ひよりとの会話を終え、図書室を出ようとした時、入口付近で白石飛鳥とすれ違った。
坂柳クラスに所属する白石は、普段からおっとりしつつも、社交的な雰囲気を持っている。
長い髪を整え、制服も自分なりに着崩しているため、
見た目だけなら軽井沢たちと近い印象を受ける。
ただし、彼女については別の噂を聞いたことがあった。
白石はオタク文化の中でも、特に美少女ゲームと呼ばれる分野へ深く精通している。
攻略したヒロインの数は百人を越えるとされ、
坂柳クラスの一部からは「100人斬りの飛鳥」と呼ばれているらしい。
実際に100人を越えているかどうかは確認できていない。
しかし、彼女が多くのゲームを所有していることは事実だった。
「こんにちは、綾小路くん。それから、今話題の鈴音姫」
白石は笑顔で挨拶した。
堀北の表情が即座に険しくなる。
「あなたまでその呼び方をするの?」
「噂は聞いています。大正剣戟奇譚の妹姫と声がそっくりなのでしょう?」
「似ていると勝手に言われているだけよ」
「一度聞いてみたいです」
「見世物ではないのだけれど」
「怒った声まで似ているって聞きました」
堀北は白石を睨んだ。
白石は気にする様子もなく、楽しそうに笑っている。
「それより、二人とも最近二次元文化について勉強しているらしいですね」
「誰から聞いた」
オレが尋ねる。
「坂柳さんから。綾小路くんは椎名さんからラノベを借りて、
堀北さんは須藤くんからバスケ漫画を借りているのでしょう?」
坂柳の情報収集力は、趣味に関する話題でも変わらないらしい。
「学習しているだけよ」
堀北がいつもの説明をすると、白石は納得したように頷いた。
「初心者の頃は、みんなそう言うんですよ」
「あなたまで同じことを言うの?」
「だって本当ですから」
白石はひよりが持っていた本へ視線を向けた。
「ラノベと漫画とアニメまで来たなら、次はゲームではないですか?」
「池から誘われている」
「普通のゲームもいいですが、せっかくなら美少女ゲームを体験してみませんか?」
白石は自然な口調で提案した。
「美少女ゲーム?」
堀北が聞き返す。
「簡単に言えば、主人公が複数の女の子と交流して、
その中の一人と特別な関係になる物語を楽しむゲームです」
「恋愛を扱った作品ということ?」
「恋愛が中心のものも多いですが、それだけではありません。
学校生活、青春、家族、友情、ミステリー、伝奇、戦争、
時間移動みたいに、作品によって扱うテーマは全然違いますから」
白石の説明は、外村ほど専門用語へ偏っておらず、初心者にも理解しやすかった。
「複数の人物から一人を選ぶ必要があるのか」
オレが尋ねると、白石は頷いた。
「多くの作品ではそうです。
選択肢によって物語が分岐して、どのヒロインと親しくなるかが変わります」
「選ばなかった人物はどうなる」
「作品によります。普通に友達として過ごすこともあれば、
失恋することもありますし、主人公と関わらなくなる場合もあります」
「随分と残酷な仕組みね」
堀北が言った。
「全員を同時に選べないのなら、必ず誰かが報われないでしょう」
「だから全員攻略するんですよ」
白石は迷いなく答えた。
「一つの結末だけで終わらせず、それぞれのヒロインの物語を最後まで見る。
それが美少女ゲームの醍醐味ですからね」
「あなたはそれを100人分行ったの?」
堀北が尋ねる。
「正確には、攻略済みのヒロインは127人です」
白石は何でもないことのように答えた。
ひよりが僅かに目を見開く。
「そんなに多いんですね」
「長く続けていますからね」
「一人につき、どれくらい時間がかかるの?」
「短い作品なら数時間ですけど、
長い作品だと一人のルートだけで十時間を越えることもあります」
堀北は計算するように目を細めた。
「あなた、それだけの時間を何に使っているの?」
「恋愛と人生の勉強です」
「もっと現実的な勉強をしなさい」
「成績は悪くありません」
白石は笑顔で返した。
実際、坂柳クラスに所属している以上、学力が大きく不足しているわけではない。
趣味へ多くの時間を使いながら、必要な成績も維持しているのだろう。
