翌朝、オレはいつもより少しだけ早く目を覚ました。
目覚まし時計が鳴る前に意識が戻った理由は、
前日の夜に見た映像が頭の片隅へ残っていたからかもしれない。
櫛田と軽井沢から勧められたアニメは、一話だけ確認するつもりだった。
作品の内容を把握し、なぜクラスメイトたちが
あれほど熱中しているのかを理解できれば、それで十分だと考えていた。
しかし、実際には第一話の再生が終わった後、そのまま第二話の冒頭まで進めてしまっていた。
続きが気になったからではない。
少なくとも、オレ自身はそう判断している。
第一話の終盤で提示された謎が、
第二話でどのように処理されるのかを確認する必要があっただけだ。
構成上の分析と言い換えてもいい。
ただし、第二話を途中で止めた後も、
登場人物の行動や台詞が妙に記憶へ残り続けていた。
ホワイトルームで映像教材を見せられた経験は何度もあるが、
昨夜の映像はそれらとは異なっていた。
知識を得ることが目的ではなく、見る者の感情を動かすことを目的として作られている。
そのこと自体は理解できる。
しかし、存在しない人物が苦しみ、迷い、誰かを守ろうとする姿を見て、
なぜ現実の人間が心を動かされるのかという疑問は残ったままだった。
オレはベッドから起き上がり、身支度を整えた。
机の上には、昨夜飲みかけた水と端末が置かれている。
画面を確認すると、軽井沢から新しいメッセージが届いていた。
『絶対一話で止められなかったでしょ?』
断定するような文章だった。
返信する必要はないと思ったが、
そのまま放置すれば教室で問い詰められる可能性がある。
『二話の途中まで見た』
短く返すと、ほとんど間を置かずに既読がついた。
『ほら!もうハマりかけてるじゃん!』
『内容を確認しただけだ』
『それをみんな最初は言うんだよ』
最後に笑っている顔の記号が添えられていた。
オレが返信を考えている間に、櫛田からもメッセージが届いた。
『見てくれたんだね。どのキャラクターが気になった?』
どのキャラクターが気になったか。
その質問に答えるのは簡単ではなかった。
主人公の判断力は悪くない。
ただし、感情に流されて危険な行動を選ぶ場面が多く、合理性には欠ける。
メインヒロインは高い戦闘能力を持っているが、
他者との意思疎通を避ける傾向があり、その点は非効率的だった。
幼馴染の少女は周囲への気配りに優れている一方、自分の感情を隠し過ぎている。
オレは考えた末、質問そのものに答えないことにした。
『今日、教室で話す』
そう返信してから部屋を出た。
校舎へ向かう道には、昨日までと同じように多くの生徒がいた。
違っていたのは、すれ違う生徒たちの会話だった。
前日は一部の生徒だけがアニメやゲームについて語っていたが、
今日は明らかにその数が増えている。
男子生徒二人が新作ゲームの発売日を確認し、
女子生徒たちは登場人物の関係について話し合っている。
中には、端末の画面を見せながら興奮した様子で説明している生徒もいた。
わずか一日で、流行はさらに広がっているらしい。
教室へ入ると、オレより先に登校していた堀北が席へ座っていた。
普段と変わらず教科書を開いているが、ページへ視線を向けたまま動かない。
読んでいるというより、考え事をしているように見える。
「おはよう」
声をかけると、堀北は顔を上げた。
「おはよう」
「眠そうだな」
「あなたに言われたくないわ」
「オレは普段と変わらないと思うが」
「目の下が少し暗いわよ。夜更かしでもしたの?」
「アニメを見ていた」
オレが答えると、堀北の視線が一瞬止まった。
「本当に見たのね」
「お前も見たんじゃないのか」
「どうしてそう思うの?」
「今の反応だ」
堀北は否定しなかった。
それだけで答えは分かった。
「何話まで見た」
「第一話だけよ」
「本当に一話だけか」
「第二話の最初を少し確認したけれど、それは第一話の終わり方が中途半端だったからよ」
昨夜のオレとほとんど同じ行動だった。
「オレも二話の途中まで見た」
「そう」
堀北は再び教科書へ視線を戻した。
しかし、先ほどまでと同じくページは進んでいない。
「感想は?」
