ギルの身体が、ゆっくりと傾いた。
ほんの少し前まで、どれほど攻撃を受けても立ち続けていた男だった。
聖騎士として与えられた力は、ギルを人の限界から大きく逸脱させている。精神への干渉を退け、敵の攻撃を予測し、最初の一撃を無効化する。遠距離なら銃器を用いた精密射撃で相手の行動を封じ、間合いを詰めれば殺傷性の高いサバイバルナイフと体術によって、一瞬で戦いを終わらせる。
致命傷を負ったとしても、一度や二度では命を落とさない。
だからこそ。
そのギルが膝をついたという事実を、コウヤはすぐには理解できなかった。
「…………」
片膝が床へ落ちる。
身体を支えようとした手も、血に濡れた床を滑った。
コウヤの手には、まだ武器が握られている。
刃先から血が滴った。
一滴。
床へ落ちる。
それを目で追って。
ようやく理解した。
父親の血だった。
「…………え?」
その瞬間だった。
頭の中から。
何かが消えた。
あまりにも唐突だった。
ずっと聞こえていた声。
眠っている時だけではない。
目を覚ましている時も。
クイントと話している時も。
子供たちと過ごしている時も。
何気ない日常の隙間へ忍び込んでは、コウヤの思考へ触れてきた女の声。
――あなたは聖騎士になりたかったんでしょう?
最初は。
そうだと答えた。
それ自体は嘘ではなかった。
幼い頃から、ギルは強かった。
銃を持たせれば遥か遠くの標的を正確に撃ち抜き、近距離へ踏み込まれたところで困るどころか、むしろそこからがギルの領分だった。
子供の目から見れば。
格好よかった。
だから。
父親と同じ聖騎士になりたい。
そう思った時期があった。
昨日だって。
ライベルトとの模擬戦を見ながら、似たような話をした。
父さんはやっぱり強い。
俺も聖騎士になりたかったな。
そんな。
ただの昔話だった。
それを女は拾った。
――羨ましいのでしょう?
違う。
――欲しいのでしょう?
そういう意味じゃない。
――貴方の方が相応しいと思っている。
思っていない。
――なら、貰えばいいじゃない。
違う。
何度否定しても。
女は問いかけた。
何度も。
何度も。
やがて。
どこまでが自分の考えで。
どこからが女に植え付けられたものなのか。
それすら分からなくなった。
その声が。
今。
完全に消えていた。
「…………」
静かだった。
異様なほどに。
だからこそ、自分の呼吸がよく聞こえた。
荒い。
心臓が激しく鳴っている。
そして。
目の前で。
ギルが倒れようとしている。
「……父さん?」
ようやく。
その言葉が出た。
ギルの身体がさらに傾いた。
「父さん!」
武器が手から落ちた。
コウヤは咄嗟に駆け寄り、倒れかけたギルを抱き止めた。
重い。
その重さが。
恐ろしかった。
本人が自分の身体を支えていない人間の重さだった。
「父さん、おい!」
「……コウヤ……」
返事があった。
「父さん!」
生きている。
それだけで、一瞬だけ安堵した。
「待ってろ。今、人呼ぶから。すぐ――」
傷口を押さえようとして。
自分の手が真っ赤に染まっていることに気づいた。
「…………」
記憶は。
なくなってなどいなかった。
クイントへ手をかけた。
覚えている。
リリーが止めようとした。
覚えている。
そのリリーを攻撃した。
ギルが現れた。
自分を止めようとした。
それでも止まらず。
戦って。
最後には。
自分が。
ギルへ致命傷を与えた。
「…………」
全部。
覚えている。
それなのに。
今の今まで。
何とも思わなかった。
自分がやっているという感覚だけが抜け落ちていた。
誰かが自分の身体を使っている。
自分はそれを、少し離れたところから眺めている。
そんな感覚だった。
それが今。
一つずつ。
全部。
自分のところへ戻ってくる。
「…………」
コウヤは顔を上げた。
ギルの肩越し。
床に。
誰かが倒れている。