「100人斬りの飛鳥という異名は、本当だったのか」
オレが尋ねると、白石は僅かに表情を引きつらせた。
「誰から聞いたんですか?」
「池だ」
「やっぱり他のクラスまで広がってるんですね」
「気に入っていないのか」
「最初は嫌だったですが、最近は少し面白くなってきました。
ただし、実際に斬っているわけではありませんが」
「当然でしょう」
堀北が冷静に答える。
白石はオレたちを交互に見た後、何かを思いついたように手を叩いた。
「せっかくですから、今日の放課後に二人で体験してみませんか?」
「二人で?」
「私の部屋に来れば、初心者向けの作品を選んであげますよ。
堀北さんが姫扱いされている今なら、
美少女ゲームのヒロインがどういう存在なのか知っておくのも悪くないでしょう?」
「私がヒロイン扱いされることと、ゲームをすることに何の関係があるの?」
「人から理想化される側の気持ちを知れるかもしれませんよ」
「理想化されたいと思ったことはないわ」
「でも、今のクラスでは十分そうなってますよ」
白石の言葉に、堀北は返答できなかった。
朝から姫と呼ばれ続けたことで、少し判断力が鈍っているらしい。
「綾小路くんも来ますよね?」
「初心者向けなら興味はある」
「話が早いです」
白石は満足そうに笑った。
堀北はオレを見た。
「本当に行くつもり?」
「ゲームを理解する機会にはなる」
「池くんの部屋へ行けばいいでしょう」
「美少女ゲームについては白石の方が詳しい」
「だからといって、私まで同行する必要はないわ」
「お前が来なければ、オレ一人で行くことになる」
「それでいいでしょう」
「男子生徒が一人で女子生徒の部屋へ行くことになるが」
堀北は少し黙った。
白石はそのやり取りを見ながら笑いを堪えている。
「分かったわ。私も行く」
「決まりですね」
「ただし、誤解しないで。
ゲームを楽しむためではなく、どのような文化なのかを確認するだけよ」
「はい。それも最初はみんな言いますから大丈夫です」
堀北は何か反論しようとしたが、
同じ言葉を何度も聞かされているため、諦めたように口を閉じた。
◯
放課後、オレと堀北は白石の案内で彼女の自室へ向かった。
女子生徒の部屋へ入ることに抵抗はなかったが、
周囲の目を考えると、長居するべき場所ではない。
白石の部屋へ入ると、最初に目へ入ったのは大きな本棚だった。
棚の大半はゲームの箱や設定資料集で埋まっている。
一般的な家庭用ゲームよりも箱が大きく、人物の絵が前面へ描かれているものが多い。
机の上には二台のモニターが並び、
その周囲に小さなフィギュアやアクリルスタンドが飾られていた。
壁には何枚ものタペストリーが掛けられ、
部屋の中央に置かれたクッションにも美少女の顔が描かれている。
堀北は入口で立ち止まった。
「これは……随分と徹底しているわね」
「物が増えてきましたから、最近は収納に困ってるんですよね」
白石は慣れた様子で鞄を置いた。
「これだけ集めるのに、いくら使ったの?」
「計算しないようにしています」
「計算しなさい」
「知ると怖くなりますから」
「すでに怖がるべき段階を越えているように見えるわ」
堀北は部屋を見渡しながら、呆れと興味が混ざった表情を浮かべている。
オレは棚へ並んだ作品を確認した。
学園生活を題材にしたもの、異世界を舞台にしたもの、戦闘を中心としたもの、
家族との関係を描いたものなど、外見だけでも幅広い。
「どれを体験する」
白石は棚の前へ立ち、何本かの作品を取り出した。
「初心者ですから、いきなり長編や重い作品は避けた方がいいと思います。
今日は学園ものにしようか」
「学園もの?」
「主人公が高校へ入学して、クラスの女の子たちと交流する王道の作品です。
変わった設定も少ないから、世界観を理解しやすいです」
「特別試験はあるのか」
オレが尋ねると、白石は笑った。
「普通の学校ですから、そういうものはありません。
文化祭や体育祭、修学旅行はありますが」
「随分と平和なのね」
堀北が言う。
「恋愛ゲームで毎回退学者が出たら困るでしょう?」
白石はパソコンを起動し、ゲームを立ち上げた。
