心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第十一章]一着と四着

十一月十八日の朝、シェイクユアハートとタガノデュードは、同じ廊下を並んで歩いていた。

 

秋の空気は、少し冷たい。

寮の玄関へ向かう足音が、いつもよりはっきり聞こえる。

 

今日は、二人とも京都で走る。

 

デュードは二歳未勝利。

シェイクは比叡ステークス。

三勝クラス。

 

そして、どちらの隣にも立つのは、古吉トレーナーだった。

 

「古吉さん、今日は二人分ですねぇ」

 

シェイクが言うと、デュードは資料の角をそろえながら頷いた。

 

「わたしが先で、シェイクさんが後です」

 

「半分こですぅ」

 

「いや、半分だと困ります。ちゃんと一人分ずつ担当してもらわないと」

 

「じゃあ、古吉さん二倍ですぅ」

 

「それもそれで雑ですね」

 

玄関の前で、古吉トレーナーが帽子を直していた。

 

相変わらず、特別な顔はしていない。

デュードが未勝利を勝てるかどうか。

シェイクが初めての三勝クラスでどこまでやれるか。

大事な日であるはずなのに、古吉トレーナーはいつも通りだった。

 

「二人とも、硬いな」

 

「わたしは硬いです」

 

デュードが即答した。

 

「シェイクさんは、ほわほわしてますけど」

 

「ほわ~……わたしも少し硬いですぅ」

 

「ほな、二人とも硬いな」

 

古吉トレーナーは短く言った。

 

「硬いまま走るな。硬いのはここまでにしとけ」

 

デュードの耳が少し動いた。

 

「……はい」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「デュードさんを先に勝たせて、わたしも後で勝たせたら、かっこいいですぅ」

 

「注文が重いわ」

 

「ほわ~……」

 

「二人とも、それぞれ走ればええ。勝つのも負けるのも、一人ずつや」

 

雑で、短い。

でも、不思議と足元が決まる言葉だった。

 

京都へ向かう道中、デュードはずっと資料を見ていた。

 

京都芝千六。

未勝利。

これまで届かなかったレースたち。

札幌で掴めなかった風。

 

デュードは自分のことをよく「能力上位馬じゃないからな~」と言う。

軽く、ちゃきちゃきと、逃げ道を用意するように。

 

けれど今日の彼女は、その言葉をまだ口にしていなかった。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「今日は言わないんですかぁ?」

 

「何をですか」

 

「能力上位馬じゃないからな~、ですぅ」

 

デュードは資料から顔を上げた。

 

少し困ったように笑う。

 

「言ったら、足場が低くなりそうなので」

 

「ほわ~……」

 

「今日は、低く組みすぎないようにします」

 

建設会社のお嬢様らしい言い方だった。

 

シェイクは小さく頷いた。

 

「いいと思いますぅ」

 

「根拠あります?」

 

「同室なのでぇ」

 

「いつものやつですね」

 

「はいぃ」

 

京都競馬場に着くと、先にデュードの時間が来た。

 

パドックのデュードは、いつもより少し硬かった。

低く結んだ黒茶色の髪。横へ流した前髪。

目元は落ち着いているように見えるのに、耳は普段より忙しい。

 

古吉トレーナーは、その隣に立っていた。

 

シェイクが見ている時と同じように、特別な熱はない。

けれど、どこにも余計な圧がない。

 

「デュード」

 

古吉トレーナーが言った。

 

「はい」

 

「親のこと、施設のこと、大きいところのこと。今日は全部持っていかんでええ」

 

デュードの耳がぴくりと動く。

 

「……はい」

 

「今日いるんは、京都の千六と、お前の脚だけや」

 

デュードは深く息を吸った。

 

「分かりました」

 

「あと、硬い」

 

「まだ硬いですか」

 

「硬い」

 

「すみません」

 

「謝るな。走りながらほどけ」

 

シェイクは少し離れたところから、その様子を見ていた。

 

古吉トレーナーは、デュードにも同じだった。

雑で、短くて、でも走る時に邪魔なものを少しだけ横へ置かせる。

 

それが少し嬉しかった。

 

自分だけのものではない。

でも、同室のデュードにも合うかもしれない。

 

ゲートが開いた。

 

デュードは出た。

 

大きく遅れない。

無理に前へ行きすぎない。

けれど、後ろに下げすぎもしない。

 

古吉トレーナーの声が飛ぶ。

 

「そこでええ」

 

デュードは流れに乗った。

 

派手ではない。

目を奪うような豪脚でもない。

ただ、今ある足場を一段ずつ組むように、自分の位置を守っている。

 

三コーナー。

四コーナー。

前が動く。

 

デュードも動いた。

 

シェイクは胸の前で手を握った。

 

