ルッソという名前を与えてから、数日が経った。
少年の回復は、思っていたよりも早かった。
まだ一人で自由に歩き回れる状態ではないものの、寝台の上で身体を起こしていられる時間は長くなった。食事も少しずつ取れるようになり、口数も増えた。
それに伴って、ライベルトには一つ分かったことがある。
この少年は、存外に生意気だった。
「だから、もう歩けるって」
「駄目だ」
「何で」
「医者が駄目だと言っているからだ」
「少しくらい」
「駄目だ」
「…………」
「そんな顔をしても駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「過去は見えないくせに」
「お前な」
ライベルトが睨むと、ルッソは僅かに笑った。
こういうところだけ見ていれば、普通の少年だった。
自分が何者なのか分からない。
家族も。
出身も。
自分の本当の名前さえ。
それでも、いつまでも怯えているわけではない。
ルッソという名前にも、すっかり反応するようになった。
だからこそ。
ライベルトには、余計に引っかかるものがあった。
「…………」
「何」
「いや」
「また見ようとしてる?」
「過去視は使っていない」
「じゃあ何」
「考えていただけだ」
「俺のこと?」
「ああ」
「分かる?」
「分からん」
「じゃあ意味ないじゃん」
「うるさい」
ルッソは肩を竦めた。
その仕草を見ながら。
ライベルトは、数日前から考えていたことを決めた。
「ルッソ」
「何」
「血を採るぞ」
「…………は?」
「血液検査だ」
「急だな」
「過去が見えない以上、他の方法で調べる」
「別にいいけど」
「随分素直だな」
「注射くらいで騒ぐ歳じゃないし」
「自分の歳は覚えているのか?」
「…………」
ルッソが止まった。
「分からない」
「だろうな」
「何で今それ聞いたんだよ」
「何となく」
「性格悪いな、ライベルト」
「元気になったようで何よりだ」
「褒めてない」
そんな会話を交わしながら。
ライベルトはまだ。
それほど深刻には考えていなかった。
血液型。
人工精霊への適性。
遺伝的な疾患。
そして。
身元不明者として登録されている者との照合。
何か一つでも。
この少年へ繋がる情報が見つかればいい。
それだけだった。
◇
結果が出たのは。
翌日のことだった。
「…………」
ライベルトは。
報告書を手にしたまま。
しばらく動かなかった。
何度読んでも。
そこに記載された内容は変わらない。
最初は。
検査機器の故障を疑った。
次に。
検体の取り違えを疑った。
だから。
再検査させた。
結果は。
同じだった。
「…………馬鹿な」
思わず。
声が漏れた。
ルッソの遺伝子情報。
照合結果。
該当者、一名。
エルサイア王家。
クイントの長女。
リリー。
「…………」
ライベルトは椅子へ深く座り込んだ。
意味が。
分からなかった。
リリーは少女だ。
茶色い髪を肩まで伸ばし、厚めのツインテールにしていた。
自分が知っているリリーと。
今。
医務室で寝ている少年。
姿が違う。
性別すら違う。
けれど。
遺伝子情報は。
同一人物だと示している。
「…………」
形質型多重人格症候群。
その可能性が。
頭を過ぎった。
あり得ない話ではない。
だが。
「……リリー」
名前を口にした途端。
胸の奥が重くなった。
生きていた。
そう思うべきなのだろう。
行方不明だったリリーは。
生きていた。
自分が見つけていた。
ずっと。
目の前にいた。
なのに。
何故。
過去視で分からなかった。
「…………」
やはり。
誰かが隠している。
偶然ではない。
リリーの記憶が失われ。
姿が変わり。
過去視まで遮断されている。
誰かが。
リリーという少女を。
世界から消そうとしたかのように。
「…………」
ライベルトは立ち上がった。
報告書を握る。
隠すことも考えた。
王家に。
このことを知らせない。
ルッソ本人にも。
まだ。
何も言わない。
今のリリーは。
自分がリリーだったことを覚えていない。
クイントのことも。
コウヤのことも。
ギルのことも。
レアも。
レオナも。
何も。
覚えていない。
なら。
リリーという名前を。
無理に返すことに。
何の意味があるのか。
「…………」
けれど。
ライベルトは。
報告書を隠さなかった。
◇
「……それは」
レアは。
報告書を見たまま。
動かなかった。
「本当なのですか」
「ああ」
ライベルトが答える。
「再検査もした」
「…………」
「間違いない」
レアの指が。
