エマ   作:篠原えれの

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第六十二話『崩壊』

 

 

 ギルの身体が、ゆっくりと傾いた。

 

 ほんの少し前まで、どれほど攻撃を受けても立ち続けていた男だった。

 

 聖騎士として与えられた力は、ギルを人の限界から大きく逸脱させている。精神への干渉を退け、敵の攻撃を予測し、最初の一撃を無効化する。遠距離なら銃器を用いた精密射撃で相手の行動を封じ、間合いを詰めれば殺傷性の高いサバイバルナイフと体術によって、一瞬で戦いを終わらせる。

 

 致命傷を負ったとしても、一度や二度では命を落とさない。

 

 だからこそ。

 

 そのギルが膝をついたという事実を、コウヤはすぐには理解できなかった。

 

「…………」

 

 片膝が床へ落ちる。

 

 身体を支えようとした手も、血に濡れた床を滑った。

 

 コウヤの手には、まだ武器が握られている。

 

 刃先から血が滴った。

 

 一滴。

 

 床へ落ちる。

 

 それを目で追って。

 

 ようやく理解した。

 

 父親の血だった。

 

「…………え?」

 

 その瞬間だった。

 

 頭の中から。

 

 何かが消えた。

 

 あまりにも唐突だった。

 

 ずっと聞こえていた声。

 

 眠っている時だけではない。

 

 目を覚ましている時も。

 

 クイントと話している時も。

 

 子供たちと過ごしている時も。

 

 何気ない日常の隙間へ忍び込んでは、コウヤの思考へ触れてきた女の声。

 

 ――あなたは聖騎士になりたかったんでしょう?

 

 最初は。

 

 そうだと答えた。

 

 それ自体は嘘ではなかった。

 

 幼い頃から、ギルは強かった。

 

 銃を持たせれば遥か遠くの標的を正確に撃ち抜き、近距離へ踏み込まれたところで困るどころか、むしろそこからがギルの領分だった。

 

 子供の目から見れば。

 

 格好よかった。

 

 だから。

 

 父親と同じ聖騎士になりたい。

 

 そう思った時期があった。

 

 昨日だって。

 

 ライベルトとの模擬戦を見ながら、似たような話をした。

 

 父さんはやっぱり強い。

 

 俺も聖騎士になりたかったな。

 

 そんな。

 

 ただの昔話だった。

 

 それを女は拾った。

 

 ――羨ましいのでしょう?

 

 違う。

 

 ――欲しいのでしょう?

 

 そういう意味じゃない。

 

 ――貴方の方が相応しいと思っている。

 

 思っていない。

 

 ――なら、貰えばいいじゃない。

 

 違う。

 

 何度否定しても。

 

 女は問いかけた。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 やがて。

 

 どこまでが自分の考えで。

 

 どこからが女に植え付けられたものなのか。

 

 それすら分からなくなった。

 

 その声が。

 

 今。

 

 完全に消えていた。

 

「…………」

 

 静かだった。

 

 異様なほどに。

 

 だからこそ、自分の呼吸がよく聞こえた。

 

 荒い。

 

 心臓が激しく鳴っている。

 

 そして。

 

 目の前で。

 

 ギルが倒れようとしている。

 

「……父さん?」

 

 ようやく。

 

 その言葉が出た。

 

 ギルの身体がさらに傾いた。

 

「父さん!」

 

 武器が手から落ちた。

 

 コウヤは咄嗟に駆け寄り、倒れかけたギルを抱き止めた。

 

 重い。

 

 その重さが。

 

 恐ろしかった。

 

 本人が自分の身体を支えていない人間の重さだった。

 

「父さん、おい!」

 

「……コウヤ……」

 

 返事があった。

 

「父さん!」

 

 生きている。

 

 それだけで、一瞬だけ安堵した。

 

「待ってろ。今、人呼ぶから。すぐ――」

 

 傷口を押さえようとして。

 

 自分の手が真っ赤に染まっていることに気づいた。

 

「…………」

 

 記憶は。

 

 なくなってなどいなかった。

 

 クイントへ手をかけた。

 

 覚えている。

 

 リリーが止めようとした。

 

 覚えている。

 

 そのリリーを攻撃した。

 

 ギルが現れた。

 

 自分を止めようとした。

 

 それでも止まらず。

 

 戦って。

 

 最後には。

 

 自分が。

 

 ギルへ致命傷を与えた。

 

「…………」

 

 全部。

 

 覚えている。

 

 それなのに。

 

 今の今まで。

 

 何とも思わなかった。

 

 自分がやっているという感覚だけが抜け落ちていた。

 

 誰かが自分の身体を使っている。

 