画面には明るい音楽と共に、制服姿の少女たちが映し出される。
中央には元気そうな幼馴染、右側には眼鏡をかけた学級委員長、
左側には無表情な後輩、その奥には上品な生徒会長が描かれていた。
「この中から一人を選ぶのか」
「最初から一人を選ぶわけではありません。
序盤は共通ルートといって、全員と知り合いながら学校生活を送ります。
その途中で出てくる選択肢によって、誰と親しくなるかが決まるんです」
白石は椅子へ座り、オレたちにも画面が見えるよう位置を調整した。
ゲームが始まると、主人公が転校初日に寝坊し、
幼馴染に起こされる場面から物語が始まった。
「ありがちな展開ね」
堀北が即座に指摘した。
「王道ですからね」
「転校初日に寝坊する時点で、自己管理ができていないわ」
「そこは深く考えなくていいです」
「朝食を食べずに家を出るのも非効率的よ。集中力が落ちるでしょう」
「堀北さん、開始三分で主人公への評価が厳しすぎませんか?」
白石は苦笑した。
主人公は通学路で幼馴染と言い争いながら学校へ向かい、
校門で生徒会長と出会った。
その後、教室へ入り、学級委員長の少女から校内の説明を受ける。
物語自体は平凡だが、登場人物の表情や声、音楽によって、
現実の学校生活とは異なる明るさが演出されていた。
最初の選択肢が表示された。
『幼馴染に謝る』
『先に教室へ入る』
『生徒会長を追いかける』
「どれを選びますか?」
白石が尋ねた。
「正解はあるのか」
「正解というより、誰の好感度を上げたいかで変わりますよ」
「好感度?」
「主人公に対する相手の好意を数値化したものです。
画面には見えない作品も多いですが、内部では選択によって変化しているんです」
堀北は画面を見ながら考え込んだ。
「朝から迷惑をかけたのだから、幼馴染に謝るべきでしょう」
「堀北さんは幼馴染派ですか?」
「派閥の話ではなく、常識の問題よ」
「では、一番上を選びますね」
白石が操作すると、主人公は幼馴染へ謝罪した。
幼馴染は驚いた後、嬉しそうに笑う。
画面の端で小さな音が鳴った。
「今ので好感度が上がったのか」
「たぶんですが」
「謝罪しただけで好意が増えるのか」
「普段あまり謝らない主人公ですから、その変化が嬉しかったのではないでしょうか」
「日頃の行いが悪いほど、普通のことをしただけで評価されるのね」
堀北は納得できない様子だった。
「逆に、最初から真面目な人間は評価を上げにくいということになる」
「現実でも少しありますよね。悪い人がいいことをすると、すごく褒められること」
白石が言うと、堀北は不満そうに腕を組んだ。
「理不尽だわ」
物語が進むにつれ、オレたちは何度か選択肢を選ばされた。
落とし物をした後輩を助けるか。
昼休みに誰と食事をするか。
放課後、どの部活を見学するか。
一つ一つの選択は小さいが、それによって次に起きる出来事が変化する。
「興味深い仕組みだな」
オレが言うと、白石が振り向いた。
「どういうところがですか?」
「選択した時点では、その影響がすぐには分からない。
後になって別の場面へ繋がる可能性がある」
「そうですね。選択肢の積み重ねでルートが決まる作品も多いです」
「現実の人間関係に近い部分がある」
堀北が画面を見ながら言った。
「一度の大きな行動だけで関係が決まるのではなく、
普段の小さな選択が積み重なって、相手からの評価が変わっていくということね」
「堀北さん、思ったより理解が早いですね」
「当たり前でしょう」
堀北は少し得意そうだった。
その後、主人公は学級委員長の少女と図書室で二人きりになった。
彼女は普段、規則に厳しく、周囲から堅い人物だと思われている。
しかし、実際には恋愛小説を好み、誰にも知られないよう隠れて読んでいた。
「この人、堀北さんに似てませんか?」
白石が言った。
「どこが?」
「真面目で近寄りがたくて、趣味を隠してるところです」
「私は隠していないわ」
「漫画を教科書の下に置いていたという噂ですが」
「授業前だったから片づけていただけよ」
「それを隠すと言うのでは?」
堀北は答えず、画面へ視線を戻した。