紙の上を滑る。
何度も。
同じ場所を読む。
遺伝子情報一致。
リリー王女。
「…………お姉様」
声が。
震えた。
「生きて……」
「ああ」
ライベルトは。
そこで言葉を止めた。
生きている。
それは間違いない。
だが。
その言葉だけで。
喜んでいいのか。
「会わせてください」
「レア」
「お願いします」
「…………」
「会わせてください」
ライベルトは。
拒まなかった。
◇
扉が開いた。
「ライベルト?」
寝台の上で本を読んでいたルッソが顔を上げた。
その視線が。
ライベルトの後ろへ向く。
「…………」
知らない少女がいる。
ルッソは。
怪訝そうに眉を寄せた。
「誰?」
「…………」
その一言で。
レアの足が止まった。
「……お姉様」
「…………?」
ルッソは周囲を見る。
他には誰もいない。
「俺?」
「…………」
「俺のこと?」
レアは。
答えられなかった。
茶色い髪。
短髪。
少年。
姿は違う。
声も違う。
けれど。
よく見れば。
何かが。
どこかに。
残っているような気がした。
「お姉様……」
もう一度。
呼ぶ。
ルッソは困ったようにライベルトを見る。
「何?」
「ルッソ」
「うん」
「検査結果が出た」
「俺の?」
「ああ」
「何か分かった?」
「…………」
ライベルトは。
一度。
レアを見た。
そして。
ルッソへ視線を戻す。
「お前の遺伝子情報が、ある人物と一致した」
「誰?」
「リリー」
「…………」
「エルサイア王家の第一王女。リリーだ」
「…………」
ルッソは。
何も言わなかった。
数秒。
考える。
「……それ」
「ああ」
「女の名前じゃない?」
「そうだ」
「…………」
自分を見る。
「俺、男だけど」
「見れば分かる」
「じゃあ違うんじゃない?」
「再検査した」
「…………」
「結果は同じだ」
ルッソは黙った。
「形質型多重人格症候群の可能性が高い」
「…………」
「お前は」
ライベルトは。
ゆっくり。
告げた。
「リリー王女と同一人物だ」
「…………」
ルッソは。
レアを見る。
「じゃあ」
少し考えて。
「君は?」
「…………レアです」
「レア」
「貴方の……」
言いかけて。
レアは唇を噛んだ。
「妹です」
「…………」
ルッソの表情が。
明らかに困った。
「ごめん」
「…………」
「分からない」
その言葉は。
レアが。
一番聞きたくなかったものだった。
「何も?」
「…………うん」
「私のことも?」
「分からない」
「お母様は?」
「…………」
「お父様は?」
「…………分からない」
「おじいちゃんは?」
「レア」
ライベルトが止める。
けれど。
もう遅かった。
「…………」
レアは。
俯いた。
「……そうですか」
「ごめん」
「謝らないでください」
「でも」
「謝らないで!」
声が。
医務室へ響いた。
「…………」
ルッソが驚く。
レア自身も。
驚いたようだった。
「…………」
それでも。
一度溢れたものを。
止められなかった。
「……こんなところだけ」
ぽつりと。
呟く。
「お母様に似なくてもいいじゃないですか」
「…………」
ライベルトが。
僅かに目を伏せる。
「勝手に……いなくなって」
クイント。
「全部残して」
レオナ。
国。
王家。
国民。
これからの政治。
そして。
自分。
「お姉様まで」
レアの声が震える。
「帰ってきたと思ったら」
顔を上げる。
「私のこと、分からないなんて」
「…………」
「ずるいです」
涙が。
頬を伝った。
「お姉様は」
もう。
止まらなかった。
「いつも私に押しつける!」
「レア」
「何でも!」
ライベルトの声も届かない。
「面倒なことは私に押しつけて!」
リリーがいた頃。
姉妹で。
何度。
そんなことがあっただろう。
大したことではなかった。
小さな仕事。
面倒な用事。
母に叱られそうになった時。
姉は。
何だかんだと。
妹へ頼ることがあった。
あの頃は。
怒りながらも。
それでよかった。
だって。
姉は。
そこにいたから。
「今回も!」
レアが叫ぶ。
「お母様も、お父様も、おじいちゃんもいなくなって!」
「…………」
「レオナはまだ赤ちゃんで!」
王になった。
何も分からない赤子が。
国王になった。
「だから私がやらなきゃいけないのに!」
政治を。
国を。
王家を。
「お姉様が帰ってきたと思ったのに!」
やっと。
一人。
戻ってきたと思った。
「なのに!」
目の前にいる姉は。
自分を知らない。
「何で私のことまで忘れてるんですか!」
「…………」
「また私に全部押しつけるんですか!」
