堀北鈴音の部屋が立派な痛部屋へと生まれ変わってから数日が経過していた。
完成直後こそ、堀北は趣味の資料を効率よく整理しただけだと主張していたものの、
実際には展示棚の配置を毎日のように調整し、
新しく購入した小さな台座やアクリルスタンドを追加している。
間接照明を点灯させながらアニメを見る機会も増え、
以前より集中して作品を楽しめるようになったと本人も認めていた。
ただし、それを周囲から痛部屋生活と呼ばれることだけは、今も頑なに拒否している。
オレの生活にも変化があった。
オンラインゲームを二十四時間以上続けた一件以来、
継続して遊ぶ場合にも一度は休憩を挟み、睡眠時間を確保するようになった。
堀北や軽井沢から監視される形になった部分もあるが、
自分でも一度始めると予定以上に続けてしまう傾向を理解したため、
終了時刻をあらかじめ決めている。
美少女ゲームについても、白石から勧められた作品を何本か進めていた。
選択肢によって異なる物語へ分岐し、
現実では選ばなかった可能性まで確認できる仕組みには、今も興味を感じている。
作品によっては恋愛より家族や友情、過去の喪失などが中心となっており、
一括りに美少女ゲームと呼ぶだけでは内容を判断できないことも分かった。
今回オレが進めていたのは、一般に泣きゲーと呼ばれている作品だった。
序盤は、海辺の町へ転校してきた主人公が、
複数の少女たちと出会いながら穏やかな学校生活を送る。
しかし、物語が進むにつれ、
少女たちが抱えている家庭の問題や過去の出来事が明らかになり、
主人公は誰かを救うために難しい選択を迫られる。
最初は明るい会話が中心だったため、単純な学園恋愛作品に見えた。
ところが、何気なく描かれていた台詞や小道具が後半の展開へ繋がり、
登場人物たちの行動に別の意味が与えられていく。
すべての物語を確認するには時間が必要だったが、少なくとも一本目のルートは終えていた。
そこで描かれたのは、病気を抱えながらも周囲へ心配をかけまいと明るく振る舞う少女と、
彼女が家族へ残した手紙の物語だった。
結末を見た後、オレ自身が泣いたわけではない。
ただ、画面を閉じた後も、少女が最後に残した言葉がしばらく頭から離れなかった。
作品を見ることで感情を動かされるという櫛田やひよりの説明を、
以前より理解できるようになっていた。
その日の放課後、オレと堀北はアキバモールへ向かっていた。
堀北は展示棚へ追加する透明な台座を探す予定であり、
オレは別の美少女ゲームを確認するつもりだった。
廊下を歩いていると、前方から大きな体格の男子生徒が近づいてきた。
宝泉和臣だった。
一年生でありながら、その体格と粗暴な振る舞いによって、
すでに上級生の間でも知られている。
隣には七瀬翼がいる。
少し離れた後方には、別クラスの天沢一夏も歩いていた。
天沢は宝泉と同じクラスではないが、
七瀬を通じて顔を合わせる機会が多いらしく、三人で行動している場面も珍しくなかった。
宝泉はオレたちの姿を見つけると、
避けるどころか通路の中央へ進み、行く手を塞ぐように立ち止まった。
「よう、綾小路パイセン」
挨拶の形を取っているが、敬意は感じられない。
七瀬は困ったように宝泉を見た。
「宝泉くん、通行の邪魔になっていますよ」
「少しくらいいいだろ」
宝泉は七瀬へ答えた後、堀北の鞄へ視線を向けた。
鞄には、大正剣戟奇譚の妹姫を模した小さなキーホルダーがついている。
以前、軽井沢たちから贈られたものだった。
「何だそりゃ」
宝泉は鼻で笑った。
「上級生が揃って、随分とくだらねぇもんにハマってるみてえじゃねえか」
堀北は宝泉の視線を追い、自分の鞄へ目を落とした。
「これのことを言っているの?」
「ああ。アニメだのゲームだの、ガキじゃあるまいし、よくそんなもんで騒げるな」
宝泉の声は大きく、近くを歩いていた生徒たちにも聞こえていた。
何人かが足を止め、遠巻きに様子を見始める。
少し前であれば、宝泉のような人物から馬鹿にされれば、
趣味を隠そうとする生徒も多かっただろう。
しかし、龍園によるオタク狩りが失敗し、
