高度育成高等学校で始まったアニメブームは、
当初、多くの生徒にとって一時的な流行にすぎないと思われていた。
話題になった作品を数本見て、流行のゲームを少し遊び、
周囲との会話についていける程度の知識を得れば、やがて熱も冷めて元の日常へ戻る。
少なくとも、教員や学校側はその程度に考えていたのかもしれない。
しかし、実際に起きた変化は、彼らの予想よりもはるかに大きかった。
櫛田や軽井沢がアニメに熱中し始めたことで、
それまで二次元文化へ関心を持っていなかった生徒たちまで作品を見るようになった。
池や本堂、外村のように以前からアニメやゲームを好んでいた生徒たちは、
突然クラスの中心で知識を求められるようになり、
隠れて趣味を楽しんでいた生徒たちも、坂柳やひよりの一件をきっかけに、
少しずつ自分の好みを口にするようになった。
綾小路クラスだけの現象ではない。
他のクラスでも、同じような変化が起きていた。
廊下では新作アニメの感想が交わされ、食堂ではゲームの攻略情報が共有され、
図書室ではライトノベルの貸し出し希望者が増えている。
学校内の購買部へ少量だけ置かれていた漫画や雑誌は、
入荷した日のうちに売り切れることが多くなった。
アニメに関する特集を組んだ雑誌は特に人気が高く、
朝の時点で棚へ並べられても、昼休みまで残っていることはほとんどない。
需要が供給を大きく上回っていた。
そして、その影響はついに、学校生活を支える商業施設であるケヤキモールへ及び始めた。
その変化を最初に教室へ持ち込んだのは、池だった。
朝のホームルームが始まる少し前、池は息を切らしながら教室へ入ってきた。
普段から時間に余裕を持って登校する方ではないが、
その日は遅刻を避けるために急いだというより、
何かを早く伝えたくて走ってきたように見える。
「おい、みんな聞いてくれ!」
池は自分の席へ鞄を置くこともなく、教室の中央で声を上げた。
朝からアニメの話をしていた生徒たちが、一斉に池へ視線を向ける。
「朝からうるさいわね」
堀北は机の上へ開いていた漫画を閉じた。
教科書ではない。
須藤から借りているバスケットボール漫画の十巻だった。
以前は教科書の下へ隠していたが、今では休み時間に堂々と読むようになっている。
本人は、隠す理由がなくなっただけだと説明していた。
「大ニュースなんだよ!」
池は堀北の冷たい視線を気にすることなく続けた。
「ケヤキモールに、アニメショップができるらしいぞ!」
その瞬間、教室の空気が変わった。
「本当に?」
軽井沢が真っ先に反応した。
「いつできるの?」
櫛田も席から立ち上がる。
「今週末にプレオープンだってよ。今まで服屋だった場所を改装してるらしい」
「どこの店?」
「ほら、一階の奥にあったやつだよ。最近閉店したところ」
池は端末を取り出し、ケヤキモール内の掲示板に掲載された情報を見せた。
画面には、新規店舗開店のお知らせが表示されている。
店名はまだ仮称らしく、「アニメ・コミック・キャラクターグッズ専門店」とだけ書かれていた。
取り扱う商品として、漫画、ライトノベル、映像作品、音楽、フィギュア、
アクリルスタンド、缶バッジ、ポスター、カードゲームなどが挙げられている。
「種類が多いな」
オレが画面を確認しながら言うと、外村がすぐに近づいてきた。
「これは朗報でござる。これまで学校内で購入できる商品は限られていたため、
通販へ頼るしかない状況だったのでござるよ」
「通販で買えばいいんじゃないの?」
佐藤が尋ねる。
「実物を確認できないという欠点があるのでござる。
特にフィギュアや画集については、現物を見て初めて分かる魅力も存在するのでござるよ」
外村の説明に、本堂も頷いた。
「発売日に届かないこともあるしな」
「送料もかかるし」
池が続ける。
「何より、店に行って探すのが楽しいんだよ」
軽井沢は画面を見ながら、すでに行く日を考えているようだった。
「プレオープンって土曜日だよね。みんなで行かない?」
「行く!」
櫛田はすぐに賛成した。
佐藤と松下も参加するらしい。
篠原は、最初は興味がなさそうにしていたが、
女性向け作品のグッズも置かれると聞くと、態度を変えた。
「どのくらいあるのか見るだけなら行ってもいいかも」
「見るだけで済むと思ってる?」
軽井沢が笑う。
「軽井沢さんに言われたくないんだけど」
女子生徒たちの間で、週末の予定が急速に決まっていく。
須藤も漫画から顔を上げた。
「バスケ漫画も置いてるのか?」
「漫画は扱うらしいぞ」
池が答える。
