第一話『名前のない少年』
目を覚ました時、少年には自分の名前がなかった。
最初に目に入ったのは、見覚えのない白い天井だった。
どこかの医務室なのだろう。鼻につく薬品の匂いと、身体の下にある柔らかな寝具の感触。窓から差し込む光は穏やかで、少なくとも今いる場所が危険な場所ではないらしいことだけは分かった。
けれど、それ以外は何も分からなかった。
ここがどこなのか。
どうして自分がここにいるのか。
いつから眠っていたのか。
そもそも、自分が何者なのか。
「…………」
少年はぼんやりと天井を見つめた。
何かを考えようとすると、頭の中に奇妙な空白があることに気づく。
記憶が混乱しているというより、最初からそこだけ綺麗に切り取られてしまったような感覚だった。
何かを忘れている。
それだけは分かる。
けれど、何を忘れているのかが分からない。
気持ちの悪い感覚だった。
少年は身体を起こそうとした。
「っ……!」
瞬間、全身を鋭い痛みが駆け抜けた。
反射的に息を詰め、そのまま寝台へ身体を戻す。
身体のあちこちに包帯が巻かれている。特に胴体の傷は酷いらしく、少し力を入れただけで内部まで響くような痛みが走った。
「動くな」
不意に声がした。
少年は驚いて顔を動かした。
寝台の傍らに、一人の女が座っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
椅子へ腰掛け、こちらを見ている。すぐ手の届くところには大太刀が立てかけられており、少なくとも医者には見えなかった。
少年は警戒するように目を細めた。
「……誰」
口から出た声に、自分自身が僅かな違和感を覚えた。
掠れている。
長く声を出していなかったからだろう。
けれど、それだけではないような気がした。
自分の声なのに、自分のものではないような。
その理由さえ、少年には分からなかった。
「ライベルト」
女は短く答えた。
「私の名前だ」
「…………」
知らない名前だった。
記憶を探ってみても、何も浮かんでこない。
「……知らない」
「だろうな」
ライベルトは特に気を悪くした様子もなかった。
むしろ最初から、その答えを予想していたようだった。
「お前は?」
「…………」
問われて。
少年は口を開いた。
けれど。
何も出てこなかった。
「……お前の名前だ」
「分かってる」
少し苛立って答える。
そんなことは分かっている。
聞かれている意味が分からないのではない。
答えが。
どこにもない。
「…………分からない」
「名前が?」
「うん」
「住んでいた場所は?」
「……知らない」
「家族は」
「…………」
その言葉には。
何故か少しだけ胸がざわついた。
家族。
何かがある。
誰かがいた。
そんな気がする。
けれど。
顔が出てこない。
声も。
名前も。
何一つ掴めない。
「……知らない」
結局、同じ言葉しか出てこなかった。
少年は天井を見た。
考える。
自分の名前。
家。
家族。
昨日まで何をしていたのか。
好きなもの。
嫌いなもの。
何歳なのか。
何もない。
「……何なんだよ」
声が震えそうになって、少年は唇を噛んだ。
怖い。
けれど。
目の前にいる知らない女に、怖がっているところを見せるのも嫌だった。
「俺……誰なんだよ」
「…………」
ライベルトは答えなかった。
答えられない。
彼女にも、少年が何者なのか分からなかったからだ。
王宮を襲った惨劇。
国王クイントが死亡し、聖騎士ギルも命を落とした。
コウヤも死んだ。
その混乱の中で爆発が起き、重傷を負っていたリリーが行方不明になった。
王宮周辺は、文字通り混乱の極みにあった。
そんな中。
ライベルトが見つけたのが、この少年だった。
茶色い短髪。
幼い少年。
身体には重傷を負っており、そのまま放置すれば命に関わる状態だった。
何者なのか分からない。
けれど。
だからといって見捨てる理由にもならなかった。
ライベルトは少年を保護し、治療を受けさせた。
そして。
ようやく今日。
目を覚ました。
記憶をすべて失った状態で。
「……少し見るぞ」
「何を?」
「お前の過去」
少年の眉が寄る。
「過去?」
「ああ」
「そんなの見れるの?」
「私はな」
ライベルトには過去視がある。
本人が覚えていないのなら。