物語の中で、学級委員長は主人公へ自分の趣味を知られ、最初は強く否定した。
しかし、主人公が馬鹿にせず、むしろ興味を示すと、少しずつ好きな本について語り始める。
普段は見せない笑顔が表示され、柔らかな音楽が流れた。
「演出が分かりやすいな」
オレが言う。
「表情と音楽で、相手が心を開いたことを示している」
「そうですね。文章だけじゃなく、絵や声や音楽を全部使えるのがゲームの強みですから」
白石は説明しながら、学級委員長の台詞を静かに聞いている。
何度も見た場面なのだろうが、それでも楽しんでいる様子だった。
「白石は、この人物を攻略したのか」
「もちろん。最初に選んだヒロインですよ」
「一番好きなの?」
「この作品では」
「なぜこの人を選んだ」
白石は少し考えてから答えた。
「最初は冷たくて、何を考えているか分かりにくいのですが、
仲良くなると不器用な優しさが見えてくるからですかね。
周りから誤解されている人が、本当の自分を理解してもらえる展開が好きなんです」
堀北は無言で画面を見ている。
自分と重ね合わせているのかもしれない。
「白石さん」
「何?」
「127人を攻略したと言っていたけれど、それぞれの人物の魅力を覚えているの?」
「全員とは言いませんが、ほとんど覚えていますよ」
「数が増えれば、一人一人への思い入れが薄くならない?」
堀北の質問は真剣だった。
白石は少し驚いた後、穏やかに笑った。
「私はそうは思いません。一人だけを好きになるのも素敵ですが、
色々な人物の物語を知ることで、それぞれの良さが分かることもありますから」
「でも、同じ主人公が別の結末では別の人物と恋人になるのでしょう?」
「そうですね」
「矛盾していると思わないの?」
「現実では一つの選択しかできませんが、
ゲームでは選ばなかった可能性まで見ることができます」
白石は画面へ視線を向けた。
「この時に別の言葉を選んでいたら、違う人と仲良くなっていたかもしれない。
あの日、別の場所へ行っていたら、誰かの悩みに気づけたかもしれない。
そういう可能性を一つずつ確かめられるのが、美少女ゲームの面白いところだと思います」
オレはその説明を聞きながら、現実との違いについて考えた。
現実では、選択をやり直すことはできない。
一つの行動を選べば、それ以外の可能性は消えていく。
しかし、ゲームでは保存した地点へ戻り、別の選択を試すことができる。
それによって、一度の人生では見られない複数の結末を経験できる。
「綾小路くんは、どのヒロインが気に入りましたか?」
白石が尋ねた。
「今のところは学級委員長だな」
「理由は?」
「表に見せている態度と、本心に差がある。まだ隠していることが多そうだ」
白石は納得したように頷いた。
「綾小路くんは、秘密が多いヒロインを選ぶタイプなんですね」
「そうとは限らない」
「最初に選ぶ人物には、その人の好みが出ることが多いんですよ」
「では、堀北は誰だ」
オレが尋ねると、堀北は少し考えた。
「特にいないわ」
「選ぶなら?」
「なぜ選ばなければならないの?」
「体験するためだ」
堀北は画面に並ぶ人物たちを順番に見た。
「強いて言えば、生徒会長かしら」
白石が楽しそうに笑う。
「理由は?」
「他の人たちより自己管理ができているし、学校全体の状況を把握しているからよ」
「やっぱりお兄さんに近い人を選ぶんですね」
堀北の表情が固まった。
「どういう意味?」
「生徒会長で、完璧主義で、周囲に厳しいんでしょう。堀北学先輩みたいだなって」
「関係ないわ」
「でも即答でしたよ」
「偶然よ」
白石はそれ以上追及しなかったが、口元には笑みが残っていた。
ゲームを始めてから、二時間以上が経過していた。
最初は少しだけ体験する予定だったが、
物語が一区切りつく場所まで進めるうち、予想以上に時間がかかった。
「今日はここまでにしましょうか」
白石が保存画面を開いた。
「途中で終わるのか」
「共通ルートだけでもまだ数時間ありますからね」
「次の選択肢で、学級委員長と生徒会長のどちらの話へ進むかが変わりそうだな」
オレが言うと、白石は目を細めた。
「もうそこまで分かるんですね」