見慣れた髪。
見間違えるはずがない。
「…………クイント?」
その名前を口にした途端。
息が止まった。
「クイント」
返事がない。
コウヤはギルを抱えたまま。
動けなくなった。
「……クイント?」
もう一度。
今度は少し大きく。
返事はなかった。
「…………」
知っている。
なぜ返事がないのか。
自分が。
一番よく知っている。
「……嘘だろ」
クイントは動かない。
「おい」
声が震えた。
「クイント」
呼べば。
いつもなら何か返ってきた。
うるさいとか。
何とかしてとか。
くだらないことで話しかけても。
呆れながら返事をしてくれた。
朝になればいた。
夜になればいた。
子供たちのことで話した。
リリーのことで困った。
レアが真面目すぎると笑った。
生まれたばかりのレオナを見ながら。
この子はどんな子になるだろうと。
二人で話した。
まだ。
少し前のことだった。
レオナが歩くのはいつだろう。
リリーなら絶対に手を引きたがる。
レアは心配して後ろからついて歩きそうだ。
クイントが笑って。
コウヤも笑った。
そんな未来が。
当たり前に来ると思っていた。
「……昨日まで」
コウヤの声が掠れた。
「普通だったじゃん……」
何も。
返ってこない。
「さっきまでいたじゃん」
目から涙が落ちた。
「なあ……」
クイントは。
動かない。
「レオナ、まだ産まれたばっかだぞ」
言ってから。
耐えられなくなった。
「まだ何も見てないじゃん」
リリーが大人になるところも。
レアが大人になるところも。
レオナが歩くところも。
喋るところも。
何一つ。
「なんで……」
違う。
なぜ死んだのか。
その答えも。
知っている。
「俺が……」
喉が詰まる。
「俺が殺したのか」
記憶がある。
クイントへ攻撃した。
倒れていくところも。
最後に。
こちらを見た顔も。
覚えている。
「違う」
反射的に首を振った。
「違うんだよ」
操られていた。
自分の意思ではなかった。
そう言えばいい。
事実なのだから。
それでも。
自分の身体だった。
「俺……」
涙が止まらなかった。
「こんなことしたかったんじゃない」
クイントへ向かって。
言う。
「ごめん」
返事はない。
「ごめん、クイント」
もう。
謝ったところで。
届かない。
「俺……守るって……」
言葉にならない。
クイントを。
三人の子供を。
この家族を。
守りたかった。
そのはずなのに。
「俺が一番壊してるじゃん……」
笑おうとして。
できなかった。
その時。
腕の中で。
ギルが小さく息を吐いた。
「――父さん!」
コウヤは我に返った。
クイントだけではない。
まだ。
ギルが生きている。
「待って。大丈夫だから」
慌てて傷口を押さえる。
「まだ大丈夫だろ?」
「…………」
「父さん、聖騎士なんだから」
そう言って。
コウヤは。
気づいた。
「…………?」
ギルから。
あの力を感じない。
代わりに。
自分の中に。
知らないはずのものがある。
身体をどう動かせば、人間の限界を遥かに超えた速度を出せるのか。
分かる。
何もないところから武器を生み出す方法も。
分かる。
相手が攻撃を始めるより前に、その予兆を読み取る感覚も。
知っている。
「……嘘だろ」
コウヤの顔から血の気が引いた。
「父さん」
「…………」
「聖騎士は?」
返事はない。
「父さんの……力……」
自分の胸へ手を当てる。
ある。
ここに。
『貰えばいいじゃない』
あの女の声を思い出した。
「……違う」
首を振る。
「違う!」
今度は強く。
「こんなの欲しくない!」
聖騎士になりたかった。
確かに。
昔は。
でも。
「父さん殺して欲しかったわけじゃない!」
ギルを見る。
「返すから」
「…………」
「なあ、どうやったら返せる?」
傷口を押さえる。
「俺にはいらない」
血が止まらない。
「父さんのだろ」
涙が。
