心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第十章]清滝の坂を越えて

秋のトレセンには、札幌とは違う忙しさがあった。

 

札幌の空は広かった。

風がまっすぐで、遠くを見ているだけで胸の奥がほどけるような日があった。

 

けれど、トレセンの秋はそうではない。

 

予定表が埋まる。

先生たちの声が早くなる。

調教の時計が細かくなる。

夏を越したウマ娘たちが、それぞれの次を目指して動き出す。

 

シェイクユアハートの次走は、清滝特別に決まった。

 

京都、芝2200。

二勝クラス。

 

札幌で一勝クラスを勝ったばかりのシェイクにとって、それは新しい段だった。

 

「ほわ~……二勝クラスですぅ……」

 

寮の部屋で、シェイクは予定表を見ながら呟いた。

 

机の向かいでは、タガノデュードが自分の資料をまとめていた。

同室になってから、部屋の空気は少し変わった。シェイクのメモは時系列順に並ぶようになり、札幌関係の紙は札幌フォルダにまとめられた。引き出しの奥には、札幌記念と書かれた夢の紙が、角をそろえてしまわれている。

 

デュードは顔を上げた。

 

「もう二勝クラスですか」

 

「はいぃ。札幌で勝ったのでぇ」

 

「順調ですね」

 

「順調……なんですかねぇ」

 

「順調ですよ。未勝利を勝って、一勝クラスを勝って、次が二勝クラス。現場的には工程が進んでます」

 

「工程……」

 

「基礎打って、足場組んで、次の階です」

 

「ほわ~……建設ですぅ……」

 

デュードはペンを回した。

 

「わたしはまだ未勝利の足場でごそごそしてますけどね」

 

軽く言ったつもりなのだろう。

けれど、その声には少しだけ硬さが混じっていた。

 

札幌で会った時から、デュードは同じことをよく言う。

 

わたしは能力上位馬じゃないからな~。

 

その言葉は、本人の照れ隠しであり、予防線であり、足場を低く組む癖でもあった。

 

シェイクは湯呑みを両手で持った。

 

「デュードさんも、上がりますぅ」

 

「ほわっと言い切りますね」

 

「言い切りますぅ」

 

「根拠は?」

 

「同室なのでぇ」

 

「それ、毎回根拠になります?」

 

「なりますぅ」

 

デュードは少し笑った。

 

「じゃあ、シェイクさんが清滝特別を勝ったら、同室補正ってことにします」

 

「勝てたら、ですぅ」

 

「勝ちに行くんですよね?」

 

シェイクは少しだけ黙った。

 

勝ちに行く。

 

未勝利の時は、藤川弟トレーナーにそう言われた。

札幌の一勝クラスでは、宮田先生に「気楽に勝ちに行け」と言われた。

 

そして今、古吉トレーナーとまた走る。

 

「はいぃ……勝ちに行きますぅ」

 

言ってから、胸の奥が少し鳴った。

 

デュードはその顔を見て、資料の端を揃えた。

 

「なら、大丈夫です。シェイクさん、ほわほわしてますけど、勝負どころになると顔が変わるので」

 

「デュードさん、見てるんですかぁ?」

 

「同室なので」

 

「ほわ~……同室補正ですぅ……」

 

清滝特別へ向かう前日、宮田先生はシェイクを呼んだ。

 

「状態は悪くない」

 

宮田先生は、いつものように資料を見ながら言った。

 

「札幌で勝ってから、気持ちが重くなってへん。身体も戻ってからしっかり動いとる」

 

「はいぃ」

 

「京都の2200や。大寒桜賞で2200は経験しとるが、あの時とは違う」

 

大寒桜賞。

 

春の扉が閉じたレース。

クラシックへ向かうかどうかを測り、四着に敗れた日。

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「春の2200とは、違いますかぁ?」

 

「違う。あの時のお前は、まだ春を見とった。今は札幌を勝って戻ってきたお前や」

 

「札幌を勝って戻ってきた、わたし……」

 

「せや」

 

宮田先生は少しだけ口元を緩めた。

 

「古吉さんと、もう一段上がれるか見る」

 