「じゃあ俺も行く」
「須藤まで来るの?」
「悪いかよ」
「別に悪くないけど、前まで漫画とか読まなかったじゃん」
「今は読むんだからいいだろ」
須藤は少し照れくさそうに答えた。
バスケットボール漫画へ夢中になってから、須藤は練習方法まで変え始めていた。
漫画の中で描かれた基礎練習を参考にし、
派手な技術よりも走り込みや体幹を重視するようになったらしい。
作品を読んで楽しむだけでなく、現実の部活動へ影響を受けている。
「綾小路くんと堀北さんも行くよね?」
櫛田が当然のように尋ねてきた。
「なぜ私たちが行くことになっているの?」
堀北は漫画を閉じたまま、警戒するように答えた。
「だって、最近いろいろ見始めてるでしょ」
「私は須藤くんから借りた漫画を読んでいるだけよ」
「美少女ゲームもやってるって聞いたよ」
堀北の表情が僅かに固まった。
「誰から聞いたの?」
「白石さん」
白石は人の趣味を広めることに抵抗がないらしい。
「体験版を確認しただけよ」
「どうだった?」
「今はその話をしていないでしょう」
「じゃあ、お店には行かないの?」
櫛田が尋ねると、堀北は少し考えた。
本当に興味がなければ、すぐに断るはずだった。
しかし、最近の堀北は、アニメや漫画に関する新しいものへ出会うたび、
まず内容を確認しようとする。
「新しい店舗が学校生活へどのような影響を与えるか、
見ておく必要はあるかもしれないわね」
「つまり行くんだ」
軽井沢が言う。
「調査よ」
「はいはい」
「その返事は何?」
「別に」
軽井沢は笑いながら櫛田と顔を見合わせた。
オレも店には興味があった。
アニメショップというものが、どのように商品を並べ、
客へ作品の魅力を伝えているのかを見てみたい。
これまで二次元文化について学んできたが、
実際にグッズを多く扱う店へ入ったことはない。
「オレも行く」
そう答えると、池は嬉しそうに拳を握った。
「よし。綾小路には俺が店の回り方を教えてやる」
「店を見るのに回り方があるのか」
「あるんだよ。最初から気になる場所へ行くと、
後で限定商品に気づいても売り切れてることがあるからな」
「開店直後に売り切れるのか」
「人気商品は普通にあるぞ」
外村が眼鏡を整えながら補足する。
「限定販売、購入特典、先着配布など、事前に確認すべき情報は多いのでござる。
無計画に入店すれば、目当ての商品を逃す可能性もあるのでござるよ」
「買い物というより作戦行動に近いわね」
堀北が呆れたように言う。
「人気イベントでは、まさにその通りなのでござる」
外村の答えに、堀北は少しだけ興味を示した。
ホームルームが始まると、茶柱が教室へ入ってきた。
生徒たちが新店舗について話していた声は小さくなったが、完全には止まらない。
茶柱は教卓へ資料を置き、教室全体を見渡した。
「今朝は随分と落ち着きがないようだな」
「ケヤキモールにアニメショップができるんですよ」
池がすぐに答えた。
茶柱は驚く様子を見せなかった。
「その話なら把握している」
「先生も知ってたんですか?」
「学校施設内の店舗が変更されるのだから、教員が知らない方がおかしいだろう」
「どんな店になるんですか?」
櫛田が尋ねる。
「私は運営側ではない。掲示されている情報以上のことは知らない」
茶柱はそう答えたが、完全に無関心というわけではないようだった。
池の端末に表示された店舗名へ、一瞬だけ視線を向けている。
「先生も行くんですか?」
池が調子に乗って尋ねた。
「なぜ私が行く必要がある」
「アニメ好きかもしれないじゃないですか」
「くだらないことを言っていないで席につけ」
茶柱の声が低くなり、池は慌てて自分の席へ戻った。
しかし、教師が強く否定しなかったことは、オレの中に少し引っかかった。
以前、外村のアニメ雑誌へ向けた茶柱の視線にも、単なる注意とは異なる感情があった。
それが何を意味するのか、この時点ではまだ分からなかった。
◯
土曜日。
ケヤキモールの新店舗がプレオープンする日になると、
朝から多くの生徒がモールへ集まっていた。
正式な開店時刻まで一時間以上あるにもかかわらず、入口前にはすでに列ができている。
綾小路クラスの生徒だけではない。
龍園クラス、一之瀬クラス、坂柳クラスの生徒たちも並んでいた。
上級生や下級生の姿も目立つ。
「少し早く来すぎたと思ったけど、正解だったね」
櫛田は列の長さを見ながら言った。
「これでも前の方じゃないじゃん」
軽井沢は不満そうだった。
オレたちは開店の四十分前に到着したが、すでに数十人が並んでいる。
