――コウヤがクイントを殺し、聖騎士ギルまでもその手にかけた、その頃。
エルサイアで起きた惨劇は、まだ日本支部には伝わっていなかった。
距離が遠いわけではない。
王宮から一報さえ入れば、異変はすぐに共有される。
ただ。
この時は、まだ。
誰も知らなかった。
クイントが死んだことも。
ギルが死んだことも。
その二人を手にかけたコウヤが、自らの意思で凶行に及んだわけではないことも。
そして。
同じ力が、すでに別の場所でも一人の人間を蝕んでいたことも。
◇
「……静かになったな」
日本支部の一室。
シュテーは椅子の背にもたれながら、少し前までゼウスがいた場所を眺めていた。
別に、何かが大きく変わったわけではない。
一人いなくなった。
ただ、それだけだ。
けれど。
妙に広く感じる。
「何だ。寂しいのか?」
机に積まれた資料を整理していたティオが、顔も上げずに言った。
「…………」
「何だよ、その間」
「別に」
「寂しいんじゃん」
「違う」
「じゃあ何だよ」
「静かになったって言っただけだろ」
少し離れたところにいた広重が笑った。
「でも、分かるけどね。ゼウスがいると何だかんだ賑やかだったし」
「そう、それ」
シュテーが広重を指差した。
「広重は分かってる」
「俺も同じこと言ってるだろ」
「先生は言い方が悪い」
「寂しいのかって聞いただけだろ」
「それが嫌なんだよ」
「面倒臭いな、お前」
「先生に言われたくない」
「何でだよ」
「なんとなく」
「理不尽だな」
「ティー坊も大概だからね」
「広重、お前まで何なんだよ」
広重が笑う。
シュテーも、少しだけ笑った。
そして。
もう一度。
誰もいなくなった場所を見る。
「……まあ」
「ん?」
「ちょっとだけ寂しいかも」
「ほら」
「先生うるさい」
「認めたじゃねえか」
「でも、ちょっとスッキリもしてる」
「どっちだよ」
「両方」
「本人に聞かせられないね、それ」
「別にいいだろ。ゼウスなら笑うんじゃない?」
「まあ、怒りはしなさそうだけど」
「だろ?」
寂しいような。
スッキリしたような。
自分でも、うまく言葉にはできない。
けれど。
もう二度と会えないわけではない。
「そのうちまた会えるだろ」
ティオが資料を一つ持ち上げた。
「それまでは自分のことやっとけ」
「分かってるよ、先生」
「本当に?」
「信用してない?」
「してるから言ってんだよ」
「意味分かんない」
「ティー坊ってそういうとこあるよね」
「だから何でお前まで乗っかるんだよ」
いつもと変わらない。
何でもない会話だった。
だから。
誰も気づかなかった。
「…………」
シュテーの右手が。
腰へ伸びたことに。
そこには、普段から携帯している短剣型の魔導具があった。
指が柄へ触れる。
握る。
そして。
引き抜いた。
金属の擦れる音が、小さく響く。
「ん?」
広重が振り返った。
「シュテー?」
「…………」
シュテーは短剣を見た。
どうして抜いたのか。
疑問には思わなかった。
目の前に。
人がいる。
なら。
殺せばいい。
それだけだった。
「先生」
「ん?」
ティオが振り返る。
シュテーは、ごく普通の声で言った。
「死んで」
「――は?」
刃が走った。
「っ!」
ティオが反射的に身体を逸らす。
短剣が首筋を掠めた。
「シュテー!?」
椅子が倒れる。
「何して――」
二撃目。
胸を狙っている。
ティオは机を蹴り、後方へ逃れた。
「おい!」
「…………」
「シュテー!」
シュテーが床を蹴る。
距離が一気に縮まった。
振り下ろされた短剣を、ティオが腕ごと受け止める。
「何してんだ!」
「離して」
「離せるか!」
「邪魔」
「お前、俺が誰か分かってんのか!?」
「先生」
「分かってるじゃねえか!」
「うん」
「だったら何で!」
「殺したいから」
「…………」
シュテーが腕を振りほどく。
ティオは咄嗟に距離を取った。
「シュテー!」
広重が立ち上がる。
「それ下ろせって!」
「…………広重」
「そうだよ。分かってるなら――」
短剣の切っ先が。
広重へ向いた。
「……え」
「広重!」
シュテーが踏み込んだ。
「っ!」
広重が身を翻す。
短剣が服を裂き、そのまま背後の壁へ突き刺さった。
「シュテー!?」
「避けないでよ」
「いや避けるだろ!?」
シュテーは壁から短剣を引き抜いた。
「俺が誰か分かってる?」
「広重」
「じゃあ何で俺まで殺そうとするんだよ!」
「そこにいるから」
「……は?」
「殺せるから」
広重の表情から笑みが消えた。
「……本気?」
