エマ   作:篠原えれの

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第二話『リリー王女』

 

 ルッソという名前を与えてから、数日が経った。

 

 少年の回復は、思っていたよりも早かった。

 

 まだ一人で自由に歩き回れる状態ではないものの、寝台の上で身体を起こしていられる時間は長くなった。食事も少しずつ取れるようになり、口数も増えた。

 

 それに伴って、ライベルトには一つ分かったことがある。

 

 この少年は、存外に生意気だった。

 

「だから、もう歩けるって」

 

「駄目だ」

 

「何で」

 

「医者が駄目だと言っているからだ」

 

「少しくらい」

 

「駄目だ」

 

「…………」

 

「そんな顔をしても駄目だ」

 

「まだ何も言ってない」

 

「顔に書いてある」

 

「過去は見えないくせに」

 

「お前な」

 

 ライベルトが睨むと、ルッソは僅かに笑った。

 

 こういうところだけ見ていれば、普通の少年だった。

 

 自分が何者なのか分からない。

 

 家族も。

 

 出身も。

 

 自分の本当の名前さえ。

 

 それでも、いつまでも怯えているわけではない。

 

 ルッソという名前にも、すっかり反応するようになった。

 

 だからこそ。

 

 ライベルトには、余計に引っかかるものがあった。

 

「…………」

 

「何」

 

「いや」

 

「また見ようとしてる?」

 

「過去視は使っていない」

 

「じゃあ何」

 

「考えていただけだ」

 

「俺のこと?」

 

「ああ」

 

「分かる?」

 

「分からん」

 

「じゃあ意味ないじゃん」

 

「うるさい」

 

 ルッソは肩を竦めた。

 

 その仕草を見ながら。

 

 ライベルトは、数日前から考えていたことを決めた。

 

「ルッソ」

 

「何」

 

「血を採るぞ」

 

「…………は?」

 

「血液検査だ」

 

「急だな」

 

「過去が見えない以上、他の方法で調べる」

 

「別にいいけど」

 

「随分素直だな」

 

「注射くらいで騒ぐ歳じゃないし」

 

「自分の歳は覚えているのか?」

 

「…………」

 

 ルッソが止まった。

 

「分からない」

 

「だろうな」

 

「何で今それ聞いたんだよ」

 

「何となく」

 

「性格悪いな、ライベルト」

 

「元気になったようで何よりだ」

 

「褒めてない」

 

 そんな会話を交わしながら。

 

 ライベルトはまだ。

 

 それほど深刻には考えていなかった。

 

 血液型。

 

 人工精霊への適性。

 

 遺伝的な疾患。

 

 そして。

 

 身元不明者として登録されている者との照合。

 

 何か一つでも。

 

 この少年へ繋がる情報が見つかればいい。

 

 それだけだった。

 

     ◇

 

 結果が出たのは。

 

 翌日のことだった。

 

「…………」

 

 ライベルトは。

 

 報告書を手にしたまま。

 

 しばらく動かなかった。

 

 何度読んでも。

 

 そこに記載された内容は変わらない。

 

 最初は。

 

 検査機器の故障を疑った。

 

 次に。

 

 検体の取り違えを疑った。

 

 だから。

 

 再検査させた。

 

 結果は。

 

 同じだった。

 

「…………馬鹿な」

 

 思わず。

 

 声が漏れた。

 

 ルッソの遺伝子情報。

 

 照合結果。

 

 該当者、一名。

 

 エルサイア王家。

 

 クイントの長女。

 

 リリー。

 

「…………」

 

 ライベルトは椅子へ深く座り込んだ。

 

 意味が。

 

 分からなかった。

 

 リリーは少女だ。

 

 茶色い髪を肩まで伸ばし、厚めのツインテールにしていた。

 

 自分が知っているリリーと。

 

 今。

 

 医務室で寝ている少年。

 

 姿が違う。

 

 性別すら違う。

 

 けれど。

 

 遺伝子情報は。

 

 同一人物だと示している。

 

「…………」

 

 形質型多重人格症候群。

 

 その可能性が。

 

 頭を過ぎった。

 

 あり得ない話ではない。

 

 だが。

 

「……リリー」

 

 名前を口にした途端。

 

 胸の奥が重くなった。

 

 生きていた。

 

 そう思うべきなのだろう。

 

 行方不明だったリリーは。

 

 生きていた。

 

 自分が見つけていた。

 

 ずっと。

 

 目の前にいた。

 

 なのに。

 

 何故。

 

 過去視で分からなかった。

 