「古吉さん……」

 

「どうや。もうおっさんには慣れたか」

 

「慣れましたぁ」

 

「即答やな」

 

「おっさんですけど、走りやすいですぅ」

 

「それ、本人には言うなよ」

 

「もう言いましたぁ」

 

「言ったんか」

 

宮田先生は、呆れたように笑った。

 

「まあええ。今回も、全部持っていくな」

 

「速くなるものだけ、ですねぇ」

 

「そうや。春の四着は持っていってもええ。ただし、扉が閉じた方やなくて、2200を走った手触りの方や」

 

「手触り……」

 

「負けを、重りにするな。材料にしろ」

 

シェイクはゆっくり頷いた。

 

「材料にしますぅ」

 

京都へ向かう日、古吉トレーナーは相変わらずだった。

 

特別なことを言わない。

特別な顔もしない。

資料を見て、相手を確認して、シェイクの様子を見て、短く頷くだけ。

 

「調子は」

 

「悪くないですぅ」

 

「ええな」

 

「古吉さんは、緊張してますかぁ?」

 

「しとるで」

 

「いつも通りですねぇ」

 

「いつも通りや」

 

それだけで、シェイクは少し落ち着いた。

 

藤川兄トレーナーなら、やさしく背中を撫でるように言葉をくれる。

藤川弟トレーナーなら、まっすぐに勝ち筋を示してくれる。

岩橋トレーナーなら、勝負どころの熱を入れてくれる。

 

古吉トレーナーは、どれもしない。

 

ただ、シェイクの隣にいる。

 

それが、今のシェイクにはちょうどよかった。

 

清滝特別の日、京都は小雨だった。

 

空は低く、芝は少し湿っている。

札幌の広い空とはまったく違う。

風も、匂いも、足元の感触も違う。

 

「ほわ~……しっとりしてますぅ……」

 

パドックでシェイクが呟くと、古吉トレーナーが隣で言った。

 

「滑るなよ」

 

「はいぃ……現実的ですぅ……」

 

「現実やからな」

 

「古吉さん、少女漫画にはやっぱり出ませんねぇ」

 

「まだ言うとるんか」

 

「京都の雨なら出られるかもしれませんぅ」

 

「出んでええ」

 

シェイクは小さく笑った。

 

緊張はある。

勝ちたい気持ちもある。

けれど、心臓が先に走ってはいない。

 

デュードが言っていた。

 

工程が進んでいる。

 

基礎を打って、足場を組んで、次の階へ。

 

シェイクは、二勝クラスという次の階の前に立っていた。

 

「今日は」

 

古吉トレーナーが言った。

 

「前を見失うな」

 

「前……」

 

「後ろで構えすぎてもあかん。かといって、早く動きすぎても2200は最後がしんどい。前を見ながら、自分の脚を残す」

 

「はいぃ」

 

「大寒桜賞のことは覚えとるか」

 

「覚えてますぅ」

 

「あれを、怖がるために使うな」

 

「材料にしますぅ」

 

古吉トレーナーは少しだけ目を細めた。

 

「宮田先生に言われたな」

 

「はいぃ」

 

「ほな、それでええ」

 

ゲートへ向かう。

 

小雨の京都。

芝2200。

二勝クラス。

 

シェイクは、胸に手を当てた。

 

札幌で勝った心臓が鳴っている。

大寒桜賞で春の扉を見送った心臓も、まだそこにある。

けれど今日は、それが重りではない。

 

材料。

 

走るための材料。

 

ゲートが開いた。

 

シェイクは出た。

 

雨の芝は、乾いた札幌とは違う。

足元に少しだけ気を使う。

けれど、怖がりすぎるとリズムが崩れる。

 

古吉トレーナーの声が届く。

 

「そこでええ」

 

位置を取る。

 

前を見る。

下げすぎない。

急ぎすぎない。

 

一コーナー。

二コーナー。

 

流れは落ち着いているようで、簡単ではない。

京都の2200は、ただ長いだけではない。

どこで息を入れ、どこで前を見るか。

その一つずつが、最後の脚に残る。

 

シェイクは大寒桜賞を思い出した。

 