本人までプラモデルへ熱中するようになった現在、学校内の空気は以前と違っている。
周囲の生徒たちは宝泉を恐れながらも、彼の言葉へ同意してはいなかった。
「あなたが何を好むかは自由よ」
堀北は落ち着いて答えた。
「同じように、私たちが何を楽しむかも自由でしょう」
「自由だから何でも許されるってか?」
「誰かへ迷惑をかけているなら問題だけれど、
アニメを見たりゲームを遊んだりするだけで、あなたへ何か損害が生じるの?」
「目障りなんだよ」
「それはあなた個人の感想でしかないわ」
堀北は一歩も退かなかった。
「あなたが気に入らないからといって、他人が趣味をやめる義務はないでしょう。
むしろ、無関係な相手の持ち物へわざわざ口を出す方が、よほど幼稚に見えるわ」
周囲から小さなどよめきが起きた。
宝泉の表情から笑みが消える。
七瀬は止めるように宝泉の袖へ手を伸ばした。
「宝泉くん、堀北先輩の仰ることは正しいと思います」
「お前は黙ってろ」
宝泉は七瀬の手を振り払い、堀北を睨んだ。
「俺が幼稚だって言いてえのか?」
「そのように聞こえたのなら、あなたにも自覚があるのではないかしら」
「言ってくれるじゃねえか」
宝泉は堀北へ一歩近づいた。
体格差は大きい。
しかし、堀北は視線を逸らさなかった。
「反論できないから、威圧するの?」
「正論を言ったつもりで調子に乗るなよ」
「正しいと思わないなら、言葉で否定すればいいでしょう」
「口で分からねえ奴には、別のやり方で教えるだけだ」
宝泉の肩が動いた。
七瀬が何かを言うより早く、宝泉は堀北へ腕を伸ばした。
殴るというより、胸元か肩を掴み、自分の力を見せつけるつもりだったのだろう。
オレは堀北の前へ入り、宝泉の手首を取った。
宝泉の腕は太く、単純な力だけなら多くの生徒を上回っている。
しかし、相手の力へ正面から対抗する必要はない。
宝泉が前へ出した腕の向きを僅かに外側へ変え、
踏み込んできた勢いをそのまま利用する。
「何しやがる」
宝泉は腕を引こうとした。
オレは動きへ逆らわず、手首と肘の向きを調整した。
力を込める方向がずれたことで、宝泉の上半身が前へ傾く。
そのまま腕を捻り、肩の動きを制限しながら床へ導いた。
宝泉は体勢を立て直そうと足を踏ん張ったが、腕だけでなく重心まで崩れている。
巨体が床へ倒れ込む前に、
オレは衝撃が大きくならないよう速度を抑え、そのまま片膝をつかせた。
「てめぇ!」
宝泉は反対の手でオレを掴もうとした。
その腕も避け、背中側へ回る。
手首を肩より高くならない位置で捻り、肘を曲げた状態で固定した。
合気道に近い要領で関節と重心を制しているため、
宝泉が力を入れるほど、自分の肩へ負担がかかる。
「動かない方がいい」
「放しやがれ!」
宝泉は強引に立ち上がろうとした。
しかし、腕の向きが制限されているため、足へ十分な力を伝えられない。
オレは必要以上に締めつけず、宝泉が動けない位置だけを維持した。
「綾小路先輩」
七瀬は心配そうに近づいた。
「宝泉くんに怪我はありませんか?」
「今のところはない。無理に動かなければ問題ない」
「誰が心配しろっつった!」
宝泉は怒鳴った。
床へ片膝をつかされている状況が、何より気に入らないのだろう。
天沢は少し離れた場所から、興味深そうに一連の動きを見ていた。
「相変わらず綺麗に押さえるね、綾小路先輩。
宝泉くん、力で抜こうとしない方がいいと思うよ」
「天沢、てめえまで黙ってろ!」
「私は親切で言ってるんだけどなあ」
天沢は楽しそうに笑っていた。
堀北は宝泉の正面へ回り、冷静な視線を向けた。
「言葉で反論できず、力に訴えた結果がこれね」
「調子に乗るなよ」
「この状況でまだ同じ態度を続けるのは、強さではなく学習能力の不足だと思うわ」
「堀北」
オレは一応声をかけた。
これ以上刺激すれば、解放した直後に再び襲いかかる可能性がある。
堀北も理解したらしく、僅かに息を吐いた。
「あなたが他人の趣味へ口を出さないと約束するなら、綾小路くんも離すでしょう」
「誰が約束なんかするか」
「では、しばらくそのままでいる?」
宝泉は歯を食いしばった。
周囲には見物している生徒がいる。
