王宮事件――残された者たち
王宮を揺るがした爆発から、まだそれほど時間は経っていなかった。
窓の外には灰色の煙が立ち上り、遠くから絶え間なく人の声が聞こえてくる。負傷者を運ぶ者、崩落した区画へ向かう者、何が起きたのか分からないまま指示を求めて走り回る者。
王宮は、混乱のただ中にあった。
けれど、その喧騒から隔てられた一室だけは、不自然なほど静かだった。
「…………」
ミリィは、眠っているレオナを見つめていた。
まだ小さい。
柔らかな布に包まれ、時折小さな手を動かしている。
この子は何も知らない。
今日、自分の母親が死んだことを。
父親も死んだことを。
祖父であるギルも命を落としたことを。
姉のリリーが重傷を負い、その後の爆発で行方が分からなくなっていることも。
何一つ知らない。
それどころか。
自分がこれから、何を背負わされるのかさえ。
「…………」
ミリィは、そっとレオナの手へ指を差し出した。
小さな指が。
きゅっと。
それを握る。
「……レオナ様」
返事などない。
それでも。
名前を呼ばずにはいられなかった。
以前から分かっていた。
この子が。
次の王になる。
だから。
クイントにも話した。
――レオナ様が次の王になられますからね。
クイントは驚かなかった。
ミリィが言うなら、そうなのだろう。
そんなふうに自然に受け止めていた。
ただ。
あの時の二人が思い描いていたのは。
こんな日ではなかった。
「……早すぎますよ」
ぽつりと。
ミリィは呟いた。
もっと先だった。
クイントが王として生き。
三人の娘を育て。
レオナが自分で歩き、自分で考え、自分で何かを選べるようになって。
それから。
いつか。
王というものを受け継ぐ。
そのはずだった。
「…………」
クイントは。
もういない。
その事実を考えると。
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたようだった。
「クイント」
名前を呼んだ。
当然。
返事はない。
「貴女なら、もう少し困った顔をすると思っていました」
ほんの少し。
ミリィの口元が緩んだ。
「レオナ様が王になる時なんて、まだ考えたくないって」
言いそうだった。
まだ子供なのだから。
もう少し。
母親でいさせてほしい。
そんなことを。
笑いながら。
「…………」
その笑みが。
すぐに消えた。
「私も……まだ考えたくありませんでした」
声が震える。
ミリィは目を伏せた。
悲しい。
ただ。
悲しかった。
クイントがいなくなった。
もう。
話せない。
国のことも。
子供たちのことも。
何でもないことも。
「……寂しくなりますね」
小さく呟いた。
レオナの手が。
まだ。
ミリィの指を握っている。
「…………」
だからこそ。
ミリィは。
顔を上げた。
悲しんでいるだけでは。
この子まで守れなくなる。
クイントが死んだ。
国王がいなくなった。
王宮では大規模な爆発まで起きている。
この混乱に乗じて何かが起これば。
今度は。
エルサイアそのものが危うい。
その時。
扉が叩かれた。
「ミリィ様!」
「どうぞ」
兵士が入ってくる。
服は埃に汚れ、額には汗が滲んでいた。
「西側の崩落について、現在も救助を続けています。それと……」
「はい」
「クイント様の……国王の死亡について、一部に情報が広がり始めています」
「…………」
「各部署から、今後の指示を求める声が出ています」
「そうですか」
ミリィは。
もう一度。
レオナを見た。
この子に。
何かを決めろと言っても。
当然。
できるはずがない。
だから。
「伝えてください」
「はい」
「レオナ様を、エルサイアの次代の王とします」
「…………!」
兵士の目が見開かれた。
「レオナ様を……ですか?」
「はい」
「ですが、まだ――」