ギルの服へ落ちた。
「返すから……」
声が震える。
「だから死ぬなよ」
ギルの目が。
僅かに動いた。
視線の先には。
クイントがいた。
「…………」
かつて。
滅びたエルサイア城で拾い上げた子供。
ミリィから託され。
ギル自身が名前を与えた。
クイント。
あの頃は。
生きているだけで精一杯だった。
それが。
王になった。
国を背負った。
結婚した。
三人の子供を持った。
自分の意思で。
自分の人生を歩くようになった。
ギルは。
その長い時間を見てきた。
だからこそ。
何も言えなかった。
あの日。
どうにか生かした子供が。
自分より先に。
死んでいる。
「……クイント」
ギルが。
小さく。
その名を呼んだ。
それだけだった。
けれど。
コウヤは。
初めて聞いたような気がした。
ギルが。
こんな声で。
クイントの名前を呼ぶのを。
「…………」
ギルは目を閉じた。
ほんの短い間だけ。
何かを堪えるように。
やがて。
もう一度。
目を開ける。
「父さん」
「……コウヤ」
「俺が殺した」
ギルは黙っている。
「クイント」
名前を口にするだけで。
胸が痛かった。
「俺が殺した」
「…………」
「父さんが、あそこから連れてきて……ずっと見てきたのに」
声が震える。
「俺が」
「……分かっている」
「怒れよ」
「…………」
「何か言えよ」
ギルは。
しばらく黙っていた。
「……怒ったところで」
弱い声だった。
「何になる」
「…………」
「クイントは……戻らない」
その言葉で。
コウヤの顔が歪んだ。
「言うなよ……」
「…………」
「それ、俺に言わせるなよ……」
戻らない。
分かっている。
でも。
認めたくなかった。
「お前が望んでやったことではない」
「でも俺がやった!」
「分かっている」
「だったら!」
「分かっているからだ」
ギルの声は。
最後まで静かだった。
コウヤは何も言えなくなった。
少し離れた場所で。
リリーが僅かに息をしている。
それを見たギルが。
「……リリーを」
「やめろ」
「頼む」
「やめろって」
コウヤはギルの手を掴んだ。
「自分で言えよ」
「…………」
「起きたら、自分で話せばいいだろ」
「…………」
「クイントはもういないんだぞ」
また。
その言葉を。
自分で口にしてしまった。
「父さんまでいなくなるなよ……」
ギルの指先から。
力が抜けていく。
「……コウヤ」
「何」
「生きろ」
「やめろよ」
「…………」
「そんな遺言みたいなこと言うなよ」
ギルの手を。
強く握る。
「俺に生きろって言うなよ……」
返事は。
なかった。
「……父さん?」
ギルの手が。
ゆっくりと落ちた。
「父さん」
身体を揺らす。
「おい」
反応はない。
「…………」
ギルも。
死んだ。
コウヤは。
しばらく。
その身体を抱いたまま動かなかった。
目の前には。
クイントがいる。
腕の中には。
ギルがいる。
少し離れた場所には。
重傷を負ったリリー。
ほんの少し前まで。
全員。
生きていた。
笑っていた。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか。
もう。
分からなかった。
◇◇◇
「コウヤ!」
廊下から声が響いた。
ミカエルだった。
勢いよく部屋へ入って。
その足が。
止まった。
「…………」
最初に目に入ったのは。
クイントだった。
「……クイント?」
声が。
妙に小さかった。
ミカエルは。
ゆっくり近づいた。
膝をつく。
首筋へ指を当てる。
「…………」
ない。
脈が。
ない。
「クイント」
もう一度。
呼んだ。
返事はない。
「…………」
分かっている。
それでも。
手を離せなかった。
クイントは。
王だった。
けれど。
ミカエルにとって。
ただ王であるだけの人間ではなかった。
長い時間を。
同じ場所で過ごしてきた。