泣きながら。
怒っていた。
「お姉様ばっかり!」
「…………」
「ずるい……!」
最後は。
声にならなかった。
ルッソは。
ただ。
呆然と。
レアを見ていた。
何を言えばいいのか。
分からない。
目の前の少女が。
自分の妹だと言われた。
遺伝子情報では。
自分は。
リリーという少女らしい。
けれど。
何も思い出せない。
レアを見ても。
懐かしいとは思わない。
家族だとも。
思えない。
それでも。
「…………」
泣いている。
自分のせいで。
「……レア」
名前を呼んだ。
「…………」
「こっち来て」
レアが顔を上げた。
「…………何ですか」
「いいから」
「…………」
レアは。
動かなかった。
だから。
ルッソの方が。
寝台から降りようとした。
「っ……」
「ルッソ!」
傷が痛む。
ライベルトがすぐに身体を支えた。
「何をしてる!」
「だって来ないから」
「お前はまだ動くな!」
「じゃあ連れてきて」
「お前な……」
ライベルトは。
深く息を吐いた。
それでも。
レアを見る。
「…………」
レアは。
自分から。
ゆっくりと。
寝台へ近づいた。
「…………」
ルッソは。
目の前まで来た少女を見る。
「俺」
言葉を探す。
「本当に分からない」
「…………」
「君のことも」
「分かっています」
「リリーって名前も」
「…………はい」
「お母様って人も。お父様も。おじいちゃんも」
「もういいです」
「でも」
ルッソは。
少し迷って。
手を伸ばした。
レアの頭へ。
触れる。
「…………!」
レアが目を見開く。
「俺がリリーなのかも」
ルッソは。
困ったように言った。
「正直、まだ分からない」
「…………」
「でも」
泣いているレアを見る。
「君が俺の妹だったなら」
その頭を。
不器用に。
撫でる。
「……ごめん」
「謝らないでって……」
「じゃあ謝らない」
「…………」
「でも」
ルッソは考える。
「全部押しつけてたなら」
「…………」
「今から手伝う」
レアが。
顔を上げた。
「何をですか」
「分からない」
「…………」
「何押しつけてたのかも分からないから」
「…………ふっ」
ほんの。
一瞬。
レアの口から。
笑いとも。
泣き声ともつかない音が漏れた。
「何ですか、それ」
「分からないんだから仕方ないだろ」
「…………」
「でも」
ルッソは。
もう一度。
レアの頭を撫でた。
「一人でやるのが嫌なら」
自分には。
まだ何もない。
名前すら。
つい数日前にもらったばかりだ。
それでも。
「俺もやる」
「…………」
「何すればいい?」
「…………」
レアの顔が。
また。
歪んだ。
「……お姉様」
「…………」
「お姉様のくせに」
「うん」
「何も覚えてないくせに」
「うん」
「男になってるし」
「それは俺に言われても困る」
「…………」
「…………」
「……馬鹿」
「それも分からない」
「そこは否定してください!」
レアが。
泣きながら。
少しだけ笑った。
そして。
とうとう。
ルッソの胸元へ。
顔を押しつけた。
「……お姉様」
「…………」
ルッソは。
困った。
やはり。
その呼び方に。
自分のことだという実感はない。
それでも。
離せとは。
言えなかった。
「…………」
だから。
ただ。
泣いている少女の背中へ。
そっと。
手を回した。
「……レア」
「はい」
「俺」
「…………」
「お姉様って呼ばれるの、まだ変な感じする」
「…………」
「だから」
少し考えて。
「慣れるまで待って」
「…………はい」
レアは。
それ以上。
何も言わなかった。
ただ。
もう少しだけ。
そのままでいた。
◇
ライベルトは。
少し離れた場所から。
二人を見ていた。
リリーは。
生きている。
遺伝子情報は。
間違いなく。
そう示している。
けれど。
リリーという少女が。
そのまま帰ってきたわけではない。
姿を失った。
記憶を失った。
名前を失った。
家族との思い出も。
王女として生きてきた時間も。
今のルッソには。
何一つ残っていない。
なら。
これは。
生還なのだろうか。
それとも。
リリーという少女の。
死なのだろうか。
「…………」
ライベルトには。
まだ。
分からなかった。
ただ。
レアの背中を。
ぎこちなく撫でている少年を見て。
一つだけ。
思う。
記憶がなくても。
姿が変わっても。
何もかもが。
消えてしまったわけではないのかもしれない。
少なくとも。
泣いている妹を放っておけない程度には。
何かが。
まだ。
そこに残っていた。