ケヤキモールがアキバモールと呼ばれるようになってから、
高度育成高等学校の日常は目に見えて変化していた。
放課後になれば、多くの生徒がモールへ向かい、
新刊や新作ゲーム、キャラクターグッズを求めて店内を巡るようになった。
教室では、それまで交わる機会の少なかった生徒たちが、
好きな作品をきっかけに会話を始めている。
昼休みには、食堂の一角でカードゲームの対戦が行われ、
図書室ではライトノベルの感想が語られ、
校舎の外ではラジコンを走らせるための場所を探す生徒まで現れ始めた。
アニメやゲームを楽しむことが、特別な趣味ではなくなりつつあった。
以前から作品を好んでいた生徒は、もう自分の趣味を隠す必要がない。
最近興味を持った生徒も、分からないことがあれば周囲へ気軽に尋ねられる。
人間関係という点だけを見れば、学校全体の空気は以前より柔らかくなっていた。
ただし、すべての生徒がその変化を歓迎していたわけではない。
龍園翔は、アキバモールの入口付近に設置された大型モニターを見上げながら、
露骨に不機嫌そうな表情を浮かべていた。
画面では、今季放送されている人気ロボットアニメの宣伝映像が流れている。
巨大な人型兵器が空を駆け、光を放つ武器を構え、
仲間と共に敵軍へ突入していく場面だった。
周囲では映像を見た生徒たちが足を止め、次回の展開や登場機体について話している。
「随分とくだらねぇ学校になったもんだな」
龍園が吐き捨てるように言った。
その後ろには、石崎大地、伊吹澪、山田アルベルトが並んでいる。
石崎は龍園の機嫌を窺うように周囲を見渡した。
「まあ、最近はどこに行ってもこの話ばっかりっすね」
「お前まで興味を持ってるんじゃねぇだろうな」
「俺は別に何も買ってないっすよ」
石崎は慌てて否定した。
ただし、アキバモールの店頭へ並んでいたラジコンを何度か眺めていたことを、伊吹は知っていた。
伊吹は腕を組み、モニターへ冷めた視線を向けている。
「放っておけばいいじゃない。本人たちが勝手に楽しんでるだけでしょ」
「目障りなんだよ」
龍園は周囲へ聞こえることを気にせず答えた。
「少し前までは、教室の隅でコソコソ話していた連中が、
今じゃ自分たちが主役みてぇな顔でモールを歩いてやがる」
「それの何が問題なの?」
「気に入らねぇ」
「結局、それだけ?」
「それで十分だ」
龍園は薄く笑った。
他者が楽しんでいるという理由だけで、それを壊そうとする人間ではない。
龍園は常に、集団の中で誰が影響力を持ち、
誰が場の空気を支配しているのかを見ている。
以前の学校では、強さや学力、容姿、
交友関係といった分かりやすい要素が、生徒の立場を決めていた。
龍園自身も、恐怖と暴力を使い、自分のクラスを支配してきた。
ところが現在の学校では、別の価値が急速に力を持ち始めている。
外村のように、以前は目立たなかった生徒が知識を求められている。
ひよりは好きな本について話すことで、他クラスの生徒と交流するようになった。
坂柳は隠していたグッズを堂々と持ち歩き、
周囲から以前とは異なる親しみを向けられている。
池でさえ、ゲームやアニメに関する話題の中心へ入ることが増えた。
龍園が嫌っているのは、趣味そのものではない。
自分が作ったものではない価値観によって、学校の秩序が変わり始めていることだった。
「龍園、あんたはどうするつもりなの」
伊吹が尋ねた。
「決まってるだろ」
龍園はモニターから視線を外し、アニメショップへ入っていく生徒たちを見た。
「調子に乗ってる連中に、自分たちの立場を思い出させる」
石崎の表情が強張った。
「まさか、店を潰すとか言わないっすよね」
「店に手を出す必要はねぇ。楽しんでる連中が来なくなれば、自然に元へ戻る」
「どうやって?」
伊吹が問い返す。
龍園は笑った。
「オタク狩りだ」
その言葉が最初に使われた時、石崎は龍園が本気だとは思っていなかった。
アニメやゲームの話をしている生徒へ声をかけ、
少し脅して黙らせる程度のことだと考えていた。
しかし、翌日になると、龍園クラスの一部の男子生徒たちが校内を歩き回り、
アニメグッズを持つ生徒や、ゲームについて話している生徒へ意図的に絡み始めた。
直接的に商品を奪うわけではない。
暴力を振るうわけでもない。
それでも、数人で相手を囲み、馬鹿にするような言葉を投げかけ、
趣味を公言することを恥ずかしいと思わせる。