国のことで何度も話した。
意見が合わないこともあった。
クイントが無茶をすれば止めた。
逆に。
ミカエルが抱え込みすぎれば。
クイントに呆れられたこともある。
子供が生まれた時も。
聞いた。
リリーのことも。
レアのことも。
そして。
レオナのことも。
クイントがここにいることを。
いつからか。
当然だと思っていた。
「……何をしているんだ」
ミカエルの口から。
そんな言葉が漏れた。
クイントへ向けてなのか。
自分へ向けてなのか。
分からない。
「起きろ」
返事はない。
「クイント」
ほんの少し。
声が震えた。
「……起きろ」
当然。
何も返ってこなかった。
ミカエルは。
目を閉じた。
「……昨日まで」
それ以上。
言えなかった。
昨日まで。
普通だった。
レオナが次の王になる。
そんな未来の話だって。
もっとずっと先の話だと思っていた。
クイント自身も。
きっと。
そう思っていた。
それが。
どうして。
「…………」
ミカエルは。
クイントの手へ。
一度だけ。
触れた。
冷たくなり始めていた。
「……すまない」
何に対する謝罪なのか。
自分でも。
分からなかった。
「ミカエル」
コウヤの声で。
顔を上げる。
そこで。
ギルが見えた。
「……ギル」
確認する。
こちらも。
もう遅かった。
「…………」
クイント。
ギル。
二人とも。
死んでいる。
ミカエルの思考が。
一瞬。
完全に止まった。
その時。
僅かな呼吸音が聞こえた。
「……リリー」
生きている。
ミカエルの身体が。
ようやく動いた。
「誰か!」
廊下へ向かって声を張る。
「急げ! 負傷者がいる!」
兵士たちが駆け込んでくる。
惨状を目にして。
一瞬。
誰もが動きを止めた。
「止まるな!」
ミカエルが叫ぶ。
「リリーを医務室へ!」
「は、はい!」
担架が用意される。
慎重に。
リリーの身体が移された。
「……リリー」
コウヤが呼んだ。
返事はない。
それでも。
胸は動いている。
「頼む」
コウヤは。
担架を運ぶ者へ。
頭を下げた。
「助けてくれ」
リリーが。
部屋から運び出される。
廊下の向こうへ。
姿が消えるまで。
コウヤは見ていた。
◇◇◇
そのあと。
コウヤは。
クイントのそばへ行った。
ミカエルは。
止めなかった。
コウヤが。
クイントの前へ膝をつく。
「…………」
触れようとして。
手が止まる。
自分の手は。
血で汚れていた。
クイントの血。
ギルの血。
その手で。
今さら。
何をするつもりなのか。
「……ごめん」
結局。
また。
それしか言えなかった。
「何回言っても意味ないよな」
クイントは。
何も答えない。
「俺さ」
声が震える。
「まだ一緒にいるつもりだったんだよ」
当たり前だった。
「レオナが歩くところも」
見たかった。
「喋るところも」
見たかった。
「リリーが大人になるところも」
レアも。
レオナも。
「三人が大きくなって」
クイントと二人で。
年を取って。
あの頃は大変だったと。
笑う。
そんな。
何でもない未来を。
「全部……一緒に見るつもりだった」
涙が落ちる。
「勝手にいなくなるなよ」
言ってから。
自分で。
首を振った。
「違うな」
いなくなったのではない。
「俺が殺したんだよな」
しばらく。
何も言えなかった。
やがて。
コウヤは。
震える手を伸ばした。
クイントの手へ。
そっと触れた。
「…………」
冷たい。
「……クイント」
最後になると。
分かっていた。
「俺、本当に」
一度。
言葉が詰まる。
「お前と、まだ生きたかったよ」
◇◇◇
その頃。
リリーを乗せた担架は。
王宮西側の回廊を進んでいた。
「脈が弱い!」
「急げ!」
「医務室までもう少しだ!」
誰も。
気づいていなかった。
王宮地下。
人工精霊を供給する設備の一部が。
異常な出力を示している。
星魅の巫女が。
残していたもの。