池と外村は、さらに一時間前から来ていたらしく、列の先頭に近い場所へ立っていた。
「何時から並んでいるの?」
堀北が尋ねる。
「七時半でござる」
外村は誇らしげに答えた。
「開店は十時でしょう」
「確実に限定品を手に入れるためでござる」
「休日の朝から二時間半も並ぶの?」
「目的のためなら必要な時間でござる」
「理解できないわ」
堀北はそう言ったが、列へ並ばず帰ろうとはしなかった。
須藤はその隣で、今日発売される漫画の新刊情報を確認している。
「十巻の続き、ここで買えるよな」
「入荷予定には入ってるぞ」
池が答える。
「売り切れることはないだろうが、早めに確保しとけ」
「分かった」
須藤は本気で頷いた。
少し離れた場所には、ひよりと石崎が並んでいた。
ひよりは普段と変わらず落ち着いているが、手には購入予定を書いた小さなメモを持っている。
石崎は周囲の人数に圧倒されている様子だった。
「椎名、こんなに混むって聞いてねえぞ」
「人気作品の新刊発売と重なっていますから」
「俺、別に買うもんねえんだけど」
「付き合ってくださると言ったでしょう」
「言ったけどよ」
石崎は文句を口にしながらも、列から離れなかった。
さらに前方には坂柳と神室、橋本の姿もある。
坂柳は杖を持ち、混雑の中でも余裕のある笑みを浮かべていた。
神室は眠そうな顔をしながら腕を組んでいる。
「なんで私まで朝から並ばされてるの」
「荷物を持っていただくためです」
「私は使用人じゃないんだけど」
「神室さんにも新しい趣味が見つかるかもしれませんよ」
「絶対ない」
橋本は二人のやり取りを聞きながら笑っていた。
「坂柳は何を買うんだ?」
「限定版の小説と、以前から集めている作品のアクリルスタンドです」
「やっぱり結構本気だな」
「好きなものを購入するのに、手を抜く理由はありません」
坂柳は堂々としていた。
以前なら、自分がアニメグッズを集めていることを
積極的に話すことはなかったのかもしれない。
しかし、鞄から大量のグッズが落ちて趣味が知られてからは、隠す必要がなくなったらしい。
一之瀬も、数人のクラスメイトと共に並んでいた。
彼女は小さな紙袋を抱えており、
そこからキャラクターの絵が描かれた布製のポーチが見えている。
「一之瀬も来ていたのか」
オレが声をかけると、一之瀬は少し驚いた後、笑顔を見せた。
「うん。クラスのみんなが行きたいって言うから、一緒に来たんだ」
「自分の買い物もあるんじゃないのか」
オレがポーチへ視線を向けると、一之瀬は一瞬だけ動きを止めた。
「これは、その……前から持ってたものなんだけど」
「隠す必要はないと思う」
「そうなんだけど、少し恥ずかしくて」
一之瀬は照れたように笑った。
ポーチに描かれているのは、メイド服を着た少女だった。
「その作品が好きなのか」
「うん。主人公を支えるメイドさんがすごく優しくて、
どんな時でも笑顔を忘れないの。見てると元気をもらえるんだ」
一之瀬の説明を聞いていた軽井沢が、すぐに興味を示した。
「それ、あたしも見たことある。衣装可愛いよね」
「そうなの。いつか着てみたいなって思うくらい」
「一之瀬さんなら絶対似合うよ」
「本当?」
「本当本当。今度やってみなよ」
一之瀬は冗談として受け流すと思われたが、少し考え込むような表情を見せた。
この会話が、後に彼女がコスプレを始めるきっかけになることを、この時点では誰も知らない。
開店時刻が近づくにつれ、列はさらに長くなっていった。
通路の端から端まで生徒が並び、モールの職員が整理のために動き回っている。
やがて店の前に設置されていた幕が外され、新しい看板が姿を現した。
色鮮やかな文字と共に、複数のキャラクターが描かれている。
扉の両側には、等身大のパネルが並べられていた。
「すごいね」
櫛田が目を輝かせる。
軽井沢はすでに端末を取り出し、看板を撮影していた。
堀北は周囲の熱気に圧倒されたように、店の様子を見ている。
「一つの店舗が開くだけで、ここまで人が集まるのね」
「需要が集中していたんだろう」
「学校内に趣味を共有できる場所が少なかったということかしら」
「それもあるかもしれない」
これまでは、アニメやゲームを好む生徒たちが、
自分の部屋や限られた友人関係の中だけで趣味を楽しんでいた。
しかし、店ができれば、作品を知る場所、商品を選ぶ場所、
同じ趣味を持つ生徒と出会う場所が生まれる。
単なる販売施設以上の役割を持つ可能性がある。
扉が開くと、列の前方から歓声が上がった。
