんなことを。
本気で思っていた時期がある。
「…………」
いつ。
諦めたんだっけ。
いや。
諦めた。
という感覚すら。
なかった。
錬金術を覚えた。
魔道具を作るようになった。
自分にできることを見つけた。
クイントと一緒にいる時間が増えた。
結婚した。
そして。
今は。
娘までいる。
父親と。
同じものになる必要なんてない。
そう思えるようになった。
それだけだ。
「……変な夢」
コウヤは。
もう一度。
横になった。
そして。
今度こそ。
朝まで眠った。
◇◇◇
「コウヤ」
「ん?」
「それ、塩」
「…………」
手を見る。
持っていた。
「…………」
「何してるの?」
「いや」
「砂糖取ろうとしてなかった?」
「…………」
「コウヤ?」
「寝ぼけてた」
「朝から?」
「朝だからだろ」
「もう昼だよ」
「…………」
コウヤが。
窓を見る。
「ほんとだ」
「大丈夫?」
クイントが。
少し心配そうに。
こちらを見る。
「大丈夫大丈夫」
「寝れてない?」
「寝てるよ」
「夜中に起きてるでしょ」
「…………」
「知ってるからね」
「何が?」
「この子見に行ってるの」
「…………」
コウヤは。
娘を見る。
「気づいてた?」
「そりゃ気づくよ」
「起こしてた?」
「そこまでは」
「ならよかった」
「でも」
クイントが。
少し呆れたように笑う。
「毎回見に行かなくても大丈夫だって」
「分かってる」
「ほんと?」
「…………」
「分かってない顔してる」
「だってさ」
コウヤは。
娘を見る。
「ちゃんと息してるかなって思うだろ」
「するけど」
「ほら」
「でも私は毎回起きて見に行かないよ」
「…………」
「寝なよ」
「はい」
「今日からちゃんと」
「努力します」
「努力じゃなくて寝るの」
「はいはい」
いつも通り。
クイントが笑う。
コウヤも。
笑った。
夢のことなど。
その時には。
もう。
ほとんど気にしていなかった。
◇◇◇
二日後。
また。
同じ夢を見た。
「…………」
暗闇。
そして。
同じ女。
「あなたは聖騎士になりたかったんでしょう?」
「…………」
またか。
今度は。
そう思った。
「昔はな」
何故か。
声が出た。
「どうして諦めたんですか?」
「…………」
答えようとした。
けれど。
その前に。
目が覚めた。
「…………」
コウヤは。
目を開けたまま。
しばらく。
動かなかった。
「…………また?」
同じ夢。
しかも。
今度は。
会話をした。
「…………」
気持ち悪い。
少しだけ。
そう思った。
◇
さらに。
三日後。
「あなたは聖騎士になりたかったんでしょう?」
「……またそれ?」
「はい」
「昔の話だって」
「そうですか」
「そうだよ」
「では」
女は。
穏やかに。
問いかけた。
「もう、なりたくないんですか?」
「…………」
「聖騎士に」
「今さらだろ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「あなたなら」
女の声が。
少しだけ。
近づいた気がした。
「なれますよ」
「…………」
そこで。
目が覚めた。
「…………っ」
コウヤは。
身体を起こした。
夢。
また。
同じ夢。
それなのに。
内容が。
続いている。
「…………」
さすがに。
おかしい。
そう思った。
◇◇◇
次の日。
コウヤは。
一人の男を訪ねた。
「ミカエル」
「何だ」
「ちょっといい?」
ミカエルは。
手元から顔を上げた。
机の上には。
いくつもの素材と。
錬金術に使う道具が並んでいる。
「珍しいな」
「何が?」
「お前から来るのがだ」
「俺だって来るだろ」
「最近は娘のところにばかりいると思っていた」
「…………」
「違うのか?」
「違わない」
「そうか」
「即答すんなよ」