龍園は、学校の規則へ明確に違反しない範囲を選びながら、
以前の空気を取り戻そうとしていた。
「お前、そんな人形を学校まで持ってきてんのかよ」
廊下では、龍園クラスの男子生徒が、
一年生の鞄へつけられた小さなマスコットを見て笑っていた。
囲まれた生徒は、何も言い返せずに視線を落としている。
「好きだからつけてるだけだろ」
別の生徒が助けようとしたが、すぐに複数の視線を向けられ、言葉を止めた。
その日の昼休み、食堂でカードゲームをしていた生徒たちは、
龍園たちが近づいてきただけで対戦を中断した。
図書室へ向かっていた女子生徒は、
鞄から見えていたライトノベルを急いで奥へ押し込んだ。
ブームが始まる以前と同じように、自分の趣味を隠そうとする生徒が少しずつ増え始める。
龍園は、その反応を楽しんでいた。
「結局、こいつらは何も変わってねぇ」
食堂の端で対戦を片づける生徒たちを見ながら、龍園は言った。
「周囲に認められたから、調子に乗って表へ出てきただけだ。
一度怖がらせれば、すぐ元へ戻る」
石崎は隣に立ちながら、曖昧に笑った。
「でも、わざわざこんなことする必要ありますかね」
「何だ石崎。連中に同情してんのか?」
「そういうわけじゃないっすけど」
「なら黙って見てろ」
龍園の言葉に、石崎は口を閉じた。
少し離れた場所では、アルベルトが無言のまま龍園を見ている。
伊吹は最初から協力するつもりがなく、龍園たちの少し後ろを歩いていた。
「くだらない」
伊吹が言った。
龍園が振り返る。
「何がだ」
「オタクも、それを狩るとか言ってるあんたも、どっちもくだらない」
「なら帰れ」
「言われなくても、こんなのに付き合う気はないわよ」
伊吹は踵を返した。
龍園は止めなかった。
伊吹が命令へ素直に従わないことは、いつものことだった。
ただし、龍園の行動は、彼自身が考えていたより早く綾小路クラスへ伝わった。
その日の放課後、軽井沢は教室へ戻ってくるなり、不満を隠さずに鞄を机へ置いた。
「本当に最悪なんだけど」
佐藤と松下も一緒だった。
「何かあったの?」
櫛田が尋ねる。
「龍園くんたちが、アニメショップの前で人に絡んでるの」
「龍園くんが?」
「グッズ持ってる子を見つけると、わざわざ近づいて馬鹿にしてる。
あたしたちにも何か言ってきたし」
堀北は読んでいた漫画を閉じた。
「あなたたちに何を言ったの?」
「そんなもの買って喜んでる暇があるなら、少しは現実を見ろって」
「間違っているとは言い切れない部分もあるわね」
「ちょっと、堀北さんまで何言ってるの?」
「趣味へ時間やポイントを使いすぎて、生活へ影響が出るなら問題でしょう」
「そこまで使ってないから」
軽井沢は不満そうに答えた。
「それに、あいつらだって意味もなく人を脅してるじゃん。現実見た方がいいのはどっちなの」
その点については、堀北も否定しなかった。
池は話を聞きながら、明らかに怯えた様子を見せていた。
「龍園が本気で始めたなら、しばらくグッズ持ち歩かない方がいいかもな」
外村も眼鏡を押し上げながら、普段より小さな声で答える。
「拙者も、限定キーホルダーは部屋へ置いておくことにするのでござる」
「どうして隠す必要があるの?」
櫛田が尋ねた。
「でも、龍園くんたちに目をつけられるのは怖いよね」
佐藤が言う。
楽しむために始まった話題が、いつの間にか恐怖と結びついている。
その変化は、ブームが到来する前より悪いものだった。
以前は、単に周囲の理解が得られない可能性を考え、趣味を隠す生徒が多かった。
今は、誰かに否定されることが分かっているため、意識的に黙ろうとしている。
「このまま放置するつもり?」
軽井沢が堀北へ尋ねる。
「私に聞かれても困るわ」
「クラスのリーダーみたいなことしてるじゃん」
「私は正式なリーダーではないし、龍園くんの行動を止める権限もないわ」
「先生に言う?」
櫛田が提案する。
「明確な規則違反がなければ、注意だけで終わる可能性が高いでしょう」
堀北は冷静に状況を整理した。
「それに、龍園くんは教師が動ける限界を理解しているはずよ。
直接物を奪ったり、怪我をさせたりはしていないのでしょう?」
「今のところはね」
軽井沢は納得していなかった。
オレは席へ座ったまま、話を聞いていた。
龍園の狙いは分かりやすい。
アニメやゲームを嫌っているからではなく、