「うん」
シュテーが再び踏み込む。
「やめろ!」
ティオが横から身体ごとぶつかった。
二人が床へ倒れ込む。
「ティー坊!」
「広重、離れろ!」
「でも!」
「こいつ、お前も殺す気だ!」
「先生も殺すよ」
「知ってるよ!」
ティオがシュテーの手首を床へ押しつける。
「いい加減にしろ!」
「退いて」
「嫌だ!」
「じゃあ先生から殺す」
「最初からそうだろ!」
シュテーが身体を捻った。
拘束が外れる。
そのまま短剣型魔導具へ人工精霊を流し込んだ。
刃に刻まれた術式が淡く発光する。
「……っ!」
ティオの表情が変わった。
「シュテー。それ以上やるなら止めるぞ」
「何を?」
「それだよ」
ティオが短剣を指す。
シュテーは自分の魔導具を見る。
「やってみれば」
「後悔すんなよ!」
ティオが息を吸う。
「――Once=karval. Stopled magica wepain No.56875!」
短剣に刻まれた術式が、一瞬だけ強く輝いた。
直後。
光が消えた。
「…………」
シュテーが止まる。
人工精霊を流す。
反応しない。
もう一度。
「…………」
何も起きない。
「先生」
「何だ」
「何した」
「停止させた」
「…………」
シュテーが魔導具を見る。
「勝手に?」
「今まさに俺を殺そうとしてる奴に言われたくねえよ!」
「戻して」
「戻すか!」
「…………」
シュテーは短剣を見る。
数秒。
「……まあいいや」
「何がだよ」
「刺せるし」
「お前な!」
シュテーが床を蹴った。
魔導具として機能しなくても。
短剣は短剣だ。
ティオの腹部へ切っ先が迫る。
「っ!」
手首を弾く。
軌道が逸れる。
そのままシュテーは身体を回転させ。
広重へ向かった。
「広重!」
「分かってる!」
だが。
間に合わない。
「っ……!」
短剣が広重の腕を裂いた。
「広重!」
「大丈夫!」
血が落ちる。
シュテーは。
何の反応も示さなかった。
「……シュテー」
広重が傷を押さえる。
「俺だよ」
「知ってる」
「ティー坊もいる」
「知ってる」
「さっきまで三人で喋ってたじゃん」
「うん」
「ゼウスの話してた」
「してたね」
「覚えてる?」
「全部」
「だったら何で!」
シュテーは首を傾げた。
「それとこれ、関係ある?」
「あるだろ!」
「ないよ」
短剣を構え直す。
「今は殺したいから殺す」
「…………」
広重が言葉を失う。
記憶はある。
認識も正常だ。
ティオを先生だと分かっている。
広重が誰なのかも分かっている。
さっきまで何を話していたのかも。
全部覚えている。
ただ。
人を殺すという行為だけが。
シュテーの中で、あまりにも自然なものになっていた。
「何の騒ぎですか?」
廊下から声がした。
「来るな!」
ティオが叫ぶ。
しかし。
遅かった。
扉が開く。
「大丈夫です――」
支部の職員が顔を覗かせる。
シュテーが振り返った。
「…………」
そして。
迷わず走った。
「え?」
「逃げろ!」
短剣が振り上げられる。
「――っ!」
広重が職員の腕を引いた。
二人が床へ転がる。
刃が空を切った。
「何なんですか!?」
「いいから逃げて!」
「他の奴も近づけるな!」
「は、はい!」
職員が逃げる。
シュテーは追おうとする。
「行かせるか!」
ティオが背後から腕を掴んだ。
「離して」
「嫌だ!」
「先生」
「何だ!」
「邪魔」
「当たり前だろ!」
振り向きざまに刃が走る。
「――っ!」
ティオの脇腹を掠めた。
「ティー坊!」
「平気だ!」
「どこが!」
「お前も怪我してんだろ!」
「俺はいいから!」
「よくない!」
シュテーは。
二人を見ていた。
自分が傷つけた二人。
「…………」
「シュテー?」
ティオが呼ぶ。
「俺だ」
「先生」
「広重もいる」
「うん」
「ちゃんと分かってるんだな?」
「分かってるよ」
「だったら――」
「二人とも殺せばいいんでしょ?」
「…………」
ティオの表情から期待が消えた。
「シュテー……」
広重が呟く。
「さっきまで普通だったのに」
「そうだね」
「何でだよ」
「分かんない」
「分かんないのに殺すの?」
「うん」
「何で!」
「殺したいから」
シュテーが床を蹴った。
その瞬間。
身体が真横へ吹き飛んだ。
「――っ!?」
壁へ叩きつけられる。
その寸前。
何かがシュテーを受け止め。
そのまま床へ押さえつけた。
「離せ!」
「嫌よ」
女の声だった。
ティオが振り返る。
「……トレシィ?」
「あら」
願い屋はティオを見る。
「随分派手にやったわね」
