心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第十二章]親の夢

三勝クラスは、思っていたよりもずっと高い足場だった。

 

比叡ステークスの四着。

掲示板には載った。けれど、勝ち負けには届かない。

古吉トレーナーは「悪くはない」と言った。宮田先生も「走れてへんわけやない」と言った。

 

けれど、シェイクユアハートの胸には、四着という数字が小さな石のように残っていた。

 

走れない場所ではない。

でも、届いた場所でもない。

 

その感触を、シェイクは部屋の机に書いた。

 

三勝クラス。

掲示板には来た。

でも、券には足りない。

もう一段いる。

 

書いた文字を眺めながら、シェイクは湯呑みを両手で包んだ。

 

「ほわ~……一段って、どこにあるんでしょうねぇ……」

 

向かいの机では、タガノデュードが資料を整理していた。

 

二歳未勝利を勝ったばかりのデュードは、以前より少しだけ背筋が伸びて見えた。

けれど、それで気楽になったかと言えば、そうでもなかった。

 

未勝利を勝つ前は、親から「早く勝ち上がってほしい」と言われていた。

勝ったら勝ったで、今度は次の期待が来る。

 

建設会社と育成施設を持つ実家。

そこから送り出されたウマ娘。

親は、本気で応援している。

だからこそ、少し前のめりになる。

 

デュードの机の上には、朝日杯フューチュリティステークスの資料があった。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「その紙、なんだか大きいですぅ」

 

「大きいですね」

 

「朝日杯……」

 

「はい」

 

デュードは資料の角をそろえた。

 

「親が、出してほしいって」

 

その声は、いつものちゃきちゃきした声より少し慎重だった。

 

「宮田先生は?」

 

「渋い顔してました」

 

「ほわ~……想像できますぅ……」

 

シェイクは宮田先生の渋い顔を思い浮かべた。

予定表と資料を前に、眉間に皺を寄せている先生。

その前で、デュードの親が前のめりに話している光景も、なんとなく想像できた。

 

実際、その日の午後、宮田先生の部屋では、まさにその話し合いが行われていた。

 

「朝日杯に出してください」

 

デュードの親は、開口一番そう言った。

 

身なりはきちんとしている。

言葉も丁寧だ。

けれど、その声には熱があった。

現場を動かす人の声。資材も人も時間も動かしてきた人の、決めたら前へ進めたくなる声だった。

 

宮田先生は、資料を一枚めくった。

 

「お気持ちは分かります。ただ、デュードは先日、ようやく未勝利を抜けたばかりです」

 

「でも、クラシックは一生に一度なんです!」

 

「朝日杯はクラシックではありません」

 

「分かっています。でも、そこへ向かう道は、今しかないんです」

 

デュードの親は、すぐには引かなかった。

 

「うちの施設で育った子たちも、みんな見ています。デュードは昔から、派手ではないけれど真面目に積み上げる子でした。

だからこそ、大きいところで一度、試してほしいんです」

 

「試すだけで済む場所ではありません」

 

宮田先生の声は静かだった。

 

「GⅠです。相手も流れも、未勝利とは違う。無理に背伸びさせれば、今後に響くこともあります」

 

「それでも、挑戦しないと分からないこともあります」

 

「それはそうです」

 

宮田先生は、そこで一度黙った。

 

親の言い分は、分かる。

期待だけではない。

育成施設を持つ家としての願い。

デュードを見てきた人たちの夢。

未勝利を勝った今だからこそ、熱が上がるのも分かる。

 

だが、走るのはデュードだ。

 

「本人は、どう言っていますか」

 

宮田先生が聞くと、親は少し言葉に詰まった。

 

「デュードは……あの子は、いつも自分を低く見ます。能力上位じゃないから、と。だから、こちらが背中を押してやらないと」

 

「押すのと、かかるのは違います」

 

宮田先生ははっきり言った。

 

部屋の空気が少し硬くなった。

 

「親御さんの夢は分かります。でも、デュードの足場を本人より高く組みすぎると、怖がるのはあの子です」

 