春。

中京。

四着。

足りなかった直線。

 

あの日は、クラシックの扉を見ていた。

今日は違う。

 

今日見ているのは、前の背中。

 

「シェイク」

 

古吉トレーナーの声。

 

「寝るなよ」

 

「はいぃ」

 

向こう正面で、シェイクは少しだけ耳を前へ向けた。

 

眠らない。

でも、力まない。

 

札幌で覚えたこと。

前走の負けを持っていくこと。

古吉トレーナーの声を足元の印にすること。

 

三コーナー。

 

前が動く。

 

シェイクの目が変わった。

 

ここ。

 

いや、まだ全部は使わない。

準備をする。

春の時より早く、でも焦らず。

札幌の時より長く、でも溜めながら。

 

「そろそろや」

 

古吉トレーナーの声。

 

シェイクは身体を起こした。

 

四コーナー。

 

前が見える。

外の進路もある。

内で粘る子もいる。

 

雨の芝を踏む。

脚は残っている。

 

「行こか」

 

古吉トレーナーが言った。

 

叫びではない。

合図だった。

 

シェイクは踏んだ。

 

直線。

 

雨の音が遠くなる。

スタンドの声も、芝を叩く音も、全部が少しだけ薄くなる。

 

前だけが、はっきり見える。

 

一頭を捕まえる。

もう一頭に並ぶ。

外から迫る気配がある。

けれど、今日は怯まない。

 

心臓が鳴る。

 

足と一緒に鳴る。

 

大寒桜賞で届かなかった2200。

札幌で掴んだ一勝クラス。

古吉トレーナーの、重すぎず軽すぎない言葉。

 

全部が、いま脚になっている。

 

「……ここですぅ」

 

シェイクは前へ出た。

 

ゴール板が近づく。

 

外から一頭が迫ってくる。

でも、シェイクは止まらない。

 

最後まで脚を使う。

 

ゴール。

 

一番前だった。

 

音が戻る。

 

雨。

歓声。

息。

心臓。

 

シェイクは、少し遅れて理解した。

 

「ほわ~……」

 

古吉トレーナーが来る。

 

「勝ったな」

 

「勝ちましたぁ……」

 

「二勝クラスや」

 

「はいぃ……二勝クラス、勝ちましたぁ」

 

「順調やな」

 

古吉トレーナーは何気なく言った。

 

順調。

 

その言葉は、シェイクの中で少し不思議に響いた。

 

新馬戦は八着だった。

春の扉は閉じた。

重賞では足りなかった。

札幌でようやく一勝クラスを掴んだ。

 

それでも今、古吉トレーナーは順調と言った。

 

「順調……」

 

「何や」

 

「順調って、こういう感じなんですねぇ……」

 

「知らんけど、勝ったんやから順調でええやろ」

 

「雑ですぅ……」

 

「ええやん」

 

シェイクは笑った。

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「今日も、かっこよかったですぅ」

 

「今日は“ちょっと”付かへんのか」

 

「はいぃ。今日は、付かないですぅ」

 

古吉トレーナーは、少しだけ黙った。

それから、雨の方を見た。

 

「……そうかい」

 

宮田先生は、戻ってきたシェイクを見て、静かに頷いた。

 

「よう勝った」

 

「はいぃ……勝てましたぁ」

 

「2200で勝ったのは大きい」

 

「春の2200は、材料になりましたぁ」

 

「そうか」

 

宮田先生は古吉トレーナーの方を見た。

 

「古吉さん、ありがとうございます」

 

「いえ。シェイクがよう走りました」

 

「古吉さんとやと、力が抜けるみたいやな」

 

「抜けすぎたら困りますけどね」

 

「そこは締めてください」

 

「ぼちぼちやります」

 

二人の会話を聞きながら、シェイクは胸に手を当てていた。

 

心臓はまだ鳴っている。

 

札幌記念の夢ほど大きな音ではない。

でも、確かな一段分の音だった。

 

帰りの車内で、シェイクは窓の外を見ていた。

 

雨粒がガラスを流れていく。

京都の景色がぼやける。

 

「二勝クラス、勝ちましたぁ……」

 