 自分はそれを、少し離れたところから眺めている。

 

 そんな感覚だった。

 

 それが今。

 

 一つずつ。

 

 全部。

 

 自分のところへ戻ってくる。

 

「…………」

 

 コウヤは顔を上げた。

 

 ギルの肩越し。

 

 床に。

 

 誰かが倒れている。

 

 見慣れた髪。

 

 見間違えるはずがない。

 

「…………クイント?」

 

 その名前を口にした途端。

 

 息が止まった。

 

「クイント」

 

 返事がない。

 

 コウヤはギルを抱えたまま。

 

 動けなくなった。

 

「……クイント?」

 

 もう一度。

 

 今度は少し大きく。

 

 返事はなかった。

 

「…………」

 

 知っている。

 

 なぜ返事がないのか。

 

 自分が。

 

 一番よく知っている。

 

「……嘘だろ」

 

 クイントは動かない。

 

「おい」

 

 声が震えた。

 

「クイント」

 

 呼べば。

 

 いつもなら何か返ってきた。

 

 うるさいとか。

 

 何とかしてとか。

 

 くだらないことで話しかけても。

 

 呆れながら返事をしてくれた。

 

 朝になればいた。

 

 夜になればいた。

 

 子供たちのことで話した。

 

 リリーのことで困った。

 

 レアが真面目すぎると笑った。

 

 生まれたばかりのレオナを見ながら。

 

 この子はどんな子になるだろうと。

 

 二人で話した。

 

 まだ。

 

 少し前のことだった。

 

 レオナが歩くのはいつだろう。

 

 リリーなら絶対に手を引きたがる。

 

 レアは心配して後ろからついて歩きそうだ。

 

 クイントが笑って。

 

 コウヤも笑った。

 

 そんな未来が。

 

 当たり前に来ると思っていた。

 

「……昨日まで」

 

 コウヤの声が掠れた。

 

「普通だったじゃん……」

 

 何も。

 

 返ってこない。

 

「さっきまでいたじゃん」

 

 目から涙が落ちた。

 

「なあ……」

 

 クイントは。

 

 動かない。

 

「レオナ、まだ産まれたばっかだぞ」

 

 言ってから。

 

 耐えられなくなった。

 

「まだ何も見てないじゃん」

 

 リリーが大人になるところも。

 

 レアが大人になるところも。

 

 レオナが歩くところも。

 

 喋るところも。

 

 何一つ。

 

「なんで……」

 

 違う。

 

 なぜ死んだのか。

 

 その答えも。

 

 知っている。

 

「俺が……」

 

 喉が詰まる。

 

「俺が殺したのか」

 

 記憶がある。

 

 クイントへ攻撃した。

 

 倒れていくところも。

 

 最後に。

 

 こちらを見た顔も。

 

 覚えている。

 

「違う」

 

 反射的に首を振った。

 

「違うんだよ」

 

 操られていた。

 

 自分の意思ではなかった。

 

 そう言えばいい。

 

 事実なのだから。

 

 それでも。

 

 自分の身体だった。

 

「俺……」

 

 涙が止まらなかった。

 

「こんなことしたかったんじゃない」

 

 クイントへ向かって。

 

 言う。

 

「ごめん」

 

 返事はない。

 

「ごめん、クイント」

 

 もう。

 

 謝ったところで。

 

 届かない。

 

「俺……守るって……」

 

 言葉にならない。

 

 クイントを。

 

 三人の子供を。

 

 この家族を。

 

 守りたかった。

 

 そのはずなのに。

 

「俺が一番壊してるじゃん……」

 

 笑おうとして。

 

 できなかった。

 

 その時。

 

 腕の中で。

 

 ギルが小さく息を吐いた。

 

「――父さん!」

 

 コウヤは我に返った。

 

 クイントだけではない。

 

 まだ。

 

 ギルが生きている。

 

「待って。大丈夫だから」

 

 慌てて傷口を押さえる。

 

「まだ大丈夫だろ?」

 

「…………」

 

「父さん、聖騎士なんだから」

 

 そう言って。

 

 コウヤは。

 

 気づいた。

 

「…………?」

 

 ギルから。

 

 あの力を感じない。

 

 代わりに。

 

 自分の中に。

 

 知らないはずのものがある。

 

 身体をどう動かせば、人間の限界を遥かに超えた速度を出せるのか。

 

 分かる。

 

 何もないところから武器を生み出す方法も。

 

 分かる。

 

 相手が攻撃を始めるより前に、その予兆を読み取る感覚も。

 

 知っている。

 

「……嘘だろ」

 

 コウヤの顔から血の気が引いた。

 

