[第一章]まだ揺れない心臓
シェイクユアハートが宮田先生の寮に来た日、彼女は自分が「お嬢様」と呼ばれる理由を、たぶん半分も分かっていなかった。
春の光が、寮の玄関前にゆるく落ちていた。
植え込みの若葉はまだ薄く、風が吹くたびに、どこか遠慮がちに揺れている。
その中を、栗色の長い髪を揺らして、一人のウマ娘が立っていた。
前髪には白いひと房。大きな耳は、初めての場所を探るようにぴこりと動いている。
身につけた制服はきちんとしているのに、本人の雰囲気はどこか眠たげで、荷物を持つ手つきもゆっくりしていた。
「ほわ~……ここが、宮田先生の寮ですかぁ……」
そう言って、彼女は玄関の表札を見上げた。
シェイクユアハート。
名を聞けば、競馬を知る者なら少し姿勢を正す。
親は名のある家の人間で、周囲は当然のように期待した。
いい環境で育ち、いい血を持ち、いい先生のもとへ来た。ならばきっと、大きな舞台へ行くのだろう、と。
だが、当の本人は表札の横に咲いた小さな花を見つけて、ほわりと笑っていた。
「かわいいですねぇ……」
「表札より先に花を見るんやな」
背後から声がした。
振り向くと、少し年季の入った男が立っていた。宮田先生だった。
目元はやわらかいが、視線はよく通る。シェイクの耳、肩、足元、荷物の持ち方まで、一瞬で見た。
「シェイクユアハートですぅ。今日からお世話になります」
シェイクはゆっくり頭を下げた。
所作はきれいだった。ふわふわしているのに、雑ではない。育ちのよさというものは、本人が隠そうとしても指先に出る。
宮田先生は、少しだけ口元を緩めた。
「宮田です。まあ、堅くならんでええ。ここは走る場所やけど、帰ってくる場所でもあるからな」
「帰ってくる場所……」
シェイクはその言葉を、舌の上で転がすように繰り返した。
「はいぃ。覚えましたぁ」
「ほんまに覚えたか?」
「たぶん……」
「そこは言い切ってほしかったな」
宮田先生は苦笑して、玄関の扉を開けた。
寮の中から、シューズの音、誰かの笑い声、廊下を走って怒られる声が漏れてきた。外から見るより、ずっと生きている場所だった。
シェイクは一歩、寮の中へ入った。
床の匂い。洗濯物の匂い。どこかから漂ってくる味噌汁の匂い。
きれいな屋敷とは違う。飾られた応接間とも違う。ここには、毎日使われている場所の匂いがあった。
「ほわ~……」
「何や」
「ごはんの匂いがしますぅ……」
「そこか」
宮田先生は呆れたように言ったが、声は優しかった。
廊下を進む途中、何人かのウマ娘がシェイクを見た。
新入りだ。
あれがシェイクユアハートか。
親がすごいらしい。
名家のお嬢様だって。
小さな声が、風の端みたいに耳へ届く。
シェイクはそれを、聞いているのか聞いていないのか、曖昧な顔で通り過ぎた。
ただ一度だけ、耳が少し伏せた。
宮田先生はそれを見逃さなかった。
「気になるか?」
「え?」
「いろいろ言われるやろ。親のこととか、家のこととか」
シェイクは少し考えた。
考えている間も、視線は廊下の掲示板に貼られた今週の予定表をふわふわ眺めている。
「ん~……よく言われますけどぉ……」
「けど?」
「それで速く走れるなら、便利ですねぇ」
宮田先生は一瞬黙った。
それから、喉の奥で短く笑った。
「おもろい子やな」
「ほわ?」
「いや、ええ。そういうままでおったらええ」
そういうまま。
それがどういう意味なのか、シェイクにはまだ分からなかった。
ただ、宮田先生の声に責める響きがなかったので、少し安心した。
その日の午後、シェイクは初めての軽い調整を受けた。
走ると言っても、本格的なものではない。
寮の環境に慣れるため、身体をほぐし、反応を見る程度。シェイクは言われた通りに体を動かした。
特別に速いわけではない。少なくとも、初見で周囲が息を飲むような派手さはなかった。
けれど、最後の一歩だけが少し違った。
合図が出た瞬間、シェイクの目から眠たげな膜が消えた。
足先が地面を拾う。
重心が沈み、次の瞬間には、ふわふわしていたはずの身体が迷いなく前へ出た。
ほんの数秒。
それだけで、宮田先生は腕を組んだ。
「……なるほどな」
隣にいた若いトレーナーが、同じようにシェイクを見ていた。