自分の知らないところで学校の人間関係が変化することを嫌っている。
自分が支配できない価値観を、力によって押さえ込もうとしている。
「綾小路くんはどう思うの?」
軽井沢がこちらへ視線を向けた。
「龍園の行動は長く続かないと思う」
「どうして?」
「対象が多すぎるからだ」
現在、アニメやゲームへ興味を持っている生徒は、一つのクラスや学年に限られていない。
龍園が何人かを脅したところで、すべての生徒を黙らせることはできない。
「でも、怖がってる子はいるじゃん」
「龍園が目的を達成したと実感すれば、さらに行動を広げる可能性はある」
「だったら早く止めないと駄目じゃない」
軽井沢の言う通りだった。
放置すれば、龍園は相手の反応を見ながら行動を強める。
「龍園くんへ直接話す必要があるわね」
堀北が言った。
「私が行く」
「一人で行くのか」
オレが尋ねる。
「話し合いをするだけよ」
「相手が話し合うつもりならな」
「だからといって、最初から力で解決するわけにはいかないでしょう」
堀北は立ち上がり、鞄を持った。
「オレも行く」
「必要ないわ」
「龍園が話し合いに応じない場合、お前一人では不利だ」
堀北は反論しようとしたが、龍園の性格を考えれば否定できなかったらしい。
「分かったわ。ただし、先に手を出すような真似はしないで」
「そのつもりだ」
オレと堀北が教室を出ようとすると、軽井沢と櫛田もついてこようとした。
「あなたたちは残っていて」
堀北が止める。
「でも」
「人数を増やせば、龍園くんも周囲へ見せるために引けなくなる可能性があるわ。
話し合いをするなら、必要以上に相手を刺激するべきではない」
軽井沢は不満そうだったが、櫛田に宥められ、教室へ残ることになった。
龍園の居場所を探す必要はなかった。
放課後のアキバモール前へ行けば、龍園は自分から姿を見せる。
注目を集め、周囲へ自分の存在を意識させることも、
今回の行動の目的に含まれているからだ。
モールへ到着すると、入口付近には小さな人だかりができていた。
中心には龍園と石崎、アルベルトがいる。
囲まれているのは、同じ学年の男子生徒二人だった。
一人は紙袋を抱え、もう一人はプラモデルらしき箱を持っている。
「だからよ、そんなもん抱えて歩いてんのが目障りだって言ってんだ」
龍園は笑いながら言った。
「俺たちが何を買っても関係ないだろ」
男子生徒の一人が勇気を出して反論した。
「口答えできるようになったじゃねぇか」
龍園が一歩近づくと、男子生徒は反射的に後退した。
「やめなさい、龍園くん」
堀北の声が通路へ響いた。
周囲の視線が一斉にこちらへ集まる。
龍園はオレと堀北を見つけ、面白そうに笑った。
「姫様の登場か」
堀北の眉が僅かに動いた。
「その呼び方をしないで」
「今じゃ学校中で呼ばれてんだろ。人気者になれて良かったじゃねぇか」
「あなたに心配されることではないわ」
堀北は龍園の前まで進んだ。
囲まれていた生徒たちは、その隙に距離を取った。
「オタク狩りなどと呼ばれる行為を、今すぐやめなさい」
堀北は正面から告げた。
「命令か?」
「警告よ。あなたたちの行動によって、学校生活へ悪影響が出始めているわ」
「俺は目障りな連中に、少し現実を教えてやってるだけだ」
「他人の趣味を否定することの、どこが現実なの?」
「集団の中で笑われるような趣味を、堂々と晒せばどうなるかって話だ」
「現在は、笑っている生徒より楽しんでいる生徒の方が多いでしょう」
堀北は周囲を見渡した。
アキバモールへ集まっている生徒の多くは、龍園へ不満の視線を向けている。
以前なら、龍園が人を囲んでいても、関わらないように通り過ぎる生徒が多かった。
しかし今は、自分たちの趣味や友人を否定されているため、無関心ではいられない。
「お前は数の話をしてんのか?」
龍園は笑った。
「周囲に同じ連中が増えたから、自分たちが正しいと勘違いしてやがるだけだろ」
「正しいかどうかではないわ。学校の規則を守っている限り、
何を楽しむかは本人の自由でしょう」
「自由ねぇ」
龍園は堀北の鞄へ視線を向けた。
そこには、アニメショップで購入した小さなキャラクターのキーホルダーがついていた。
軽井沢たちから贈られたものであり、
堀北は最初こそ外そうとしていたが、最近はそのまま使っている。
「鈴音ぇ。お前も随分と変わったじゃねぇか」
「何が言いたいの?」
「少し前まで、こういうもんを一番くだらねぇと思ってた側だろ」