「父さん」

 

「…………」

 

「聖騎士は?」

 

 返事はない。

 

「父さんの……力……」

 

 自分の胸へ手を当てる。

 

 ある。

 

 ここに。

 

『貰えばいいじゃない』

 

 あの女の声を思い出した。

 

「……違う」

 

 首を振る。

 

「違う!」

 

 今度は強く。

 

「こんなの欲しくない!」

 

 聖騎士になりたかった。

 

 確かに。

 

 昔は。

 

 でも。

 

「父さん殺して欲しかったわけじゃない!」

 

 ギルを見る。

 

「返すから」

 

「…………」

 

「なあ、どうやったら返せる?」

 

 傷口を押さえる。

 

「俺にはいらない」

 

 血が止まらない。

 

「父さんのだろ」

 

 涙が。

 

 ギルの服へ落ちた。

 

「返すから……」

 

 声が震える。

 

「だから死ぬなよ」

 

 ギルの目が。

 

 僅かに動いた。

 

 視線の先には。

 

 クイントがいた。

 

「…………」

 

 かつて。

 

 滅びたエルサイア城で拾い上げた子供。

 

 ミリィから託され。

 

 ギル自身が名前を与えた。

 

 クイント。

 

 あの頃は。

 

 生きているだけで精一杯だった。

 

 それが。

 

 王になった。

 

 国を背負った。

 

 結婚した。

 

 三人の子供を持った。

 

 自分の意思で。

 

 自分の人生を歩くようになった。

 

 ギルは。

 

 その長い時間を見てきた。

 

 だからこそ。

 

 何も言えなかった。

 

 あの日。

 

 どうにか生かした子供が。

 

 自分より先に。

 

 死んでいる。

 

「……クイント」

 

 ギルが。

 

 小さく。

 

 その名を呼んだ。

 

 それだけだった。

 

 けれど。

 

 コウヤは。

 

 初めて聞いたような気がした。

 

 ギルが。

 

 こんな声で。

 

 クイントの名前を呼ぶのを。

 

「…………」

 

 ギルは目を閉じた。

 

 ほんの短い間だけ。

 

 何かを堪えるように。

 

 やがて。

 

 もう一度。

 

 目を開ける。

 

「父さん」

 

「……コウヤ」

 

「俺が殺した」

 

 ギルは黙っている。

 

「クイント」

 

 名前を口にするだけで。

 

 胸が痛かった。

 

「俺が殺した」

 

「…………」

 

「父さんが、あそこから連れてきて……ずっと見てきたのに」

 

 声が震える。

 

「俺が」

 

「……分かっている」

 

「怒れよ」

 

「…………」

 

「何か言えよ」

 

 ギルは。

 

 しばらく黙っていた。

 

「……怒ったところで」

 

 弱い声だった。

 

「何になる」

 

「…………」

 

「クイントは……戻らない」

 

 その言葉で。

 

 コウヤの顔が歪んだ。

 

「言うなよ……」

 

「…………」

 

「それ、俺に言わせるなよ……」

 

 戻らない。

 

 分かっている。

 

 でも。

 

 認めたくなかった。

 

「お前が望んでやったことではない」

 

「でも俺がやった!」

 

「分かっている」

 

「だったら!」

 

「分かっているからだ」

 

 ギルの声は。

 

 最後まで静かだった。

 

 コウヤは何も言えなくなった。

 

 少し離れた場所で。

 

 リリーが僅かに息をしている。

 

 それを見たギルが。

 

「……リリーを」

 

「やめろ」

 

「頼む」

 

「やめろって」

 

 コウヤはギルの手を掴んだ。

 

「自分で言えよ」

 

「…………」

 

「起きたら、自分で話せばいいだろ」

 

「…………」

 

「クイントはもういないんだぞ」

 

 また。

 

 その言葉を。

 

 自分で口にしてしまった。

 

「父さんまでいなくなるなよ……」

 

 ギルの指先から。

 

 力が抜けていく。

 

「……コウヤ」

 

「何」

 

「生きろ」

 

「やめろよ」

 

「…………」

 

「そんな遺言みたいなこと言うなよ」

 

 ギルの手を。

 

 強く握る。

 

「俺に生きろって言うなよ……」

 

 返事は。

 

 なかった。

 

「……父さん?」

 

 ギルの手が。

 

 ゆっくりと落ちた。

 

「父さん」

 

 身体を揺らす。

 

「おい」

 

 反応はない。

 

「…………」

 

 ギルも。

 

 死んだ。

 

 コウヤは。

 

 しばらく。

 

 その身体を抱いたまま動かなかった。

 

 目の前には。

 

