秋のトレセンには、札幌とは違う忙しさがあった。
札幌の空は広かった。
風がまっすぐで、遠くを見ているだけで胸の奥がほどけるような日があった。
けれど、トレセンの秋はそうではない。
予定表が埋まる。
先生たちの声が早くなる。
調教の時計が細かくなる。
夏を越したウマ娘たちが、それぞれの次を目指して動き出す。
シェイクユアハートの次走は、清滝特別に決まった。
京都、芝2200。
二勝クラス。
札幌で一勝クラスを勝ったばかりのシェイクにとって、それは新しい段だった。
「ほわ~……二勝クラスですぅ……」
寮の部屋で、シェイクは予定表を見ながら呟いた。
机の向かいでは、タガノデュードが自分の資料をまとめていた。
同室になってから、部屋の空気は少し変わった。シェイクのメモは時系列順に並ぶようになり、札幌関係の紙は札幌フォルダにまとめられた。引き出しの奥には、札幌記念と書かれた夢の紙が、角をそろえてしまわれている。
デュードは顔を上げた。
「もう二勝クラスですか」
「はいぃ。札幌で勝ったのでぇ」
「順調ですね」
「順調……なんですかねぇ」
「順調ですよ。未勝利を勝って、一勝クラスを勝って、次が二勝クラス。現場的には工程が進んでます」
「工程……」
「基礎打って、足場組んで、次の階です」
「ほわ~……建設ですぅ……」
デュードはペンを回した。
「わたしはまだ未勝利の足場でごそごそしてますけどね」
軽く言ったつもりなのだろう。
けれど、その声には少しだけ硬さが混じっていた。
札幌で会った時から、デュードは同じことをよく言う。
わたしは能力上位馬じゃないからな~。
その言葉は、本人の照れ隠しであり、予防線であり、足場を低く組む癖でもあった。
シェイクは湯呑みを両手で持った。
「デュードさんも、上がりますぅ」
「ほわっと言い切りますね」
「言い切りますぅ」
「根拠は?」
「同室なのでぇ」
「それ、毎回根拠になります?」
「なりますぅ」
デュードは少し笑った。
「じゃあ、シェイクさんが清滝特別を勝ったら、同室補正ってことにします」
「勝てたら、ですぅ」
「勝ちに行くんですよね?」
シェイクは少しだけ黙った。
勝ちに行く。
未勝利の時は、藤川弟トレーナーにそう言われた。
札幌の一勝クラスでは、宮田先生に「気楽に勝ちに行け」と言われた。
そして今、古吉トレーナーとまた走る。
「はいぃ……勝ちに行きますぅ」
言ってから、胸の奥が少し鳴った。
デュードはその顔を見て、資料の端を揃えた。
「なら、大丈夫です。シェイクさん、ほわほわしてますけど、勝負どころになると顔が変わるので」
「デュードさん、見てるんですかぁ?」
「同室なので」
「ほわ~……同室補正ですぅ……」
清滝特別へ向かう前日、宮田先生はシェイクを呼んだ。
「状態は悪くない」
宮田先生は、いつものように資料を見ながら言った。
「札幌で勝ってから、気持ちが重くなってへん。身体も戻ってからしっかり動いとる」
「はいぃ」
「京都の2200や。大寒桜賞で2200は経験しとるが、あの時とは違う」
大寒桜賞。
春の扉が閉じたレース。
クラシックへ向かうかどうかを測り、四着に敗れた日。
シェイクは胸に手を当てた。
「春の2200とは、違いますかぁ?」
「違う。あの時のお前は、まだ春を見とった。今は札幌を勝って戻ってきたお前や」
「札幌を勝って戻ってきた、わたし……」
「せや」
宮田先生は少しだけ口元を緩めた。
「古吉さんと、もう一段上がれるか見る」
「古吉さん……」
「どうや。もうおっさんには慣れたか」
「慣れましたぁ」
「即答やな」
「おっさんですけど、走りやすいですぅ」
「それ、本人には言うなよ」
「もう言いましたぁ」
「言ったんか」
宮田先生は、呆れたように笑った。
「まあええ。今回も、全部持っていくな」
「速くなるものだけ、ですねぇ」
「そうや。春の四着は持っていってもええ。ただし、扉が閉じた方やなくて、2200を走った手触りの方や」
「手触り……」
「負けを、重りにするな。材料にしろ」
シェイクはゆっくり頷いた。
「材料にしますぅ」
京都へ向かう日、古吉トレーナーは相変わらずだった。
特別なことを言わない。
特別な顔もしない。
資料を見て、相手を確認して、シェイクの様子を見て、短く頷くだけ。
「調子は」
「悪くないですぅ」
「ええな」
「古吉さんは、緊張してますかぁ?」
「しとるで」
「いつも通りですねぇ」
「いつも通りや」
それだけで、シェイクは少し落ち着いた。
藤川兄トレーナーなら、やさしく背中を撫でるように言葉をくれる。
藤川弟トレーナーなら、まっすぐに勝ち筋を示してくれる。