「感想を求めるの?」
「軽井沢たちが興味を持つ理由を把握するために見たんだろう」
「そうね」
堀北は少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「物語の構成は悪くなかったと思うわ。
最初に事件を提示して、主人公が巻き込まれる形で世界観を説明していたから、
初めて見る人間にも理解しやすかった」
「オレも同じように感じた」
「ただし、主人公の行動には納得できない点が多いわ。
危険な状況で単独行動を選ぶのは軽率よ」
「物語を進めるために必要だったんじゃないか」
「だからといって、合理性を無視していい理由にはならないでしょう」
堀北は思った以上に真剣な表情で話している。
興味がない作品について、ここまで細かく考察する人間は少ないはずだった。
「ヒロインについてはどう思った」
「なぜそれを聞くの?」
「櫛田がどのキャラクターを気に入ったか聞いてきた」
「私は特に誰も気に入っていないわ」
「そうか」
「ただし、あの黒髪の少女は周囲との意思疎通に問題があるわね。
能力が高くても、協力を拒めば選択肢は限られる」
「お前に少し似ているな」
堀北がゆっくりと顔を上げた。
「どの部分が?」
「能力が高く、他人との協力を避けるところだ」
「私はあそこまで非合理的ではないわ」
「本人も自分ではそう思っているかもしれない」
「朝から喧嘩を売っているの?」
「事実を述べただけだ」
堀北は冷たい視線を向けてきたが、
完全には否定できないと感じているのか、それ以上反論しなかった。
「それより、あなたは誰が気になったの?」
「主人公だな」
「意外ね」
「判断に問題はあるが、他人のために危険を選ぶ理由がまだ説明されていない。
その部分には興味がある」
「それを『気になる』と言うのではないかしら」
「そうかもしれない」
オレが答えると、堀北は僅かに口元を緩めた。
その時、教室の入口から軽井沢が入ってきた。
こちらを見つけると、鞄を自分の席へ置くより先に近づいてくる。
「おはよう。二人とも見た?」
質問の内容は予想通りだった。
「見た」
オレが答えると、軽井沢は嬉しそうに笑った。
「やっぱり。綾小路くん、二話まで行ったんでしょ?」
「途中までだ」
「同じじゃん。堀北さんは?」
「第一話を確認しただけよ」
「どうだった?」
「物語として最低限の水準は満たしていたと思うわ」
「何その上から目線の評論家みたいな感想」
「事実を述べただけよ」
「普通に面白かったって言えばいいじゃん」
「私は面白かったとは言っていないわ」
「でも二話の最初まで見たんでしょ?」
堀北の眉が僅かに動いた。
「どうして知っているの?」
「綾小路から聞いた」
「余計なことを言わないでくれる?」
「隠すようなことでもないだろう」
「私は隠しているのではなく、誤解されたくないだけよ」
軽井沢は堀北の言い訳を聞きながら、楽しそうに腕を組んだ。
「分かる。最初はみんなそう言うんだよね。
別にハマってない、続きが気になっただけ、キャラじゃなくて話が好きなだけって」
「私は本当に学習のために見ただけよ」
「はいはい」
「信じていないわね」
「だって、その言い方がもう初心者オタクっぽいし」
堀北は意味が分からないという表情を浮かべた。
そこへ櫛田も登校し、軽井沢の隣へ並んだ。
「二人とも見てくれたんだね」
「櫛田まで」
「感想を聞きたいな」
櫛田はオレたちの机へ手を置き、期待するような目を向けている。
堀北は面倒そうに息を吐いた。
「なぜ感想を伝える必要があるの?」
「同じ作品を見た人と話すのって楽しいからだよ」
「あなたが楽しいだけでしょう」
「堀北さんも話し始めたら楽しくなるかもしれないよ」
「ならないわ」
そう言いながらも、堀北は櫛田に尋ねた。
「あなたは、あの黒髪の人物のどこが好きなの?」
軽井沢と櫛田が顔を見合わせた。
堀北は自分からキャラクターの話題を出したことに気づき、少し遅れて表情を硬くした。
「今のは、あなたたちの評価基準を知るための質問よ」
「うん、分かってるよ」
櫛田は笑顔を崩さずに答えた。