「これまでの選択で、二人との場面が多かった」
「綾小路くんはゲーム向きかもしれませんね」
「続きを見なければ、選択の結果を確認できないわね」
堀北が小さく呟いた。
白石はすぐに反応した。
「また来ますか?」
「私は、結果を確認した方が学習として適切だと言っているだけよ」
「それなら、明日でもいいですよ」
「毎日来るつもりはないわ」
「では明後日?」
「そういう意味ではないのだけれど」
堀北は否定しながらも、はっきり断らなかった。
部屋を出る前、白石は棚から二つの小さな箱を取り出した。
「体験版が入っていますから、よかったら持っていってください」
「自分の部屋でもできるのか」
「パソコンがあれば。今日の作品とは別ですが、どちらも初心者向けですよ」
白石は一つをオレへ、もう一つを堀北へ渡した。
オレが受け取った箱には、雪の降る町と複数の少女が描かれていた。
堀北の箱には、生徒会を舞台とした作品らしく、
制服姿の少女たちが会議室へ集まっている。
「なぜ私の方だけ生徒会なの?」
「好きそうですから」
「勝手に決めないでちょうだい」
そう言いながらも、堀北は箱を返さず、鞄の中へ入れた。
白石の部屋を出ると、外はすでに夕方になっていた。
寮へ続く道を歩きながら、堀北は何度か鞄へ視線を落としている。
「気になるのか」
「何が?」
「体験版だ」
「持たされた以上、中身を確認する必要があるでしょう」
「そうだな」
「あなたも同じでしょう?」
「否定はしない」
堀北は少し意外そうな顔をした。
「あなたは最近、素直に認めるようになったわね」
「興味があるものを否定する理由がない」
「私が否定しているように聞こえるけれど」
「自覚があるのか」
「違うわ。あなたの言い方が気に入らないだけよ」
いつものように堀北は不満を口にしたが、その声には朝ほどの苛立ちはなかった。
校舎の近くへ戻ると、同じクラスの女子生徒たちとすれ違った。
堀北を見つけた一人が、笑顔で声をかける。
「鈴音姫、また明日ね」
「その呼び方はやめなさい」
堀北は反射的に否定した。
しかし、女子生徒たちは楽しそうに手を振りながら去っていく。
堀北はその背中を見送り、深く息を吐いた。
「本当に定着し始めているわ」
「以前より話しかけられる機会は増えたな」
「望んでいない形でね」
「嫌か」
堀北はすぐには答えなかった。
朝から多くの生徒にからかわれ、姫と呼ばれ、声を聞かせてほしいと頼まれていた。
本人にとって面倒であることは間違いない。
それでも、完全に拒絶しているようには見えなかった。
「面倒ではあるわ」
堀北は前を向いたまま答えた。
「ただ、以前よりクラスの人間が気軽に話しかけてくるようになったのは事実ね」
「悪い変化ではない?」
「まだ判断できないわ」
「確認が必要か」
「ええ。十分なデータがないもの」
また分析という形へ置き換えている。
しかし、堀北自身も、アニメの話題をきっかけに生まれた変化を
完全には嫌っていないのだろう。
寮へ戻った後、オレは白石から借りた体験版を机の上へ置いた。
ひよりから借りたライトノベルも、まだ読み終えていない。
櫛田と軽井沢から勧められたアニメも、最新話まで追いついていなかった。
池からはゲームへ誘われている。
短期間のうちに、確認するべきものが増えていた。
オレはパソコンを起動し、体験版を読み込んだ。
すぐに始める必要はない。
そう考えていたはずだが、画面に表示された雪の町を見ているうちに、
どのような物語なのか確認したくなった。
同じ頃、別の部屋では堀北も、
生徒会を舞台にしたゲームの箱を机へ置き、説明書を開いていた。
今日までの堀北は、アニメや漫画を自分とは無関係な娯楽だと考えていた。
しかし、声が人気ヒロインに似ていると話題になり、クラスで姫として扱われ、
美少女ゲームの世界へ足を踏み入れたことで、
二次元の人物がなぜ多くの人間から愛されるのか、少しずつ理解し始めている。
画面の中の少女たちは、現実には存在しない。
それでも、彼女たちの悩みや喜びを知り、選択を重ね、
物語の結末まで見届けようとする人間がいる。