この状態が長引くほど、宝泉にとっては不利になる。
「分かった。放せ」
「何が分かったの?」
堀北が確認する。
宝泉は彼女を睨んだ。
「他人が何やってようが、しばらく放っておいてやる」
「随分と上から目線ね」
「これ以上求めると、また話が戻る」
オレが言うと、堀北は納得していない様子ながらも頷いた。
オレは宝泉の腕をゆっくり解放し、すぐに距離を取った。
宝泉は立ち上がると、自分の手首と肩を動かし、怪我がないことを確認した。
その後、鋭い目でオレを睨む。
「次は同じようにいくと思うなよ」
「別の方法を試しても結果は大きく変わらないと思う」
「気に入らねえ野郎だ」
宝泉は吐き捨てるように言った。
このまま立ち去らせてもよかった。
しかし、龍園が自分の趣味を思い出した時のことが頭に浮かんだ。
アニメやゲームをくだらないと否定する人間の中には、本当に興味がない者もいる。
一方で、知らないから否定している者もいる。
宝泉がどちらなのかは、まだ分からない。
オレは鞄を開き、中から一つのゲームソフトを取り出した。
先ほど話題にしていた泣きゲーだった。
「宝泉」
「あ?」
「これを貸す」
宝泉は差し出された箱とオレの顔を交互に見た。
表紙には、海辺の町を背景に、数人の少女たちが描かれている。
「てめえ、俺を馬鹿にしてんのか?」
「ものは試しだ」
「俺がこんな女だらけのゲームをやると思ってんのか」
「やってから判断すればいい」
宝泉の眉間に深い皺が寄った。
「やらなくてもつまらねえって分かる」
「先ほど堀北が言った通り、それは根拠のない感想だ」
「何だと?」
「内容を知らないまま否定しているだけだ。
つまらないと証明したいなら、最後までやればいい」
宝泉は挑発されたと感じたらしい。
差し出されたゲームを乱暴に受け取った。
「いいぜ。そこまで言うならやってやる」
「無理に最後まで進める必要はない」
「逃げ道を作ってんじゃねえ。最後までやって、どれだけくだらねえか教えてやる」
「分かった」
「つまらなかったら、目の前でぶち壊すからな」
「借り物を壊すのは困る」
「だったら面白いことを祈ってろ」
宝泉はゲームを鞄へ入れ、七瀬と天沢へ声をかけることもなく歩き始めた。
七瀬は慌てて後を追う。
天沢は少しその場に残り、オレへ笑顔を向けた。
「綾小路先輩、宝泉くんがあれを本当にやると思う?」
「挑発された以上、途中でやめる可能性は低い」
「それで面白かったら?」
「本人の反応を見るしかない」
天沢は楽しそうに笑った。
「明日がちょっと楽しみだね~」
そう言って宝泉たちの後を追っていった。
堀北は三人の背中を見送り、オレへ視線を向けた。
「どうして、よりによって泣きゲーを貸したの?」
「宝泉のような人間には、単純な恋愛作品より合う可能性がある」
「家族や喪失を扱った作品だから?」
「ああ。それに、序盤だけでは内容を判断しにくい。最後まで進める動機にもなる」
「つまらなかったら壊すと言っていたけれど」
「本当に壊す可能性は低いと思う」
「何を根拠に?」
「借りた物を壊せば、負けを認めたように見えるからだ」
堀北は少し考え、納得したように頷いた。
「確かに、彼なら最後まで終えた上で、言葉で否定しようとするでしょうね」
「面白くなかった場合はな」
「面白かった場合は?」
「明日分かる」
◯
その日の夜。
宝泉和臣は自室の机へ、綾小路から借りた美少女ゲームを置いていた。
箱を眺めるだけで苛立ちが増していく。
制服姿の少女たちが笑顔で並んでいる。
これまでの宝泉なら、店頭で見かけても足を止めることはなかった。
物語を読むだけのゲームに、何時間も費やす意味が分からない。
現実に存在しない人物と恋愛をし、
選択肢を選んで喜ぶ人間の気持ちなど、理解する必要もないと思っていた。
しかし、綾小路から内容を知らずに否定しているだけだと言われたことが気に入らなかった。
途中でやめれば、怖気づいたと思われる。
最後まで終え、どれだけつまらなかったかを説明し、綾小路へ返す。
宝泉はその目的のためにゲームを起動した。
最初に流れたのは、穏やかな音楽だった。
主人公は家庭の事情で海辺の町へ引っ越し、親戚の家から学校へ通うことになる。