「あの子って最初は冷たく見えるけど、
本当は誰より周りのことを考えてるんだよ。
自分が傷つくのは平気なのに、他の人が傷つくのは嫌だから、
一人で何でも抱え込んじゃうの」
「それは効率が悪いわ」
「そうなんだけど、そこが放っておけないというか、幸せになってほしいと思うんだよね」
「幸せに?」
「うん。好きなキャラクターには笑っていてほしいでしょ?」
堀北は答えなかった。
架空の人物の幸福を願うという感覚は、やはり理解しにくいらしい。
ただし、昨日のように一言で否定することはなかった。
「綾小路くんは誰が気になった?」
「主人公だ」
「やっぱり男の子の方なんだ」
「性別は関係ない。行動の理由がまだ明らかになっていないから、確認したいと思っただけだ」
軽井沢が小さく笑った。
「それ、続きが見たいって意味じゃん」
「言い換えればそうなるな」
「綾小路くんって、意外と素直だよね」
そう言われても、自分が素直なのかどうかは分からなかった。
その後も櫛田と軽井沢は、登場人物の魅力や原作との違いについて話し続けた。
説明の多くはオレと堀北には理解できなかったが、
少なくとも彼女たちが単に流行へ乗っているだけではなく、
作品そのものへ強い感情を抱いていることは伝わってきた。
やがて池や本堂、外村も会話へ加わった。
「だから俺は幼馴染が一番だって言ってるんだよ」
「池くんは分かりやすいね」
「何がだよ」
「昔から主人公を好きだった女の子が好きなんでしょ?」
「一途でいいじゃねえか」
本堂は池の意見を聞きながら首を振った。
「でも物語の構造的に、あの幼馴染は勝てないだろ」
「最初から諦めんなよ」
「俺が諦めるかどうかは関係ない」
「関係あるだろ。応援しろよ」
「応援で展開が変わるわけじゃない」
「そんな冷たいこと言うな!」
池は本気で悔しそうだった。
存在しない人物の恋愛結果について、ここまで感情的になれることが不思議だった。
外村はそんな二人を見ながら、落ち着いた口調で説明を始めた。
「恋愛作品における幼馴染とは、
物語開始以前から主人公との関係が完成しているため、
成長や変化を描きにくい立場にあるのでござる。
そのため、物語開始後に出会ったヒロインへ役割を奪われやすいのでござるよ」
「じゃあ幼馴染はどうすれば勝てるんだよ」
「最初から主人公との関係を崩しておくか、
物語の中で新しい一面を提示する必要があるのでござる」
池は外村の説明を真剣に聞いていた。
昨日までなら、外村がこのような話を始めても、
軽井沢たちは途中で興味を失っていたかもしれない。
しかし今日は、櫛田も佐藤も松下も熱心に耳を傾けている。
外村自身も、自分の知識を受け入れてもらえる状況が嬉しいのだろう。
普段より声が明るく、説明にも力が入っていた。
ホームルームが始まり、茶柱が教室へ入ってくるまで、会話は途切れなかった。
「席につけ。朝から随分と騒がしいな」
茶柱は教卓へ教材を置き、教室全体を見渡した。
「何の話をしていた」
「アニメです」
櫛田が素直に答えた。
茶柱の動きが僅かに止まった。
「アニメ?」
「今、クラスで流行ってるんです」
「そうか」
茶柱はそれ以上追及しなかった。
ただし、黒板へ向き直る直前、
外村が机の上へ置いていた雑誌へ一瞬だけ視線を向けたように見えた。
単に授業と関係のないものを確認しただけかもしれない。
しかし、その視線には僅かな懐かしさが含まれているようにも見えた。
午前中の授業を終えると、オレと堀北は図書室へ向かった。
目的は、アニメやゲームに関する基本的な知識を得ることだった。
少なくとも堀北は、そのように説明している。
「教室で軽井沢さんたちから聞けば済む話でしょう」
図書室へ向かう廊下で、オレは疑問を口にした。
「彼女たちの説明は感情的すぎるわ。客観的な知識を得るには向いていない」
「外村なら詳しく説明できると思うが」
「詳しすぎる人間の説明は、初心者にとって分かりにくいこともあるでしょう」
「それで図書室か」
「まずはアニメや漫画の歴史、ジャンル、制作方法など、基本的な部分から理解するべきよ」
「随分と本格的だな」
「何事も基礎が重要でしょう」