「興味を持った結果、評価が変わることはあるわ」
「周りに流されただけじゃねぇのか?」
堀北はすぐに答えなかった。
その問いは、彼女自身が何度か考えてきたものだったのかもしれない。
アニメを見るようになったのは、櫛田や軽井沢に勧められたからだ。
漫画を読み始めたのは、須藤から渡されたからだった。
美少女ゲームを体験したのも、白石から誘われたことがきっかけだった。
しかし、きっかけが他人から与えられたことと、自分の意思で楽しむことは矛盾しない。
「最初のきっかけは周囲だったかもしれないわ」
堀北は静かに答えた。
「でも、今も続けているのは私自身の判断よ」
「姫様が立派なオタクになったってことか」
「あなたの基準でどう呼ばれても構わないわ」
堀北は龍園から目を逸らさなかった。
以前の彼女なら、オタクという言葉を自分へ向けられただけで強く否定していただろう。
しかし今は、完全ではないにせよ、自分が作品を楽しんでいることを認め始めている。
龍園は堀北の変化を面白く思わなかったらしい。
笑みを消し、今度はオレへ視線を向けた。
「それで、お前は姫様の護衛か?」
「話し合いが終われば帰るつもりだ」
「終わらなかったら?」
「別の方法を考える」
龍園は口元を歪めた。
「相変わらず気に入らねぇ言い方をするな」
「オレも一つ聞きたい」
「何だ?」
「お前は、本当にアニメやゲームが嫌いなのか」
龍園の目が僅かに細くなった。
「くだらねぇ質問だ」
「答えになっていない」
「興味がねぇ。それで十分だろ」
「興味がない人間は、ここまで執着しない」
周囲が静かになった。
石崎は龍園の顔を窺い、アルベルトも黙ったままこちらを見ている。
「何が言いてぇ」
「お前が嫌っているのは作品じゃない。
自分が知らない話題で、他人が盛り上がっている状況だ」
龍園の表情から笑みが消えた。
「自分が輪の外側にいることが気に入らない。
だから、作品を楽しむ人間を黙らせて、以前の力関係へ戻そうとしている」
「随分と分かったような口を利くじゃねぇか」
「違うなら否定すればいい」
龍園は答えなかった。
図星だったかどうかは分からない。
ただし、完全に見当違いなら、龍園は笑って否定したはずだった。
「お前も、昔は何か好きだったんじゃないか」
オレは続けた。
「子どもの頃、理由もなく夢中になったものがあったはずだ」
「ねぇよ」
龍園は即座に否定した。
しかし、その返答は僅かに早すぎた。
「本当に?」
堀北も気づいたらしい。
龍園は舌打ちをした。
「くだらねぇ昔話をしに来たなら帰れ」
「オタク狩りをやめるなら帰る」
「断る」
龍園は一歩前へ出た。
石崎が慌てた様子を見せる。
「龍園さん、ここでやるのはまずいんじゃないっすか」
「黙ってろ」
「でも、人も多いっすよ」
「見てる連中が多い方が都合がいい」
龍園は周囲へ聞かせるように言った。
「綾小路。お前をここで叩き潰せば、
くだらねぇ流行に乗ってる連中も少しは静かになるだろ」
「喧嘩で趣味の価値を決めるつもりか」
「連中が頼ってんのは、結局お前みてぇな力のある人間だろ。
守る奴がいなくなれば、すぐに黙る」
龍園の考え方は一貫していた。
人間は力によって支配できる。
恐怖を与えれば、価値観さえ変えられる。
オレは鞄を堀北へ渡した。
「綾小路くん」
「短時間で終わらせる」
「私は喧嘩をしろと言ったつもりはないわ」
「龍園は話し合いを終えたらしい」
堀北は不満そうだったが、鞄を受け取った。
周囲の生徒たちが距離を取り、通路の中央に空間が生まれる。
アキバモールの職員や教師が来る前に終わらせる必要がある。
龍園は上着を脱ぎ、石崎へ投げた。
「綾小路、今日は逃がさねぇぞ」
「逃げたことはないと思うが」
「その余裕が気に入らねぇ」
龍園が先に動いた。
迷いのない踏み込みだった。
正面から距離を詰め、オレの顔へ拳を伸ばしてくる。
速さも力も、一般の生徒と比べれば高い。
ただし、龍園は勝つことだけを考えていない。
周囲へ自分の強さを示し、相手が恐れる様子を見せることも重視している。
そのため、攻撃は大きく分かりやすい。
オレは体を僅かにずらし、拳を避けた。
龍園はすぐに反対の手を振るう。
それも受け流し、距離を取る。
「避けてるだけか?」
龍園は挑発するように笑った。
「まだ始まったばかりだ」
「なら、さっさと来い」