登校初日、道に迷った主人公は一人の少女と出会った。
少女は明るく笑いながら町を案内するが、
途中で何度も息を切らし、それを誤魔化すように話題を変えている。
「回りくどいんだよ」
宝泉は画面へ文句を言った。
少女が何かを隠していることは、早い段階で分かった。
主人公はその様子に気づきながら、深く尋ねようとしない。
「気になるなら聞け。黙って見てんじゃねえ」
宝泉は苛立ちながら文章を進めた。
序盤は学校生活が中心だった。
主人公は複数の少女と知り合い、昼休みを過ごし、文化祭の準備へ参加する。
大きな事件は起こらない。
宝泉は何度かやめようと思った。
しかし、つまらないと判断するにはまだ早いという綾小路の言葉が頭へ残っている。
それに、最初に出会った少女が何を隠しているのか、少しだけ気になっていた。
最初の選択肢が表示された。
少女が忘れた手帳をすぐに届けるか、翌日まで預かるか。
「すぐ持ってけ」
宝泉は迷わず選んだ。
主人公が少女の家へ向かうと、玄関先で彼女の母親と会った。
そこで、少女が幼い頃から重い病気を抱え、
何度も入退院を繰り返していることが明らかになる。
宝泉は画面へ向かっていた姿勢を僅かに変えた。
「やっぱりそういう話かよ」
少女が息を切らしていた理由は分かった。
しかし、本人は主人公に病気を知られたくないらしい。
周囲から特別扱いされることを嫌い、
普通の高校生として文化祭を楽しみたいと考えている。
主人公は彼女の意思を尊重し、体調へ注意しながらも、過度に守ろうとはしなかった。
「もっと強く止めろよ」
宝泉は呟いた。
少女は無理を続けている。
文化祭の準備へ参加し、家へ帰った後も衣装を作っていた。
何度も休むよう言われながら、そのたびに笑って誤魔化す。
宝泉は主人公の対応へ不満を感じた。
しかし、少女が他人から守られるだけの存在として扱われることを嫌っているのも分かる。
強く止めれば、少女は主人公から距離を置くだろう。
物語が進むにつれ、宝泉の独り言は増えていった。
「そこで一人にすんな」
「その選択肢は違うだろ」
「何で本人に聞かねえんだ」
主人公が少女と距離を取ろうとする選択肢を選びかけた時には、
直前の保存地点まで戻った。
「こんなもん、間違える方がおかしい」
誰も聞いていない部屋で言い訳をする。
時間はすでに深夜を過ぎていた。
当初は一時間程度でやめるつもりだった。
しかし、少女の病気が悪化し、
文化祭へ参加できるか分からなくなったところで画面を閉じることはできなかった。
主人公たちは、少女が入院している間も準備を続ける。
彼女が戻った時、すぐに役割へ復帰できるよう、何一つ変更せずに待っていた。
宝泉はその展開を見ながら、机へ肘をついた。
「遅えんだよ。さっさと戻ってこい」
文化祭当日。
少女は医師と家族を説得し、短い時間だけ学校へ戻ってきた。
クラスメイトたちは大げさに迎えず、まるで毎日会っていたかのように自然に声をかける。
少女も笑顔で輪へ入り、文化祭の舞台へ立った。
その場面で流れた曲は、序盤から何度も使われていた明るい旋律だった。
しかし、楽器の数を減らし、ゆっくりとした形へ変えられている。
宝泉は音楽の違いを意識したことなどなかった。
それでも、同じ曲であるはずなのに、最初とはまったく別の意味へ聞こえた。
「これで終わりじゃねえだろうな」
宝泉は画面を見つめた。
物語は文化祭の成功では終わらなかった。
冬が近づき、少女の病状はさらに悪化する。
主人公は毎日病院へ通い、学校で起きた出来事を話した。
少女は笑いながら聞き、自分が戻った後にしたいことをいくつも口にする。
海を見たい。
春になったら花見をしたい。
次の文化祭では、もっと大きな舞台へ立ちたい。
主人公はすべて実現すると約束した。
宝泉は画面へ向かっていた体を動かさなかった。
台詞を読み飛ばすこともなくなっていた。
少女は主人公へ、自分がもし戻れなくても、学校を休まないでほしいと伝えた。
他の友人たちと過ごし、笑っていてほしい。
主人公は拒絶する。
少女がいないのに笑えるわけがないと、初めて感情をぶつけた。