「赤子ですね」
ミリィは。
優しく言った。
「分かっています」
「では……」
「王になることと、今すぐこの子自身が政治を行うことは別です」
眠るレオナの頬へ。
そっと触れる。
「今はただ、エルサイアの王がここにいる。それが必要なんです」
「…………」
「国を途切れさせるわけにはいきません」
兵士が。
ゆっくりと頭を下げた。
「……承知しました」
「お願いします」
兵士が出ていく。
そして。
入れ替わるように。
廊下の向こうから。
慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ミリィ様!」
別の兵士だった。
「レア様がお戻りになりました!」
「…………」
ミリィの表情が。
僅かに曇った。
「そうですか」
伝えなければならない。
この子にも。
すべて。
◇◇◇
王宮へ戻った瞬間から。
レアは異変に気づいていた。
「……何が」
西側から煙が上がっている。
兵士たちが走っている。
負傷者が次々と運ばれてくる。
廊下の一部には血の跡さえ残っていた。
「何があったのですか?」
近くにいた兵士へ尋ねる。
「…………」
兵士は。
明らかに動揺した。
「レア様……」
「お母様はどちらですか?」
「…………」
「お父様は?」
「まずは、ミリィ様のところへ――」
「質問に答えてください」
声は。
いつも通り丁寧だった。
けれど。
表情は硬い。
「お母様はどちらにいらっしゃるのですか」
「…………」
答えない。
その沈黙が。
何よりも恐ろしかった。
「……分かりました」
レアは。
走り出した。
◇◇◇
「ミリィ様!」
扉を開ける。
「レア様」
「何があったのですか?」
レアは息を切らしていた。
「王宮が……どうしてこんなことに」
「…………」
「お母様は?」
ミリィは。
レアを見た。
「お母様は、どちらに?」
「…………」
答えがない。
レアの表情から。
少しずつ。
血の気が引いていく。
「……嘘ですよね」
「レア様」
「何がですか」
声が震えた。
「どうしてそんな顔をなさるのですか」
ミリィは。
誤魔化さなかった。
「クイントは亡くなりました」
「…………」
時間が。
止まったようだった。
「……え?」
「…………」
「お母様が?」
「はい」
「…………」
レアは。
何度か瞬きをした。
「……そう、ですか」
あまりにも。
静かな返事だった。
まだ。
理解できていない。
「では」
少し間を置いて。
「お父様は?」
「…………」
ミリィの表情で。
また。
分かった。
「……お父様も?」
「はい」
「…………」
レアの手が。
震え始めた。
「聖騎士様は……?」
ここには兵士もいる。
だから。
公の呼び方で尋ねた。
「ギルも亡くなりました」
「…………」
母。
父。
祖父。
一度に。
三人。
「…………」
レアは。
何も言えなかった。
それでも。
まだ。
一人いる。
「リリーお姉様は?」
ミリィの目が。
僅かに伏せられた。
「……リリー様は、重傷を負いました」
「では、今は医務室に?」
「搬送されました」
「……されました?」
「その途中で、西側回廊が爆発しました」
「…………」
「担架は見つかりましたが、リリー様はまだ見つかっていません」
「…………」
レアは。
完全に言葉を失った。
「現在も捜索しています」
「…………」
「ライベルトも探しています」
「…………そう、ですか」
それだけ。
どうにか答えた。
「お母様が死んで」
声が。
少しずつ。
震え始める。
「お父様も」
「…………」
「聖騎士様も」
そして。
「リリーお姉様まで……いないのですか」
「……はい」
「…………」
涙が。
一つ。
落ちた。
「どうして……」
レアが。
俯いた。
「どうして、こんな……」
ミリィは。
静かに近づいた。
「私……」