龍園が再び踏み込む。
今度は上半身への攻撃を見せた後、足を狙って体勢を崩そうとしてきた。
以前より工夫している。
オレとの戦いを想定し、単純な殴り合いでは勝てないと理解しているらしい。
だが、攻撃の意図は動き出す前に見えていた。
オレは足を引き、龍園の腕を掴んだ。
勢いを利用して体の向きを変え、床へ投げる。
龍園は完全に倒れる前に手をつき、すぐに立ち上がった。
周囲から小さなどよめきが起きる。
「やるじゃねぇか」
龍園は口元を歪めた。
負ける可能性を感じても、恐怖より興奮が勝っている。
龍園の厄介な点は、痛みや不利な状況を理由に戦意を失わないことだった。
むしろ追い詰められるほど、相手がどこまで強いのか知ろうとする。
「まだ続けるのか」
「当然だろ」
龍園は今度こそ力任せに来なかった。
左右へ細かく動き、こちらの反応を見ながら距離を詰める。
一度目より慎重だ。
しかし、慎重になるほど、龍園の本来の強みである勢いは失われる。
オレは龍園が踏み込む瞬間に先へ動き、肩へ手を添え、体勢を崩した。
龍園の足が止まる。
そのまま腕を制し、床へ押さえる。
龍園は力で抜けようとしたが、
関節の向きと体重のかかり方を利用すれば、筋力だけでは動けない。
「終わりだ」
オレは静かに告げた。
龍園は床へ押さえられたまま、しばらく抵抗していた。
やがて、自分の力では抜けられないと理解したらしい。
「相変わらず、化け物みてぇな奴だな」
龍園は苦笑した。
「負けを認めるか」
「俺が一度倒されたくらいで、考えを変えると思うか?」
「なら、何度でも同じ結果になる」
「言ってくれるじゃねぇか」
オレは龍園の腕を離し、距離を取った。
龍園は床へ座ったまま、周囲を見渡した。
大勢の生徒が、この戦いを見ていた。
ただし、龍園が期待していたような恐怖は広がっていない。
龍園が敗れたことへの驚きはある。
しかし、生徒たちの表情には、龍園の支配から解放された安堵も見えた。
自分が負ければ、オタク文化を楽しむ生徒たちが黙る。
龍園はそう考えていた。
現実は逆だった。
龍園の敗北によって、生徒たちは恐れる必要がないと感じ始めている。
「龍園」
オレは声をかけた。
「お前が負けても、誰もアニメを見ることをやめない」
「そうみてぇだな」
「お前が勝っても同じだったと思う」
龍園は床から立ち上がり、服についた埃を払った。
「なぜそう思う」
「好きなものを一度知った人間は、脅されただけで完全に嫌いにはならない」
表向きには隠すかもしれない。
話すことをやめるかもしれない。
しかし、部屋へ戻れば作品を見て、ゲームを遊び、本を読む。
龍園が消せるのは、目に見える行動だけだ。
人間の中に生まれた感情までは消せない。
「お前がやっていることに意味はない」
オレが言うと、龍園はしばらく黙っていた。
「意味がない、か」
龍園はアキバモールの大型画面へ視線を向けた。
先ほどと同じロボットアニメの映像が流れている。
主人公たちは、何度倒されても立ち上がり、仲間のために敵へ向かっていた。
「龍園さん」
石崎が恐る恐る声をかけた。
「どうします?」
「知るか」
龍園は短く答えた。
しかし、以前のように周囲の生徒へ威圧的な視線を向けることはなかった。
その日のオタク狩りは、龍園の敗北によって終わった。
翌日以降、龍園クラスの男子生徒がアニメグッズを持つ生徒へ絡むこともなくなった。
龍園から明確な命令が出たわけではない。
ただ、中心にいた龍園自身が動かなくなったことで、他の生徒たちも続ける理由を失った。
学校の空気は、少しずつ元へ戻っていった。
それから三日後。
オレと堀北は、放課後のアキバモールを歩いていた。
堀北は新しく発売された漫画を買うため、
オレはひよりから勧められたライトノベルを探すために来ている。
模型店の前を通りかかった時、見覚えのある男がショーケースを眺めていた。
龍園だった。
一人ではない。
石崎、伊吹、アルベルトも近くにいる。
「珍しい組み合わせね」
堀北が小声で言った。
「普段と同じ四人だと思うが」
「場所の話よ」
龍園がいるのは、プラモデルの完成品が並ぶコーナーだった。
巨大な人型兵器、戦闘機、車、建物など、さまざまな模型が展示されている。
その中央には、アキバモールの大型画面で流れていたロボットアニメの主役機が置かれていた。
龍園は腕を組み、無言でそれを見ている。
「何をしているの?」
