高度育成高等学校での生活には、良くも悪くも一定のリズムが存在していた。
朝になれば寮を出て、同じ道を通って校舎へ向かい、
決められた教室の決められた席へ座る。
授業が始まるまでのわずかな時間、
生徒たちは昨日の出来事や放課後の予定を話し、
チャイムが鳴れば教師の言葉に耳を傾ける。
普通の高校と比べれば特殊な制度を数多く抱えている学校ではあったが、
毎日の生活そのものが常に刺激に満ちているわけではない。
特別試験が行われていない時期の学校は、驚くほど穏やかだった。
オレは教室の後方にある自分の席へ座り、机の上へ鞄を置いた。
窓の外には朝の校庭が広がっている。
グラウンドでは運動部の生徒たちが朝練習を続けており、
遠くから笛の音や掛け声が聞こえていた。
教室の中も、普段と大きく変わらない。
須藤はまだ眠そうな顔をしながら椅子へ座り、
池と篠原は小さな声でくだらない話をしている。
平田は早くから登校していた生徒たちへ笑顔で挨拶し、
櫛田は女子の輪の中で楽しそうに話していた。
少し離れた席では、外村が本堂へ何かを熱心に説明している。
外村は元々、自分の趣味について話し始めると止まらなくなる傾向があった。
ゲームやアニメに関する知識も豊富らしく、
池や本堂と意気投合している場面を何度か見たことがある。
ただし、それはあくまでも彼らの間だけで成立している会話だった。
教室全体へ影響を与えるほどのものではない。
「おはよう、綾小路くん」
声をかけられて振り向くと、櫛田桔梗が立っていた。
「おはよう」
「今日はいつもより早いんだね」
「たまたまだ」
「そうなんだ。私は昨日、少し夜更かししちゃったから、朝起きるのが大変だったよ」
櫛田は困ったように笑いながら、自分の目元を指で軽く触れた。
言われてみれば、普段より少し眠そうにも見える。
ただし、外見を整えることに手を抜かない彼女のことなので、
注意深く観察しなければ分からない程度だった。
「勉強でもしていたのか」
「ううん。ちょっと動画を見始めたら止まらなくなっちゃって」
「動画?」
「あっ、今は秘密。まだ軽井沢さんにも話してないから」
櫛田は楽しそうに笑うと、軽井沢の席へ向かっていった。
その背中を見送りながら、
オレは彼女の言葉を深く考えることもなく、窓の外へ視線を戻した。
櫛田が夜更かしをすること自体は珍しくないだろう。
友人の多い彼女なら、誰かと通話をしていた可能性もある。
「朝から随分と熱心に観察しているのね」
隣から冷静な声が聞こえた。
堀北鈴音が席へ座り、鞄の中から教科書を取り出している。
「観察していたつもりはない」
「櫛田さんの後ろ姿を見ながら考え込んでいたように見えたけれど」
「少し夜更かしをしたと言っていたから、何をしていたのかと思っただけだ」
「それを観察していたと言うのよ」
堀北はそう言いながら、机の上へノートを置いた。
彼女は朝から機嫌が悪いわけでもない。普段通りの態度で、
必要以上に周囲と関わろうとせず、自分の時間を静かに過ごそうとしている。
オレも同じだった。
特別な用事がなければ、教室で積極的に誰かと会話をする理由はない。
授業開始までの時間は、静かに過ごせるならそれに越したことはなかった。
ところが、その日はいつもと少し違っていた。
最初に変化を見せたのは軽井沢だった。
「ねえ、櫛田さん。本当に最後まで見たの?」
「見たよ。昨日、帰ってから一気に全部」
「嘘でしょ。十二話もあったじゃん」
「一話だけのつもりだったんだけど、続きが気になっちゃって」
「分かる。私も三話目くらいから止まらなくなった」
二人の会話は、教室の中央付近から聞こえてきた。
普段から声の通りやすい二人なので、特別に聞き耳を立てなくても内容が耳に入ってくる。
「最初は主人公、ちょっと地味だと思ってたんだけどさ」
「うん」
「途中からすごく格好良く見えてくるんだよね」
「私はヒロインの方が好きかな。強がってるのに、本当はずっと寂しかったところとか」