レアの声が詰まる。
「何も知らなかったのです」
「…………」
「普通に帰ってきたんです」
もう一粒。
涙が落ちる。
「お母様がいると思って」
声が。
とうとう。
崩れた。
「お父様も……お祖父様も……リリーお姉様も……」
公の立場ではなく。
ただの。
家族としての呼び方になった。
「みんないると思って……帰ってきたのに……」
ミリィは。
何も言わず。
レアを抱きしめた。
「……お母様」
「はい」
「本当に、もう……?」
「…………はい」
「帰ってこないのですか」
「……はい」
レアの指が。
ミリィの服を。
強く掴んだ。
「…………」
しばらく。
レアは。
そのまま泣いた。
声を抑えようとして。
それでも。
抑えきれずに。
泣いた。
ミリィは。
何も急かさなかった。
泣く時間くらい。
あっていい。
やがて。
レアの呼吸が。
少しずつ落ち着いてきた。
「…………」
顔を上げる。
その時。
部屋の奥にいる。
レオナへ気づいた。
「……レオナ」
レアは。
ゆっくり近づいた。
「この子は……」
「無事です」
「…………」
レアの表情が。
ほんの少しだけ。
緩んだ。
「よかった……」
小さな手へ。
指を添える。
「本当に……」
まだ。
家族がいる。
この子は。
生きている。
「…………」
そして。
レアは。
ふと。
顔を上げた。
「ミリィ様」
「はい」
「今、エルサイアの王は」
「レオナ様です」
「…………」
レアは。
驚かなかった。
「……やはり」
以前。
聞いていた。
ミリィなら。
レオナが次の王だと分かる。
だから。
それ自体は。
不思議ではなかった。
「では」
レアが。
レオナを見る。
「政務は?」
「現在は、各部署が維持しています」
「…………」
「ですが、長くは続けられません」
「そうでしょうね」
レアは。
目を閉じた。
まだ。
母親のところへ行きたい。
父親にも。
祖父にも。
リリーを探しにも行きたい。
何も。
受け入れられていない。
けれど。
レオナは。
何もできない。
赤子なのだから。
なら。
「…………」
レアが。
涙を拭った。
「私がやります」
「レア様」
「できるとは言っていません」
ミリィを見る。
「分からないことばかりです」
「…………」
「ですから、ミリィ様」
丁寧に。
頭を下げる。
「私を手伝ってください」
「もちろんです」
「……ありがとうございます」
そして。
レアは。
もう一度。
レオナを見る。
「この子には」
小さな手を。
握る。
「まだ、何も分からないでしょうから」
「…………」
「せめて」
レアの声が。
また少しだけ震えた。
「お母様がしていたことくらいは、私が守ります」
ミリィは。
静かに頷いた。
「はい」
レアが。
妹へ微笑む。
「大丈夫ですよ、レオナ」
その時だけは。
王を支える者ではなく。
ただの姉だった。
「私がいますから」
⸻
王宮事件――見えない過去
「リリー!」
ライベルトの声が。
崩壊した西側回廊へ響いた。
「聞こえたら返事しろ!」
返事はない。
焦げた臭い。
砕けた石材。
舞い上がる埃。
至るところに人工精霊の残滓が漂っている。
「リリー!」
ライベルトは。
足を止めなかった。
サイコキネシスで巨大な瓦礫を持ち上げ。
その下を確認する。
いない。
次。
いない。
「くそ……」
そして。
壊れた担架を見つけた。
「…………」
ライベルトの動きが止まった。
血がついている。
搬送班から聞いた特徴とも一致する。
「……これか」
リリーが。
乗っていた担架。
「…………」
ライベルトは。
その場へ膝をついた。
目を閉じる。
「見せろ」
過去へ。
意識を向けた。
◇◇◇
回廊。
まだ。
壊れていない。
兵士たちが走ってくる。
担架。
その上に。
「……リリー」
いた。
間違いない。
茶色い髪。