伊吹が呆れたように尋ねた。
「別に」
「十分くらい同じものを見てるけど」
「形が悪くねぇと思っただけだ」
「買えば?」
「誰がこんなガキの玩具を買うか」
龍園はそう答えた。
しかし、ショーケースから離れようとはしない。
石崎は少し離れた場所で、ラジコンカーの展示を見ていた。
実際の競技車両を小さく再現したもので、店内の試走スペースでは見本が走っている。
石崎の視線は、その動きを追い続けていた。
「石崎、お前まで何見てやがる」
龍園に声をかけられ、石崎は慌てて振り返った。
「いや、別に見てないっすよ」
「目で追ってただろ」
「ちょっと速ぇなと思っただけっす」
「欲しいなら買えば?」
伊吹が言う。
「俺、こういうの子どもの頃に少しやったことがあるんすよ。すぐ壊しちまったけど」
「だから何だ」
「今ならもう少し上手く走らせられるかなって」
石崎は試走するラジコンを見ながら答えた。
以前のオタク狩りの時とは異なり、誰も石崎を馬鹿にしなかった。
龍園も鼻で笑うだけで、それ以上何も言わない。
アルベルトは、いつの間にか鉄道模型のコーナーへ移動していた。
大きな体を屈め、小さな町並みを再現した展示を静かに眺めている。
線路の上では短い列車が走り、駅へ到着するとゆっくり速度を落とした。
街灯が点灯し、住宅の窓から小さな光が漏れている。
アルベルトは無言だった。
ただし、その目は普段より明らかに穏やかだった。
「アルベルト、それが気になるの?」
伊吹が尋ねる。
アルベルトは静かに頷いた。
「国旗以外にも鉄道が好きだったの?」
もう一度頷く。
「初耳なんだけど」
アルベルトは小さく肩をすくめた。
話す機会がなかっただけらしい。
伊吹は三人を順番に見た後、呆れたように息を吐いた。
「何なのよ。全員、結局興味あるんじゃない」
「お前は何もねぇのか」
龍園が尋ねた。
「ないわよ」
伊吹は即答した。
その時、隣のカードゲーム専門店から大きな声が聞こえた。
「よし、これで逆転!」
対戦卓を囲んでいた生徒たちが盛り上がっている。
伊吹は反射的にそちらへ視線を向けた。
店内では、カードを使った対戦が行われていた。
単純に強いカードを出し合うだけではなく、
手札や場の状況を読み、相手の動きを予測しながら進めるらしい。
「気になるんじゃねぇか」
龍園が笑う。
「見ただけよ」
「俺たちと同じ言い訳だな」
「一緒にしないで」
伊吹は不機嫌そうに答えたが、店内から視線を外さなかった。
オレと堀北が近づくと、龍園がこちらへ気づいた。
「何だ。笑いに来たのか?」
「まだ何も言っていない」
「顔に出てんぞ」
「お前ほどではないと思う」
龍園は舌打ちした。
堀北はショーケースと龍園を交互に見た。
「興味があるなら、素直に認めればいいでしょう」
「姫様に言われたくねぇな」
「その呼び方をやめなさい」
「お前も最初は、漫画を読んでるだけだ、学習してるだけだって言い張ってただろ」
堀北は一瞬黙った。
龍園はその反応を見て笑った。
「図星か」
「少なくとも、私は人の趣味を否定した直後に同じ店へ来たりはしなかったわ」
「言ってくれるじゃねぇか」
二人はしばらく睨み合った。
しかし、以前のような敵意は薄い。
「なぜ急に興味を持った」
オレが尋ねると、龍園は再びロボット模型へ視線を向けた。
「昔、少し見てた」
「何を?」
「これの古いシリーズだよ」
龍園は展示された機体を顎で示した。
「子どもの頃、夕方に放送してた。毎週見てた時期がある」
「アニメが好きだったのか」
堀北が意外そうに尋ねる。
「昔の話だ」
「昨日は、何もなかったと言っていたな」
オレが指摘すると、龍園は不機嫌そうにこちらを見た。
「いちいち覚えてんじゃねぇ」
「なぜ見るのをやめた」
「そのうち、周りが子どもっぽいって言い始めた。
俺も興味がなくなったふりをした。それだけだ」
龍園は淡々と答えた。
しかし、本当に興味を失っていたなら、
何年も経った後に展示を見て立ち止まることはなかっただろう。
自分が馬鹿にされる側へ回ることを嫌い、先に趣味を捨てた。
今回オタク狩りを始めた理由の一部は、そこにあったのかもしれない。
自分が昔隠したものを、現在の生徒たちは堂々と楽しんでいる。
その姿が、龍園には気に入らなかった。
「羨ましかったのかもしれないな」
オレが言うと、龍園の視線が鋭くなった。
「誰がだ」
「自分が捨てたものを、他人が楽しんでいることが」