「…………」

 

 やはり。

 

 誰かが隠している。

 

 偶然ではない。

 

 リリーの記憶が失われ。

 

 姿が変わり。

 

 過去視まで遮断されている。

 

 誰かが。

 

 リリーという少女を。

 

 世界から消そうとしたかのように。

 

「…………」

 

 ライベルトは立ち上がった。

 

 報告書を握る。

 

 隠すことも考えた。

 

 王家に。

 

 このことを知らせない。

 

 ルッソ本人にも。

 

 まだ。

 

 何も言わない。

 

 今のリリーは。

 

 自分がリリーだったことを覚えていない。

 

 クイントのことも。

 

 コウヤのことも。

 

 ギルのことも。

 

 レアも。

 

 レオナも。

 

 何も。

 

 覚えていない。

 

 なら。

 

 リリーという名前を。

 

 無理に返すことに。

 

 何の意味があるのか。

 

「…………」

 

 けれど。

 

 ライベルトは。

 

 報告書を隠さなかった。

 

     ◇

 

「……それは」

 

 レアは。

 

 報告書を見たまま。

 

 動かなかった。

 

「本当なのですか」

 

「ああ」

 

 ライベルトが答える。

 

「再検査もした」

 

「…………」

 

「間違いない」

 

 レアの指が。

 

 紙の上を滑る。

 

 何度も。

 

 同じ場所を読む。

 

 遺伝子情報一致。

 

 リリー王女。

 

「…………お姉様」

 

 声が。

 

 震えた。

 

「生きて……」

 

「ああ」

 

 ライベルトは。

 

 そこで言葉を止めた。

 

 生きている。

 

 それは間違いない。

 

 だが。

 

 その言葉だけで。

 

 喜んでいいのか。

 

「会わせてください」

 

「レア」

 

「お願いします」

 

「…………」

 

「会わせてください」

 

 ライベルトは。

 

 拒まなかった。

 

     ◇

 

 扉が開いた。

 

「ライベルト?」

 

 寝台の上で本を読んでいたルッソが顔を上げた。

 

 その視線が。

 

 ライベルトの後ろへ向く。

 

「…………」

 

 知らない少女がいる。

 

 ルッソは。

 

 怪訝そうに眉を寄せた。

 

「誰?」

 

「…………」

 

 その一言で。

 

 レアの足が止まった。

 

「……お姉様」

 

「…………?」

 

 ルッソは周囲を見る。

 

 他には誰もいない。

 

「俺?」

 

「…………」

 

「俺のこと?」

 

 レアは。

 

 答えられなかった。

 

 茶色い髪。

 

 短髪。

 

 少年。

 

 姿は違う。

 

 声も違う。

 

 けれど。

 

 よく見れば。

 

 何かが。

 

 どこかに。

 

 残っているような気がした。

 

「お姉様……」

 

 もう一度。

 

 呼ぶ。

 

 ルッソは困ったようにライベルトを見る。

 

「何?」

 

「ルッソ」

 

「うん」

 

「検査結果が出た」

 

「俺の?」

 

「ああ」

 

「何か分かった?」

 

「…………」

 

 ライベルトは。

 

 一度。

 

 レアを見た。

 

 そして。

 

 ルッソへ視線を戻す。

 

「お前の遺伝子情報が、ある人物と一致した」

 

「誰?」

 

「リリー」

 

「…………」

 

「エルサイア王家の第一王女。リリーだ」

 

「…………」

 

 ルッソは。

 

 何も言わなかった。

 

 数秒。

 

 考える。

 

「……それ」

 

「ああ」

 

「女の名前じゃない?」

 

「そうだ」

 

「…………」

 

 自分を見る。

 

「俺、男だけど」

 

「見れば分かる」

 

「じゃあ違うんじゃない?」

 

「再検査した」

 

「…………」

 

「結果は同じだ」

 

 ルッソは黙った。

 

「形質型多重人格症候群の可能性が高い」

 

「…………」

 

「お前は」

 

 ライベルトは。

 

 ゆっくり。

 

 告げた。

 

「リリー王女と同一人物だ」

 

「…………」

 

 ルッソは。

 

 レアを見る。

 

「じゃあ」

 

 少し考えて。

 

「君は?」

 

「…………レアです」

 

「レア」

 

「貴方の……」

 

 言いかけて。

 

 レアは唇を噛んだ。

 

「妹です」

 

「…………」

 

 ルッソの表情が。

 

 明らかに困った。

 

「ごめん」

 