「事実なのだろう」
「まあ」
コウヤは。
苦笑する。
昔。
まだ。
自分が子供だった頃。
この場所へ来ることは。
珍しくなかった。
錬金術を。
教えてもらっていた。
初めて成功した時。
失敗した時。
何度も。
ミカエルに見てもらった。
だから。
何か。
自分では判断できないことが起きた時。
自然と。
ここへ来た。
「で?」
ミカエルが。
こちらを見る。
「何の用だ」
「…………」
「コウヤ?」
「夢の話していい?」
「夢?」
「うん」
ミカエルの表情は。
変わらない。
「話せ」
「最近さ」
コウヤは。
椅子へ座った。
「同じ夢を見るんだ」
「何度?」
「三回」
「内容は?」
「暗いところにいる」
「場所は分からない?」
「全然」
「続けろ」
「それで」
少し。
言うのを躊躇った。
なんとなく。
恥ずかしい。
「女の声がする」
「女?」
「知らない人」
「姿は見たか?」
「見えない。声だけ」
「何と言う?」
「…………」
「コウヤ」
「分かったって」
コウヤは。
頭を掻いた。
「あなたは聖騎士になりたかったんでしょう、って」
「…………」
ミカエルが。
黙った。
「…………何?」
「いや」
「変?」
「続けろ」
「最初はそれだけ」
「二度目は?」
「俺が昔はなって答えたら、なんで諦めたのかって」
「三度目」
「もうなりたくないのかって聞かれた」
「…………」
「で」
コウヤは。
少しだけ。
眉を寄せた。
「俺ならなれるって」
「…………」
ミカエルが。
完全に。
手を止めた。
「コウヤ」
「何?」
「その女は、お前の返答に反応しているのか?」
「そうだと思う」
「毎回、同じ言葉を繰り返しているわけではない?」
「うん」
「お前が話せば」
「あっちも答える」
「…………」
「だからさ」
コウヤは。
苦笑した。
「ちょっと変だろ?」
「ちょっとではない」
「そんな?」
「ああ」
ミカエルの声が。
変わった。
さっきまでの。
軽い調子ではない。
「次に見ても」
「うん」
「返事をするな」
「…………」
「何を言われてもだ」
「なんで?」
「ただの夢ではない可能性がある」
「…………」
コウヤの顔から。
少しだけ。
笑みが消える。
「精神干渉?」
「可能性の一つだ」
「でも俺、何もされてないよ」
「そう感じているだけかもしれん」
「…………」
「最近、誰かと接触したか?」
「誰かって?」
「見知らぬ者」
「ないと思う」
「魔道具は?」
「仕事で触るけど、変なのはない」
「身体に異常は」
「ない」
「魔力」
「普通」
「頭痛や吐き気」
「ないよ」
「記憶が抜けている時間は?」
「…………」
コウヤは。
少し考える。
「ない」
「そうか」
ミカエルは。
黙り込む。
「…………」
「ミカエル」
「何だ」
「そんなにまずい?」
「まだ分からん」
「…………」
「分からないから、警戒している」
そして。
ミカエルは。
コウヤを見る。
「一つ聞く」
「何?」
「お前が聖騎士になりたかったことを」
「…………」
「誰が知っている?」
「え?」
「答えろ」
「誰って……」
コウヤは。
少し考える。
「父さんは知ってる」
「他は」
「クイントも知ってるんじゃない?」
「本人に話したか?」
「昔すぎて覚えてない」
「…………」
「あとは」
コウヤが。
ミカエルを見る。
「お前」
「…………」
「覚えてない?」
「覚えている」
当然。
覚えていた。
◇
『ミカエル!』
まだ。
小さかったコウヤが。
走ってくる。
『できた!』
『走るな』
『見て!』
『聞いているのか』
『いいから見てって!』
差し出された。
小さな魔道具。
ミカエルが。
受け取る。
『…………』
『どう?』
『形にはなっている』
『ほんと!?』
『だが、ここの接続が甘い』