 クイントがいる。

 

 腕の中には。

 

 ギルがいる。

 

 少し離れた場所には。

 

 重傷を負ったリリー。

 

 ほんの少し前まで。

 

 全員。

 

 生きていた。

 

 笑っていた。

 

「……ごめん」

 

 誰に向けた言葉なのか。

 

 もう。

 

 分からなかった。

 

     ◇◇◇

 

「コウヤ!」

 

 廊下から声が響いた。

 

 ミカエルだった。

 

 勢いよく部屋へ入って。

 

 その足が。

 

 止まった。

 

「…………」

 

 最初に目に入ったのは。

 

 クイントだった。

 

「……クイント?」

 

 声が。

 

 妙に小さかった。

 

 ミカエルは。

 

 ゆっくり近づいた。

 

 膝をつく。

 

 首筋へ指を当てる。

 

「…………」

 

 ない。

 

 脈が。

 

 ない。

 

「クイント」

 

 もう一度。

 

 呼んだ。

 

 返事はない。

 

「…………」

 

 分かっている。

 

 それでも。

 

 手を離せなかった。

 

 クイントは。

 

 王だった。

 

 けれど。

 

 ミカエルにとって。

 

 ただ王であるだけの人間ではなかった。

 

 長い時間を。

 

 同じ場所で過ごしてきた。

 

 国のことで何度も話した。

 

 意見が合わないこともあった。

 

 クイントが無茶をすれば止めた。

 

 逆に。

 

 ミカエルが抱え込みすぎれば。

 

 クイントに呆れられたこともある。

 

 子供が生まれた時も。

 

 聞いた。

 

 リリーのことも。

 

 レアのことも。

 

 そして。

 

 レオナのことも。

 

 クイントがここにいることを。

 

 いつからか。

 

 当然だと思っていた。

 

「……何をしているんだ」

 

 ミカエルの口から。

 

 そんな言葉が漏れた。

 

 クイントへ向けてなのか。

 

 自分へ向けてなのか。

 

 分からない。

 

「起きろ」

 

 返事はない。

 

「クイント」

 

 ほんの少し。

 

 声が震えた。

 

「……起きろ」

 

 当然。

 

 何も返ってこなかった。

 

 ミカエルは。

 

 目を閉じた。

 

「……昨日まで」

 

 それ以上。

 

 言えなかった。

 

 昨日まで。

 

 普通だった。

 

 レオナが次の王になる。

 

 そんな未来の話だって。

 

 もっとずっと先の話だと思っていた。

 

 クイント自身も。

 

 きっと。

 

 そう思っていた。

 

 それが。

 

 どうして。

 

「…………」

 

 ミカエルは。

 

 クイントの手へ。

 

 一度だけ。

 

 触れた。

 

 冷たくなり始めていた。

 

「……すまない」

 

 何に対する謝罪なのか。

 

 自分でも。

 

 分からなかった。

 

「ミカエル」

 

 コウヤの声で。

 

 顔を上げる。

 

 そこで。

 

 ギルが見えた。

 

「……ギル」

 

 確認する。

 

 こちらも。

 

 もう遅かった。

 

「…………」

 

 クイント。

 

 ギル。

 

 二人とも。

 

 死んでいる。

 

 ミカエルの思考が。

 

 一瞬。

 

 完全に止まった。

 

 その時。

 

 僅かな呼吸音が聞こえた。

 

「……リリー」

 

 生きている。

 

 ミカエルの身体が。

 

 ようやく動いた。

 

「誰か!」

 

 廊下へ向かって声を張る。

 

「急げ! 負傷者がいる!」

 

 兵士たちが駆け込んでくる。

 

 惨状を目にして。

 

 一瞬。

 

 誰もが動きを止めた。

 

「止まるな!」

 

 ミカエルが叫ぶ。

 

「リリーを医務室へ!」

 

「は、はい!」

 

 担架が用意される。

 

 慎重に。

 

 リリーの身体が移された。

 

「……リリー」

 

 コウヤが呼んだ。

 

 返事はない。

 

 それでも。

 

 胸は動いている。

 

「頼む」

 

 コウヤは。

 

 担架を運ぶ者へ。

 

 頭を下げた。

 

「助けてくれ」

 

 リリーが。

 

 部屋から運び出される。

 

 廊下の向こうへ。

 

 姿が消えるまで。

 

 コウヤは見ていた。

 

     ◇◇◇

 

 そのあと。

 

 コウヤは。

 

 クイントのそばへ行った。

 

 ミカエルは。

 

 止めなかった。

 

 コウヤが。

 

 クイントの前へ膝をつく。

 