生徒たちは順番に店内へ入り、目的の売り場へ向かっていく。
外村の言っていた通り、多くの生徒は入店直後から迷いなく動いていた。
限定品の棚へ走る者、漫画の新刊コーナーへ向かう者、
予約商品を受け取りに行く者がいる。
店員たちは混雑を想定していたらしく、通路ごとに案内役が配置されていた。
オレたちも列の流れに沿って店へ入った。
最初に目へ入ったのは、壁一面に並べられたキャラクターのポスターだった。
作品ごとに区画が分けられ、漫画や小説、映像作品、
音楽、関連グッズがまとめて置かれている。
中央の広いスペースには、新作アニメの特設コーナーが設けられていた。
軽井沢や櫛田が見ていた作品も大きく取り上げられている。
「妹姫もいるよ!」
軽井沢が声を上げた。
特設コーナーの中央には、堀北と声が似ていると、
話題になった大正剣戟奇譚のヒロインが、等身大パネルとして立っていた。
黒髪をなびかせ、和服姿で刀を構えている。
軽井沢はすぐに堀北の腕を掴んだ。
「並んでみてよ」
「嫌よ」
「一回だけ」
「何の意味があるの?」
「比較したいから」
「比較する必要はないでしょう」
堀北は抵抗したが、櫛田と佐藤まで加わり、
最終的にはパネルの隣へ立たされることになった。
「やっぱり似てる」
「髪型も近いよね」
「衣装着たらもっと分かりやすそう」
女子生徒たちは楽しそうに写真を撮っている。
堀北は不満そうな表情を浮かべたままだったが、その場から本気で離れようとはしなかった。
「綾小路くんも入って」
櫛田が手招きする。
「なぜオレまで」
「主人公役」
「作品の主人公とは似ていないと思うが」
「いいから」
オレも堀北の隣へ立たされた。
軽井沢は画面を確認しながら笑っている。
「堀北さん、姫っていうより怒ってる護衛みたいになってる」
「誰のせいだと思っているの?」
「でも、いい感じ」
「消してちょうだい」
「後でね」
軽井沢が素直に消すとは思えなかった。
特設コーナーを離れると、池と外村はすでに別行動を始めていた。
池は限定版のゲームを抱え、外村は大量の冊子を両腕に積んでいる。
「買いすぎじゃないか」
オレが尋ねると、外村は真剣な表情で答えた。
「今日は購入金額に応じて特典が付くのでござる。
5000ポイントごとに限定カードが一枚もらえるため、
効率を考えればまとめて購入するべきなのでござるよ」
「その特典を得るために、予定より多く買っていないか」
「必要な投資でござる」
外村の言葉に、堀北が眉をひそめた。
「店側の戦略に完全に乗せられているように見えるわ」
「欲しい商品を購入した結果、特典まで得られるのでござる。何も問題はないのでござるよ」
「本当にすべて欲しかったの?」
「当然でござる」
外村は一切迷わなかった。
須藤は漫画売り場で、目当ての新刊を手に取っていた。
表紙を確認し、少し嬉しそうにしている。
「買えたのか」
「ああ。ついでに前の巻も自分で揃えることにした」
「池から借りれば済むんじゃないのか」
「何回も読み返したくなったんだよ」
須藤は棚から既刊を何冊か取り出した。
「それに、自分で持ってた方が練習前にすぐ読めるからな」
漫画を練習前に読む必要があるのかは分からないが、
須藤にとっては気持ちを高める役割があるらしい。
ひよりはライトノベルの棚で、静かに本を選んでいた。
すでに数冊を手に持っている。
「目当てのものはあったか」
「はい。学校の購買部では扱っていなかった作品も入荷しています」
ひよりは嬉しそうに棚を見渡した。
「これまで通販で買うことが多かったので、実際に本を見ながら選べるのは楽しいですね」
「表紙を見て決めることもあるのか」
「ありますよ。もちろん内容を調べてから買うことも多いですが、
表紙や題名に惹かれて、知らない作品を手に取ることもあります」
「外れることはないのか」
「あります」
ひよりは笑った。
「でも、それも含めて出会いだと思っています。
期待していなかった作品が、とても好きになることもありますから」
確実に評価の高いものだけを選ぶのではなく、
未知の作品へ手を伸ばすこと自体を楽しんでいる。
効率を重視するなら、事前に評判を確認し、失敗の可能性を減らすべきだろう。
しかし、ひよりにとっては、選ぶ過程も趣味の一部らしい。
少し離れた場所では、坂柳がアクリルスタンドを眺めていた。
限定商品を無事に確保できたらしく、神室が持つ籠にはいくつものグッズが入っている。
「少しだけと言っていなかったか」
橋本が籠を見ながら尋ねる。