少女はその言葉を聞き、困ったように笑った。
「笑ってんじゃねえよ」
宝泉は低い声で言った。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言え」
少女が本当に伝えたいことは、最後まで完全には語られなかった。
その数日後、彼女は主人公や家族に見守られながら、静かに息を引き取った。
直接的な描写はなく、病室の窓から差し込む朝の光と、
主人公が握っていた手から力が抜けていく様子だけが映された。
宝泉は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「ふざけんな」
小さな声が漏れた。
「救うんじゃなかったのかよ」
ゲームである以上、別の選択肢があった可能性を考えた。
宝泉は保存画面を開き、過去の地点へ戻ろうとした。
しかし、どこからやり直しても、少女の病気そのものを治す選択肢は存在しない。
失敗したから亡くなったのではない。
主人公ができることは、限られた時間を少女と過ごし、
彼女が望んだ学校生活を支えることだけだった。
物語の最後。
主人公の元へ、少女が生前に書いた手紙が届けられた。
そこには、助けてもらったことへの感謝ではなく、
普通の友人として接してくれたことへの感謝が書かれていた。
病気の自分ではなく、一人の高校生として笑い合えた時間が嬉しかった。
約束をすべて守れなかったことを謝りながら、自分の代わりに春の桜を見てほしいと願っている。
主人公は手紙を読み終えると、少女と初めて出会った海辺へ向かった。
季節は春へ変わっていた。
画面の中で桜の花びらが舞い、
序盤に流れていた明るい曲が、今度はピアノだけで演奏される。
宝泉は机へ肘をつき、涙で濡れた顔を手で覆った。
「こんなもん反則だろうが……」
部屋には誰もいない。
それでも、自分の目元を見られたくないかのように顔を隠した。
「最初からこうなるって分かってて、あんな約束させやがったのかよ……」
エンディングが終わっても、宝泉はすぐに立ち上がれなかった。
画面には最初のメニューが表示されている。
少女の笑顔が、何事もなかったように背景へ描かれていた。
時計を見ると、すでに朝になっていた。
一晩中ゲームを続けていたことに、その時初めて気づいた。
「綾小路の野郎」
宝泉は低い声で名前を呼んだ。
怒っているようにも聞こえる。
しかし、ゲームを壊そうとはしなかった。
むしろ箱と説明書を丁寧に揃え、鞄の中へ入れた。
◯
翌朝。
教室へ向かう途中、オレと堀北は廊下で宝泉と出会った。
昨日と同じように、七瀬と天沢が一緒にいる。
ただし、宝泉の様子は明らかに違っていた。
目の周囲には僅かな疲れが見え、普段より歩く速度も遅い。
睡眠不足であることはすぐに分かった。
宝泉はオレを見つけると、真っ直ぐこちらへ近づいてきた。
鞄からゲームを取り出し、オレの胸元へ押しつけるように返した。
「返す」
「最後まで終えたのか」
「ああ」
「どうだった」
宝泉はすぐに答えなかった。
堀北は宝泉の顔を観察し、冷静に言った。
「徹夜したのね」
「うるせえ」
「目も少し赤いわ」
「画面見すぎて疲れただけだ」
「泣いたの?」
堀北が直接尋ねると、宝泉の声が大きくなった。
「泣いてねえ!」
周囲の生徒たちが振り返る。
宝泉は一度息を吐き、声を抑えた。
「ただ、最後の手紙は反則だろうが。
あんなもん読ませて、平気でいられる奴の方がおかしい」
「面白かったのか」
オレが改めて尋ねる。
「面白いとか、そういう軽い話じゃねえ」
宝泉は険しい表情のまま答えた。
「最初は主人公が鈍くてイライラした。
ヒロインも無理してるのが分かってんのに、笑って誤魔化しやがる。
周りの連中も、もっと早く止めりゃいいと思った」
宝泉の声には熱がこもり始めている。
「でも、あいつは守られて寝てるだけなんて嫌だったんだろ。
普通に学校へ行って、文化祭やって、くだらねえ話をして、それが欲しかっただけだ」
七瀬は驚いたように宝泉を見た。
天沢は口元へ笑みを浮かべている。
「宝泉くん、すごく語るね」
「黙ってろ。まだ終わってねえ」