「俺たちがやったみたいに言うな!」
「違うの?」
「見れば分かるだろ!」
「そうね」
「…………」
トレシィは床へ押さえつけたシュテーを見る。
「離せ!」
「嫌」
「殺すぞ!」
「誰を?」
「誰でもいい!」
「私も?」
「離さないなら殺す!」
「あら」
トレシィは少しだけ目を細めた。
「それなら、離せないわね」
「っ……!」
シュテーが短剣へ手を伸ばす。
「広重!」
「分かってる!」
広重が先に拾い上げる。
「返せ!」
「嫌だよ!」
「広重!」
「返したらまた斬るだろ!」
「斬るよ!」
「じゃあ絶対返さない!」
「…………」
トレシィは二人を見た。
それから。
ティオを見る。
「あなたも下がって」
「でも」
「邪魔よ」
「…………」
「早く」
「……分かった」
ティオが下がる。
トレシィはシュテーの胸元へ手を置いた。
「触るな!」
「静かにして」
「嫌だ!」
「そう」
「離せ!」
「それも嫌」
「…………!」
シュテーが暴れる。
トレシィは構わず目を閉じた。
シュテーの内側へ。
意識を沈める。
記憶。
ある。
人格。
ある。
感情も。
失われていない。
ゼウスと離れたことを少し寂しいと思ったことも。
同時に、少しスッキリしたと思ったことも。
全部残っている。
「…………」
さらに奥へ。
そして。
「……ああ」
トレシィが呟いた。
「何か分かったのか?」
「変なのが混ざってる」
「変なの?」
「この子のものじゃないわ」
ティオの表情が変わった。
「取れる?」
「…………」
トレシィが触れる。
僅かに眉を寄せた。
「これは駄目ね」
「駄目って何だよ」
「取れない」
「じゃあどうするんだよ!」
「急かさないで」
「こっちは殺されかけてんだぞ!」
「まだ生きてるでしょう」
「そういう問題じゃねえ!」
「元気ね」
「ティー坊、今は諦めよう」
「何をだよ!」
トレシィは二人のやり取りを無視した。
もう一度。
シュテーの中を見る。
「…………」
異物は深い。
本人の記憶や人格に絡みついている。
これだけを無理に引き剥がせば。
シュテー自身まで傷つける。
だから。
別の方法を探す。
そして。
「…………あら?」
「今度は何だよ」
トレシィは答えない。
もう一度確かめる。
「……そう」
小さく笑った。
「何だよ」
「使えるわ」
「何が?」
「この子」
「シュテーが?」
「ええ」
トレシィはシュテーを見る。
「願い屋の後継者だもの」
「それが何なんだよ」
「私には取れない」
「だから――」
「でも」
トレシィが言葉を遮った。
「この子なら取れる」
「…………」
ティオが黙る。
「どういうこと?」
広重が尋ねた。
「シュテーの中には、もう願い屋の力がある」
「…………」
「私が外から無理に引き剥がす必要はないのよ」
トレシィはシュテーの胸元へ置いた手を動かさない。
「この子自身の力で、自分じゃないものだけを外へ出せばいい」
「できるのか?」
「知らない」
「おい!」
「やってみないと分からないでしょう」
「もっと安心させること言えないのかよ!」
「ないもの」
「…………」
トレシィは再び目を閉じる。
「シュテー」
「何」
「少し借りるわよ」
「嫌だ」
「そう」
「嫌だって――」
「でも借りるわ」
「聞けよ!」
トレシィは答えなかった。
自分の力をシュテーへ流し込むのではない。
シュテーの中に眠る。
願い屋としての力。
まだ本人が使い方を知らないそれへ触れ。
道だけを示す。
「…………」
記憶には触れない。
人格にも。
感情にも。
必要なのは。
シュテーの中に入り込んだものだけ。
「これね」
トレシィが呟いた。
シュテーの身体が強張る。
「っ……!」
「シュテー!」
「来ないで」
トレシィの声から。
先ほどまでの軽さが消えた。
ティオが足を止める。
「…………」
トレシィは集中する。
シュテーの力で。
シュテー自身と。
それ以外を。
切り分ける。
「……星魅の巫女」
小さく。
その名を口にした。
「これが?」
ティオが聞く。
「ええ」
「…………」
「随分面倒なものを残したわね」
シュテーの身体が震える。
「ぐ……っ」
「シュテー」
トレシィは静かに呼ぶ。
「あなたのものじゃない」
「…………っ」
「だから」
その力を。
シュテー自身から切り離す。
「返してもらうわ」
瞬間。
シュテーの身体が大きく跳ねた。
「――っ!」
形のない何かが。
その身体から引き剥がされた。
人工精霊ではない。
魔力でもない。
シュテーの思考へ溶け込み。
殺すことを。