岩橋トレーナーなら、勝負どころの熱を入れてくれる。
古吉トレーナーは、どれもしない。
ただ、シェイクの隣にいる。
それが、今のシェイクにはちょうどよかった。
清滝特別の日、京都は小雨だった。
空は低く、芝は少し湿っている。
札幌の広い空とはまったく違う。
風も、匂いも、足元の感触も違う。
「ほわ~……しっとりしてますぅ……」
パドックでシェイクが呟くと、古吉トレーナーが隣で言った。
「滑るなよ」
「はいぃ……現実的ですぅ……」
「現実やからな」
「古吉さん、少女漫画にはやっぱり出ませんねぇ」
「まだ言うとるんか」
「京都の雨なら出られるかもしれませんぅ」
「出んでええ」
シェイクは小さく笑った。
緊張はある。
勝ちたい気持ちもある。
けれど、心臓が先に走ってはいない。
デュードが言っていた。
工程が進んでいる。
基礎を打って、足場を組んで、次の階へ。
シェイクは、二勝クラスという次の階の前に立っていた。
「今日は」
古吉トレーナーが言った。
「前を見失うな」
「前……」
「後ろで構えすぎてもあかん。かといって、早く動きすぎても2200は最後がしんどい。前を見ながら、自分の脚を残す」
「はいぃ」
「大寒桜賞のことは覚えとるか」
「覚えてますぅ」
「あれを、怖がるために使うな」
「材料にしますぅ」
古吉トレーナーは少しだけ目を細めた。
「宮田先生に言われたな」
「はいぃ」
「ほな、それでええ」
ゲートへ向かう。
小雨の京都。
芝2200。
二勝クラス。
シェイクは、胸に手を当てた。
札幌で勝った心臓が鳴っている。
大寒桜賞で春の扉を見送った心臓も、まだそこにある。
けれど今日は、それが重りではない。
材料。
走るための材料。
ゲートが開いた。
シェイクは出た。
雨の芝は、乾いた札幌とは違う。
足元に少しだけ気を使う。
けれど、怖がりすぎるとリズムが崩れる。
古吉トレーナーの声が届く。
「そこでええ」
位置を取る。
前を見る。
下げすぎない。
急ぎすぎない。
一コーナー。
二コーナー。
流れは落ち着いているようで、簡単ではない。
京都の2200は、ただ長いだけではない。
どこで息を入れ、どこで前を見るか。
その一つずつが、最後の脚に残る。
シェイクは大寒桜賞を思い出した。
春。
中京。
四着。
足りなかった直線。
あの日は、クラシックの扉を見ていた。
今日は違う。
今日見ているのは、前の背中。
「シェイク」
古吉トレーナーの声。
「寝るなよ」
「はいぃ」
向こう正面で、シェイクは少しだけ耳を前へ向けた。
眠らない。
でも、力まない。
札幌で覚えたこと。
前走の負けを持っていくこと。
古吉トレーナーの声を足元の印にすること。
三コーナー。
前が動く。
シェイクの目が変わった。
ここ。
いや、まだ全部は使わない。
準備をする。
春の時より早く、でも焦らず。
札幌の時より長く、でも溜めながら。
「そろそろや」
古吉トレーナーの声。
シェイクは身体を起こした。
四コーナー。
前が見える。
外の進路もある。
内で粘る子もいる。
雨の芝を踏む。
脚は残っている。
「行こか」
古吉トレーナーが言った。
叫びではない。
合図だった。
シェイクは踏んだ。
直線。
雨の音が遠くなる。
スタンドの声も、芝を叩く音も、全部が少しだけ薄くなる。
前だけが、はっきり見える。
一頭を捕まえる。
もう一頭に並ぶ。
外から迫る気配がある。
けれど、今日は怯まない。
心臓が鳴る。
足と一緒に鳴る。
大寒桜賞で届かなかった2200。
札幌で掴んだ一勝クラス。
古吉トレーナーの、重すぎず軽すぎない言葉。
全部が、いま脚になっている。
「……ここですぅ」
シェイクは前へ出た。
ゴール板が近づく。
外から一頭が迫ってくる。
でも、シェイクは止まらない。
最後まで脚を使う。
ゴール。
一番前だった。
音が戻る。
雨。
歓声。
息。
心臓。
シェイクは、少し遅れて理解した。
「ほわ~……」
古吉トレーナーが来る。
「勝ったな」
「勝ちましたぁ……」
「二勝クラスや」
「はいぃ……二勝クラス、勝ちましたぁ」
「順調やな」
古吉トレーナーは何気なく言った。
順調。
その言葉は、シェイクの中で少し不思議に響いた。
新馬戦は八着だった。
春の扉は閉じた。
重賞では足りなかった。
札幌でようやく一勝クラスを掴んだ。
それでも今、古吉トレーナーは順調と言った。
「順調……」
「何や」
「順調って、こういう感じなんですねぇ……」
「知らんけど、勝ったんやから順調でええやろ」
「雑ですぅ……」
「ええやん」
シェイクは笑った。