藤川兄トレーナーだった。
フリーのトレーナーで、宮田先生の寮に所属しているわけではない。
けれど、弟がこの寮に長く関わっていた縁で、彼もよく顔を出していた。
穏やかな関西弁を話し、誰に対しても言葉が柔らかい。若いウマ娘たちからの評判もよかった。
「かわいらしい子ですね」
藤川兄トレーナーは、そう言った。
「かわいらしいだけなら、ここには来てへん」
「それはそうです」
彼は微笑んだまま、シェイクの走り終えた姿を見ていた。
シェイクは息を整えながら、空を見上げていた。
苦しそうではない。
かといって、楽そうでもない。
ただ、何かを終えたあとみたいに、ぽつんと立っている。
「勝負どころだけ、目が変わりましたね」
藤川兄トレーナーが言った。
宮田先生は頷いた。
「ぼーっとしとるようで、反応は悪くない。問題は、自分がそれを分かっとらんことやな」
「分かってへん子ほど、変に怖がらん場合もありますよ」
「それを良い方に使えたらな」
二人の視線の先で、シェイクがこちらに気づいた。
そして、ゆっくり手を振った。
「ほわ~……終わりましたぁ……」
宮田先生は声を張った。
「シェイク、こっち来い」
「はいぃ」
シェイクは駆け足というより、少し急いだ散歩のような足取りで戻ってきた。
藤川兄トレーナーの前で止まり、少し首を傾げる。
「こちらの方は……?」
「藤川兄トレーナーや。フリーやけど、うちにはよう来てもらっとる」
藤川兄トレーナーは軽く頭を下げた。
「初めまして、シェイク。藤川です。これから、何度か担当させてもらうことになると思います」
「担当……」
シェイクの耳がぴんと立った。
「トレーナーさん、ですかぁ?」
「はい。怖いことはしませんよ。まずは一緒に、レースってものを覚えていきましょう」
声がやわらかかった。
春の午後の光みたいに、急かさず、押しつけず、そこにある声だった。
シェイクはしばらく藤川兄トレーナーを見上げていた。
それから、ほわりと笑った。
「ほわ~……やさしいですねぇ……少女漫画みたいですぅ……」
宮田先生が咳き込んだ。
藤川兄トレーナーは困ったように笑った。
「それは、褒めてもらってるんですかね」
「たぶん……」
「たぶんですか」
「はいぃ」
そんなふうに、シェイクユアハートの最初の担当トレーナーは決まった。
名家の親を持つお嬢様。
ほわほわしていて、自分の期待の重さをうまく実感できていない子。
それでも、勝負どころだけ目が変わる子。
藤川兄トレーナーは、最初から急がせなかった。
フォームを整え、息の入れ方を教え、ゲートの音に慣らし、レースで誰かと並ぶ感覚を少しずつ覚えさせた。
「焦らんでええですよ、シェイク」
彼はよくそう言った。
「まずは、走ることを嫌いにならんことです」
シェイクはそのたびに、ゆっくり頷いた。
「はいぃ……走るのは、嫌いじゃないですぅ」
「それなら十分です」
「でも、みなさん速いですねぇ……」
「シェイクも速くなりますよ」
「ほわ~……そうですかねぇ……」
「なります」
藤川兄トレーナーは、迷わず言った。
シェイクは、少しだけ目を丸くした。
そんなふうにまっすぐ言われることに、まだ慣れていなかった。
「……じゃあ、なれるといいですぅ」
「はい。なりましょう」
その様子を、宮田先生は少し離れたところから見ていた。
扱いにくい子ではない。
気性が荒いわけでもない。
身体に問題があるわけでもない。
けれど、難しい子だと思った。
期待されることに鈍い。
自分の才能にも鈍い。
けれど、勝負の瞬間だけは妙に鋭い。
こういう子は、間違えるとぼんやりしたまま終わる。
だが噛み合えば、どこかで誰かの心臓を揺らす。
宮田先生は、寮の予定表に書かれたシェイクユアハートの名前を見た。
「……さて」
まだ、何も始まっていない。
デビューもしていない。
勝つことも、負けることも、悔しさも、喜びも、何も知らない。
シェイクユアハートは、夕方の坂路を藤川兄トレーナーと並んで歩いていた。
長い髪が風に揺れる。
耳が小さく動く。
本人は今日の晩ごはんのことを考えているような顔をしていた。
けれど宮田先生には、ほんの少しだけ聞こえた気がした。
まだ揺れていない心臓が、奥の方で静かに、最初の拍を待っている音が。