「どれも必要なものです」
「同じキャラの絵が何個もあるけど」
「衣装と表情が異なります」
「俺には同じに見える」
「橋本くんには、まだ理解が足りないようですね」
坂柳は穏やかな笑顔を浮かべていたが、声には僅かな圧があった。
神室は籠の重さに耐えながら、呆れたように息を吐いた。
「これ全部、部屋に置くの?」
「もちろんです」
「もう場所ないでしょ」
「配置を変更します」
「私にやらせるつもりじゃないでしょうね」
「手伝ってくださると助かります」
「嫌なんだけど」
神室が拒否しても、坂柳は聞いていないようだった。
オレと堀北は、店内を一通り見て回った。
美少女ゲームの棚へ着くと、堀北の足が少しだけ遅くなった。
白石の部屋で体験した作品と同じ会社のゲームが並んでいる。
「気になるものがあるのか」
オレが尋ねると、堀北はすぐに否定した。
「確認しているだけよ」
「何を」
「白石さんから借りた体験版が、
一般的にどの程度評価されている作品なのかを見ているの」
棚には、人気作品を示す札や店員の紹介文が掲げられていた。
堀北が借りた生徒会を題材としたゲームは、
初心者にも勧めやすい作品として紹介されている。
「評価は高いらしいな」
「そうね」
「続きを買うのか」
「まだ体験版を終えていないわ」
「終えたら買う?」
堀北は少し考えた。
「結末を確認する必要があるなら、その可能性はあるわ」
「学習のためか」
「当然でしょう」
オレはそれ以上追及しなかった。
堀北は商品の箱を手に取ったが、結局その場では買わず、元の場所へ戻した。
ただし、価格と発売日を確認していたことは見逃さなかった。
オレも白石から借りた体験版と同じシリーズの作品を見つけた。
雪の町を舞台とした物語は、どうやら複数作品で構成されているらしい。
関連商品として、音楽CDや設定資料集も置かれている。
ゲームをまだ最後まで進めていないにもかかわらず、
その世界がどのように広がっているのか、少し興味を覚えた。
昼を過ぎても、店内の客は減らなかった。
入店を待つ列は続いており、店員たちは何度も商品を補充している。
一部の限定品は、開店から一時間も経たないうちに売り切れた。
その状況を受けて、ケヤキモール側はすぐに動いた。
プレオープンから一週間後、空き店舗だった区画へ、
プラモデルと模型を専門に扱う店が開店すると発表された。
さらに、カードゲーム専門店、ゲーム機器を扱う店舗、
同人作品や画集を取り扱う書店、カプセルトイ専門区画の設置まで決まった。
一つのアニメショップが成功したことで、モール全体が急速に方向性を変え始めた。
以前は衣料品店や雑貨店、飲食店が中心だった通路へ、
キャラクターの広告や新作ゲームの映像が増えていく。
週末になるたびイベントが開かれ、限定商品の販売、
作品展示、声優を招いた校内配信などが行われるようになった。
生徒たちは自然と、ケヤキモールを別の名前で呼び始めた。
最初にその呼び方を使ったのが誰なのかは分からない。
ある日の昼休み、池が何気なく言った。
「放課後、アキバモール行こうぜ」
誰も訂正しなかった。
その呼び方は分かりやすく、現在のモールの姿を正確に表していた。
数日後には、綾小路クラスだけでなく、他クラスの生徒たちも同じように呼ぶようになった。
そして、学校側もその流れを無視できなくなった。
モールの入口には、期間限定企画として大きな横断幕が掲げられた。
そこには、以前の正式名称よりも大きな文字で、こう書かれていた。
「アキバモールへようこそ」
その看板を見た生徒たちから、大きな歓声が上がった。
「本当に名前変わってるじゃん!」
池は自分が名付けたわけでもないのに、誇らしそうだった。
「正式名称はまだケヤキモールでしょう」
堀北が冷静に指摘する。
「でも、看板に書いてあるよ」
軽井沢が言う。
「期間限定企画と書いてあるわ」
「そのうち正式になるって」
「学校がそこまで簡単に施設名を変更するとは思えないけれど」
堀北の予想に反して、アキバモールという名称はその後も使われ続けた。
生徒向けの案内メールでも、「アキバモール特別フェア」と記載され、
教員まで会話の中で自然にその呼び方を使い始める。
名前が変われば、生徒たちの認識も変わる。
単なる買い物の場所だったケヤキモールは、
同じ趣味を持つ者たちが集まる学校内の聖地となった。
放課後の教室でも、アキバモールへ行く約束が毎日のように交わされる。
新刊の発売日には図書室で顔を合わせる生徒たちが一緒に書店へ向かい、