「それ。あの場面は泣くって」
軽井沢は興奮した様子で机を軽く叩き、櫛田も何度も頷いていた。
二人が何かの作品について語っていることは分かった。
しかし、映画なのかドラマなのかまでは分からない。
「何の話か分かるか」
オレが小声で尋ねると、堀北は教科書から視線を上げずに答えた。
「いいえ。興味もないわ」
「そうか」
「あなたは興味があるの?」
「内容が分からないから確認しただけだ」
「なら放っておけばいいでしょう」
堀北の言う通りだった。
櫛田と軽井沢が何を見て盛り上がっていたとしても、オレたちの日常には関係がない。
そう思っていた。
だが、二人の会話に最初に反応したのは池だった。
「おい、軽井沢。それって昨日話題になってたアニメか?」
軽井沢は驚いたように池を見た。
「池くんも知ってるの?」
「知ってるも何も、俺は放送開始から見てるぞ」
「えっ、そうなの?」
「お前、俺を何だと思ってるんだよ」
「そういうの詳しいとは思ってたけど、本当に見てるんだ」
「その言い方、ちょっと失礼じゃね?」
池は不満そうに言いながらも、
会話へ参加できたこと自体は嬉しいらしく、すぐに笑顔を見せた。
「ちなみに俺は幼馴染の方が好きだな」
「えー、絶対メインヒロインでしょ」
「いや、あれは幼馴染が報われるべきだろ。ずっと主人公を支えてきたんだぞ」
「でも主人公が本当に好きなのはメインヒロインじゃん」
「そこをひっくり返すのが面白いんだろ」
「池くん、もしかして最後まで見てない?」
櫛田の問いかけに、池の表情が一瞬止まった。
「まだ十話までだけど」
「じゃあ、これ以上は話せないね」
「待て。何かあるのか?」
「あるけど言えないよ」
「気になるだろ!」
池が声を上げると、近くにいた本堂も会話へ加わった。
「お前、まだそこなのか。昨日最終話まで配信されたぞ」
「本堂も見てたのかよ」
「俺は原作も読んでる」
本堂は得意そうに答えた。
すると、外村が待っていたかのように椅子を回転させ、眼鏡の位置を整えた。
「原作とアニメ版では演出が少々異なっているのでござる。
特に第八話の告白場面については、原作の心理描写を大胆に省略した代わりに、
背景美術と音楽で感情を表現していたのでござるよ」
軽井沢は目を丸くした。
「えっ、外村くんってそんなに詳しいの?」
「その作品についてなら、放送前から注目していたのでござる」
「原作も全部持ってる?」
「当然でござる。限定版の特典小冊子も保管しているのでござるよ」
「見たい!」
軽井沢が身を乗り出すと、外村は明らかに動揺した。
これまで外村がアニメについて話しても、
女子生徒たちから積極的に興味を示されることはほとんどなかったのだろう。
「も、もちろん構わないのでござるが、大切に扱っていただきたいのでござる」
「分かってるって。今度持ってきてよ」
「承知したのでござる」
外村の声は喜びを隠し切れていなかった。
そのやり取りを見ていた池は、どこか納得がいかない様子で外村を睨んでいる。
「ずるくねえか。俺が先に話しかけたのに」
「何がずるいのよ」
「いや、何でもない」
それまで限られた生徒だけで成立していた会話の輪へ、軽井沢と櫛田が加わった。
それだけなら小さな変化だった。
しかし、スクールカーストの上位に位置し、
クラス内で強い影響力を持つ二人が楽しそうに話している姿は、
周囲の生徒たちの興味まで引き寄せていった。
佐藤麻耶が軽井沢のところへ近づき、机へ手をついた。
「軽井沢さん、そのアニメそんなに面白いの?」
「めちゃくちゃ面白いよ。絶対見た方がいいって」
「恋愛系?」
「恋愛もあるけど、それだけじゃない感じ。戦う場面もあるし、謎も多いし」
「怖くない?」
「ちょっと怖いところもあるけど大丈夫」
松下千秋も会話を聞きながら、興味深そうに頷いている。
「最近、SNSでよく画像が流れてくる作品だよね」
「そう、それ!私も最初はそこから気になったの」