「……足場」

 

「建設会社の方なら、分かるでしょう。高いところへ上げるなら、足場を組む。安全帯もいる。本人が踏める段でなければ、ただ高いだけです」

 

親は黙った。

 

宮田先生は続けた。

 

「それでも出したいなら、本人と話します。古吉さんとも話します。出すなら、記念受験にはしません。行く以上は、何かを持って帰らせます」

 

「お願いします」

 

親は深く頭を下げた。

 

「大きいところで、あの子を見たいんです」

 

その言葉に、宮田先生は小さく息を吐いた。

 

少しかかっている。

だが、悪意ではない。

夢が前へ行きすぎているだけだ。

 

その夜、デュードはシェイクに言った。

 

「親、かかってますね」

 

「かかってますねぇ……」

 

「わたし、まだ未勝利を勝ったばかりなんですけど」

 

「はいぃ」

 

「朝日杯って、普通もっとこう、すごい子たちが出るやつじゃないですか」

 

「すごい子たち、出ますぅ」

 

「わたしは能力上位馬じゃないからな~」

 

いつもの口癖。

 

けれど、今日はシェイクはすぐに返した。

 

「でも、未勝利を勝った子ですぅ」

 

デュードは目を丸くした。

 

「……それは、はい」

 

「今日は能力上位じゃないって言わない日、終わっちゃいましたかぁ?」

 

「終わりました」

 

「ほわ~……短かったですぅ……」

 

デュードは少し笑った。

 

でも、その笑いはすぐに落ち着いた。

 

「怖いです」

 

ぽつりと言った。

 

「朝日杯が?」

 

「はい。親の期待も、施設の人たちの視線も、宮田先生が考えてくれてることも、古吉さんが担当してくれることも。全部ありがたいのに、全部重いです」

 

シェイクは、部屋の隅を見た。

 

期待置き場。

 

何もない場所。

でも、二人にとっては少しだけ荷物を置ける場所。

 

「そこに置きますかぁ?」

 

シェイクが指さすと、デュードは少しだけ笑った。

 

「全部置いたら、朝日杯に何も持っていけなくなります」

 

「速くなるものだけ、持っていくんですぅ」

 

「古吉さんですね」

 

「古吉さんですぅ」

 

デュードは資料を閉じた。

 

「じゃあ、親の期待は半分置きます。施設のみんなの応援は、少し持っていきます」

 

「はいぃ」

 

「能力上位じゃないって口癖は?」

 

「それは置いていきますぅ」

 

「勝手に決めますね」

 

「同室なのでぇ」

 

デュードは、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「同室補正、便利ですね」

 

「はいぃ。万能ですぅ」

 

朝日杯の日が近づいても、シェイクの三勝クラスの足踏みは続いていた。

 

比叡ステークスの四着から、次のサンタクロースステークスへ向かう準備。

三勝クラスの相手は簡単には止まらない。

勝ち上がってきたこれまでとは違って、ここでは「悪くない」だけでは前へ行けない。

 

古吉トレーナーは、シェイクにもデュードにも同じように淡々としていた。

 

朝日杯へ向かうデュードには、短く言う。

 

「背伸びはしてええ」

 

「いいんですか」

 

「せんと届かん場所もある」

 

「はい」

 

「でも、爪先立ちで走るな。足の裏はちゃんと地面につけとけ」

 

デュードは少し黙って、それから頷いた。

 

「現場的に分かりやすいです」

 

「そうかい」

 

一方、三勝クラスで足踏みするシェイクには、こう言った。

 

「焦るな」

 

「はいぃ」

 

「デュードの大舞台見て、自分も何かせなと思うなよ」

 

「顔に出てましたかぁ?」

 

「出とる」

 

「ほわ……」

 

「お前はお前の三勝クラスや」

 

その言葉は、シェイクの胸に残った。

 

デュードは朝日杯へ。

自分はサンタクロースステークスへ。

 