ゲームの発売日には池や本堂が朝から落ち着かなくなる。
軽井沢や櫛田は、女性向けグッズの新作情報を共有し、佐藤や松下と共に店を巡った。
須藤は練習帰りに漫画を買い、
疲れているはずなのに寮へ戻るまで待てず、食堂で読み始める。
堀北も、以前ほどモールへ行くことを拒まなくなった。
「今日は何を確認するんだ」
放課後、オレが尋ねると、堀北は鞄を持ちながら答えた。
「新しく入荷した漫画があると須藤くんから聞いたの」
「買うのか」
「彼から借り続けるのも悪いでしょう。自分で揃えた方が、好きな時に読み返せるわ」
「読み返すつもりなのか」
「試合の流れを再確認するためよ」
「そうか」
「何か言いたそうね」
「何も言っていない」
「顔に出ているわ」
堀北は不満そうにしながらも、足取りは以前より速かった。
オレも、ひよりから勧められたライトノベルの新刊を購入する予定だった。
借りて読むこともできるが、自分の手元へ残したいと思うようになっていた。
理由を明確に説明するのは難しい。
内容を知るだけなら、一度読めば足りる。
しかし、気に入った場面を後で読み返したいと思うことがある。
本棚へ並べておけば、物語を読んだ時の記憶も残る。
それは、作品そのものだけでなく、
その作品へ触れた自分の時間を保存する行為に近いのかもしれない。
アキバモールへ向かう途中、オレと堀北は職員室の前を通った。
扉が少し開いており、中から星之宮の明るい声が聞こえてくる。
「だから、昔の秋葉原は今と全然違ったんだって」
「授業中に生徒へ余計な話をするな」
茶柱の声が続いた。
「佐枝ちゃんだって知ってるでしょ。昔、一緒に行ったじゃない」
オレと堀北は足を止めた。
「聞き間違いかしら」
堀北が小声で言う。
「茶柱と星之宮が秋葉原へ行ったと言っていた」
「昔の話みたいね」
職員室の中では、二人の会話が続いている。
「一度付き合っただけだ」
茶柱は不機嫌そうに答えた。
「一度じゃないでしょ。電気街口で待ち合わせして、
ゲームショップ回って、最後に喫茶店でずっと戦利品見せ合ったじゃん」
「声が大きい」
「コミケにも一緒に行ったよね」
「星之宮」
「何よ。もう時効でしょ」
堀北がオレを見た。
「コミケとは何?」
「外村が以前話していた。同人誌や創作物を扱う大規模な催しらしい」
「茶柱先生がそこへ行っていたの?」
「そう聞こえる」
普段の茶柱からは想像しにくかった。
趣味に浮かれる生徒を冷静に見ている彼女が、
過去には秋葉原やコミケへ足を運んでいたらしい。
堀北は職員室の中へ入るか迷っているようだったが、その前に星之宮が扉を開けた。
「二人とも、そこで何してるの?」
星之宮は笑顔で尋ねた。
その後ろでは、茶柱が明らかに嫌そうな表情を浮かべている。
「先生方の会話が聞こえました」
堀北は正直に答えた。
「昔、秋葉原へ行っていたという話です」
星之宮の笑顔がさらに広がった。
「そうなの。私たち、学生の頃は結構行ってたんだよ」
「余計なことを話すな」
茶柱が止める。
「別に隠すことじゃないでしょ」
「私は今の生徒たちに昔の趣味を説明するつもりはない」
「昔の趣味ということは、実際に好きだったんですね」
オレが尋ねると、茶柱は黙った。
否定しないということは、事実なのだろう。
星之宮は楽しそうに職員室から出てきた。
「佐枝ちゃんはね、昔、すごく真面目な顔で限定版ゲームの予約表を握りしめてたんだよ」
「知恵」
茶柱の声がさらに低くなる。
「あと、好きなキャラのタペストリーも持ってたよね」
「黙れ」
「部屋の壁に飾ってたでしょ」
「それ以上言えば、今後の仕事をすべてお前へ回す」
「職権乱用じゃない?」
星之宮は笑いながらも、少しだけ茶柱から距離を取った。
堀北は目の前の教師二人を信じられないように見ている。
「茶柱先生にも、そういう時期があったのですね」
「誰にでも学生時代くらいある」
茶柱は不機嫌そうに答えた。
「今は興味がないのですか」
「昔ほどではない」
「つまり、完全に嫌いになったわけではないんですね」
堀北が追及すると、茶柱は彼女を睨んだ。
「堀北、お前は最近、随分と余計なことへ関心を持つようになったな」
「学校全体の流行に関係することですから」
「以前のお前なら、他人の趣味など無視していただろう」
堀北はすぐに答えられなかった。
茶柱の指摘は正しい。
少し前までの堀北なら、教師が昔アニメやゲームを好んでいたとしても、
自分には関係がないと切り捨てていたはずだ。
しかし今は、茶柱がどんな作品を好み、なぜ趣味から離れたのかを知りたがっている。