『えー』
『やり直せ』
『動くじゃん』
『動けば完成ではない』
『父さんみたいなこと言う』
『ギルと一緒にするな』
『でも』
幼いコウヤは。
嬉しそうに笑った。
『俺、父さんみたいになりたいんだ』
『…………』
『聖騎士になる』
『そうか』
『錬金術もできる聖騎士』
『随分欲張るな』
『駄目?』
『誰が駄目と言った』
『じゃあもっと教えて』
『その前に、今作ったものを直せ』
『分かった!』
◇
「…………」
あれは。
昔の話だ。
本当に。
何年も前。
「お前が子供の頃の話だ」
「そうだよ」
「今も、聖騎士になりたいのか?」
「いや」
コウヤは。
すぐに答えた。
「別に」
「…………」
「父さんは父さんだし。俺は俺だろ」
「そうか」
「錬金術もあるし」
「ああ」
「それに」
少しだけ。
笑う。
「今はクイントと娘がいるしな」
「…………」
「別に父さんと同じになる必要ないよ」
「ならいい」
「…………?」
コウヤが。
首を傾げる。
「何?」
「いや」
ミカエルは。
静かに。
答えた。
「その感覚を覚えておけ」
「…………」
「お前は、聖騎士になれなかったことを恨んでいない」
「当たり前だろ」
「ギルに対しても」
「何で父さんを恨むんだよ」
「それでいい」
「…………」
「もし」
ミカエルは。
コウヤを見る。
「それが変わったと思ったら、すぐに俺へ言え」
「…………」
「分かったな」
「分かったけど」
コウヤは。
少しだけ笑った。
「心配しすぎじゃない?」
「そうであればいい」
「…………」
何だよ。
そう言いながら。
コウヤは。
どこか安心していた。
相談してよかった。
そう思った。
◇◇◇
その夜。
また。
夢を見た。
「…………」
暗い。
同じ場所。
同じ気配。
そして。
「あなたは聖騎士になりたかったんでしょう?」
「…………」
返事をするな。
ミカエルに。
言われた。
だから。
黙る。
「…………」
女も。
しばらく。
何も言わなかった。
静かな。
暗闇。
「…………」
やがて。
女が。
小さく笑った。
「ミカエルに相談したんですね」
「――――」
コウヤの。
身体が強張った。
「…………」
答えるな。
分かっている。
なのに。
「……なんで」
声が出た。
「どうして知ってる」
「…………」
「誰だよ」
返事はない。
「お前、誰なんだ」
初めて。
コウヤから。
尋ねた。
少しして。
女の声が。
返ってくる。
「今は」
穏やかな。
声だった。
「まだ、知らなくていいですよ」
「…………」
「それより」
また。
同じ言葉。
「あなたは聖騎士になりたかったんでしょう?」
「昔の話だ」
「そうですね」
「今はなりたいと思ってない」
「ええ」
「…………」
否定されない。
だから。
逆に。
気持ちが悪い。
「だったら何なんだよ」
「何でもありません」
「…………」
「ただ」
女が。
言った。
「聖騎士には」
少しだけ。
間が空く。
「精神への干渉を、退ける力があるそうですね」
「…………」
コウヤが。
黙った。
「それが何だよ」
「いいえ」
女は。
笑った。
「何でもありません」
「…………」
「ただ」
囁く。
「もし、あなたが聖騎士だったなら」
「…………」
「私とこうして話すことも」
優しく。
優しく。
まるで。
コウヤを気遣うように。
「なかったのでしょうね」
◇
「――――っ!」
目を覚ます。
コウヤは。
荒く。
息を吐いた。
「…………」
隣。
クイントが眠っている。
娘も。
いる。
大丈夫。
何も。
変わっていない。
「…………」
なのに。
女の言葉が。
頭から。
消えない。
――もし、あなたが聖騎士だったなら。
「…………」
違う。
そういう話じゃない。
父さんが。
聖騎士だ。
それで。