「見てないと話題についていけなくなりそう」
「今日から一緒に見ようよ」
「一緒に?」
「放課後、私の部屋で上映会しよう」
軽井沢の提案に、佐藤はすぐ賛成した。
松下も少し考えた後、参加することを決めたらしい。
一つの作品を中心として、
それまでアニメに強い関心を持っていなかった女子生徒たちまで動き始めている。
オレはその光景を見ながら、集団の中で流行が形成されていく過程について考えていた。
多くの人間は、対象そのものの価値だけで行動を決めるわけではない。
親しい人間が楽しんでいることや、
周囲で話題になっていることも、興味を持つ大きなきっかけになる。
これまで池や外村が同じ作品を勧めても、
女子生徒たちはほとんど反応しなかったかもしれない。
しかし、軽井沢や櫛田が夢中になっていると分かれば、状況は変わる。
誰が勧めるかによって、同じものでも受け取られ方は大きく異なる。
「随分と熱心に見ているのね」
堀北が再び声をかけてきた。
「流行が広がる様子は興味深い」
「アニメそのものではなく、人間の行動を見ているということ?」
「今のところはな」
「相変わらず変なところに関心を持つのね」
堀北は呆れたように言った。
その時、櫛田がオレたちの方へ歩いてきた。
「綾小路くんと堀北さんは、アニメって見る?」
「ほとんど見たことがない」
「私もないわ」
堀北は素っ気なく答えた。
櫛田は意外そうに目を瞬かせた。
「二人とも全然見ないんだ」
「必要性を感じたことがないもの」
「必要かどうかで見るものじゃないよ」
「では、何のために見るの?」
堀北が真面目に質問すると、櫛田は少し困ったように考え込んだ。
「何のためって言われると難しいけど、面白いからかな」
「随分と曖昧ね」
「でも、楽しいって大切じゃない?」
櫛田は笑顔のまま答えた。
「登場人物を応援したり、続きがどうなるか考えたり、友達と感想を話したりできるし、
好きなキャラクターができると毎週楽しみになるんだよ」
「架空の人物を応援するの?」
「うん」
「存在しない人物に感情を向ける理由が分からないわ」
堀北の率直な言葉に、櫛田は怒ることなく笑った。
「私も前はそう思ってたよ」
「前は?」
「アニメって、もっと子どもが見るものだと思ってたの。でも見てみたら、全然違った」
「何が違ったのかしら」
「うまく説明できないけど、真剣に見てると、
その人たちが本当に生きてるみたいに感じる時があるの」
堀北は理解できないという表情を浮かべた。
オレにも櫛田の感覚はよく分からなかった。
映像の中にいる人物は、誰かが作った存在に過ぎない。
彼らが何を思い、どのように行動するかも、すべて最初から決められている。
それでも現実の人間と同じように感情を向けることができるというなら、
そこには何らかの理由があるはずだった。
「綾小路くんも見てみたら?」
「オレもか」
「うん。綾小路くんって、普段あんまり趣味の話をしないでしょ」
「これといった趣味がないからな」
「だったら、ちょうどいいじゃない。何か好きな作品が見つかるかもしれないよ」
「考えておく」
オレが答えると、櫛田は満足そうに頷いた。
「堀北さんもね」
「私は遠慮しておくわ」
「まだ何も見てないのに?」
「時間は有限なの。興味のないものへ使う余裕はないわ」
「そう言ってる人ほど、ハマったらすごいことになるんだよ」
「私が夢中になるとでも思っているの?」
「可能性はあると思う」
櫛田は楽しそうに笑いながら、軽井沢たちのところへ戻っていった。
「随分と面倒なものを勧められたわね」
堀北は小さくため息をついた。
「見るつもりはないのか」
「ないわ。あなたは見るつもりなの?」
「今のところ決めていない」
「櫛田さんに勧められたからといって、何でも受け入れる必要はないでしょう」
「分かっている」
そう答えたものの、櫛田の話には少しだけ興味が残った。
架空の人物を、まるで現実に存在する相手のように応援する。