「アキバモールができたことで、生徒たちの話題になっています」
堀北は少し考え、そう答えた。
「旧世代の方から見て、現在の状況をどう思うのか興味があります」
「旧世代って言い方はやめてくれる?」
星之宮が傷ついたような顔をした。
「私たち、そんなに昔の人じゃないからね」
「十分昔だろう」
茶柱が言う。
「佐枝ちゃん、自分まで巻き込んでない?」
「事実だ」
星之宮は不満そうだったが、すぐに気を取り直した。
「でも、今の生徒たちは羨ましいかも。
学校の中にこんな店があって、友達と毎日行けるんだもん」
「昔は違ったんですか」
オレが尋ねる。
「昔の秋葉原は、今より少し入りにくい店も多かったし、
欲しいものがどこにあるか分からなくて、何軒も歩き回ったんだよ」
星之宮は懐かしそうに目を細めた。
「駅を出た瞬間から空気が違って、電気屋さんの音も、
ゲームの広告も、店の呼び込みも、全部一緒になってた。
知らない作品の看板を見て、何だろうって気になって、そのまま店に入ることもあったな」
「計画を立てずに買い物をしていたのですか」
堀北が尋ねる。
「計画は立ててたよ。でも、予定通りにいかないのが楽しかったの」
星之宮の答えは、ひよりが話していたことと似ている。
確実に欲しいものだけを手に入れるのではなく、
予想していなかった作品と出会うことも楽しみの一部だったらしい。
「コミケというものは、どのような場所だったのですか」
堀北はさらに尋ねた。
星之宮は待っていましたと言わんばかりに笑顔を見せた。
「すごい場所だったよ。プロじゃない人も、
自分で描いた漫画や作った本を持ち寄って、好きなものを好きな形で表現してたの」
「販売するのですか」
「そう。でも、売ることだけが目的じゃない人も多かったと思う。
自分が好きな作品について誰かと話したいとか、
自分の考えた物語を読んでほしいとか、そういう気持ちが集まってたんじゃないかな」
星之宮の声は、授業中の軽い口調とは少し違っていた。
昔の記憶を丁寧に辿っているように聞こえる。
「人が多すぎて大変だったけどね。
朝から並んで、ずっと歩いて、帰る頃には足が痛くなってた」
「それでも毎年行こうとしていた」
茶柱が静かに言った。
星之宮は驚いたように振り返った。
「佐枝ちゃん、ちゃんと覚えてるじゃん」
「毎回お前に引きずられていたからな」
「でも、嫌なら来なかったでしょ」
茶柱は答えなかった。
星之宮はその沈黙を肯定と受け取ったらしく、嬉しそうに笑った。
「茶柱先生は、何を目的に行っていたのですか」
堀北が尋ねる。
「答える必要はない」
「タペストリーですか」
「違う」
「ゲームですか」
「違う」
「否定が早いですね」
「お前は教師を尋問しているのか」
茶柱は苛立っているが、顔には僅かな動揺が見える。
星之宮は口元を手で隠しながら笑っていた。
「佐枝ちゃんは、好きなゲームのイラストを描いてる人の本を買いに行ってたんだよ」
「おい」
「あと、声優さんのラジオもずっと聞いてた」
「仕事を回すだけでは済まさないぞ」
「怖い怖い」
星之宮は茶柱からさらに離れた。
堀北は茶柱を見ながら、少し意外そうな表情を浮かべている。
「先生にも、誰かを応援したり、作品の続きを楽しみにしたりすることがあったのですね」
「私を何だと思っている」
「感情より規則を優先する人だと思っています」
「失礼な評価だな」
「間違っていないと思います」
「堀北、最近少し調子に乗っていないか」
二人のやり取りを見て、星之宮が声を上げて笑った。
「でも、いいんじゃない?生徒たちが楽しそうにしてるのを見てたら、
私も久しぶりに何か見たくなってきたし」
星之宮はアキバモールの方向へ視線を向けた。
「今度行ってみようかな」
「教員が生徒に混ざって買い物をするのか」
茶柱が呆れたように言う。
「別にいいでしょ。佐枝ちゃんも一緒に行こうよ」
「断る」
「本当に?」
「行かない」
「限定復刻版のゲームが入荷するって聞いたけど」
茶柱の動きが一瞬止まった。
星之宮はその反応を見逃さなかった。
「やっぱり気になるんじゃん」
「内容を確認しただけだ」
「堀北さんと同じこと言ってる」
「一緒にするな」
堀北は不満そうに眉をひそめた。
「私も同じ扱いにしないでください」
「二人とも、興味あるのに認めないところがそっくりだよ」
星之宮が笑うと、茶柱と堀北は同時に黙った。
その反応まで似ていた。
職員室を離れ、オレと堀北はアキバモールへ向かった。