「勝手なことを言うな」
「違うなら、それでいい」
龍園は反論しなかった。
しばらくして、店員がロボット模型の箱を棚へ補充した。
龍園が見ていた完成品と同じ機体だった。
「買うんですか?」
石崎が尋ねる。
「買わねぇ」
龍園は即答した。
その数分後、龍園は同じ箱をレジへ持っていった。
石崎が驚いたように見ている。
「買わないんじゃなかったんすか」
「うるせぇ。構造を確認するだけだ」
「作るんすよね?」
「箱を開けなきゃ確認できねぇだろ」
「作るんじゃないですか」
「石崎」
龍園が低い声で呼ぶと、石崎は口を閉じた。
その日のうちに、石崎もラジコンを一台購入した。
アルベルトは、小さな鉄道模型の基本セットを無言で選んだ。
伊吹だけは、最後まで何も買わないと言い張っていた。
しかし、帰る直前にカードショップへ入り、初心者向けの構築済みデッキを一つ手に取った。
「見るだけじゃなかったのか」
龍園が尋ねる。
「ルールを理解しないまま馬鹿にするのは、あんたと同じになるからよ」
「立派な言い訳だな」
「一回黙りなさい」
伊吹はデッキを抱えたまま、龍園を睨んだ。
◯
その夜。
龍園の部屋では、購入したプラモデルの箱が机の上へ置かれていた。
最初は説明書通りに組み立てるだけのつもりだった。
しかし、部品を一つずつ確認しているうちに、
龍園は機体の細かな構造へ興味を持ち始めた。
完成品と同じ形にするだけでは満足できず、
より自分の好みに近い姿へ変えられないか考え始める。
以前アニメを見ていた頃、画面の中で活躍する機体を手元へ置きたいと思ったことがあった。
当時は、周囲から子どもっぽいと言われ、その気持ちを捨てた。
今は、誰かへ許可を求める必要はない。
龍園は説明書へ視線を落としながら、僅かに笑った。
数日後には、龍園の机へ模型用の工具や塗料が並び始めた。
プラモデルだけでは終わらず、展示用のエアガンにも興味を持つようになり、
外観や付属品の違いを眺めながら、
自分の好みに合う一丁を選ぶことへ時間を使うようになった。
本人は、機械としての形や構造が気になるだけだと言い張っている。
しかし、部屋の棚には完成した模型が一体ずつ増え、
エアガンも安全に保管された状態で丁寧に手入れされていった。
石崎は、放課後になるとモール近くの許可されたスペースでラジコンを走らせるようになった。
最初は操作が荒く、曲がり切れずに何度も障害物へぶつけていた。
そのたびに伊吹から笑われたが、石崎は諦めず、少しずつ操作を覚えていった。
「今度はちゃんと曲がれた!」
石崎は嬉しそうに声を上げた。
「一周しただけで大騒ぎしないで」
伊吹はカードを整理しながら答える。
「伊吹だって、毎日カード見てるじゃねーか」
「毎日じゃない」
「昨日も見てたじゃん」
「対戦相手のデッキを研究してただけよ」
「十分ハマってるじゃねーか」
伊吹は反論の代わりに、石崎へ冷たい視線を向けた。
彼女はカードゲームを始めてから、短期間でルールを覚えた。
勝敗が運だけで決まらず、相手の手札や行動を予測し、
限られたカードで状況を組み立てる部分が、伊吹の負けず嫌いな性格に合っていた。
最初は初心者向けのデッキをそのまま使っていたが、
数日後には不足しているカードを考え、構成を変更し始めている。
堀北や櫛田が興味を示すと、伊吹は二人へ勝つための準備まで始めた。
「初心者相手に本気を出すつもり?」
堀北が尋ねる。
「勝負するなら手を抜く理由はないでしょ」
「まだルールを教わっている段階なのだけれど」
「だから今のうちに覚えなさい」
「教える側の態度ではないわね」
二人はカードを挟み、すぐに言い争いを始めた。
一方、アルベルトは自室の大きな机へ線路を敷き、小さな駅と住宅を並べていた。
巨体からは想像しにくいほど繊細な手つきで、
建物の位置を調整し、列車が滑らかに走ることを確認する。
石崎が部屋を訪れた時、完成途中の町並みを見て驚いた。
「アルベルト、すげぇな」
アルベルトは静かに頷いた。
「これ、全部自分で置いたのか?」
もう一度頷く。
列車が駅へ近づき、ゆっくり停車する。
アルベルトはその様子を見ながら、僅かに口元を緩めた。
石崎が車両へ手を伸ばそうとすると、アルベルトの大きな手が静かに前へ出た。
触るなという意味だった。
「分かった。触らねぇから、そんな怖い顔すんなよ」
アルベルトは表情を変えていない。