白石飛鳥は、その行為を127人分繰り返していた。
100人斬りという異名だけを聞けば、単なる冗談に思える。
しかし、実際の白石は、100人を越える人物の人生を最後まで見届け、
それぞれの魅力を記憶していた。
オレたちはまだ、一人目のヒロインを選ぶ段階にすら到達していない。
それでも、二次元という世界は、昨日までより確実に近い場所へ存在していた。
堀北が姫と呼ばれ始めたその日、
オレと堀北は美少女ゲームという新たな文化を知った。
そして、高度育成高等学校のアニメブームは、
教室内の話題だけでは収まりきらないほど大きくなり始めていた。
◯
その日の夜、堀北は美少女のゲームの箱を閉じ、
昼間から何度も耳にした言葉を思い返していた。
「とりあえず、まずは先に私に声が似ているという『姫』とやらが、
どれほどのキャラクターなのか確認する必要があるわね」
そう独り言を呟きながら端末を操作し、
話題になっていた大正時代を舞台とする剣戟奇譚アニメの第一話を再生する。
目的はあくまでも確認だった。
クラスメイトたちが自分の声と似ていると騒いでいた少女が、
どのような声で話し、どのような人物として描かれているのかを知るだけであり、
数話も見れば十分だろうと堀北は考えていた。
ところが、最初の一話を見終えた時点で、その予定には早くも小さな狂いが生じた。
「……思っていたより、しっかり作られているのね」
映像は美しく、物語の導入にも無駄が少ない。
戦いだけを描いているわけでもなく、
主人公である兄が妹を守ろうとする理由も丁寧に積み上げられていた。
声を確認するだけなら、もう目的は達成している。
それなのに堀北は二話目を再生した。
二話が終われば三話を再生し、三話が終われば、
次の話の冒頭だけ確認してから終わろうと考えた。
その冒頭を見れば当然続きが気になり、気づけばエンディング曲が流れている。
数時間後、堀北は画面の隅に表示された時刻を確認した。
「……もう寝る時間だけれど、切りが悪いわね」
普段の堀北であれば、翌日の予定を考えて迷わず再生を止めるところだった。
しかし、今ちょうど主人公たちは新たな強敵と遭遇し、物語は明らかに大きく動き始めている。
ここで止めれば、かえって続きが気になって眠れないかもしれない。
そう判断した堀北は、それらしい理屈を自分自身へ与えて、次の話を再生した。
それから、さらに数時間が経過した。
部屋の照明は落とされ、机の上ではモニターだけが明るく輝いている。
当初は背筋を伸ばして冷静に視聴していた堀北も、
今では完全に画面へ釘付けになっていた。
「第十九話……いよいよクライマックスね……」
もはや声の確認などという当初の目的は、彼女の頭から完全に消えていた。
画面の中では、満身創痍となった兄が、それでも妹を守るために立ち上がろうとしている。
敵の猛攻を前にしても退こうとはせず、
自分が倒れれば妹へ危険が及ぶという一念だけで、限界を超えて前へ進んでいた。
『止まるな!走り続けろ!』
「な、なによ、これ……」
堀北は無意識のうちに椅子の背もたれから体を離し、画面へ身を乗り出していた。
これはアニメだ。
架空の人物たちによる、作られた物語にすぎない。
頭では理解している。
それでも、兄が妹のために必死に戦う姿を見ているうちに、
堀北の中で別の人物の姿が重なり始めていた。
堀北学。
自分が長い間追い続け、認めてもらうことを望み続けてきた実の兄だった。
画面の兄と学は、性格も境遇もまったく違う。
それなのに、妹を想う兄という一点が、今の堀北には強烈に響いた。
『走れ!妹を守るんだ!』
気づいた時には、堀北は画面へ向かって声を上げていた。
「がんばって!兄さん!」
言った直後、自分自身でも驚いた。
普段の彼女であれば、たとえ一人きりの部屋であっても、
映像作品の登場人物へ向かって声援を送るようなことはまず考えられない。
しかし、今はそんな自分を分析している余裕さえなかった。
画面の中で兄が立ち上がる。
妹もまた兄を守ろうとする。
どちらか一方が守られるのではなく、兄と妹が互いを必要とし、互いのために限界を超えていく。