昨日まで興味がないと言っていた人間の行動とは思えなかった。
ただし、それを指摘すれば否定されることは分かっている。
図書室へ入ると、いつもの静かな空気が広がっていた。
教室とは異なり、ここまでアニメブームの影響は届いていないように見える。
数人の生徒が机へ向かい、本を読んでいる。
堀北は検索端末へ向かい、関連する書籍を探し始めた。
オレも近くの棚を確認していると、窓際の席に見覚えのある女子生徒を見つけた。
椎名ひよりだった。
龍園クラスに所属する彼女は、普段から図書室を利用している。
いつも通り静かに本を読んでいるように見えたが、
手にしているものが一般的な文芸書とは少し異なっていた。
表紙には、制服姿の少女と剣を持った少年が描かれている。
題名の文字も大きく、色鮮やかだった。
オレが近づくと、ひよりは気配に気づいて顔を上げた。
「綾小路くん。こんにちは」
「こんにちは。何を読んでいるんだ」
ひよりは少し意外そうな表情を浮かべた。
これまでにも本について話したことはあるが、こちらから題名を尋ねることは多くなかった。
「ライトノベルです」
「ライトノベル?」
「挿絵が多く入った、比較的読みやすい小説ですね。
もちろん、作品によって内容や文章の難しさは大きく違いますけれど」
ひよりは本の表紙をこちらへ向けた。
「これは、魔法を使えない少年が、剣術だけで魔法学校の頂点を目指す物語です」
「面白いのか」
「私は好きです。主人公が努力する過程も丁寧ですし、
仲間たちもそれぞれ悩みを抱えていて、単純な成功物語ではありません」
ひよりの口調は普段と変わらず穏やかだったが、
作品を説明する声には僅かな熱がこもっている。
「椎名さんも、そういう本を読むのね」
いつの間にか隣へ来ていた堀北が声をかけた。
ひよりは堀北へ視線を向け、微笑んだ。
「はい。普通の小説も読みますが、ライトノベルや漫画も好きですよ」
「意外だわ」
「よく言われます」
「隠していたの?」
「隠していたつもりはありません。ただ、聞かれる機会がなかっただけです」
ひよりはそう答えると、机の横へ置いていた鞄を少し開いた。
中には、今読んでいる本と同じシリーズが何冊も入っている。
さらに、小さな透明ケースに入れられたアクリル製の飾りも見えた。
堀北がそれに気づいた。
「それは何?」
「アクリルスタンドです」
「本の登場人物を飾るものかしら」
「そうですね。こちらは限定版に付属していたものです」
ひよりは少し恥ずかしそうにしながら、ケースを取り出した。
描かれているのは、青い髪の少女だった。
剣を持っているが、表情は柔らかい。
「この人物が好きなのか」
オレが尋ねると、ひよりは頷いた。
「はい。最初は自信がなくて、人と話すのも苦手なのですが、
主人公たちと旅をする中で少しずつ変わっていくんです」
「架空の人物が成長する姿を見ることに意味があるのか」
「意味というより、嬉しくなるんです」
ひよりはアクリルスタンドを見ながら答えた。
「誰かが一歩を踏み出す姿を見ると、自分も少し頑張ろうと思えることがあります。
現実の人間ではなくても、その気持ちは本物だと思います」
櫛田が昨日話していたことに近い。
好きなキャラクターが幸せになることを願い、成長する姿を応援する。
オレにはまだ完全には理解できない。
しかし、ひよりの言葉は櫛田の説明よりも静かで、納得しやすかった。
「椎名さんは、昔からこういう作品が好きなの?」
堀北が尋ねた。
「中学生の頃からですね。学校で一人で過ごす時間が多かったので、
本の中の世界へ入ることが好きでした」
「一人で過ごすことが苦痛だったの?」
「苦痛ではありませんでした。
ただ、本を読んでいる間は、一人でも色々な人と出会えるような気がしたんです」
ひよりはそう言って微笑んだ。
堀北は何も答えなかった。
一人で過ごすことを好み、他者との関係を必要としないと考えてきた堀北にとって、
ひよりの言葉には何か思うところがあったのかもしれない。
「初心者に勧めるなら、どの作品がいい」
オレが尋ねると、ひよりの目が僅かに輝いた。
「綾小路くんもライトノベルを読むんですか?」