「…………」

 

 触れようとして。

 

 手が止まる。

 

 自分の手は。

 

 血で汚れていた。

 

 クイントの血。

 

 ギルの血。

 

 その手で。

 

 今さら。

 

 何をするつもりなのか。

 

「……ごめん」

 

 結局。

 

 また。

 

 それしか言えなかった。

 

「何回言っても意味ないよな」

 

 クイントは。

 

 何も答えない。

 

「俺さ」

 

 声が震える。

 

「まだ一緒にいるつもりだったんだよ」

 

 当たり前だった。

 

「レオナが歩くところも」

 

 見たかった。

 

「喋るところも」

 

 見たかった。

 

「リリーが大人になるところも」

 

 レアも。

 

 レオナも。

 

「三人が大きくなって」

 

 クイントと二人で。

 

 年を取って。

 

 あの頃は大変だったと。

 

 笑う。

 

 そんな。

 

 何でもない未来を。

 

「全部……一緒に見るつもりだった」

 

 涙が落ちる。

 

「勝手にいなくなるなよ」

 

 言ってから。

 

 自分で。

 

 首を振った。

 

「違うな」

 

 いなくなったのではない。

 

「俺が殺したんだよな」

 

 しばらく。

 

 何も言えなかった。

 

 やがて。

 

 コウヤは。

 

 震える手を伸ばした。

 

 クイントの手へ。

 

 そっと触れた。

 

「…………」

 

 冷たい。

 

「……クイント」

 

 最後になると。

 

 分かっていた。

 

「俺、本当に」

 

 一度。

 

 言葉が詰まる。

 

「お前と、まだ生きたかったよ」

 

     ◇◇◇

 

 その頃。

 

 リリーを乗せた担架は。

 

 王宮西側の回廊を進んでいた。

 

「脈が弱い!」

 

「急げ!」

 

「医務室までもう少しだ!」

 

 誰も。

 

 気づいていなかった。

 

 王宮地下。

 

 人工精霊を供給する設備の一部が。

 

 異常な出力を示している。

 

 星魅の巫女が。

 

 残していたもの。

 

 最初は。

 

 小さな振動だった。

 

「……揺れたか?」

 

「止まるな!」

 

 次の瞬間。

 

 轟音が。

 

 王宮を揺らした。

 

 窓が。

 

 一斉に砕けた。

 

 爆風。

 

「――っ!」

 

 担架が浮く。

 

「リリー様!」

 

 床が。

 

 裂けた。

 

 回廊が。

 

 崩れる。

 

 誰かが手を伸ばす。

 

 けれど。

 

 届かない。

 

 担架とともに。

 

 リリーの身体が。

 

 崩落した床の向こうへ。

 

 消えた。

 

     ◇◇◇

 

「――っ!?」

 

 凄まじい振動に。

 

 ミカエルが振り返った。

 

「何だ!?」

 

 窓の向こう。

 

 王宮西側から。

 

 煙が上がっている。

 

「……西側?」

 

 コウヤが。

 

 顔を上げた。

 

「…………」

 

 顔色が変わる。

 

「リリー」

 

「待て」

 

「リリー!」

 

 立ち上がる。

 

「コウヤ!」

 

「今、そっち行っただろ!」

 

「分かっている!」

 

「だったら!」

 

「私が確認させる!」

 

 ミカエルは。

 

 廊下へ向かって声を張った。

 

「西側回廊を確認しろ! 先ほど搬送したリリーを最優先で捜せ!」

 

「はい!」

 

 兵士たちが走る。

 

「俺も行く」

 

「駄目だ」

 

「何で!」

 

「今のお前を外へ出せると思うのか!」

 

 その言葉で。

 

 コウヤは。

 

 止まった。

 

「…………」

 

 そうだ。

 

 自分は。

 

 つい先ほどまで。

 

 人を殺していた。

 

「……頼む」

 

 拳を握る。

 

「頼むから……生きててくれ」

 

     ◇◇◇

 

 報告は。

 

 そう時間を置かずに来た。

 

「ミカエル様!」

 

「どうした!」

 

「西側回廊が崩落しています!」

 

「リリーは!」

 

「担架は発見しました!」

 

 コウヤが。

 

 顔を上げる。

 

「リリーは!?」

 

 兵士が。

 

 言葉に詰まった。

 

「……姿がありません」

 

「…………」

 

「何?」

 

「搬送していた者の一部は救助しました。しかし、リリー様だけが――」

 

「探せよ」

 

「現在――」

 

「早く探せ!」

 

「コウヤ!」

 

「リリーだぞ!」

 

 コウヤが。

 

 立ち上がる。

 