肩まで伸びた、毛量の多いツインテール。
意識を失っている。
血に濡れている。
「…………」
ライベルトの表情が歪む。
それでも。
過去を追う。
担架が進む。
振動。
兵士が何かを叫ぶ。
そして。
爆発。
回廊が崩れる。
リリーを乗せた担架が。
落ちる。
「…………!」
そこから。
突然。
視界が乱れた。
「何だ……?」
白い。
大量の人工精霊。
視界を。
覆い尽くす。
その向こうに。
何かが見える。
人影。
リリー。
「…………」
瓦礫の下に。
いる。
そこまで。
見えた。
◇◇◇
ライベルトが。
目を開けた。
「……そこか!」
すぐに。
見えた場所へ向かう。
瓦礫を退ける。
「リリー!」
いない。
「…………?」
何も。
いない。
「……違う?」
ライベルトは。
眉を寄せた。
もう一度。
過去を見る。
◇◇◇
担架。
リリー。
爆発。
崩落。
そして。
人工精霊。
「…………」
今度は。
違った。
リリーは。
瓦礫の下ではない。
誰かが。
抱き上げている。
「誰だ?」
顔が見えない。
人工精霊が。
邪魔をする。
人影が。
リリーを抱え。
奥へ消える。
◇◇◇
「…………」
ライベルトが。
ゆっくり目を開けた。
「……待て」
おかしい。
もう一度。
◇◇◇
爆発。
崩落。
人工精霊。
今度は。
誰もいない。
担架だけが。
壊れている。
◇◇◇
「…………」
ライベルトの目つきが。
変わった。
「ふざけやがって」
過去は。
一つしかない。
同じ場所。
同じ時間。
見るたびに。
結果が変わるはずがない。
「私の過去視に……細工してやがるな」
能力が。
壊れたわけではない。
爆発以前は。
正常に見える。
リリーが搬送されてきたところも。
爆発が起きた瞬間も。
すべて一致している。
狂うのは。
その後だけ。
「…………」
ライベルトは。
壊れた担架へ手を置いた。
「リリーを見せたくないのか」
それとも。
「この後に起きた何かを……見せたくないのか」
答えはない。
「……上等だ」
立ち上がる。
「見えないなら、自分の足で探してやる」
◇◇◇
それから。
ライベルトは。
瓦礫の奥へ進んだ。
透視で。
生存者を探す。
過去視は。
もう当てにしすぎない。
現在。
そこにいる人間を。
直接探す。
「…………」
その時。
何かが。
視界に引っかかった。
「……いる」
瓦礫の奥。
僅かに残った空間。
人間が。
一人。
倒れている。
「生存者だ!」
ライベルトが叫んだ。
「こっちに一人いる!」
救助隊へ知らせ。
自分は。
すぐに瓦礫へ手を向ける。
サイコキネシス。
巨大な石材が。
ゆっくりと浮かぶ。
「慎重にな」
自分へ言い聞かせる。
下にいる人間を。
さらに傷つけては意味がない。
一つ。
また一つ。
瓦礫を退ける。
そして。
「…………」
見えた。
少年だった。
茶色い短髪。
まだ若い。
身体のあちこちに傷がある。
「……酷いな」
ライベルトは。
すぐに傍へ膝をついた。
「おい」
頬へ触れる。
「聞こえるか?」
「…………」
「おい。目開けろ」
少年の瞼が。
僅かに動いた。
「…………」
ゆっくり。
目を開ける。
「私が見えるか?」
「…………見える」
「よし」
ライベルトは。
少しだけ息を吐いた。
「動くなよ」
「……痛い」
「見りゃ分かる」
「……何だよ、それ」
「喋れるならまだ上等だってことだ」
「痛いもんは痛い」
「はいはい」
ライベルトは。
少年の身体を確認する。
出血。
打撲。
骨折の可能性もある。
そして。
「…………」
妙だ。
崩落だけで負ったとは思えない傷がある。
もっと前から。
すでに。
重傷だったような。
「お前」
「何」
「爆発の前から怪我してたのか?」
「……知らない」
「知らない?」
「わからない」
少年が。
苛立ったように眉を寄せる。