「まだ分からない。アニメやゲームが流行っている理由を理解するために、
二次元文化について学んでいる」
「なるほど」
ひよりは少し考え、鞄の中から別の一冊を取り出した。
表紙には、現代の学校らしき場所と、無表情な少年が描かれている。
「これはどうでしょう。普通の学校が舞台なので、世界観を理解しやすいと思います」
「どんな話だ」
「人間関係が苦手な主人公が、周囲の生徒たちと関わりながら、
少しずつ自分の居場所を見つけていく話です」
堀北が表紙を見た。
「随分と地味な主人公ね」
「そこがいいんです。最初から特別に明るかったり、
誰とでも仲良くできたりするわけではないので、変化が分かりやすいんですよ」
「人間関係を学ぶ物語か」
「そうとも言えますね」
ひよりから本を借りることになり、オレは受け取った一冊を鞄へ入れた。
堀北は自分は借りないと言っていたが、
ひよりが別の作品を紹介すると、説明だけは最後まで熱心に聞いていた。
図書室を出る前、ひよりが小さな声で呼び止めた。
「綾小路くん、堀北さん」
「何だ」
「好きな作品が見つかったら、教えてください。一緒にお話しできると嬉しいです」
堀北は少し戸惑った後、曖昧に頷いた。
「見つかれば、ね」
図書室を出ると、堀北はしばらく黙って歩いていた。
「椎名さんがあれほど詳しいとは思わなかったわ」
「隠れオタクというものらしい」
「本人は隠していないと言っていたでしょう」
「周囲が知らなければ、結果としては同じかもしれない」
「それにしても、好きなものについて話す時は普段より表情が豊かだったわね」
「そうだな」
ひよりはいつも穏やかだが、感情を大きく表へ出すことは少ない。
しかし、好きな作品を説明している時の彼女は、普段より生き生きとしていた。
趣味は、人間の別の側面を引き出すものなのかもしれない。
午後の授業が始まる前、教室では別の騒ぎが起きていた。
廊下側の窓から、他クラスの生徒たちが何かを見ようと集まっている。
「何があったんだ」
近くにいた平田へ尋ねると、平田は困ったように笑った。
「坂柳さんの鞄から、何かが落ちたらしいよ」
「何か?」
「アニメのグッズみたいだね」
オレと堀北は廊下へ出た。
人だかりの中心には坂柳有栖がいた。
その隣には神室真澄と橋本正義が立っている。
床には、掌に収まるほどの小さな布製の飾りが落ちていた。
人気アニメの登場人物らしき少女が描かれている。
坂柳は杖を片手に持ったまま、床へ落ちたグッズを静かに見つめていた。
神室がそれを拾い上げる。
「坂柳、これ何?」
「見れば分かるでしょう。キャラクターグッズです」
坂柳は動揺する様子もなく答えた。
「いや、そうじゃなくて、なんであんたが持ってるの」
「私物を持っていることに理由が必要ですか?」
「だって、あんたこういうの興味なさそうじゃない」
「随分と失礼な偏見ですね」
坂柳は神室からグッズを受け取った。
描かれている人物は、白いドレスを身につけた銀髪の少女だった。
橋本は面白そうに笑っている。
「もしかして、坂柳もアニメ見るのか?」
「ええ。幼い頃から嗜んでいます」
その言葉に、周囲の生徒たちがざわめいた。
坂柳ほどの立場にいる人間がアニメ好きだとは、多くの生徒が予想していなかったらしい。
「隠してたの?」
神室が尋ねる。
「わざわざ公言する必要がなかっただけです。椎名さんと同じですね」
坂柳は人だかりの中にいたひよりへ視線を向けた。
ひよりは少し驚いた後、静かに頷いた。
「坂柳さんもお好きだったんですね」
「ええ。読書の趣味も含めて、あなたとは一度ゆっくりお話ししたいと思っていました」
「坂柳は何を見るんだ?」
橋本が尋ねると、坂柳は少し考えた。
「基本的には物語性の高い作品を好みます。
ミステリー、歴史、戦記、心理劇などですね。
ただし、美少女が登場する日常作品も嫌いではありません」
「最後だけ急に俗っぽくなったな」
「可愛らしいものを愛でることは、人間として自然な感情でしょう」
坂柳は堂々と言い切った。
神室は呆れたような顔をしているが、周囲の生徒たちは興味深そうに坂柳を見ている。