「俺も行く!」

 

「駄目だ!」

 

「なんでだよ!」

 

「分かっているだろう!」

 

 ミカエルの声が響いた。

 

 コウヤが。

 

 止まる。

 

「…………」

 

 そして。

 

 震え始めた。

 

「俺が……」

 

「コウヤ」

 

「俺が怪我させなかったら」

 

「爆発はお前のせいではない」

 

「でも!」

 

 声を荒らげる。

 

「あいつが担架に乗ってたのは俺のせいだろ!」

 

「…………」

 

「クイント殺して」

 

 息が。

 

 苦しくなる。

 

「父さん殺して」

 

 そして。

 

「リリーまで……」

 

「まだ死んだと決まったわけではない」

 

「でも、いないんだろ」

 

「捜索している」

 

「…………」

 

 コウヤが。

 

 俯いた。

 

「もう……」

 

 声が。

 

 途切れた。

 

「…………」

 

「コウヤ?」

 

 反応がない。

 

「どうした」

 

「…………聞こえる」

 

 ミカエルの表情が変わった。

 

「何が」

 

「……また」

 

 コウヤが。

 

 頭を押さえた。

 

「嫌だ」

 

「コウヤ」

 

「来るな」

 

「私を見ろ」

 

「来るな!」

 

 後ずさる。

 

「また聞こえる……!」

 

 呼吸が乱れる。

 

「嫌だ……!」

 

 頭を抱える。

 

「もうやめろ!」

 

 誰もいない場所へ。

 

 叫ぶ。

 

「もう十分だろ!」

 

『可哀想に』

 

「黙れ」

 

『クイントが死んでしまった』

 

「黙れ!」

 

『大切な奥様だったのに』

 

「やめろ!」

 

『貴方が殺した』

 

「違う!」

 

『ギルも』

 

「黙れ!」

 

『リリーもいなくなってしまったわね』

 

「やめろ!」

 

『全部、貴方が壊した』

 

「違う……」

 

『そうね』

 

 女の声は。

 

 どこまでも優しかった。

 

『辛いでしょう?』

 

「…………」

 

『なら』

 

「やめろ……」

 

『もう、考えなくていいのよ』

 

「…………」

 

「コウヤ!」

 

 ミカエルが。

 

 一歩近づく。

 

「私を見ろ!」

 

「来るな!」

 

「コウヤ!」

 

「来るなって言ってるだろ!」

 

 コウヤが顔を上げた。

 

 まだ。

 

 そこには。

 

 コウヤ自身がいた。

 

 泣いている。

 

 怯えている。

 

「ミカエル」

 

「何だ」

 

「頼む」

 

「…………」

 

「もし俺が」

 

 呼吸を整えようとする。

 

 できない。

 

「また俺じゃなくなったら」

 

「…………」

 

「止めて」

 

「コウヤ」

 

「絶対に」

 

「そんなことを言うな」

 

「約束してくれ!」

 

 ミカエルが。

 

 息を呑んだ。

 

「クイントを殺した」

 

「…………」

 

「父さんも殺した」

 

「…………」

 

「リリーも傷つけた」

 

 涙が。

 

 また落ちる。

 

「もう嫌なんだよ」

 

「…………」

 

「レアもいる」

 

「コウヤ」

 

「レオナもいる」

 

 生まれたばかりの。

 

 クイントが。

 

 あんなに大切そうに抱いていた子供。

 

「もう誰も傷つけたくない」

 

 コウヤが。

 

 ミカエルの腕を掴んだ。

 

「頼む」

 

「…………」

 

「次は」

 

 震える声で。

 

 はっきりと言った。

 

「殺してでも止めてくれ」

 

「……できない」

 

「ミカエル」

 

「できるわけがない」

 

「お願いだ」

 

「私はお前を助ける」

 

「今助けてくれよ」

 

「…………」

 

「俺が」

 

 コウヤは。

 

 必死に。

 

 ミカエルを見る。

 

「俺でいられるうちに約束して」

 

「…………」

 

「もうクイントみたいに」

 

 声が詰まった。

 

「大事な人を、自分で殺したくない」

 

 ミカエルは。

 

 答えられなかった。

 

 けれど。

 

 コウヤの手から。

 

 少しずつ。

 

 力が抜け始めている。

 

「ミカエル……」

 

「…………」

 

「お願いだ」

 

 長い沈黙。

 

 そして。

 

「……分かった」

 

 ミカエルは。

 

 答えた。

 

「必ず止める」

 

 コウヤが。

 

 ほんの少し。

 

 笑った。

 

「……ありがとう」

 

 その直後。

 

 腕を掴んでいた手が。

 