小さく呟く。

 

古吉トレーナーが隣で言った。

 

「次は三勝クラスやな」

 

「三勝クラス……」

 

「相手も上がる」

 

「はいぃ」

 

「まあ、今日みたいに一つずつや」

 

「一つずつ……」

 

その時のシェイクは、素直に頷いた。

 

一つずつ。

未勝利を勝った。

一勝クラスを勝った。

二勝クラスも勝った。

 

なら、三勝クラスも、いつか一つずつ進めば越えられる。

 

そう思っていた。

 

まさか、その一段がこんなにも長いとは知らなかった。

 

寮に戻ると、デュードが部屋で待っていた。

 

机の上には、シェイク用の札幌フォルダならぬ京都フォルダが用意されていた。

表紙には、デュードの字で「京都・清滝特別」と書かれている。

 

「おかえりなさい。勝ちましたね」

 

「ただいまですぅ。勝ちましたぁ」

 

「二勝クラス突破です」

 

「突破しましたぁ」

 

「工程が進みましたね」

 

「足場、上がりましたかぁ?」

 

「上がりました。かなり順調です」

 

デュードはそう言って笑った。

 

けれど、その笑みの奥に、少しだけ眩しそうな色があった。

 

「シェイクさん、上に行くの早いですね」

 

「早いんですかぁ?」

 

「早いですよ」

 

「でも、春は閉じましたぁ」

 

「それでも、今はもう三勝クラスですよ」

 

三勝クラス。

 

言葉にすると、急に部屋の天井が少し高くなる気がした。

 

デュードは湯呑みを二つ置いた。

 

「お祝いのお茶です」

 

「ほわ~……ありがとうございますぅ」

 

「お菓子はないです」

 

「お菓子……」

 

「美幸トレーナーなら出してくれそうですけど」

 

「誰ですかぁ?」

 

「有名なトレーナーです。なんか、お菓子くれそうな雰囲気の」

 

「ほわ~……いつか会うかもしれませんねぇ」

 

デュードは笑った。

 

その何気ない言葉が、いつか本当に自分の道に出てくることを、この時の二人はまだ知らない。

 

シェイクは机に向かい、今日のメモを書いた。

 

清滝特別二勝クラス一着。

京都の雨。

大寒桜賞の2200を材料にできた。

古吉トレーナーと、また勝った。

次は三勝クラス。

 

最後の一行を書いた時、ペンが少し止まった。

 

次は三勝クラス。

 

シェイクはその文字を見つめた。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「三勝クラスって、どんなところですかぁ?」

 

「わたしはまだ分かりません」

 

「ほわ」

 

「でも、たぶん現場でいうと、足場の高さが一気に上がるところです」

 

「高い足場……」

 

「安全帯、必要です」

 

「安全帯……」

 

「古吉さんがいるなら、大丈夫じゃないですか」

 

シェイクは少し笑った。

 

「古吉さん、安全帯ですかぁ?」

 

「地味ですけど、外れなさそうです」

 

「ほわ~……分かりますぅ」

 

二人はお茶を飲んだ。

 

窓の外では、秋の夜が静かに降りていた。

シェイクは二勝クラスを勝った。

デュードはまだ自分の足場の高さを決めかねている。

 

それでも同じ部屋で、二つの心臓が鳴っていた。

 

その時のシェイクは、まだ知らない。

 

この先、三勝クラスという足場が、思ったよりずっと高く、長く、風の強い場所であることを。

 

何度も届きそうになって、届かないことを。

二着、三着、また二着。

勝てそうで勝てない日々が、季節をまたいで続くことを。

 

デュードがその沼を、同じ部屋で見続けることを。

 

古吉トレーナーと掴んだ二勝クラスの勝利は、順調そのものに見えた。

 

けれど、順調な道の先に、長い坂がないとは限らない。

 

シェイクユアハートは、その夜、清滝特別のメモを京都フォルダにしまった。

 

そして、次の紙に小さく書いた。

 

三勝クラスへ。

 

その文字はまだ、軽かった。

 

これから長く重くなることを、彼女はまだ知らなかった。

 

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