「…………」

 

「分からない」

 

 その言葉は。

 

 レアが。

 

 一番聞きたくなかったものだった。

 

「何も?」

 

「…………うん」

 

「私のことも?」

 

「分からない」

 

「お母様は?」

 

「…………」

 

「お父様は?」

 

「…………分からない」

 

「おじいちゃんは?」

 

「レア」

 

 ライベルトが止める。

 

 けれど。

 

 もう遅かった。

 

「…………」

 

 レアは。

 

 俯いた。

 

「……そうですか」

 

「ごめん」

 

「謝らないでください」

 

「でも」

 

「謝らないで!」

 

 声が。

 

 医務室へ響いた。

 

「…………」

 

 ルッソが驚く。

 

 レア自身も。

 

 驚いたようだった。

 

「…………」

 

 それでも。

 

 一度溢れたものを。

 

 止められなかった。

 

「……こんなところだけ」

 

 ぽつりと。

 

 呟く。

 

「お母様に似なくてもいいじゃないですか」

 

「…………」

 

 ライベルトが。

 

 僅かに目を伏せる。

 

「勝手に……いなくなって」

 

 クイント。

 

「全部残して」

 

 レオナ。

 

 国。

 

 王家。

 

 国民。

 

 これからの政治。

 

 そして。

 

 自分。

 

「お姉様まで」

 

 レアの声が震える。

 

「帰ってきたと思ったら」

 

 顔を上げる。

 

「私のこと、分からないなんて」

 

「…………」

 

「ずるいです」

 

 涙が。

 

 頬を伝った。

 

「お姉様は」

 

 もう。

 

 止まらなかった。

 

「いつも私に押しつける!」

 

「レア」

 

「何でも!」

 

 ライベルトの声も届かない。

 

「面倒なことは私に押しつけて!」

 

 リリーがいた頃。

 

 姉妹で。

 

 何度。

 

 そんなことがあっただろう。

 

 大したことではなかった。

 

 小さな仕事。

 

 面倒な用事。

 

 母に叱られそうになった時。

 

 姉は。

 

 何だかんだと。

 

 妹へ頼ることがあった。

 

 あの頃は。

 

 怒りながらも。

 

 それでよかった。

 

 だって。

 

 姉は。

 

 そこにいたから。

 

「今回も!」

 

 レアが叫ぶ。

 

「お母様も、お父様も、おじいちゃんもいなくなって!」

 

「…………」

 

「レオナはまだ赤ちゃんで!」

 

 王になった。

 

 何も分からない赤子が。

 

 国王になった。

 

「だから私がやらなきゃいけないのに!」

 

 政治を。

 

 国を。

 

 王家を。

 

「お姉様が帰ってきたと思ったのに!」

 

 やっと。

 

 一人。

 

 戻ってきたと思った。

 

「なのに!」

 

 目の前にいる姉は。

 

 自分を知らない。

 

「何で私のことまで忘れてるんですか!」

 

「…………」

 

「また私に全部押しつけるんですか!」

 

 泣きながら。

 

 怒っていた。

 

「お姉様ばっかり!」

 

「…………」

 

「ずるい……!」

 

 最後は。

 

 声にならなかった。

 

 ルッソは。

 

 ただ。

 

 呆然と。

 

 レアを見ていた。

 

 何を言えばいいのか。

 

 分からない。

 

 目の前の少女が。

 

 自分の妹だと言われた。

 

 遺伝子情報では。

 

 自分は。

 

 リリーという少女らしい。

 

 けれど。

 

 何も思い出せない。

 

 レアを見ても。

 

 懐かしいとは思わない。

 

 家族だとも。

 

 思えない。

 

 それでも。

 

「…………」

 

 泣いている。

 

 自分のせいで。

 

「……レア」

 

 名前を呼んだ。

 

「…………」

 

「こっち来て」

 

 レアが顔を上げた。

 

「…………何ですか」

 

「いいから」

 

「…………」

 

 レアは。

 

 動かなかった。

 

 だから。

 

 ルッソの方が。

 

 寝台から降りようとした。

 

「っ……」

 

「ルッソ!」

 

 傷が痛む。

 

 ライベルトがすぐに身体を支えた。

 

「何をしてる!」

 

「だって来ないから」

 

「お前はまだ動くな!」

 

「じゃあ連れてきて」

 

「お前な……」

 

 ライベルトは。

 

 深く息を吐いた。

 

 それでも。

 

 レアを見る。

 

「…………」

 

 レアは。

 

 自分から。

 