「デュードさん……」

 

直線。

 

デュードが伸びる。

 

前にいた子の背中が近づく。

並ぶ。

交わす。

 

その姿は、建設現場で高い足場を一段上がる瞬間みたいだった。

怖くないわけではない。

でも、上がる。

落ちないように、ちゃんと踏んで、上がる。

 

ゴール。

 

一番前。

 

シェイクはしばらく息を止めていた。

 

「ほわ……」

 

勝った。

 

タガノデュードが、未勝利を脱した。

 

戻ってきたデュードは、まだ勝った実感に追いついていない顔をしていた。

古吉トレーナーは隣で、やっぱり大げさにはしていない。

 

「よう走ったな」

 

「……勝ちました」

 

「勝ったな」

 

「わたしが?」

 

「お前が」

 

そのやり取りを聞いて、シェイクは思わず駆け寄った。

 

「デュードさん!」

 

「シェイクさん」

 

「勝ちましたぁ!」

 

「勝ちました」

 

「足場、上がりましたぁ!」

 

デュードは、そこでようやく少し笑った。

 

「上がりました」

 

「今日は、能力上位馬じゃないって言いますかぁ?」

 

デュードは首を振った。

 

「今日は、やめておきます」

 

それから、少し照れたように言った。

 

「今日は、勝ったので」

 

シェイクの胸がぎゅっと温かくなった。

 

「はいぃ。今日は、勝った日ですぅ」

 

古吉トレーナーがシェイクの方を向いた。

 

「ほな、次はお前や」

 

「はいぃ」

 

「デュードはデュードで勝った。お前はお前で走れ」

 

その言葉は、必要だった。

 

デュードの勝利は嬉しい。

けれど、それを背負いすぎてはいけない。

自分のレースは、自分の足で走るしかない。

 

比叡ステークス。

 

京都芝二四。

三勝クラス。

 

パドックに入ると、シェイクは空気の違いをすぐに感じた。

 

二勝クラスまでとは違う。

勝ってきた子たちが、さらにもう一段積み上げた場所。

簡単には崩れない子たちが、同じ勝利を取りに来ている。

 

「ほわ~……高い足場ですぅ……」

 

シェイクが呟くと、古吉トレーナーが隣で言った。

 

「落ちるなよ」

 

「現実的ですぅ……」

 

「現実や」

 

「古吉さん、さっきデュードさんを勝たせましたぁ」

 

「デュードが走ったんや」

 

「わたしも走りますぅ」

 

「おう」

 

古吉トレーナーは資料を閉じた。

 

「二四や。焦って動いたら最後しんどい。でも、待ちすぎたら届かん」

 

「はいぃ」

 

「前を見失うな。自分の脚も見失うな」

 

「はいぃ」

 

「それと、三勝クラスは甘くない」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「はいぃ……分かりましたぁ」

 

「まだ分かってへんやろ」

 

「ほわ」

 

「今日分かればええ」

 

ゲートに入る。

 

胸が鳴る。

デュードの勝利の熱が、まだ少し残っている。

でも、古吉トレーナーの言葉通り、それは背負うものではない。

 

これは自分のレース。

 

扉が開いた。

 

シェイクは出た。

 

芝二四の流れは、ゆっくりに見えて忙しかった。

前へ行きすぎれば最後が苦しい。

下げすぎれば届かない。

そして、三勝クラスの相手は、こちらの都合で止まってはくれない。

 

古吉トレーナーの声が届く。

 

「焦るな」

 

焦らない。

 

「寝るな」

 

眠らない。

 

「前見とけ」

 

前を見る。

 

シェイクは自分の位置を守りながら走った。

清滝特別より長い。

勝負どころまでの時間が深い。

脚を残すことと、置いていかれないことの間で、心臓が小さく揺れる。

 

向こう正面。

 

息を入れる。

まだ動かない。

でも、準備はする。

 

三コーナー。

 

前が動いた。

 

シェイクの目が変わる。

 

ここ。

 

けれど、三勝クラスの前は簡単には開かない。

動く子も強い。

粘る子も強い。

外から来る気配も鋭い。

 

「準備」

 

古吉トレーナーの声。

 

シェイクは身体を起こした。

 

四コーナー。

 

視界が開く。

 

直線。

 

脚はある。

 

でも、前も止まらない。

 

一頭を追う。

もう一頭を追う。

外から伸びる子がいる。

内で粘る子がいる。

 

シェイクの心臓が鳴る。

 

届きたい。

勝ちたい。

デュードに続きたい。

 

でも、心臓だけ先に行ってはいけない。

足と一緒に。

 

「最後まで」

 

古吉トレーナーの声がした。

 

シェイクは伸びた。

 