堀北は瞬きすら忘れていた。
『俺と妹の絆は誰にも……引き裂けない!!』
「ああ……」
小さな声が漏れた。
頬を伝うものに気づいて手を触れると、指先が濡れていた。
自分が泣いていることを認識した瞬間にも、涙は止まらなかった。
悲しいからではない。
苦しいだけでもない。
登場人物たちが積み重ねてきたものが一気に結実したことへの興奮と、
兄妹が互いを想う気持ちへの感動が入り混じり、
堀北自身にも説明できないほど大きな感情となって溢れていた。
「……すごいわね」
エンディングが始まっても、堀北は椅子から立ち上がれなかった。
目元を拭いながら、しばらく余韻に浸っている。
わずか数時間前まで、自分の声と似ている人物を確認するだけのつもりだった。
それが今では、声が似ているかどうかなど二の次になっていた。
「アニメって……こんなものなのね」
その呟きには、これまで知らなかった文化へ初めて深く触れた者の、
素直な驚きが込められていた。
そして翌朝。
教室へ入ったオレは、自分の席へ向かおうとして、ちょうど登校してきた堀北と顔を合わせた。
「おは……どうした。ひどい表情だぞ、堀北」
「女子に向かって言う言葉ではないわね。おはよう」
声はいつもの堀北だったが、明らかに寝不足だった。
「まさか寝てないのか?」
「正確には少し寝たわ」
「何をしていた?」
「『姫』とやらの声を確認するために、大正剣戟奇譚アニメを見ていただけよ」
それだけでこうなるとは思えない。
「似ていたか?」
「自分の声を客観的に聞く機会なんてほとんどないのだから、私自身にはよく分からないわ。
確かに話し方によっては似ているような気もしたけれど……」
そこで堀北は言葉を止めた。
「……それよりも」
急に声の調子が変わった。
「どうした?」
「あの作品はおすすめだから、あなたにも見てほしいの」
「そうなのか」
「特に十九話まで絶対に見なさい。それ以前で視聴を止めることは認めないわ」
「随分と強制的だな」
「十九話までの積み重ねが重要なのよ。
途中だけ見ても意味がないわ。人物同士の関係や、
それまで主人公が何を背負ってきたのかを理解しているからこそ、あの場面が――」
そこまで熱く語ってから、堀北は一度咳払いした。
「とにかく、最初から順番に見ることを勧めるわ」
「分かった」
オレが答えても、堀北はまだ言い足りない様子だった。
「あれは単なる剣戟アニメではないと思うの。
家族について描いた物語でもあるし、兄妹の関係についても非常に考えさせられるわ。
それに映像も素晴らしいし、音楽の使い方も効果的だった。戦闘中の演出も――」
「堀北」
「何かしら」
「昨日までアニメにほとんど興味がなかったよな?」
「それと作品の評価は別問題よ」
即答だった。
「なるほど」
「今のところ、私にこの世で最も面白い作品は何かと聞くなら、大正剣戟奇譚アニメと答えるわ」
「……それほどか」
「少なくとも、現時点ではそう評価しているわ」
現時点では、という部分だけ妙に冷静だった。
これから別の作品を見れば評価が変わる可能性まで考慮しているらしい。
「兎も角、あなたもちゃんと見て、感想を聞かせなさい。
『面白かった』だけでは駄目よ。どの人物が良かったか、
どの場面が印象に残ったか、それくらいは聞かせてもらうから」
「宿題みたいになってきたな」
「あなたなら一晩あれば十分でしょう?」
「どういう評価だ、それは」
堀北は返事をせず、自分の席へ向かって歩いていった。
その足取りは寝不足のため普段より僅かに重い。
それでも、どこか満足そうにも見えた。
オレはその後ろ姿を眺める。
昨日までの堀北なら、アニメを見て睡眠時間を削るなど非効率だと切り捨てていただろう。
ましてや架空の兄妹へ感情移入し、
翌朝になって他人へ作品を勧める姿など想像することも難しかった。
それが、たった一つの作品に出会っただけでこれほど変化している。
「……あいつも変わりつつあるな」
オレはそう呟き、自分の席へ向かった。
もっとも、その時のオレはまだ知らなかった。
この一夜が、やがて堀北鈴音という人間を変えていく、最初の決定的な一歩だったということを。