一話を見たら、次の話が気になって止められなくなる。
外村のように作品の演出や構成を分析し、軽井沢のように登場人物の感情へ共感する。
同じ映像を見ても、受け取り方は人によって異なるらしい。
◯
授業が始まると、教室は一度静かになった。
しかし、生徒たちの関心は完全には消えていなかった。
教師が黒板へ文字を書いている間、池は机の下で端末を操作し、
外村から送られてきたらしい画像を確認している。
軽井沢は授業中にもかかわらず佐藤へ小さな紙を回し、
そこへ作品名や登場人物の名前を書いていた。
櫛田は真面目に授業を受けていたが、休み時間になるとすぐ話題を再開した。
午前中の授業が終わる頃には、
最初の会話へ参加していなかった生徒まで作品の名前を覚えていた。
昼休みになり、オレと堀北は普段通り食堂へ向かった。
廊下へ出ると、他のクラスの生徒たちからも似たような言葉が聞こえてくる。
「昨日の最終回見た?」
「限定グッズ売り切れてたんだけど」
「配信で一気に見るつもり」
「ゲーム版もあるらしいよ」
一つのクラスだけで起きている変化ではなかった。
校内全体で、何かが急速に広がり始めている。
食堂へ到着すると、混雑した席のあちこちで端末の画面を見せ合う生徒たちがいた。
普段ならスポーツや恋愛、特別試験の噂などが話題の中心になる。
しかし、その日の食堂では、アニメやゲームの話が明らかに多かった。
オレは定食を受け取り、堀北と向かい合って座った。
「朝より悪化しているように見えるわ」
堀北は周囲を見渡しながら言った。
「悪化と表現するのは適切なのか」
「私にとっては騒がしくなっただけよ」
「楽しんでいる生徒は多い」
「だからといって、私まで理解する必要はないわ」
堀北は箸を取り、食事を始めた。
オレも同じように食べ始めたが、
周囲から聞こえてくる単語の多くは意味が分からなかった。
推し。
神回。
作画。
聖地。
円盤。
尊い。
沼。
聞いたことのある単語も含まれているが、普段とは違う意味で使われているらしい。
「堀北」
「何かしら」
「推しという言葉の意味は分かるか」
「人や物を推薦する時に使う言葉ではないの?」
「会話を聞く限り、それだけではなさそうだ」
「なら、本人たちに聞けばいいでしょう」
「お前は気にならないのか」
「少しも気にならないと言えば嘘になるけれど、自分から聞きに行くほどではないわ」
そう言いながらも、堀北は近くの席で話している女子生徒たちへ一瞬だけ視線を向けた。
興味がまったくないわけではないらしい。
「『沼に落ちた』という表現も聞こえた」
「池くんのことではないの?池が沼だった的な」
「おそらく違う。だとすれば……」
「趣味へ深く入り込んで抜け出せなくなる状態を、沼に例えているのではないかしら」
「なるほど」
堀北は少し考えただけで、正しい意味に近い答えを出した。
「理解できるのか」
「文脈から推測しただけよ」
「お前も適性があるかもしれないな」
「何の適性よ」
「まだ分からない」
堀北は怪訝そうにオレを見た。
その時、食堂の入口から須藤が入ってきた。
須藤はいつもなら池たちと合流するところだが、その日は一冊の漫画を手に持っていた。
表紙には、バスケットボールを抱えた高校生らしき人物が描かれている。
「須藤君が漫画を読んでいるわ」
堀北も気づいたらしい。
「珍しいな」
須藤は空いている席へ座ると、食事を始める前に漫画を開いた。
数ページ読んでは口元を緩め、時折真剣な表情になっている。
周囲の音が聞こえていないかのように、作品へ集中していた。
「授業の教科書より熱心に読んでいるように見えるわ」
「バスケットボールを題材にしているから興味を持ったんだろう」
「それでも驚いたわね」
堀北の声には、僅かな関心が含まれていた。
自分とは無縁だと思っていた相手が、普段とは違う姿を見せる。
それを目の当たりにすれば、興味が生まれるのは自然なことなのかもしれない。