「そのキャラが推しなの?」
女子生徒の一人が尋ねた。
坂柳は手元のグッズへ視線を落とした。
「推しという表現を使うなら、そうなりますね。
病弱でありながら、知略を用いて主人公たちを支える人物です」
「坂柳さんに似てるかも」
別の女子生徒が言うと、坂柳は微笑んだ。
「それは光栄です」
「グッズは他にも持ってるの?」
「少しだけです」
神室が坂柳の鞄を見た。
「少しって、どれくらい?」
「神室さん。人の鞄の中を勝手に確認するのは感心しませんよ」
「今の反応、絶対いっぱい入ってるでしょ」
神室が手を伸ばすと、坂柳は杖の先で鞄を遠ざけた。
その拍子に、鞄の口がさらに開いた。
中には複数のキーホルダー、薄い冊子、カードケース、
そして小さなぬいぐるみが詰め込まれていた。
周囲から驚きの声が上がる。
橋本は吹き出した。
「どこが少しなんだよ」
坂柳は笑顔を崩さなかったが、神室へ向ける視線が僅かに鋭くなった。
「神室さん。後でお話があります」
「私のせいじゃないでしょ」
「鞄へ手を伸ばしたのはあなたです」
「でも倒したのはあんたじゃない」
二人のやり取りを見て、周囲の緊張が和らいだ。
完璧で近寄りがたい印象を持たれていた坂柳が、多くのグッズを鞄へ入れている。
その意外性は、生徒たちに親しみを抱かせたらしい。
すぐに何人もの生徒が坂柳へ好きな作品を尋ね始めた。
坂柳も面倒がることなく、一人ずつ丁寧に答えている。
「坂柳さんまでオタクだったのね」
隣にいた堀北が呟いた。
「隠れオタクは珍しくないらしい」
「それなら、他にもいるのかもしれないわね」
「お前もその一人になりつつあるんじゃないか」
「私は違うわ」
堀北は即座に否定した。
「一話しか見ていないもの」
「二話の冒頭も見たと言っていた」
「それは含めないでちょうだい」
「図書室でも、ひよりの説明を熱心に聞いていた」
「知識を得るためよ」
「坂柳のグッズも気になっているように見える」
「珍しいから見ているだけだわ」
堀北は早口で否定した。
その様子は、軽井沢が言っていた「初心者ほど自分はハマっていないと言い張る」
という言葉に当てはまっているようにも思えた。
教室へ戻ると、須藤が机へ向かい、昨日と同じバスケットボール漫画を読んでいた。
ただし、今日は一冊ではない。
机の横に五冊ほど積まれている。
「須藤、随分と増えたな」
オレが声をかけると、須藤は漫画から顔を上げた。
「ああ。昨日読んだら続きが気になってよ。購買じゃ全部揃わなかったから、池に借りた」
池が近くから声を上げる。
「俺の宝だから、汚すなよ!」
「分かってるって」
須藤はそう答えると、再び漫画へ視線を落とした。
堀北が近づいた。
「そんなに面白いの?」
須藤は驚いたように顔を上げた。
堀北から漫画について尋ねられるとは思っていなかったのだろう。
「ああ。最初はバスケの参考になるかと思っただけなんだけど、普通に話が面白い」
「現実のバスケットボールと違う部分もあるでしょう」
「そりゃあるけど、読んでると試合したくなるんだよ。
負けてる時でも、こいつらが諦めねえから、俺ももっとやれるって思える」
須藤は表紙へ視線を落としながら言った。
「あと、この主人公、最初は下手なんだけど、少しずつ上手くなるんだ。
天才って感じじゃねえのに、必死で食らいついてくるのがいい」
ひよりが言っていたことと似ていた。
架空の人物が努力する姿を見て、自分も頑張ろうと思える。
須藤はバスケットボール漫画を、単なる娯楽として読むだけでなく、
自分の現実と重ね合わせているらしい。
「鈴音も読むか?」
須藤が一冊差し出した。
堀北は戸惑った。
「私が?」
「別にバスケ知らなくても読めるぞ。俺でも分かるくらいだからな」
「自分で言うのね」
「とにかく面白いって」
堀北は差し出された漫画と須藤の顔を交互に見た。
断ると思っていたが、最終的には本を受け取った。
「少し確認するだけよ」
「おう」
須藤は嬉しそうに笑った。
堀北が誰かから漫画を借りる姿は、昨日までなら想像しにくかった。
本人はあくまで学習だと言い張るだろう。
しかし、周囲の趣味へ関心を持ち始めていることは明らかだった。