「何も覚えてない」
「…………」
ライベルトの目が。
細くなった。
「名前は?」
「わからない」
「家族は?」
「わからない」
「何で王宮にいた?」
「わからない」
「ここが王宮だってことは?」
「今知った」
「…………」
「何だよ」
「いや」
ライベルトは。
少年の傷へ手を当てた。
「とりあえず治す」
「……できるのか?」
「できることはな」
「全部?」
「無茶言うな。私は医者じゃない」
「じゃあ大丈夫なのかよ」
「死なせない程度にはどうにかする」
「……微妙だな」
「お前な」
「本当のことだろ」
「口だけは元気だな」
「うるさい」
そう言った直後。
「っ……」
少年が。
痛みに顔を歪めた。
「ほら」
ライベルトの声が。
少しだけ優しくなる。
「無理して喋るな」
「お前が喋らせてるんだろ」
「そうだったな」
「……適当」
「悪かったよ」
ライベルトは。
出血を抑えながら。
ふと。
少年を見る。
「…………」
何も覚えていない。
なら。
試す価値はある。
「おい」
「何」
「ちょっと確認するぜ」
「何を」
「お前が誰なのか」
「…………?」
少年が。
怪訝そうにする。
「分かるのか?」
「普通ならな」
ライベルトは。
少年へ意識を集中した。
過去を。
見る。
◇◇◇
数分前。
少年は。
瓦礫の下にいる。
意識がない。
さらに遡る。
爆発直後。
少年が。
瓦礫の中にいる。
さらに。
その前。
「…………?」
白い。
また。
人工精霊。
何も見えない。
さらに遡ろうとする。
できない。
まるで。
そこで。
過去そのものが切断されている。
◇◇◇
「…………」
ライベルトが。
目を開けた。
「何だよ」
少年が聞く。
「……いや」
「分かったのか?」
「分からん」
「何だよそれ」
「私が聞きたいぜ」
「役に立たないな」
「お前、助けてもらってる最中だって忘れてないか?」
「それとこれとは別だろ」
「生意気だな」
「別に」
「…………」
ライベルトは。
少年を見つめた。
おかしい。
リリーの過去が。
爆発を境に追えなくなった。
そして。
この少年も。
爆発以前の過去が見えない。
「…………」
一瞬。
考える。
だが。
繋がらない。
リリーは少女だ。
茶色い髪を肩まで伸ばし。
毛量の多いツインテールにしていた。
目の前にいるのは。
短髪の少年。
声も。
身体つきも。
話し方も。
何もかも違う。
ただ。
同じなのは。
髪の色くらい。
「…………」
「何だよ」
「いや」
ライベルトは。
少年の髪へ。
一度だけ目をやった。
「リリーと似た色だなと思ってな」
「リリー?」
「ああ」
「誰だよ」
「私が探してる奴だ」
「…………」
ライベルトは。
治療を続けながら。
尋ねる。
「この辺りで女の子を見なかったか?」
「知らない」
「茶色い髪で、肩くらいまでのツインテール。髪の量が多いから結構目立つ」
「…………」
「リリーっていう」
少年が。
眉を寄せた。
何かを。
思い出そうとする。
「…………」
「どうだ?」
「……わからない」
「そうか」
「何も覚えてないって言っただろ」
「そうだったな。悪い」
「…………別に」
ライベルトは。
少しだけ。
俯いた。
「…………」
少年が。
その顔を見る。
「……大事な奴なのか」
「ん?」
「そのリリー」
「ああ」
即答だった。
「大事だな」
「家族?」
「……まあ、そんなところだ」
少し考えて。
ライベルトは笑った。
「妹みたいなもんだよ」
「……そう」
「何だ?」
「別に」
「またそれかよ」
「別にいいだろ」
「まあな」
ライベルトは。
少年の腕の傷へ。
包帯を巻いていく。
「痛むか?」
「痛い」
「我慢できるか?」
「……できる」
「無理なら言えよ」
「できるって」
「強情だな」
「うるさい」
「はいはい」