 落ちた。

 

「コウヤ?」

 

「…………」

 

 俯く。

 

 動かない。

 

「コウヤ」

 

「…………」

 

 やがて。

 

 ゆっくり。

 

 顔を上げた。

 

 ミカエルは。

 

 その目を見ただけで。

 

 分かった。

 

「…………コウヤ」

 

 もう。

 

 いない。

 

 手元へ。

 

 光が集まった。

 

 武器が生成される。

 

 ギルから奪った。

 

 聖騎士の力。

 

「……やめろ」

 

 一歩。

 

 コウヤが踏み出す。

 

 姿が。

 

 消えた。

 

「――!」

 

 高速移動。

 

 ミカエルが咄嗟に身を逸らす。

 

 刃が。

 

 首のあった場所を通過した。

 

「コウヤ!」

 

 返事はない。

 

 もう一度。

 

 消える。

 

 速い。

 

 ただ速いだけではない。

 

 こちらが何をするのか。

 

 先に読まれている。

 

 聖騎士の能力。

 

「目を覚ませ!」

 

 攻撃を受け止める。

 

「コウヤ!」

 

 何も。

 

 返ってこない。

 

「クイントが悲しむぞ!」

 

 一瞬。

 

 コウヤの動きが。

 

 止まった。

 

「…………」

 

 ミカエルの目が見開かれる。

 

「コウヤ?」

 

 ほんの一瞬だった。

 

 瞳が。

 

 揺れた。

 

「……クイ……」

 

 掠れた音。

 

「コウヤ!」

 

 戻った。

 

 そう思った。

 

 けれど。

 

 次の瞬間。

 

 表情が消えた。

 

 刃が振るわれる。

 

「――っ!」

 

 ミカエルが。

 

 後方へ跳ぶ。

 

「…………」

 

 戻れない。

 

 いや。

 

 違う。

 

 まだ戻れるかもしれない。

 

 でも。

 

 そのために。

 

 あと何人。

 

 犠牲にする。

 

 クイントが死んだ。

 

 ギルが死んだ。

 

 リリーは行方不明。

 

 そして。

 

 今のコウヤは。

 

 聖騎士の力まで持っている。

 

『次は、殺してでも止めてくれ』

 

「…………」

 

 ミカエルの顔が。

 

 歪んだ。

 

「そんなことを」

 

 声が震える。

 

「私に頼むな……」

 

 コウヤは。

 

 答えない。

 

「お前がやれと言ったんだぞ」

 

 当然。

 

 返事はない。

 

「自分で頼んで」

 

 ミカエルの手が。

 

 震えていた。

 

「自分はもう何も覚えていないのか……!」

 

 コウヤが。

 

 再び消える。

 

 高速移動。

 

「――コウヤ!」

 

 ミカエルは。

 

 今度は。

 

 正面から迎え撃った。

 

     ◇◇◇

 

 戦いは。

 

 長くは続かなかった。

 

 コウヤが弱かったわけではない。

 

 逆だった。

 

 ギルの聖騎士を得たコウヤは。

 

 あまりにも危険だった。

 

 だからこそ。

 

 ミカエルには。

 

 手加減を続ける余裕がなかった。

 

 一度。

 

 判断を誤れば。

 

 コウヤはここを抜ける。

 

 その先には。

 

 レアがいる。

 

 レオナがいる。

 

 ミリィがいる。

 

 ライベルトも。

 

 大勢の人間が。

 

 まだ。

 

 生きている。

 

「…………」

 

 ミカエルは。

 

 最後に。

 

 もう一度だけ。

 

 名前を呼んだ。

 

「コウヤ」

 

 男が。

 

 こちらを見る。

 

「……すまない」

 

 返事はなかった。

 

 だから。

 

 ミカエルは。

 

 約束を守った。

 

     ◇◇◇

 

 コウヤの身体が。

 

 床へ崩れた。

 

「…………」

 

 もう。

 

 動かない。

 

 ミカエルは。

 

 その場に立ったまま。

 

 しばらく動けなかった。

 

 終わった。

 

 何が。

 

 終わったのだろう。

 

 クイントは死んだ。

 

 ギルも死んだ。

 

 リリーは行方不明。

 

 そして。

 

 コウヤも。

 

 今。

 

 自分が殺した。

 

「…………」

 

 ミカエルは。

 

 ゆっくり。

 

 コウヤの傍へ膝をついた。

 

「……止めたぞ」

 

 返事はない。

 

「お前が頼んだ通り」

 

 声が。

 

 震えた。

 

「止めた」

 

 それなのに。

 

 何一つ。

 

 救った気がしなかった。

 