前との差が詰まる。

けれど、一番前には届かない。

二番目にも届かない。

三番目にも、わずかに届かない。

 

ゴール板。

 

四着。

 

シェイクは、息を弾ませながら前を見た。

 

掲示板には載る。

けれど、馬券圏内ではない。

勝ち負けにも届いていない。

 

初めての三勝クラス。

走れていないわけではない。

でも、届いたとも言えない。

 

古吉トレーナーが来た。

 

「四着や」

 

「はいぃ……四着でしたぁ」

 

「掲示板には来た」

 

「はいぃ……」

 

「けど、券には足りん」

 

シェイクの耳が少し伏せた。

 

「届いてるようで、届いてないですぅ……」

 

「三勝クラスは、そういう場所やな」

 

古吉トレーナーは、いつものようにごまかさなかった。

 

「悪くはない。けど、勝つにはもう一段いる」

 

「もう一段……」

 

「せや」

 

今日、デュードは足場を一段上げた。

 

シェイクは、高い足場の前で、自分の手がまだ届かないことを知った。

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「悔しいですぅ」

 

「おう」

 

「でも、走れない場所ではないですぅ」

 

「それが分かったなら、今日は持って帰れる」

 

「はいぃ……持って帰りますぅ」

 

その夜、寮の部屋には、お茶が二つ置かれた。

 

デュードの机には、未勝利勝利のメモ。

シェイクの机には、比叡ステークス四着のメモ。

 

同じ日。

同じ京都。

同じ古吉トレーナー。

 

けれど、残った数字は違った。

 

一着と四着。

 

「お祝いですぅ」

 

シェイクが焼き菓子を置いた。

 

「シェイクさんは四着じゃないですか。お祝いでいいんですか?」

 

「デュードさんが勝ったのでぇ」

 

「シェイクさんは悔しくないんですか?」

 

「悔しいですぅ」

 

シェイクは素直に答えた。

 

「でも、今日はデュードさんが勝った日でもありますぅ」

 

デュードは少し黙った。

 

それから、焼き菓子を一つ手に取った。

 

「じゃあ、半分お祝いで、半分反省会ですね」

 

「はいぃ」

 

二人は机を向かい合わせにして座った。

 

デュードは自分のメモに書いた。

 

二歳未勝利一着。

足場が一段上がった。

今日は能力上位馬じゃないとは言わない。

古吉トレーナーは雑だけど、楽。

 

シェイクは自分のメモに書いた。

 

比叡ステークス四着。

三勝クラスは簡単ではない。

掲示板には来た。

でも、券には足りない。

走れない場所ではない。

もう一段いる。

 

デュードがそれを見て、静かに言った。

 

「四着って、悔しいですね」

 

「はいぃ……三着より、ちょっと遠いですぅ」

 

「でも、見えてます」

 

「見えてますかぁ?」

 

「見えてます。現場でいうと、足場はそこにあります。ただ、まだ手が届いてない」

 

「ほわ~……」

 

「だから、次はもう一段組めばいいです」

 

シェイクは少し笑った。

 

「デュードさん、今日は足場が高いですぅ」

 

「勝った日なので」

 

「いいですねぇ」

 

「でも、明日からまた組み直しです」

 

「現場ですぅ……」

 

二人はお茶を飲んだ。

 

部屋の隅の期待置き場には、少しだけ荷物が減っているような気がした。

デュードは未勝利を脱した。

親の期待が消えたわけではない。むしろ、次の期待が来るかもしれない。

でも、今日だけは「勝った」と言える。

 

シェイクは三勝クラスで四着だった。

順調に勝ってきた道の先に、簡単には越えられない段があることを知った。

でも、走れない場所ではないことも知った。

 

同じ古吉トレーナーと走った一日。

 

ひとつの心臓は、未勝利を脱した音を鳴らした。

もうひとつの心臓は、三勝クラスの壁に触れて、少し痛い音を鳴らした。

 

一着と四着。

 

その数字は、同じ部屋の机に並んだ。

 

シェイクユアハートはまだ知らない。

 

この四着が、長い長い足踏みの入口になることを。

これから何度も、勝てそうで勝てない日が続くことを。

二着、三着、また二着。

近いのに届かない数字が、季節をまたいで積み上がっていくことを。

 

そして、そのたびにタガノデュードが机の向こうで資料をそろえ、お茶を淹れ、自分の足場にも悩みながら、

シェイクの三勝クラスの沼を一緒に見続けることを。

 

十一月十八日。

 

タガノデュードは未勝利を脱した。

シェイクユアハートは三勝クラスの壁に触れた。

 

同じ日、同じ京都、同じ古吉トレーナー。

 

二つの心臓は、違う高さの足場で鳴っていた。

けれど、どちらも確かに、次の場所へ向いていた。

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