宝泉は天沢を睨み、すぐにオレへ視線を戻した。
「主人公も最初は気に入らなかったが、最後まで逃げなかったところは悪くねえ。
病気を治せねえなら、一緒にいられる時間を増やすしかねえ。
それを最後までやったんだからな」
「評価は変わったようだな」
「別に美少女ゲーム全部を認めたわけじゃねえ」
「一本は認めるの?」
堀北が尋ねる。
宝泉は不機嫌そうに彼女を見た。
「この一本は、まあ、悪くなかった」
「徹夜して、目を赤くして、十分以上語っておきながら?」
「しつけえぞ」
「事実を確認しているだけよ」
「てめえら、二人揃って気に入らねえな」
七瀬は宝泉が返した箱へ視線を向けた。
綾小路が静かに口を開く。
「オレもこの作品をやった。人間が、なぜ涙を流すのかを学習するためだった」
綾小路はいつも通り淡々と続けた。
「結局、オレ自身は涙を流せなかった。だが、人間が悲しみや喪失を経て、
それでも前へ進もうとする心理は少し理解できた気がする」
宝泉は腕を組み、大きく頷いた。
「おうおう。初めてパイセンと意見が合ったな」
「そうか」
「あのゲームはな、泣くためにやるんじゃねぇ。生き方を教わるためにやるもんだ」
綾小路は小さく頷く。
「そういう解釈もある」
二人の間だけ妙な空気が一致していた。
その様子を見ていた堀北は、小さく息をつく。
「……あなた、本当に時々、殺人マシーンみたいなことを平然と言うわね」
綾小路は首を傾げた。
「え?」
宝泉も同時に眉をひそめる。
「あ?」
「『涙を流せないが学習した』なんて、普通の高校生は言わないわ」
「事実を説明しただけだ」
「説明になっていないのよ」
宝泉は堀北を見て肩をすくめた。
「パイセンは昔っからそういう奴なんだろ。今さら驚くことじゃねぇ」
「あなたが一番理解を示しているのも、少し複雑なのだけれど」
七瀬は苦笑を浮かべながら、小さく呟く。
「それでも……綾小路先輩も宝泉くんも、
その作品を大切に思っていることだけは伝わってきます」
宝泉は照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「けっ。だから言ってんだろ。名作ってのは、一回やっただけじゃ終わらねぇんだよ」
「それほど心に残る物語だったのですか?」
「聞いてなかったのか」
「お話は聞きましたが、実際に自分で体験しなければ分からない部分もあると思います」
七瀬は真面目に答えた。
「宝泉くんがそこまで評価なさるのなら、少し興味があります」
天沢も楽しそうにゲームの箱を覗き込んだ。
「私もやってみようかな。宝泉くんが泣くくらいなら、どんな話か気になるし」
「泣いてねえっつってんだろ!」
「目が疲れただけだったね~」
天沢は笑いながら訂正した。
明らかに信じていない。
「でも、一人でやるより七瀬ちゃんと一緒にやった方が面白そう」
「一緒にですか?」
七瀬が聞き返す。
「選択肢で意見が割れそうだし。
七瀬ちゃんは真面目すぎる選び方しそうだから、私が別の方を試してあげるよ」
「物語の人物を困らせるような選択は避けるべきだと思います」
「ほら、もう割れてる」
天沢は嬉しそうだった。
宝泉は二人の会話を聞きながら、少し考えた。
その後、オレから再びゲームを取り、七瀬へ差し出した。
「持ってけ」
「よろしいのですか?」
「ああ。ただし、途中でやめるんじゃねえぞ」
「宝泉くんから借りる形になるのですか?」
「細けえことはいい。二人で最後までやれ」
天沢が箱へ手を伸ばした。
「私が持つよ」
「いえ。宝泉くんは私へ渡しました」
七瀬は箱を自分の胸元へ寄せた。
「七瀬ちゃん、一人で先に始めるつもり?」
「天沢さんがご一緒するのでしたら、時間を決めて進めます」
「じゃあ今日の夜ね」
「今日は課題があります」
「ゲームの後でやればいいじゃん」
「先に課題です」
「そうやって真面目な選択肢ばかり選ぶんだろうなあ」
天沢は笑いながら七瀬の肩へ寄りかかった。
宝泉は二人へ向かって低い声を出した。
「選択肢をふざけて選ぶなよ」
天沢が宝泉を見た。
「宝泉くん、もう完全に作品を守る側になってない?」
「間違った選択で変な結末に入ったら、話が分からなくなるだろうが」