自分が見ればいい。
少なくとも、ライベルトはそう考えていた。
名前。
出身。
家族。
少年がどこから来たのか。
その程度なら、すぐに分かるはずだった。
ライベルトは意識を集中させた。
少年という存在から。
過去へ。
遡る。
「…………」
そして。
すぐに異常へ気づいた。
「…………?」
見えない。
ライベルトは眉を寄せた。
もう一度。
先ほどより深く。
過去を辿ろうとする。
しかし。
「……何だ、これ」
「何?」
少年が不安そうにライベルトを見る。
過去そのものが存在しないわけではない。
それならば、まだ理解できた。
違う。
あるのだ。
この少年には確かに過去がある。
それが存在していることまでは分かる。
なのに。
その先へ踏み込もうとした瞬間。
視界が遮られる。
壁。
そう表現するのが最も近かった。
何者かが。
意図的に。
この少年の過去へ蓋をしている。
「…………」
ライベルトは少年を見る。
茶色い髪。
短い。
まだ幼い。
何か。
引っかかる。
けれど。
その正体に手を伸ばそうとすると。
やはり。
何も掴めなかった。
「……お前」
「何だよ」
「何者だ?」
「俺が聞いてるんだけど」
「…………」
もっともだった。
「それもそうか」
「何なんだよ」
少年の声に苛立ちが混じる。
「分かったんじゃないの?」
「いや」
「…………」
「分からない」
ライベルトは誤魔化さなかった。
「私にも、お前が何者なのか分からない」
「……何それ」
少年の表情が強張った。
期待していたのだろう。
本人に記憶がなくても。
目の前の女なら、自分が誰なのか教えてくれる。
ほんの少し。
そう思っていた。
「俺」
少年が自分の手を見る。
「何もないの?」
「違う」
ライベルトは即座に否定した。
「ある」
「何が」
「お前の過去だ」
「でも見えないんだろ」
「ああ」
「じゃあ同じじゃん」
「違う」
ライベルトは少年を真っ直ぐ見た。
「何もないんじゃない。見えないようにされている」
「…………」
「お前には過去がある」
「……誰かが隠したってこと?」
「おそらくな」
「誰が?」
「分からない」
「何で?」
「それも分からない」
「…………役に立たない」
「お前な」
思わず返してから。
ライベルトは僅かに笑った。
これだけの状態でも。
言うことは言うらしい。
「悪かったな」
「別に」
少年は顔を背けた。
けれど。
その横顔には。
やはり不安が残っていた。
「……じゃあ」
「ああ」
「俺、どうすればいいの」
「まずは治せ」
ライベルトは少年の身体を見る。
「今のお前は、自分が何者なのか以前に、一人で歩くことすら難しい」
「…………」
「傷を治す。それから考えればいい」
「思い出せなかったら?」
「その時はその時だ」
「適当だな」
「今考えても答えが出ないことを考え続けてどうする」
「…………」
「焦って思い出せるなら、いくらでも焦げばいい」
「……言い方」
「事実だろ」
少年は少しだけ不満そうな顔をした。
けれど。
先ほどよりは。
僅かに力が抜けたようだった。
「…………」
しばらく。
沈黙が続いた。
少年が何かを考えている。
やがて。
「なあ」
「何だ」
「ずっと、お前って呼ぶの?」
「…………」
ライベルトが止まった。
「名前ないんだけど」
「そうだったな」
「今気づいたの?」
「身元が分かるまで、それでいいと思っていた」
「俺が嫌」
「そうか」
「うん」
「…………」
確かに。
いつまでも「少年」や「お前」では不便だ。
「なら、仮の名前でもつけるか」
「誰が?」
「私が」
「…………何で?」
「他に誰がいる」
少年が周囲を見る。
誰もいない。
「…………」
「いないだろ」
「まあ」
「嫌なら自分で考えろ」
「何も覚えてないのに?」
「名前を考えるのに記憶は要らないだろ」
「じゃあライベルトが考えて」
「どっちなんだ、お前は」
「でも変なのやめろよ」
「注文が多いな」
「だって」
少年は。
そこで少しだけ真面目な顔をした。
「本当の名前、分かんなかったら」
「…………」
「一生使うかもしれないじゃん」
ライベルトは黙った。
仮の名前。
そう思っていた。
本当の名前が分かるまで。
身元が判明するまで。
ほんの短い間。
呼ぶためだけの名前。
けれど。