最初は。
小さな振動だった。
「……揺れたか?」
「止まるな!」
次の瞬間。
轟音が。
王宮を揺らした。
窓が。
一斉に砕けた。
爆風。
「――っ!」
担架が浮く。
「リリー様!」
床が。
裂けた。
回廊が。
崩れる。
誰かが手を伸ばす。
けれど。
届かない。
担架とともに。
リリーの身体が。
崩落した床の向こうへ。
消えた。
◇◇◇
「――っ!?」
凄まじい振動に。
ミカエルが振り返った。
「何だ!?」
窓の向こう。
王宮西側から。
煙が上がっている。
「……西側?」
コウヤが。
顔を上げた。
「…………」
顔色が変わる。
「リリー」
「待て」
「リリー!」
立ち上がる。
「コウヤ!」
「今、そっち行っただろ!」
「分かっている!」
「だったら!」
「私が確認させる!」
ミカエルは。
廊下へ向かって声を張った。
「西側回廊を確認しろ! 先ほど搬送したリリーを最優先で捜せ!」
「はい!」
兵士たちが走る。
「俺も行く」
「駄目だ」
「何で!」
「今のお前を外へ出せると思うのか!」
その言葉で。
コウヤは。
止まった。
「…………」
そうだ。
自分は。
つい先ほどまで。
人を殺していた。
「……頼む」
拳を握る。
「頼むから……生きててくれ」
◇◇◇
報告は。
そう時間を置かずに来た。
「ミカエル様!」
「どうした!」
「西側回廊が崩落しています!」
「リリーは!」
「担架は発見しました!」
コウヤが。
顔を上げる。
「リリーは!?」
兵士が。
言葉に詰まった。
「……姿がありません」
「…………」
「何?」
「搬送していた者の一部は救助しました。しかし、リリー様だけが――」
「探せよ」
「現在――」
「早く探せ!」
「コウヤ!」
「リリーだぞ!」
コウヤが。
立ち上がる。
「俺も行く!」
「駄目だ!」
「なんでだよ!」
「分かっているだろう!」
ミカエルの声が響いた。
コウヤが。
止まる。
「…………」
そして。
震え始めた。
「俺が……」
「コウヤ」
「俺が怪我させなかったら」
「爆発はお前のせいではない」
「でも!」
声を荒らげる。
「あいつが担架に乗ってたのは俺のせいだろ!」
「…………」
「クイント殺して」
息が。
苦しくなる。
「父さん殺して」
そして。
「リリーまで……」
「まだ死んだと決まったわけではない」
「でも、いないんだろ」
「捜索している」
「…………」
コウヤが。
俯いた。
「もう……」
声が。
途切れた。
「…………」
「コウヤ?」
反応がない。
「どうした」
「…………聞こえる」
ミカエルの表情が変わった。
「何が」
「……また」
コウヤが。
頭を押さえた。
「嫌だ」
「コウヤ」
「来るな」
「私を見ろ」
「来るな!」
後ずさる。
「また聞こえる……!」
呼吸が乱れる。
「嫌だ……!」
頭を抱える。
「もうやめろ!」
誰もいない場所へ。
叫ぶ。
「もう十分だろ!」
『可哀想に』
「黙れ」
『クイントが死んでしまった』
「黙れ!」
『大切な奥様だったのに』
「やめろ!」
『貴方が殺した』
「違う!」
『ギルも』
「黙れ!」
『リリーもいなくなってしまったわね』
「やめろ!」
『全部、貴方が壊した』
「違う……」
『そうね』
女の声は。
どこまでも優しかった。
『辛いでしょう?』
「…………」
『なら』
「やめろ……」
『もう、考えなくていいのよ』
「…………」
「コウヤ!」
ミカエルが。
一歩近づく。
「私を見ろ!」
「来るな!」
「コウヤ!」
「来るなって言ってるだろ!」
コウヤが顔を上げた。
まだ。
そこには。
コウヤ自身がいた。
泣いている。
怯えている。
「ミカエル」
「何だ」
「頼む」
「…………」
「もし俺が」
呼吸を整えようとする。
できない。
「また俺じゃなくなったら」
「…………」
「止めて」
「コウヤ」
「絶対に」
「そんなことを言うな」