食事を終えて教室へ戻る途中、購買部の前には小さな人だかりができていた。
「何かあったのかしら」
堀北と共に近づいてみると、
店頭へ並べられた雑誌や漫画を生徒たちが手に取っていた。
普段なら文房具や飲み物を買うために利用される場所だが、
今日は新しく入荷したアニメ雑誌が注目を集めているらしい。
「これ、最後の一冊?」
「俺が先に見つけたんだけど」
「でも手に取ったのは私だから」
二人の生徒が雑誌を巡って言い争っている。
少し離れた場所では、別の生徒が店員へ次回の入荷予定を聞いていた。
「こんなものまで売っていたのね」
堀北が雑誌の表紙を見ながら言った。
「以前からあったのかもしれない」
「気づかなかったわ」
「関心がなければ視界に入っても認識しないことはある」
堀北はその言葉を聞き、もう一度棚へ視線を向けた。
「学校の中に、私たちが知らない文化が最初から存在していたということかしら」
「そう考えることもできる」
「大げさね」
そう言いながら、堀北はすぐにはその場を離れなかった。
午後の授業が終わる頃には、朝から続いていた話題はさらに広がっていた。
軽井沢の上映会には佐藤と松下だけでなく、櫛田や篠原まで参加することになったらしい。
池は途中までしか見ていなかった作品を、今日中に最終話まで見ると宣言している。
外村は貸し出すための原作小説を丁寧に袋へ入れ、
本堂はゲーム版を誰に勧めるべきか考えていた。
放課後のチャイムが鳴っても、すぐ帰ろうとする生徒は少なかった。
「綾小路くん」
帰り支度をしていると、軽井沢がこちらへやってきた。
「今日の上映会、来ない?」
「オレもか」
「そう。男子が一人もいないと、ちょっと偏るじゃん」
「池たちを呼べばいいだろう」
「あいつらは解説がうるさそうだから嫌」
近くで聞いていた池が反応した。
「聞こえてるぞ!」
「だって本当じゃん。初めて見る人がいるのに、先の展開を匂わせそうだし」
「俺はそんなことしねえよ」
「絶対する」
「しねえって!」
軽井沢は池を無視し、再びオレを見た。
「綾小路くんってアニメ見ないんでしょ?」
「ああ」
「だったらちょうどいいよ。初心者の感想も聞きたいし」
「感想を求められても、期待に応えられるかは分からない」
「そんな難しく考えなくていいって。
面白かったとか、このキャラが好きとか、それだけでいいから」
軽井沢にとっては簡単なことらしい。
しかし、何かを見て自分がどう感じたかを言葉にする経験は、オレにとって多くなかった。
好きな人物を選ぶという行為も、すぐには理解できない。
「堀北も誘ったらどうだ」
オレが隣を見ると、堀北は露骨に嫌そうな顔をした。
「なぜ私まで巻き込むの」
「一人で参加するよりいい」
「あなたが参加しなければ済む話でしょう」
軽井沢は堀北へ向き直った。
「堀北さんも来なよ。食べ物も用意するから」
「食べ物で釣ろうとしているの?」
「そういうわけじゃないけど、みんなで見る方が楽しいじゃん」
「私は興味がないわ」
「見たことないのに?」
「見なくても興味がないことくらい分かるでしょう」
「でも、さっき購買部でアニメ雑誌見てたって聞いたよ」
堀北の動きが止まった。
「誰から聞いたの」
「クラスの子が見かけたって」
「見ていたのではなく、商品を確認していただけよ」
「それを見てたって言うんじゃない?」
軽井沢は楽しそうに笑った。
堀北は反論しようとしたが、適切な言葉が見つからなかったらしい。
「とにかく、私は行かないわ」
「じゃあ、作品の第一話だけ貸してあげる」
「必要ない」
「見ないで返してもいいから」
「それなら貸す意味がないでしょう」
「部屋に置いておけば、気が向くかもしれないじゃん」
軽井沢は諦める様子を見せなかった。
最終的に堀北は、「見るとは約束しない」という条件で、
軽井沢から作品の配信情報だけを受け取った。
紙にはタイトルと、視聴できるサービスの名前が書かれている。
「押しつけが強い人ね」
軽井沢が去った後、堀北は紙を見ながら呟いた。