いい。
「…………」
でも。
もし。
自分が。
聖騎士だったなら。
こんなもの。
最初から。
効かなかった。
「…………っ」
コウヤは。
首を振った。
「何考えてんだよ……」
関係ない。
聖騎士になれなかったことと。
今。
自分がこんな夢を見ていることは。
何の関係もない。
そう。
分かっている。
それなのに。
ほんの少しだけ。
思ってしまった。
――もし。
俺が聖騎士だったら。
◇◇◇
翌日。
ギルは。
訓練場にいた。
「…………」
銃声。
一発。
二発。
三発。
速い。
構え直す時間が。
ほとんどない。
生成した銃器を切り替え。
標的へ。
正確に。
撃ち込んでいく。
ギルは。
剣が扱えないわけではない。
むしろ。
聖騎士として。
大抵の武器を。
問題なく扱える。
だが。
最も得意なのは。
銃器だった。
聖騎士の力による。
攻撃予測。
相手が。
どこへ動くのか。
どこから攻撃するのか。
それを。
先に読む。
そして。
高速移動。
距離を詰める。
離す。
位置を変える。
その度に。
必要な武器を。
生成する。
「…………」
コウヤは。
たまたま。
その光景を見ていた。
昔から。
何度も見た。
父親の戦い。
「…………」
強い。
知っている。
聖騎士なのだから。
精神支配は効かない。
不意打ちすら。
最初の一撃なら。
通らない。
攻撃を予測する。
高速で動く。
武器を生成する。
そして。
仮に。
殺されたとしても。
一度では。
終わらない。
「…………」
昔は。
ただ。
格好いいと思った。
父さんみたいになりたい。
そう思った。
今だって。
別に。
それは変わらない。
はずなのに。
『もし、あなたが聖騎士だったなら』
「…………」
女の声が。
蘇る。
『私とこうして話すことも、なかったのでしょうね』
「…………」
ギルが。
次の銃を。
生成する。
その瞬間。
コウヤの中に。
ほんの一瞬。
言葉が浮かんだ。
――俺が。
あれを持っていたら。
「…………」
コウヤは。
目を見開いた。
「…………何だよ、それ」
「コウヤ?」
「!」
ギルが。
こちらを見ていた。
「どうした」
「……いや」
「顔色が悪いぞ」
「大丈夫」
「本当か?」
「うん」
ギルが。
銃を消す。
そして。
こちらへ歩いてくる。
「寝ているのか」
「なんでみんなそれ聞くんだよ」
「娘が生まれてから、お前が寝ていないからだろう」
「寝てるって」
「そうか?」
「父さんまで心配性になんなよ」
「誰の父親だと思っている」
「…………」
コウヤは。
少し笑った。
「俺の」
「なら心配くらいする」
「はいはい」
「今日は早く休め」
「分かったよ」
「本当だな?」
「分かったって」
いつもの。
父親だった。
「…………」
だから。
余計に。
さっき。
自分の中に浮かんだ言葉が。
気持ち悪かった。
俺が。
あれを持っていたら。
そんなこと。
考えたことなど。
なかったのに。
コウヤは。
自分の手を。
握る。
「…………」
そして。
遠く。
誰にも見えない場所で。
星魅の巫女は。
まだ。
何も命令しなかった。
ギルを憎めとも。
聖騎士を奪えとも。
殺せとも。
一言も。
言わない。
そんなことをすれば。
コウヤは。
拒絶する。
ミカエルも。
すぐに気づく。
だから。
今は。
ただ。
一つだけ。
思わせればいい。
――もし。
自分が聖騎士だったなら。
それだけで。
十分だった。
憧れは。
まだ。
憧れのまま。
父親への愛情も。
尊敬も。
何一つ。
消えていない。
だから。
急ぐ必要はない。
夢を見るたび。
ほんの少し。
意味を変える。
父さんみたいになりたい。
それが。
いつか。
どうして父さんだけが持っている。
そう変わるまで。
星魅の巫女には。
時間があった。