「…………」

 

 視線を上げる。

 

 少し離れたところに。

 

 クイントがいる。

 

「…………クイント」

 

 また。

 

 その名前を呼んだ。

 

 当然。

 

 返事はない。

 

「私は……」

 

 続きが。

 

 出てこなかった。

 

 助けられなかった。

 

 クイントを。

 

 ギルを。

 

 コウヤを。

 

 リリーさえ。

 

 今どこにいるのか分からない。

 

「……すまない」

 

 何度謝ればいいのか。

 

 誰に謝ればいいのか。

 

 もう。

 

 分からなかった。

 

 昨日まで。

 

 ここには。

 

 当たり前のように日常があった。

 

 クイントがいた。

 

 コウヤがいた。

 

 ギルがいた。

 

 リリーが。

 

 レアが。

 

 レオナが。

 

 ライベルトが。

 

 ミリィが。

 

 明日も。

 

 同じように続くと思っていた。

 

 それが。

 

 たった一日で。

 

 なくなった。

 

「…………」

 

 その時。

 

 一人の女の姿が。

 

 ミカエルの脳裏に浮かんだ。

 

 星魅の巫女。

 

 コウヤの夢へ入り込んだ。

 

 彼が幼い頃に抱いた聖騎士への憧れを利用した。

 

 クイントを殺させた。

 

 リリーを傷つけた。

 

 ギルを殺させ。

 

 聖騎士の力を奪わせた。

 

 一度。

 

 正気へ戻ったコウヤを。

 

 再び。

 

 壊した。

 

 そして最後には。

 

 ミカエル自身に。

 

 コウヤを殺させた。

 

「…………」

 

 ミカエルは。

 

 立ち上がった。

 

 涙は出なかった。

 

 怒鳴ることもなかった。

 

 それよりも。

 

 ずっと深い場所に。

 

 怒りが沈んでいた。

 

「……星魅の巫女」

 

 静かに。

 

 名前を呼んだ。

 

 探さなければならない。

 

 もう。

 

 これ以上。

 

 奪わせるわけにはいかない。

 

 そして。

 

 ミカエルには。

 

 なぜか分かっていた。

 

 彼女は。

 

 逃げていない。

 

 きっと。

 

 待っている。

 

 クイントを失い。

 

 ギルを失い。

 

 自分の手でコウヤまで殺した。

 

 今のミカエルが。

 

 自分のところへ来ることを。

 

 最初から。

 

 待っている。

 

     ◇◇◇

 

 一方。

 

 崩落した王宮西側では。

 

 救助が続いていた。

 

「担架を発見!」

 

「リリー様は!?」

 

「いません!」

 

「周囲を探せ!」

 

 壊れた担架。

 

 血痕。

 

 搬送していた者たち。

 

 そこにいたはずの。

 

 少女だけが。

 

 どこにもいない。

 

 そして。

 

 さらに奥。

 

 崩落によって外から隔離された場所で。

 

 一人の少年が。

 

 ゆっくりと目を開けた。

 

「…………」

 

 身体中が痛い。

 

 息をするだけで。

 

 胸が痛んだ。

 

「……ここ……」

 

 どこだ。

 

 分からない。

 

 なぜ。

 

 ここにいる。

 

 分からない。

 

「…………」

 

 自分は。

 

 誰だ。

 

 名前を探す。

 

 何も出てこない。

 

 家族。

 

 分からない。

 

 何も。

 

 思い出せない。

 

 近くに。

 

 割れた鏡の破片が落ちていた。

 

「…………」

 

 そこに映っている顔を見る。

 

 知らない。

 

 少年だった。

 

「……誰だよ」

 

 自分の声すら。

 

 知らない人間のものに聞こえた。

 

 彼は。

 

 まだ。

 

 自分がリリーだったことを知らない。

 

 クイントが死んだことも。

 

 ギルが死んだことも。

 

 コウヤが死んだことも。

 

 自分を探して。

 

 王宮中が混乱していることも。

 

 何一つ。

 

 知らない。

 

 この日。

 

 第一王女リリーは。

 

 王宮から姿を消した。

 

 そして。

 

 代わりに。

 

 名前も。

 

 記憶も。

 

 過去も持たない。

 

 一人の少年が残された。

 

 やがて。

 

 瓦礫の中から彼を見つけるのは。

 

 クイントに育てられ。

 

 三姉妹にとって義理の姉にあたる。

 

 ライベルトだった。

 

 けれど。

 

 そのライベルトでさえ。

 

 目の前の少年が。

 

 自分を「お姉様」と呼んでいたリリーだとは。

 

 気づくことができなかった。

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