あまりにも自然な選択肢へ変えていたもの。
それを。
トレシィが掴む。
「…………」
シュテーから。
一気に力が抜けた。
「シュテー!」
ティオが駆け寄る。
倒れかけた身体を抱き止めた。
「おい!」
「…………」
「シュテー!」
「……うるさい」
「…………!」
ティオが息を止める。
「シュテー?」
「…………」
ゆっくり。
目が開く。
「……先生」
「ああ」
「…………」
シュテーがティオを見る。
首筋。
脇腹。
血が滲んでいる。
「…………」
次に。
広重。
腕を傷つけている。
その手には。
自分の短剣型魔導具。
「……広重」
「いるよ」
「…………」
シュテーは。
自分の手を見る。
全部。
覚えている。
先生の首を狙った。
胸を狙った。
広重を斬った。
職員まで殺そうとした。
魔導具を停止されても。
刺せるから構わないと思った。
「…………」
顔から血の気が引く。
「俺……」
「シュテー?」
「先生」
「何だ」
「俺……先生、殺そうとした」
「……ああ」
「広重も」
「うん」
「知らない人も」
「…………うん」
「全部覚えてる」
トレシィが答えた。
「でしょうね」
シュテーが振り返る。
「……何で」
「記憶は取ってないもの」
「…………」
「取ったのは、あなたの中にあった星魅の巫女の力だけよ」
「星魅の巫女……」
「そう」
トレシィは、回収した力を見る。
「あなたは何も忘れてない」
「…………」
シュテーが俯く。
「……先生」
「何?」
「ごめん」
「…………」
「広重」
「うん」
「ごめん」
すぐには。
どちらからも答えが返らなかった。
怖かった。
実際に傷つけられた。
だから。
簡単に「気にするな」と言うこともできない。
「……怖かったよ」
ティオが言った。
「…………」
「普通に」
「……うん」
「魔導具止めたら、普通に短剣として使うし」
「…………」
「あれは洒落になってなかった」
「……ごめん」
「俺も」
広重が続けた。
「シュテー、俺のこと分かってたのに斬ったから」
「……うん」
「さっきまで普通に喋ってたのに」
「全部覚えてる」
「…………」
「だから」
シュテーは自分の手を見る。
「怖い」
「何が?」
「俺が」
声が震える。
「さっきまで、何にもおかしいと思ってなかった」
「…………」
「先生殺すのも。広重殺すのも。知らない奴殺すのも」
シュテーが顔を上げる。
「普通だと思ってた」
「…………」
「今、本当に戻ってるのかも分かんない」
広重が一歩近づいた。
シュテーが身を引く。
「来ないで」
「何で?」
「俺、広重斬った」
「知ってるよ」
「だったら――」
「今は斬らないでしょ?」
「…………」
「それに」
広重が短剣型魔導具を軽く持ち上げる。
「これは俺が持ってるし」
「…………」
「大丈夫」
「分かんない」
「俺には分かるよ」
シュテーは。
しばらく広重を見ていた。
「……先生」
「ん?」
「いる?」
「いるよ」
「広重も?」
「いる」
「…………そっか」
ようやく。
少しだけ。
肩の力が抜けた。
「それ」
ティオがトレシィを見る。
「他の奴からも取れるのか?」
「無理よ」
即答だった。
「…………」
「私が取ったわけじゃないもの」
「じゃあ」
「この子よ」
トレシィがシュテーを見る。
「願い屋の後継者だからできた」
「シュテー自身が?」
「ええ」
「…………」
「私は少し手伝っただけ」
トレシィは手の中の力を見る。
「他の人間なら、同じ方法は使えないわ」
「……そうか」
「そう」
それだけだった。
トレシィは必要以上に説明しなかった。
その頃。
エルサイアでは。
コウヤがクイントとギルを殺した。
そして。
同じ頃、日本支部では。
シュテーがティオを。
広重を。
そこへ偶然現れただけの人間を。
誰彼構わず。
その手にかけようとしていた。
違ったのは。
シュテーが願い屋の後継者だったこと。
そして。
願い屋が間に合ったこと。
ただ。
それだけだった。
「……先生」
「何?」
「…………」
「何だよ」
「呼んだだけ」
「何だそれ」
「……広重」
「はいはい」
「…………」
二人とも。
返事をする。
シュテーは。
それを確かめるように。
もう一度。
「先生」
「ああ」
今度は。
少しだけ長く。
息を吐いた。
何も忘れてはいない。
自分が何をしたのかも。
それを何一つおかしいと思わなかったことも。
全部。
覚えている。
それでも。
先生は生きている。
広重も生きている。
そして。
自分もまだ。
ここにいた。