「古吉さん」
「何や」
「今日も、かっこよかったですぅ」
「今日は“ちょっと”付かへんのか」
「はいぃ。今日は、付かないですぅ」
古吉トレーナーは、少しだけ黙った。
それから、雨の方を見た。
「……そうかい」
宮田先生は、戻ってきたシェイクを見て、静かに頷いた。
「よう勝った」
「はいぃ……勝てましたぁ」
「2200で勝ったのは大きい」
「春の2200は、材料になりましたぁ」
「そうか」
宮田先生は古吉トレーナーの方を見た。
「古吉さん、ありがとうございます」
「いえ。シェイクがよう走りました」
「古吉さんとやと、力が抜けるみたいやな」
「抜けすぎたら困りますけどね」
「そこは締めてください」
「ぼちぼちやります」
二人の会話を聞きながら、シェイクは胸に手を当てていた。
心臓はまだ鳴っている。
札幌記念の夢ほど大きな音ではない。
でも、確かな一段分の音だった。
帰りの車内で、シェイクは窓の外を見ていた。
雨粒がガラスを流れていく。
京都の景色がぼやける。
「二勝クラス、勝ちましたぁ……」
小さく呟く。
古吉トレーナーが隣で言った。
「次は三勝クラスやな」
「三勝クラス……」
「相手も上がる」
「はいぃ」
「まあ、今日みたいに一つずつや」
「一つずつ……」
その時のシェイクは、素直に頷いた。
一つずつ。
未勝利を勝った。
一勝クラスを勝った。
二勝クラスも勝った。
なら、三勝クラスも、いつか一つずつ進めば越えられる。
そう思っていた。
まさか、その一段がこんなにも長いとは知らなかった。
寮に戻ると、デュードが部屋で待っていた。
机の上には、シェイク用の札幌フォルダならぬ京都フォルダが用意されていた。
表紙には、デュードの字で「京都・清滝特別」と書かれている。
「おかえりなさい。勝ちましたね」
「ただいまですぅ。勝ちましたぁ」
「二勝クラス突破です」
「突破しましたぁ」
「工程が進みましたね」
「足場、上がりましたかぁ?」
「上がりました。かなり順調です」
デュードはそう言って笑った。
けれど、その笑みの奥に、少しだけ眩しそうな色があった。
「シェイクさん、上に行くの早いですね」
「早いんですかぁ?」
「早いですよ」
「でも、春は閉じましたぁ」
「それでも、今はもう三勝クラスですよ」
三勝クラス。
言葉にすると、急に部屋の天井が少し高くなる気がした。
デュードは湯呑みを二つ置いた。
「お祝いのお茶です」
「ほわ~……ありがとうございますぅ」
「お菓子はないです」
「お菓子……」
「美幸トレーナーなら出してくれそうですけど」
「誰ですかぁ?」
「有名なトレーナーです。なんか、お菓子くれそうな雰囲気の」
「ほわ~……いつか会うかもしれませんねぇ」
デュードは笑った。
その何気ない言葉が、いつか本当に自分の道に出てくることを、この時の二人はまだ知らない。
シェイクは机に向かい、今日のメモを書いた。
清滝特別二勝クラス一着。
京都の雨。
大寒桜賞の2200を材料にできた。
古吉トレーナーと、また勝った。
次は三勝クラス。
最後の一行を書いた時、ペンが少し止まった。
次は三勝クラス。
シェイクはその文字を見つめた。
「デュードさん」
「はい」
「三勝クラスって、どんなところですかぁ?」
「わたしはまだ分かりません」
「ほわ」
「でも、たぶん現場でいうと、足場の高さが一気に上がるところです」
「高い足場……」
「安全帯、必要です」
「安全帯……」
「古吉さんがいるなら、大丈夫じゃないですか」
シェイクは少し笑った。
「古吉さん、安全帯ですかぁ?」
「地味ですけど、外れなさそうです」
「ほわ~……分かりますぅ」
二人はお茶を飲んだ。
窓の外では、秋の夜が静かに降りていた。
シェイクは二勝クラスを勝った。
デュードはまだ自分の足場の高さを決めかねている。
それでも同じ部屋で、二つの心臓が鳴っていた。
その時のシェイクは、まだ知らない。
この先、三勝クラスという足場が、思ったよりずっと高く、長く、風の強い場所であることを。
何度も届きそうになって、届かないことを。
二着、三着、また二着。
勝てそうで勝てない日々が、季節をまたいで続くことを。
デュードがその沼を、同じ部屋で見続けることを。
古吉トレーナーと掴んだ二勝クラスの勝利は、順調そのものに見えた。
けれど、順調な道の先に、長い坂がないとは限らない。
シェイクユアハートは、その夜、清滝特別のメモを京都フォルダにしまった。
そして、次の紙に小さく書いた。
三勝クラスへ。
その文字はまだ、軽かった。
これから長く重くなることを、彼女はまだ知らなかった。