しかし、石崎には強い圧を感じたらしい。
龍園クラスの四人は、以前と変わらず一緒に行動していた。
ただし、放課後の過ごし方は大きく変わった。
龍園は模型店で新しいプラモデルを眺め、
石崎はラジコンの部品や新しい車体を見て回る。
アルベルトは鉄道模型の売り場で建物や車両を選び、
伊吹はカードショップで対戦相手を探す。
四人が同じ場所へ来ても、全員が別の売り場へ向かう。
それでも、帰る時間になれば自然と合流し、
その日に見つけたものについて話すようになった。
「龍園さん、また模型買ったんすか」
石崎が紙袋を見ながら尋ねる。
「こいつは前のやつと違う」
「俺には同じロボットに見えるっすけど」
「頭部も武装も違うだろうが」
「細けぇっす」
「お前のラジコンだって、前のと何が違う」
「こっちは走りが全然違うんすよ」
「同じに見えるな」
「さっき自分が言われて怒ったこと、すぐ人にやるのやめてもらえます?」
伊吹が呆れたように言った。
龍園は伊吹が持つカードの袋へ目を向けた。
「お前もまた買ってんじゃねぇか」
「必要なカードが入ってるかもしれないからよ」
「入ってなかったら?」
「次を考える」
「店の思う壺だな」
「プラモデルを何箱も積んでる人に言われたくないわ」
龍園と伊吹が睨み合い、石崎が笑う。
アルベルトは小さな鉄道模型の袋を大切そうに持ちながら、三人の後ろを歩いていた。
オタク狩りを始めた龍園は、綾小路に敗れた。
ただし、力で負けたから仕方なく趣味を認めたわけではない。
他人の楽しみを消そうとしても、その中に生まれた感情までは消せないことを知った。
同時に、自分の中にも、過去に捨てたまま残っている熱があることを思い出した。
以前の龍園なら、その感情を弱さとして切り捨てていたかもしれない。
現在の龍園は違った。
誰かに笑われることを恐れて、自分が好きだったものを再び捨てるつもりはない。
◯
ある日の放課後。
オレと堀北がアキバモールを歩いていると、模型店の前で龍園たちとすれ違った。
龍園の手にはプラモデルの箱があり、石崎はラジコン、
アルベルトは鉄道模型、伊吹はカードの束を持っている。
堀北は四人の姿を見て、僅かに目を細めた。
「随分と変わったものね」
「誰の話だ?」
龍園が立ち止まる。
「オタク狩りを始めた人が、今では誰より大きな箱を抱えていることについてよ」
「勘違いすんな」
龍園は箱を肩へ担いだ。
「俺は遊んでるんじゃねぇ。こいつがどこまで仕上がるか試してるだけだ」
「プラモデルを作って遊ぶことを、別の言葉へ置き換えているだけではないの?」
「お前の漫画の戦術分析と同じだ」
堀北は言葉を止めた。
龍園は勝ち誇ったように笑った。
「人のことは言えねぇな、姫様」
「その呼び方をやめなさい」
二人のやり取りを聞きながら、石崎がオレへ小声で話しかけた。
「龍園さん、昨日なんか夜中まで作ってたらしいっすよ」
「石崎」
「何でもないっす」
石崎はすぐに口を閉じた。
「綾小路」
龍園がオレを見た。
「何だ」
「今度、完成したら見せてやる」
「そうか」
「勘違いすんなよ。お前に褒めてもらいてぇわけじゃねぇ」
「まだ何も言っていない」
「その顔が気に入らねぇ」
龍園は不機嫌そうに言いながら、以前よりどこか楽しそうだった。
オタク狩りによってアニメブームを終わらせようとした龍園は、
結果として自分自身が新しい趣味を見つけることになった。
石崎も、アルベルトも、伊吹も同じだった。
誰かに与えられた流行へ無条件に従ったわけではない。
それぞれが自分に合うものを見つけ、自分の意思で手を伸ばした。
アニメやゲームを好きになる形は、一つではない。
映像を見続ける者もいれば、物語を読む者もいる。
模型を作り、機械を動かし、カードで競い、小さな町を机の上へ築く者もいる。
重要なのは、誰かと同じものを好きになることではなかった。
自分が何を面白いと思うのかを知り、それを隠さず楽しめることだった。
龍園たちが去った後、堀北はその背中を見ながら静かに言った。
「龍園くんまで変わるとは思わなかったわ」
「変わったというより、元に戻ったのかもしれない」
「子どもの頃の自分に?」
「ああ」
龍園は新しい趣味を得たのではなく、過去に捨てた熱を拾い直した。
そして、学校全体を包むアニメブームは、
反対していた人間さえ巻き込みながら、さらに大きく広がっていった。