「捨てるのか」
「捨てるほどのものでもないでしょう」
「見るつもりはないんじゃなかったのか」
「まだそう言っているわ」
堀北は紙を折り畳み、鞄の中へ入れた。
その行動と発言が一致していないことを指摘すると
面倒になりそうだったので、何も言わないことにした。
オレたちは教室を出て、寮へ向かって歩き始めた。
校舎の廊下でも、すれ違う生徒たちはアニメやゲームについて話している。
昨日までの学校と、建物も人間も変わっていない。
それなのに、空気だけが明らかに違っていた。
一つの作品をきっかけに、これまで趣味を隠していた生徒が声を上げ、
興味のなかった生徒が影響を受け、
その会話を聞いた別の生徒まで関心を持ち始めている。
流行というものは、誰かが命令して作るわけではない。
小さな熱が人から人へ伝わり、ある段階を越えた時、
誰にも止められない大きな動きへ変わっていく。
「綾小路くん」
隣を歩いていた堀北が、前を向いたまま声をかけてきた。
「何だ」
「あなたは、本当に見るつもりなの?」
「何をだ」
「軽井沢さんたちが話していたアニメよ」
「まだ決めていない」
「そう」
堀北はそれ以上何も言わなかった。
「お前はどうする」
「見ないわ」
返事は早かった。
しかし、少し間を置いてから、堀北は言葉を付け加えた。
「ただし、クラス内でここまで話題になっている以上、
最低限の知識を持っておく必要はあるかもしれないわね」
「それは見るという意味ではないのか」
「学習するだけよ」
「違いが分からないな」
「目的が違うでしょう。私は楽しむためではなく、状況を把握するために確認するの」
堀北らしい理屈だった。
だが、入り口がどのようなものであっても、作品を見るという行動自体は変わらない。
「なら、オレも学習してみるか」
「なぜ私に合わせるの」
「一人より二人の方が理解しやすいかもしれない」
「私は一緒に見るとは言っていないわ」
「そうか」
「そうよ」
堀北は少し歩く速度を上げた。
オレはその後ろ姿を追いながら、今日一日の出来事を振り返った。
朝の時点では、櫛田と軽井沢が新しい趣味を見つけただけに見えた。
しかし、それはすでに教室全体を巻き込み始めている。
池や外村のように以前からアニメやゲームを楽しんでいた生徒たちは、
突然自分たちの知識を必要とされるようになった。
軽井沢や櫛田に影響された女子生徒たちは、新しい作品へ次々と興味を持ち始めた。
須藤でさえ、バスケットボール漫画の世界へ入り込んでいる。
オレと堀北だけが、まだその流れの外側に立っていた。
ただし、その距離も朝より確実に縮まっている。
寮へ戻った後、オレはいつも通り簡単な食事を済ませ、机の前へ座った。
特にすることもなく、端末を手に取る。
画面には櫛田からメッセージが届いていた。
『今日話してた作品、これだよ。綾小路くんにもおすすめ!』
その下には、作品の画像と配信ページが添えられている。
少しして、軽井沢からも別のメッセージが届いた。
『とりあえず一話だけ見て。絶対続き気になるから』
二人とも、オレが見ることを当然のように考えているらしい。
画面に表示された作品の画像には、複数の登場人物が描かれていた。
明るく笑う人物もいれば、剣のような武器を持ち、険しい表情を浮かべている人物もいる。
この絵だけを見ても、内容は分からない。
オレは配信ページを開き、第一話の再生画面まで進んだ。
再生ボタンを押せば、今日まで知らなかった世界が始まる。
ただし、その時のオレはまだ理解していなかった。
この小さな選択が、単に一つの作品を見るだけでは終わらないことを。
そして、同じ頃。
寮の別の部屋では、堀北鈴音もまた、
軽井沢から渡された紙を机の上へ置き、そこに書かれた作品名を無言で見つめていた。
静かな日常は、すでに変わり始めていた。
高度育成高等学校へ訪れようとしている大きなアニメブームは、
この時、まだ誰にもその全貌を見せていなかった。