同じ古吉トレーナー。

同じ宮田先生の寮。

同じ部屋。

 

でも、走る場所は違う。

 

朝日杯の日、デュードは静かだった。

 

パドックの空気は、未勝利とはまるで違った。

GⅠの熱。

観客の声。

名前のあるウマ娘たちの気配。

未来を見に来た人たちの視線。

 

デュードは、その全部を感じていた。

 

「古吉さん」

 

「何や」

 

「高いです」

 

「足場か」

 

「はい」

 

「足元見とけ」

 

「はい」

 

「親の夢は?」

 

「半分置いてきました」

 

「半分は?」

 

「応援として持ってきました」

 

「ほな、それでええ」

 

古吉トレーナーは、少しだけデュードの方を見た。

 

「能力上位じゃないってやつは?」

 

「置いてきました」

 

「なら行けるな」

 

「勝てますか」

 

「知らん」

 

「そこは言い切らないんですね」

 

「勝つかどうかは走ってからや」

 

デュードは小さく笑った。

 

「でも、走ってはきます」

 

「それでええ」

 

ゲートが開いた。

 

朝日杯の流れは、デュードが今まで知っていたものとは違っていた。

速い。

鋭い。

判断が一瞬遅れるだけで、置いていかれる。

 

それでも、デュードは自分の足元を見失わなかった。

 

高い足場。

強い風。

親の夢。

施設のみんなの応援。

古吉トレーナーの声。

 

背伸びはしていい。

でも、爪先立ちで走るな。

 

デュードは、足の裏で芝を踏んだ。

 

直線。

 

前には強い子たちがいた。

やっぱり簡単には届かない。

大きなところで勝つというのは、親が思うほど夢だけではできない。

自分が思うほど、遠すぎるだけでもない。

 

デュードは最後まで走った。

 

五着。

 

勝てなかった。

でも、沈まなかった。

 

掲示板に、名前が残った。

 

戻ってきたデュードに、古吉トレーナーは言った。

 

「よう走ったな」

 

「五着でした」

 

「GⅠの五着や」

 

「勝ってません」

 

「せやな」

 

「でも……」

 

デュードは息を整えながら、少しだけ顔を上げた。

 

「高い足場でも、立てました」

 

古吉トレーナーは頷いた。

 

「それ持って帰れ」

 

その夜、寮の部屋で、デュードは朝日杯のメモを書いた。

 

朝日杯フューチュリティステークス五着。

高い足場。

親の夢は半分置いて、半分持っていった。

能力上位じゃないは置いていった。

勝てなかった。

でも、立てた。

 

シェイクは向かいでそれを見ていた。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「かっこいいですぅ」

 

「五着ですよ」

 

「GⅠの五着ですぅ」

 

「古吉さんと同じこと言いますね」

 

「古吉さん、正しいことも言いますぅ」

 

「雑だけど?」

 

「雑だけどですぅ」

 

デュードは少し笑った。

 

けれど、その目元は赤かった。

 

「親、喜んでました」

 

「よかったですぅ」

 

「勝ってないのに、泣いてました。施設のみんなも、掲示板に名前が出たって」

 

「はいぃ」

 

「わたし、勝たないと意味がないと思ってました」

 

デュードはペンを置いた。

 

「でも、今日の五着は、意味があった気がします」

 

「ありますぅ」

 

「シェイクさんの四着も、意味ありますよ」

 

シェイクは瞬きをした。

 

「わたしの?」

 

「比叡ステークス。三勝クラスの四着。届いてないけど、意味はあります」

 

「ほわ~……」

 

「シェイクさんは、今、高い足場に慣れてるところです」

 

「デュードさん、現場監督ですぅ……」

 

「今日はちょっとだけ、言えます」

 

デュードは小さく笑った。

 

「GⅠ五着なので」

 

その数日後、シェイクはサンタクロースステークスへ向かった。

 

阪神、芝二千。

三勝クラス。

 

朝日杯でデュードが掲示板に載った熱が、寮にはまだ少し残っていた。

けれど古吉トレーナーは言った。

 