放課後、オレと堀北は寮へ戻る途中で立ち止まった。
堀北の鞄には須藤から借りた漫画が入っている。
オレの鞄には、ひよりから借りたライトノベルが入っていた。
朝の時点では、二人とも一つのアニメを確認しただけだった。
それが一日の終わりには、漫画とライトノベルまで手にしている。
「随分と増えたな」
オレが言うと、堀北は不満そうにこちらを見た。
「何が?」
「学習対象だ」
「あなたも人のことを言えないでしょう」
「否定はしない」
「私は須藤君があれほど夢中になる理由を確認するだけよ」
「分かった」
「本当に分かっているの?」
「お前が漫画を楽しみにしているとは思っていない」
「その言い方だと、逆に楽しみにしていると思っているように聞こえるわ」
「気のせいだ」
堀北は納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
寮へ戻り、夕食と入浴を済ませた後、オレは机の前へ座った。
ひよりから借りたライトノベルを取り出す。
一般的な文庫本と比べると、表紙は華やかで、
最初の数ページには色のついた絵が掲載されていた。
物語を読む前から登場人物の姿が分かる。
通常の小説では、人物の外見は文章から想像する。
ライトノベルでは、挿絵によって作者と読者がある程度
共通したイメージを持てるようになっているらしい。
オレは最初のページを開いた。
主人公は、友人を作ることが苦手な高校生だった。
教室では目立たず、自分から誰かへ話しかけることもない。
しかし、ある出来事をきっかけに、クラスで孤立している少女と関わることになる。
読み進めるうちに、主人公の思考には理解できる部分が多いと感じた。
他者との距離を測り、余計な会話を避け、
自分がどう見られているかを冷静に分析している。
ただし、オレと異なる点もあった。
主人公は孤独でいることを望んでいるように見せながら、
本心では誰かに理解されることを求めている。
その矛盾が物語の中心にあるらしい。
数ページだけ読むつもりだった。
しかし、一区切りつくところまで進めようと考え、気づけば一章を読み終えていた。
スマートフォンが振動した。
堀北からメッセージが届いている。
『須藤くんから借りた漫画だけれど、現実離れした場面が多いわね』
それだけなら、堀北らしい否定的な感想だった。
数分後、続けて新しいメッセージが届いた。
『ただし、主人公が自分の弱点を認めて練習を始める流れは悪くないと思う』
さらに少しして、もう一つ届いた。
『二巻も須藤くんが持っているかしら』
オレは画面を見ながら、軽井沢の言葉を思い出した。
最初は誰もが、自分はハマっていないと言う。
オレは堀北へ返信した。
『明日聞けばいい』
すぐに既読がついたが、返事はなかった。
おそらく、自分から二巻を求めたことに気づいたのだろう。
オレは端末を机へ置き、再びライトノベルを開いた。
翌日ひよりへ感想を伝えるには、もう少し読んでおく必要がある。
それは義務ではない。
返却期限も決められていない。
それでも、物語の続きを確認しておこうと思った。
学校では、ひよりがラノベを読み、坂柳が鞄に大量のグッズを入れ、
須藤がバスケットボール漫画へ夢中になっていた。
アニメやゲームとは無縁に見えた生徒たちが、
それぞれ自分だけの好きな世界を持っている。
それまで表に出ていなかった趣味が、
櫛田と軽井沢をきっかけに次々と姿を現し始めていた。
オレと堀北は、その変化を外側から観察しているつもりだった。
しかし、本当はもう外側にはいなかったのかもしれない。
オレの手元にはライトノベルがあり、
堀北の部屋には借りた漫画と、昨夜見たアニメの配信画面がある。
二次元という未知の世界へ足を踏み入れたオレたちは、まだその深さを知らない。
この時点では、少し知識を得れば満足し、すぐに元の日常へ戻れると考えていた。
だが、高度育成高等学校を包み始めた熱は、
一部の生徒たちが作品を楽しむだけでは終わらなかった。
教室で生まれた小さな話題は、学年を越え、店舗を動かし、
やがて学校そのものの景色まで変えようとしていた。