廊下を歩きながら、堀北は先ほどの会話を思い返しているようだった。
「茶柱先生にも、あのような時期があったのね」
「意外だったか」
「ええ。先生は、自分の趣味を誰かと語るような人には見えなかったから」
「今のお前も、以前はそう見られていたかもしれない」
「どういう意味?」
「漫画やゲームについて話す人間には見えなかった」
堀北は少し黙った。
「今も、積極的に語っているつもりはないわ」
「須藤と試合の展開について話しているのを見た」
「漫画の中の戦術が現実的か確認していただけよ」
「白石ともゲームの選択肢について話していた」
「判断に不自然な部分があったから指摘しただけね」
「軽井沢とはアニメのヒロインについて話していた」
「あれは、私と声が似ていると言われたからでしょう」
堀北は一つずつ理由を並べた。
しかし、理由が何であれ、
彼女が作品について人と会話する機会は明らかに増えている。
「茶柱先生も同じように言っていたのかもしれない」
「何を?」
「付き合いで秋葉原へ行っただけだ。内容を確認しただけだ。
限定版を買ったのは資料として必要だっただけだ」
堀北は想像したのか、僅かに口元を緩めた。
「ありそうね」
「お前にも可能性がある」
「何の可能性?」
「数年後、昔は漫画を読んでいたと隠す教師になる可能性だ」
「私は教師になるつもりはないわ」
「問題はそこじゃない」
堀北は不満そうにオレを見たが、完全には怒っていなかった。
アキバモールへ到着すると、入口には多くの生徒が集まっていた。
以前のケヤキモールとは、すでに別の施設のように見える。
大型画面では新作アニメの映像が流れ、
通路にはキャラクターの旗が並び、店の前では発売日を告知する声が響いている。
ゲームショップの試遊台では池と本堂が対戦し、
模型店の前では数人の男子生徒が完成品を眺めていた。
ひよりは新刊を手に坂柳と話し、
一之瀬は軽井沢たちとコスプレ衣装の展示を見ている。
趣味も、クラスも、学年も異なる生徒たちが、一つの場所へ集まっている。
「学校の景色が変わったわね」
堀北が静かに言った。
「嫌か」
オレが尋ねると、堀北はしばらく周囲を見渡した。
「騒がしくなったとは思うわ」
笑い声が聞こえる。
誰かが買った商品を友人へ見せ、別の生徒が作品を勧めている。
以前なら会話を交わさなかった人間同士が、同じ作品をきっかけに話していた。
「ただ、悪い変化ではないのかもしれないわね」
堀北はそう答えた。
その言葉を聞いた直後、後方から聞き覚えのある声がした。
「佐枝ちゃん、早く来てよ」
振り返ると、星之宮がアキバモールの入口に立っていた。
普段の仕事用の服装ではなく、休日らしい軽い服を着ている。
その少し後ろには、明らかに不機嫌そうな茶柱がいた。
「私は来るとは言っていない」
「でも付いてきたじゃん」
「お前が一人で生徒の多い場所へ行けば問題を起こすと思っただけだ」
「はいはい」
星之宮は楽しそうに笑った。
茶柱はオレたちへ気づくと、僅かに顔をしかめた。
「何を見ている」
「何も」
オレが答えると、茶柱は視線を逸らした。
星之宮は入口に掲示された新商品の案内を見つけ、目を輝かせる。
「佐枝ちゃん、復刻版ゲーム、二階だって」
「興味はない」
「売り切れたら後悔するよ」
「しない」
そう言いながら、茶柱の歩く速度は少しだけ上がっていた。
堀北はその背中を見送り、僅かに笑った。
「本当に来たのね」
「お前と似ているな」
「一緒にしないで」
堀北は否定したが、その手には、
先ほど購入したバスケットボール漫画の紙袋が握られている。
オレの鞄にも、ひよりから勧められたライトノベルの新刊が入っていた。
ケヤキモールはアキバモールへ変わった。
しかし、本当に変わったのは建物の名前や店の種類だけではない。
自分の趣味を隠していた生徒が、それを誰かへ話せるようになった。
興味のなかった生徒が、新しい作品へ手を伸ばした。
一度は趣味から離れた大人たちまで、昔抱いていた熱を思い出し始めている。
学校全体を包むアニメブームは、もう一時的な流行ではなくなっていた。
それは、人と人との距離を縮め、日常の景色を変え、
それまで知らなかった自分の一面を引き出し始めている。
この時のオレたちは、まだ知らなかった。
アキバモールの誕生によって二次元文化が学校の中心へ入り込んだことで、
それを快く思わない生徒たちもまた、動き始めていたことを。
そして、その中心には、趣味を楽しむ生徒たちをくだらないと切り捨て、
自分たちの力で排除しようと考える龍園翔の姿があった。