少し。
沈黙が続いた。
ライベルトは。
手を止めない。
今。
考えるべきことは。
少年の正体ではない。
この子を。
生かすこと。
「……なあ」
少年が。
また口を開いた。
「何だ?」
「俺」
少し。
言葉に迷う。
「本当に何もないのか?」
「…………」
「名前も」
自分の手を見る。
「家族も」
「…………」
「昔のことも」
少年の声が。
初めて。
少しだけ弱くなった。
「何も……わからない」
ライベルトは。
その顔を見る。
「怖いか?」
「…………別に」
「嘘つけ」
「……うるさい」
けれど。
今度の「うるさい」は。
さっきまでより。
ずっと小さかった。
「まあ」
ライベルトは。
少年の頭へ。
軽く手を置いた。
「今分からなくてもいいだろ」
「よくない」
「そうか?」
「俺のことだぞ」
「そうだな」
「…………」
「でも」
ライベルトは。
傷の処置を終える。
「思い出す前に死んだら、それこそ何も分からないままだ」
「…………」
「だから今は」
少年の目を見る。
「治ることだけ考えろ」
「…………」
「過去は逃げない」
その言葉を口にした瞬間。
ライベルト自身が。
僅かに眉を寄せた。
今の自分には。
その過去が。
見えないのだが。
「……何だよ」
「何でもない」
「変な奴」
「お前に言われたくないぜ」
「俺は別に変じゃない」
「自分のこと何も分からないのに、よく言えるな」
「……うるさい」
ライベルトが。
小さく笑った。
そして。
少年を抱き上げようとする。
「おい」
「何」
「運ぶぞ」
「自分で歩ける」
「無理だ」
「まだやってないだろ」
「脚を見ろ」
「…………」
少年が。
自分の脚を見る。
少し動かそうとして。
「っ……!」
「ほら」
「…………」
「どうする?」
「……無理」
「素直でよろしい」
「嬉しそうに言うなよ」
「言ってねえよ」
ライベルトは。
できるだけ傷へ響かないよう。
少年を抱き上げた。
「痛かったら言え」
「痛い」
「まだ持ち上げただけだろ」
「だから最初から痛いって言ってる」
「そうだったな」
「……ほんと適当」
「命のことは適当にしてねえよ」
「…………」
少年が。
一瞬。
黙った。
「……そう」
ライベルトは。
歩き始めた。
しばらくして。
「なあ」
「今度は何だ?」
「お前」
「私?」
「名前」
「…………」
「何ていうんだよ」
ライベルトは。
少しだけ。
少年を見る。
「ライベルト」
「……ライベルト」
「ああ」
少年が。
確かめるように。
もう一度。
「ライベルト」
「何だよ」
「別に」
「呼んだだろ」
「覚えただけ」
「そうかよ」
「…………」
少年は。
ライベルトの腕の中で。
目を閉じた。
「寝るなよ」
「……眠い」
「もう少し我慢しろ」
「無理」
「おい」
「…………」
「おい、少年」
「……聞こえてる」
「なら返事しろ」
「うるさい……」
「それだけ言えりゃ大丈夫だな」
「…………」
ライベルトは。
少年を抱いたまま。
崩落した回廊を戻っていく。
頭の中では。
ずっと。
一つの疑問が消えなかった。
リリーの過去は。
爆発の先だけが見えない。
この少年の過去は。
爆発より前だけが見えない。
あまりにも。
不自然だった。
けれど。
それらを一本に繋ぐ。
肝心の部分だけが。
誰かの手によって。
綺麗に隠されている。
だから。
ライベルトには。
まだ分からない。
今。
自分の腕の中にいる少年こそ。
必死になって探しているリリーなのだということを。
そして。
少年自身も知らない。
自分が。
リリーという名前で。
ライベルトを「お姉様」と呼んでいたことを。
何も知らない少年が。
自分の名前より先に覚えたのは。
ライベルト。
それだけだった。
とりあえずこれで第一章完...とはならないなあともう少し続きます