 ゆっくりと。

 

 寝台へ近づいた。

 

「…………」

 

 ルッソは。

 

 目の前まで来た少女を見る。

 

「俺」

 

 言葉を探す。

 

「本当に分からない」

 

「…………」

 

「君のことも」

 

「分かっています」

 

「リリーって名前も」

 

「…………はい」

 

「お母様って人も。お父様も。おじいちゃんも」

 

「もういいです」

 

「でも」

 

 ルッソは。

 

 少し迷って。

 

 手を伸ばした。

 

 レアの頭へ。

 

 触れる。

 

「…………!」

 

 レアが目を見開く。

 

「俺がリリーなのかも」

 

 ルッソは。

 

 困ったように言った。

 

「正直、まだ分からない」

 

「…………」

 

「でも」

 

 泣いているレアを見る。

 

「君が俺の妹だったなら」

 

 その頭を。

 

 不器用に。

 

 撫でる。

 

「……ごめん」

 

「謝らないでって……」

 

「じゃあ謝らない」

 

「…………」

 

「でも」

 

 ルッソは考える。

 

「全部押しつけてたなら」

 

「…………」

 

「今から手伝う」

 

 レアが。

 

 顔を上げた。

 

「何をですか」

 

「分からない」

 

「…………」

 

「何押しつけてたのかも分からないから」

 

「…………ふっ」

 

 ほんの。

 

 一瞬。

 

 レアの口から。

 

 笑いとも。

 

 泣き声ともつかない音が漏れた。

 

「何ですか、それ」

 

「分からないんだから仕方ないだろ」

 

「…………」

 

「でも」

 

 ルッソは。

 

 もう一度。

 

 レアの頭を撫でた。

 

「一人でやるのが嫌なら」

 

 自分には。

 

 まだ何もない。

 

 名前すら。

 

 つい数日前にもらったばかりだ。

 

 それでも。

 

「俺もやる」

 

「…………」

 

「何すればいい?」

 

「…………」

 

 レアの顔が。

 

 また。

 

 歪んだ。

 

「……お姉様」

 

「…………」

 

「お姉様のくせに」

 

「うん」

 

「何も覚えてないくせに」

 

「うん」

 

「男になってるし」

 

「それは俺に言われても困る」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……馬鹿」

 

「それも分からない」

 

「そこは否定してください!」

 

 レアが。

 

 泣きながら。

 

 少しだけ笑った。

 

 そして。

 

 とうとう。

 

 ルッソの胸元へ。

 

 顔を押しつけた。

 

「……お姉様」

 

「…………」

 

 ルッソは。

 

 困った。

 

 やはり。

 

 その呼び方に。

 

 自分のことだという実感はない。

 

 それでも。

 

 離せとは。

 

 言えなかった。

 

「…………」

 

 だから。

 

 ただ。

 

 泣いている少女の背中へ。

 

 そっと。

 

 手を回した。

 

「……レア」

 

「はい」

 

「俺」

 

「…………」

 

「お姉様って呼ばれるの、まだ変な感じする」

 

「…………」

 

「だから」

 

 少し考えて。

 

「慣れるまで待って」

 

「…………はい」

 

 レアは。

 

 それ以上。

 

 何も言わなかった。

 

 ただ。

 

 もう少しだけ。

 

 そのままでいた。

 

     ◇

 

 ライベルトは。

 

 少し離れた場所から。

 

 二人を見ていた。

 

 リリーは。

 

 生きている。

 

 遺伝子情報は。

 

 間違いなく。

 

 そう示している。

 

 けれど。

 

 リリーという少女が。

 

 そのまま帰ってきたわけではない。

 

 姿を失った。

 

 記憶を失った。

 

 名前を失った。

 

 家族との思い出も。

 

 王女として生きてきた時間も。

 

 今のルッソには。

 

 何一つ残っていない。

 

 なら。

 

 これは。

 

 生還なのだろうか。

 

 それとも。

 

 リリーという少女の。

 

 死なのだろうか。

 

「…………」

 

 ライベルトには。

 

 まだ。

 

 分からなかった。

 

 ただ。

 

 レアの背中を。

 

 ぎこちなく撫でている少年を見て。

 

 一つだけ。

 

 思う。

 

 記憶がなくても。

 

 姿が変わっても。

 

 何もかもが。

 

 消えてしまったわけではないのかもしれない。

 

 少なくとも。

 

 泣いている妹を放っておけない程度には。

 

 何かが。

 

 まだ。

 

 そこに残っていた。

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