「約束してくれ!」
ミカエルが。
息を呑んだ。
「クイントを殺した」
「…………」
「父さんも殺した」
「…………」
「リリーも傷つけた」
涙が。
また落ちる。
「もう嫌なんだよ」
「…………」
「レアもいる」
「コウヤ」
「レオナもいる」
生まれたばかりの。
クイントが。
あんなに大切そうに抱いていた子供。
「もう誰も傷つけたくない」
コウヤが。
ミカエルの腕を掴んだ。
「頼む」
「…………」
「次は」
震える声で。
はっきりと言った。
「殺してでも止めてくれ」
「……できない」
「ミカエル」
「できるわけがない」
「お願いだ」
「私はお前を助ける」
「今助けてくれよ」
「…………」
「俺が」
コウヤは。
必死に。
ミカエルを見る。
「俺でいられるうちに約束して」
「…………」
「もうクイントみたいに」
声が詰まった。
「大事な人を、自分で殺したくない」
ミカエルは。
答えられなかった。
けれど。
コウヤの手から。
少しずつ。
力が抜け始めている。
「ミカエル……」
「…………」
「お願いだ」
長い沈黙。
そして。
「……分かった」
ミカエルは。
答えた。
「必ず止める」
コウヤが。
ほんの少し。
笑った。
「……ありがとう」
その直後。
腕を掴んでいた手が。
落ちた。
「コウヤ?」
「…………」
俯く。
動かない。
「コウヤ」
「…………」
やがて。
ゆっくり。
顔を上げた。
ミカエルは。
その目を見ただけで。
分かった。
「…………コウヤ」
もう。
いない。
手元へ。
光が集まった。
武器が生成される。
ギルから奪った。
聖騎士の力。
「……やめろ」
一歩。
コウヤが踏み出す。
姿が。
消えた。
「――!」
高速移動。
ミカエルが咄嗟に身を逸らす。
刃が。
首のあった場所を通過した。
「コウヤ!」
返事はない。
もう一度。
消える。
速い。
ただ速いだけではない。
こちらが何をするのか。
先に読まれている。
聖騎士の能力。
「目を覚ませ!」
攻撃を受け止める。
「コウヤ!」
何も。
返ってこない。
「クイントが悲しむぞ!」
一瞬。
コウヤの動きが。
止まった。
「…………」
ミカエルの目が見開かれる。
「コウヤ?」
ほんの一瞬だった。
瞳が。
揺れた。
「……クイ……」
掠れた音。
「コウヤ!」
戻った。
そう思った。
けれど。
次の瞬間。
表情が消えた。
刃が振るわれる。
「――っ!」
ミカエルが。
後方へ跳ぶ。
「…………」
戻れない。
いや。
違う。
まだ戻れるかもしれない。
でも。
そのために。
あと何人。
犠牲にする。
クイントが死んだ。
ギルが死んだ。
リリーは行方不明。
そして。
今のコウヤは。
聖騎士の力まで持っている。
『次は、殺してでも止めてくれ』
「…………」
ミカエルの顔が。
歪んだ。
「そんなことを」
声が震える。
「私に頼むな……」
コウヤは。
答えない。
「お前がやれと言ったんだぞ」
当然。
返事はない。
「自分で頼んで」
ミカエルの手が。
震えていた。
「自分はもう何も覚えていないのか……!」
コウヤが。
再び消える。
高速移動。
「――コウヤ!」
ミカエルは。
今度は。
正面から迎え撃った。
◇◇◇
戦いは。
長くは続かなかった。
コウヤが弱かったわけではない。
逆だった。
ギルの聖騎士を得たコウヤは。
あまりにも危険だった。
だからこそ。
ミカエルには。
手加減を続ける余裕がなかった。
一度。
判断を誤れば。
コウヤはここを抜ける。
その先には。
レアがいる。
レオナがいる。
ミリィがいる。
ライベルトも。
大勢の人間が。
まだ。
生きている。
「…………」
ミカエルは。
最後に。
もう一度だけ。
名前を呼んだ。
「コウヤ」
男が。
こちらを見る。
「……すまない」
返事はなかった。
だから。
ミカエルは。
約束を守った。
◇◇◇