「失敗した結末も作品の一部ではないでしょうか」
七瀬が尋ねる。
「最初から救える方へ行け」
「でも、どの選択が正しいかは、初めてでは分かりませんよね」
「だから保存しろ。大事な選択肢の前では必ず分けろ」
「攻略方法まで指導してる」
天沢は面白そうに笑った。
「宝泉くん、先生みたいだね」
「誰がセンコーだ」
宝泉の熱は収まらなかった。
文化祭前の選択肢で、主人公が何をするべきか。
少女へ病気について直接尋ねるべきだったのか。
最後の手紙を読む場面で、音楽がどのような役割を果たしていたのか。
昨日まで美少女ゲームをくだらないと切り捨てていた人物とは思えないほど、
細かな場面を覚えている。
七瀬は最初こそ戸惑っていたが、宝泉の説明を真剣に聞いている。
天沢もからかいながら、時折作品について質問していた。
三人が去った後、堀北はしばらくその背中を見ていた。
「一本でここまで変わるものなのね」
「宝泉自身にも、感情を動かされやすい部分があったんだろう」
「本人が最も認めたくなさそうだけれど」
「否定する言葉より、語る内容の方が本心に近い」
宝泉は口では、美少女ゲーム全体を認めたわけではないと言った。
しかし、作品を理解してほしいという気持ちから、
七瀬と天沢へ細かな遊び方まで説明している。
それはすでに、作品を他人へ勧める人間の行動だった。
「次のゲームも貸すつもり?」
堀北が尋ねる。
「求められれば考える」
「宝泉くんの場合、一度気に入れば、次々と要求してくる可能性があるわ」
「その時は白石へ相談すればいい」
「100人斬りの飛鳥なら、宝泉くんに合う作品も選べそうね」
数日後。
昼休みの食堂で、オレと堀北は宝泉たちを見つけた。
三人は同じ卓へ座っている。
食事をしているはずだが、箸はほとんど進んでいなかった。
中央には、返却された泣きゲーの箱が置かれている。
七瀬と天沢も最後まで終えたらしい。
「私は、主人公が最初から病気について、
尋ねなかったこと自体は間違いではないと思います」
七瀬が真剣な表情で言った。
「本人が隠したいと望んでいる以上、無理に踏み込めば信頼を失った可能性があります」
宝泉は納得していないようだった。
「だからって放っておくのは違うだろ。倒れるまで気づかねえのは遅すぎる」
「主人公は異変に気づいていました。
ただし、彼女を弱い存在として扱いたくなかったのだと思います」
「本人が嫌がっても、止めるべき時は止めりゃいいんだよ」
「それでは、彼女の意思を尊重したことになりません」
宝泉と七瀬の議論は、どちらも本気だった。
天沢は飲み物を口にしながら、二人のやり取りを楽しそうに眺めている。
「私は、主人公が別のヒロインと話してる時に、
こっちのルートへ行くのも面白そうだなって思ったけど」
宝泉が天沢を睨んだ。
「お前、あの状況で他の女のルートへ行こうとしたのか?」
「だって選択肢が出たから、選べるのかなって」
「選ぶんじゃねえ!」
宝泉の大声が食堂へ響いた。
周囲の生徒が驚いて振り返る。
天沢はまったく気にしていない。
「でも、失敗した時の反応も見たかったんだよねぇ~」
「ヒロイン泣かせて楽しんでんじゃねえ!」
「ちゃんと保存してたから、その後やり直したよ」
「最初から正しい方を選べ!」
「正しい選択が一つだけとは限らないと思います」
七瀬が割って入った。
「失敗した結末を見ることで、
主人公やヒロインの気持ちをより深く理解できる場合もあります」
宝泉は七瀬へ視線を向けた。
「お前はどっちの味方なんだ」
「味方や敵という話ではありません」
「俺は最初から救える方へ行けっつってんだ」
「初回で攻略情報を見るのは、物語を自分で選ぶ楽しさを損なう可能性があります」
「救えなかったら意味ねえだろ」
「一度失敗したからこそ、次の選択の重みが増すのではありませんか?」
二人の議論は平行線だった。
しかし、どちらも作品を否定しているわけではない。
むしろ、登場人物の気持ちや選択を真剣に考えているからこそ、意見がぶつかっている。
天沢は二人の間で楽しそうに笑った。
「宝泉くん、昨日まで二次元の女の子なんてくだらないって言ってたのに、