この少年の言う通り。
本当の名前が。
永遠に分からなかったら。
今ここで与える名前が。
この少年の名前になる。
「…………」
「まだ?」
「考えている」
「遅い」
「うるさい」
「変なの嫌だからな」
「分かった」
「ダサいのも嫌」
「分かった」
「あと長いのも――」
「少し黙ってろ」
「…………」
少年が口を閉じた。
ライベルトは改めて。
目の前の少年を見た。
名前がない。
過去も分からない。
家族も。
帰る場所も。
今のこの少年には何もない。
なら。
せめて。
呼ばれた時に。
自分のことだと分かるものくらいは。
あってもいい。
「…………ルッソ」
自然と。
その名前が出た。
「…………」
少年が瞬きをした。
「何それ」
「名前だ」
「誰の?」
「お前の」
「…………」
「嫌か?」
少年は答えなかった。
ただ。
その言葉を。
確かめるように。
「……ルッソ」
自分の口で呼んだ。
「ルッソ」
もう一度。
今度は。
少しだけ。
その音を気に入ったように。
「…………」
ライベルトは何も言わずに待った。
「まあ」
「まあ?」
「悪くない」
「そうか」
「良いとも言ってない」
「面倒臭いな、お前」
「うるさい」
少年の口元に。
ほんの少しだけ。
笑みが浮かんだ。
「……それでいい」
「決まりだな」
「うん」
少年は。
自分の胸元へ手を置いた。
「俺、ルッソ」
「ああ」
ライベルトが頷く。
「今日から、お前はルッソだ」
「今日からって変じゃない?」
「仕方ないだろ。今日つけたんだから」
「まあいいけど」
少年――ルッソは目を閉じた。
身体はまだ治っていない。
長く話していたことで、疲労が出てきたのだろう。
「寝る」
「ああ」
「…………」
少しして。
再び。
目が開いた。
「ライベルト」
「何だ」
「…………起きたら」
そこで。
言葉が止まった。
「何だ?」
「……いる?」
ライベルトは。
一瞬だけ。
答えるのが遅れた。
名前も分からない。
家族も分からない。
目を覚ました場所も知らない。
周囲には知らない人間しかいない。
平気そうにしているだけで。
怖くないはずがなかった。
「ああ」
ライベルトは答えた。
「いる」
「…………そ」
それだけで。
ルッソは安心したように目を閉じた。
ほどなくして。
寝息が聞こえ始める。
「…………」
ライベルトは。
眠った少年を見つめていた。
「ルッソ……か」
自分でつけた名前を。
もう一度。
小さく口にする。
不思議だった。
何故か。
放っておけない。
重傷だったから。
記憶を失っているから。
それだけではない。
もっと。
別の何か。
どこかで会ったことがあるような。
ずっと前から知っているような。
そんな。
説明のできない感覚があった。
「…………」
もう一度。
過去視を使おうとして。
やめた。
結果は同じだろう。
誰かが。
意図的に。
この少年の過去を隠している。
「……誰なんだ、お前」
眠っているルッソは。
当然。
答えなかった。
ライベルトは知らない。
自分が今。
名前を与えた少年が。
ほんの少し前まで。
茶色い髪を肩まで伸ばし。
厚めのツインテールにしていた少女だったことを。
家族の前ではギルを「おじいちゃん」と呼び。
公の場では。
聖騎士として立つ彼を「聖騎士様」と呼んでいたことを。
母であるクイントを。
まだ少し慣れない口調で。
それでも懸命に。
「お母様」と呼んでいたことを。
そして。
ライベルトにとっても。
義理の妹にあたる少女だったことを。
あの日。
爆発の中から消えた。
クイントの娘。
リリー。
誰もが。
その行方を探している。
けれど。
その少女は。
今。
ライベルトの目の前で眠っていた。
姿を変え。
記憶を失い。
自分の名前すら忘れて。
過去さえ。
何者かによって覆い隠されて。
だから。
誰も気づかない。
リリー自身さえ。
自分がリリーだったことを知らない。
そして今日。
リリーという名前を失ったその少年に。
一つ。
新しい名前が与えられた。
――ルッソ。
それはまだ。
仮の名前に過ぎなかった。
いつか。
本当の名前が分かるまで。
ライベルトも。
ルッソ自身も。
そう思っていた。
けれど。
この日から。
ルッソという少年の人生は。
確かに。
始まったのだった。