コウヤの身体が。
床へ崩れた。
「…………」
もう。
動かない。
ミカエルは。
その場に立ったまま。
しばらく動けなかった。
終わった。
何が。
終わったのだろう。
クイントは死んだ。
ギルも死んだ。
リリーは行方不明。
そして。
コウヤも。
今。
自分が殺した。
「…………」
ミカエルは。
ゆっくり。
コウヤの傍へ膝をついた。
「……止めたぞ」
返事はない。
「お前が頼んだ通り」
声が。
震えた。
「止めた」
それなのに。
何一つ。
救った気がしなかった。
「…………」
視線を上げる。
少し離れたところに。
クイントがいる。
「…………クイント」
また。
その名前を呼んだ。
当然。
返事はない。
「私は……」
続きが。
出てこなかった。
助けられなかった。
クイントを。
ギルを。
コウヤを。
リリーさえ。
今どこにいるのか分からない。
「……すまない」
何度謝ればいいのか。
誰に謝ればいいのか。
もう。
分からなかった。
昨日まで。
ここには。
当たり前のように日常があった。
クイントがいた。
コウヤがいた。
ギルがいた。
リリーが。
レアが。
レオナが。
ライベルトが。
ミリィが。
明日も。
同じように続くと思っていた。
それが。
たった一日で。
なくなった。
「…………」
その時。
一人の女の姿が。
ミカエルの脳裏に浮かんだ。
星魅の巫女。
コウヤの夢へ入り込んだ。
彼が幼い頃に抱いた聖騎士への憧れを利用した。
クイントを殺させた。
リリーを傷つけた。
ギルを殺させ。
聖騎士の力を奪わせた。
一度。
正気へ戻ったコウヤを。
再び。
壊した。
そして最後には。
ミカエル自身に。
コウヤを殺させた。
「…………」
ミカエルは。
立ち上がった。
涙は出なかった。
怒鳴ることもなかった。
それよりも。
ずっと深い場所に。
怒りが沈んでいた。
「……星魅の巫女」
静かに。
名前を呼んだ。
探さなければならない。
もう。
これ以上。
奪わせるわけにはいかない。
そして。
ミカエルには。
なぜか分かっていた。
彼女は。
逃げていない。
きっと。
待っている。
クイントを失い。
ギルを失い。
自分の手でコウヤまで殺した。
今のミカエルが。
自分のところへ来ることを。
最初から。
待っている。
◇◇◇
一方。
崩落した王宮西側では。
救助が続いていた。
「担架を発見!」
「リリー様は!?」
「いません!」
「周囲を探せ!」
壊れた担架。
血痕。
搬送していた者たち。
そこにいたはずの。
少女だけが。
どこにもいない。
そして。
さらに奥。
崩落によって外から隔離された場所で。
一人の少年が。
ゆっくりと目を開けた。
「…………」
身体中が痛い。
息をするだけで。
胸が痛んだ。
「……ここ……」
どこだ。
分からない。
なぜ。
ここにいる。
分からない。
「…………」
自分は。
誰だ。
名前を探す。
何も出てこない。
家族。
分からない。
何も。
思い出せない。
近くに。
割れた鏡の破片が落ちていた。
「…………」
そこに映っている顔を見る。
知らない。
少年だった。
「……誰だよ」
自分の声すら。
知らない人間のものに聞こえた。
彼は。
まだ。
自分がリリーだったことを知らない。
クイントが死んだことも。
ギルが死んだことも。
コウヤが死んだことも。
自分を探して。
王宮中が混乱していることも。
何一つ。
知らない。
この日。
第一王女リリーは。
王宮から姿を消した。
そして。
代わりに。
名前も。
記憶も。
過去も持たない。
一人の少年が残された。
やがて。
瓦礫の中から彼を見つけるのは。
クイントに育てられ。
三姉妹にとって義理の姉にあたる。
ライベルトだった。
けれど。
そのライベルトでさえ。
目の前の少年が。
自分を「お姉様」と呼んでいたリリーだとは。
気づくことができなかった。