一番熱くなってるね~」
「昔の話を持ち出すんじゃねえ」
「数日前だけど?」
「俺が間違ってた部分は認めてやる」
宝泉は不機嫌そうに言った。
「何も知らねえで、全部同じだと思ってた。だが、これはそこらの恋愛話とは違う」
「家族と人生の物語ですか?」
七瀬が尋ねる。
「ああ。ヒロインが可愛いとか、そんな話だけじゃねえ」
「でも、ヒロインが可愛かったことも否定しないんだね」
天沢が笑う。
「そこはどうでもいい」
「本当に?」
「しつけえぞ」
宝泉は顔を逸らした。
その反応だけで、完全にはどうでもよくないことが分かる。
「宝泉くん、もう完全に泣きゲーの伝道師だね」
天沢がからかいと、宝泉は。
「うるせえ。こんだけの話を誰もやらねえ方がおかしいんだよ。
泣きゲーやらねば誰がやるってんだ」
オレと堀北は少し離れた席から、三人の様子を見ていた。
「完全に立場が逆転したわね」
堀北が呟く。
「最初は七瀬と天沢が宝泉へ引いていたが、今は三人とも同じように語っている」
「七瀬さんは人物の意思や倫理を分析し、
天沢さんは分岐そのものを楽しみ、宝泉君は感情を優先する。
作品の受け取り方にも性格が出るのね」
「同じ物語を見ても、感想は一つにならない」
「それでも、一つの作品を通じて議論できるということかしら」
堀北は三人を見ながら、どこか納得したように言った。
龍園は、子どもの頃に捨てた熱を思い出したことで、プラモデルとエアガンへ夢中になった。
宝泉は、それまで触れようともしなかった泣きゲー一本によって、
架空の人物へ感情を向ける意味を知った。
アニメブームが学校へ広がった理由は、単に流行しているからではない。
作品へ触れた人間が何かを感じ、その気持ちを別の人間へ伝えようとする。
受け取った人間がさらに別の誰かへ勧める。
そうして、一つの小さな熱がクラスや学年を越えて広がっていく。
食堂の向こうで、宝泉がこちらへ気づいた。
「おい、綾小路パイセン!」
大きな声で呼ばれ、周囲の視線が集まる。
「何だ」
「次のゲーム持ってこい!」
「もう次へ進むのか」
「今度は全員救えるやつにしろ。途中で誰かが死ぬようなのは駄目だ」
「泣きゲーの魅力を半分否定しているように聞こえるが」
「うるせえ。今度は最後まで気分よく終わるやつだ」
天沢が隣から口を挟んだ。
「私は、もっと大変な話でもいいよぉ~」
七瀬も頷いた。
「悲しい展開であっても、それだけで避けるべきではないと思います」
「お前ら、誰からゲーム借りると思ってやがる」
「綾小路先輩ですよね?」
七瀬が真面目に答えた。
宝泉は言葉を止めた。
天沢が声を上げて笑う。
堀北は呆れたように息を吐いた。
「一度貸しただけで、あなたが一年生三人の専属案内役になったわね」
「次は長編を選ぶべきかもしれない」
「本当に選ぶつもりなの?」
「宝泉が途中で投げ出さないことは分かった」
「徹夜する人間が増えそうね」
「その点は先に注意する」
堀北はオレを見た。
「まず自分が守りなさい」
「今は守っている」
「イベントが始まったら、また怪しいでしょう」
「可能性は否定しない」
「否定してほしかったわ」
食堂では、宝泉、七瀬、天沢の泣きゲー議論がまだ続いている。
数日前まで、宝泉はアニメやゲームをくだらない子どもの遊びだと切り捨てていた。
現在は、自分が最も熱くなり、作品の登場人物を守るため、
仲間へ正しい選択肢を選ぶよう指導している。
価値観が変わるきっかけは、必ずしも大きな出来事とは限らない。
一本のゲーム。
一人のヒロイン。
最後に残された一通の手紙。
それだけで、人間が見ていた世界は変わることがある。
宝泉和臣は美少女ゲームを知り、七瀬翼と天沢一夏もその熱へ巻き込まれた。
アニメブームは二年生だけでなく、一年生へも完全に広がり始めている。
この時点で、高度育成高等学校のほぼすべての学年が、
それぞれ異なる形で二次元文化へ触れていた。
そして、学校側もまた、その変化を一時的な流行として見過ごすつもりはなかった。
全校生徒の知識、情熱、収集力、
創造力を競わせる新たな特別試験が、すでに水面下で準備され始めていた。