「お前はお前の三勝クラスや」

 

「はいぃ」

 

「デュードの五着を背負うな」

 

「持っていっちゃだめですかぁ?」

 

「応援くらいにしとけ」

 

「半分置いて、半分持つやつですぅ」

 

「そういうことや」

 

シェイクは走った。

 

三勝クラスの流れは、やはり簡単ではなかった。

比叡ステークスの四着より、少しだけ前へ。

けれど、まだ勝ち切れない。

 

二着。

 

届きそうで、届かない。

 

ゴールのあと、シェイクはしばらく前を見ていた。

 

「ほわ~……二着ですぅ……」

 

古吉トレーナーが来た。

 

「二着やな」

 

「近いですぅ」

 

「近いな」

 

「でも、勝ってないですぅ」

 

「せやな」

 

「三勝クラス、長そうですぅ……」

 

古吉トレーナーは、少しだけ苦笑した。

 

「気づいたか」

 

「はいぃ……」

 

「まあ、長いなら長いなりに歩くしかない」

 

「走るんじゃなくて?」

 

「歩かな持たん時もある」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

比叡ステークス四着。

サンタクロースステークス二着。

届きそうで届かない数字が、もう並び始めている。

 

寮に戻ると、デュードがお茶を淹れて待っていた。

 

「二着でしたね」

 

「二着でしたぁ」

 

「近いです」

 

「近いですぅ」

 

「悔しいですか」

 

「悔しいですぅ」

 

「じゃあ、意味あります」

 

デュードはそう言って、自分の朝日杯のメモの隣に、シェイクのサンタクロースステークス用の紙を置いた。

 

「今日は、半分お祝いで半分反省会ですね」

 

「デュードさん、それ好きですねぇ」

 

「便利なので」

 

二人はお茶を飲んだ。

 

部屋の隅の期待置き場には、また少し荷物が増えたり減ったりしている気がした。

 

デュードの親の夢。

シェイクの三勝クラスの壁。

古吉トレーナーの雑な言葉。

宮田先生の渋い顔。

朝日杯の五着。

サンタクロースステークスの二着。

 

それぞれの心臓が、それぞれの高さで鳴っている。

 

シェイクは、机の紙に書いた。

 

三勝クラス。

四着の次は二着。

近い。

でも、勝っていない。

長いかもしれない。

 

デュードは、自分の紙に小さく書き足した。

 

高い足場でも、立てた。

次は、組み上げる。

 

その夜、二人は消灯後もしばらく起きていた。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「朝日杯、怖かったですかぁ?」

 

「怖かったです」

 

「また行きたいですかぁ?」

 

デュードは少し黙った。

 

「行きたいです」

 

「ほわ~……」

 

「勝てなかったけど、行きたいです。親のためだけじゃなくて、わたしが」

 

シェイクは暗闇の中で微笑んだ。

 

「それは、いいですねぇ」

 

「シェイクさんは、三勝クラス、嫌になりました?」

 

「なってないですぅ」

 

「長そうですよ」

 

「長そうですぅ」

 

「それでも?」

 

「はいぃ。近いところまでは来てますからぁ」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

「あと少しの場所って、ちょっと苦いですけど……心臓がよく鳴りますぅ」

 

デュードは小さく笑った。

 

「シェイクさんらしいです」

 

窓の外には、冬の気配があった。

 

シェイクが三勝クラスで足踏みしているころ、デュードは親の夢に押されるように朝日杯へ向かった。

未勝利を抜けたばかりの子には高すぎる足場に見えた。

それでも彼女は、古吉トレーナーとともにそこへ立ち、五着という意味のある数字を持って帰ってきた。

 

そしてシェイクは、サンタクロースステークスで二着になった。

 

一着ではない。

けれど、遠くもない。

 

遠くないから、苦しい。

遠くないから、次を見てしまう。

 

それぞれの夢は、まだ形になりきらない。

でも、部屋の中には確かに、次の足場を組む音がしていた。

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