三勝クラスは、思っていたよりもずっと高い足場だった。
比叡ステークスの四着。
掲示板には載った。けれど、勝ち負けには届かない。
古吉トレーナーは「悪くはない」と言った。宮田先生も「走れてへんわけやない」と言った。
けれど、シェイクユアハートの胸には、四着という数字が小さな石のように残っていた。
走れない場所ではない。
でも、届いた場所でもない。
その感触を、シェイクは部屋の机に書いた。
三勝クラス。
掲示板には来た。
でも、券には足りない。
もう一段いる。
書いた文字を眺めながら、シェイクは湯呑みを両手で包んだ。
「ほわ~……一段って、どこにあるんでしょうねぇ……」
向かいの机では、タガノデュードが資料を整理していた。
二歳未勝利を勝ったばかりのデュードは、以前より少しだけ背筋が伸びて見えた。
けれど、それで気楽になったかと言えば、そうでもなかった。
未勝利を勝つ前は、親から「早く勝ち上がってほしい」と言われていた。
勝ったら勝ったで、今度は次の期待が来る。
建設会社と育成施設を持つ実家。
そこから送り出されたウマ娘。
親は、本気で応援している。
だからこそ、少し前のめりになる。
デュードの机の上には、朝日杯フューチュリティステークスの資料があった。
「デュードさん」
「はい」
「その紙、なんだか大きいですぅ」
「大きいですね」
「朝日杯……」
「はい」
デュードは資料の角をそろえた。
「親が、出してほしいって」
その声は、いつものちゃきちゃきした声より少し慎重だった。
「宮田先生は?」
「渋い顔してました」
「ほわ~……想像できますぅ……」
シェイクは宮田先生の渋い顔を思い浮かべた。
予定表と資料を前に、眉間に皺を寄せている先生。
その前で、デュードの親が前のめりに話している光景も、なんとなく想像できた。
実際、その日の午後、宮田先生の部屋では、まさにその話し合いが行われていた。
「朝日杯に出してください」
デュードの親は、開口一番そう言った。
身なりはきちんとしている。
言葉も丁寧だ。
けれど、その声には熱があった。
現場を動かす人の声。資材も人も時間も動かしてきた人の、決めたら前へ進めたくなる声だった。
宮田先生は、資料を一枚めくった。
「お気持ちは分かります。ただ、デュードは先日、ようやく未勝利を抜けたばかりです」
「でも、クラシックは一生に一度なんです!」
「朝日杯はクラシックではありません」
「分かっています。でも、そこへ向かう道は、今しかないんです」
デュードの親は、すぐには引かなかった。
「うちの施設で育った子たちも、みんな見ています。デュードは昔から、派手ではないけれど真面目に積み上げる子でした。
だからこそ、大きいところで一度、試してほしいんです」
「試すだけで済む場所ではありません」
宮田先生の声は静かだった。
「GⅠです。相手も流れも、未勝利とは違う。無理に背伸びさせれば、今後に響くこともあります」
「それでも、挑戦しないと分からないこともあります」
「それはそうです」
宮田先生は、そこで一度黙った。
親の言い分は、分かる。
期待だけではない。
育成施設を持つ家としての願い。
デュードを見てきた人たちの夢。
未勝利を勝った今だからこそ、熱が上がるのも分かる。
だが、走るのはデュードだ。
「本人は、どう言っていますか」
宮田先生が聞くと、親は少し言葉に詰まった。
「デュードは……あの子は、いつも自分を低く見ます。能力上位じゃないから、と。だから、こちらが背中を押してやらないと」
「押すのと、かかるのは違います」
宮田先生ははっきり言った。
部屋の空気が少し硬くなった。
「親御さんの夢は分かります。でも、デュードの足場を本人より高く組みすぎると、怖がるのはあの子です」
「……足場」
「建設会社の方なら、分かるでしょう。高いところへ上げるなら、足場を組む。安全帯もいる。本人が踏める段でなければ、ただ高いだけです」
親は黙った。
宮田先生は続けた。
「それでも出したいなら、本人と話します。古吉さんとも話します。出すなら、記念受験にはしません。行く以上は、何かを持って帰らせます」
「お願いします」
親は深く頭を下げた。
「大きいところで、あの子を見たいんです」
その言葉に、宮田先生は小さく息を吐いた。
少しかかっている。
だが、悪意ではない。
夢が前へ行きすぎているだけだ。
その夜、デュードはシェイクに言った。
「親、かかってますね」
「かかってますねぇ……」
「わたし、まだ未勝利を勝ったばかりなんですけど」
「はいぃ」
「朝日杯って、普通もっとこう、すごい子たちが出るやつじゃないですか」
「すごい子たち、出ますぅ」
「わたしは能力上位馬じゃないからな~」
いつもの口癖。
けれど、今日はシェイクはすぐに返した。
「でも、未勝利を勝った子ですぅ」
デュードは目を丸くした。
「……それは、はい」
「今日は能力上位じゃないって言わない日、終わっちゃいましたかぁ?」
「終わりました」
「ほわ~……短かったですぅ……」
デュードは少し笑った。
でも、その笑いはすぐに落ち着いた。
「怖いです」
ぽつりと言った。
「朝日杯が?」
「はい。親の期待も、施設の人たちの視線も、宮田先生が考えてくれてることも、古吉さんが担当してくれることも。全部ありがたいのに、全部重いです」
シェイクは、部屋の隅を見た。
期待置き場。
何もない場所。
でも、二人にとっては少しだけ荷物を置ける場所。
「そこに置きますかぁ?」
シェイクが指さすと、デュードは少しだけ笑った。
「全部置いたら、朝日杯に何も持っていけなくなります」
「速くなるものだけ、持っていくんですぅ」
「古吉さんですね」
「古吉さんですぅ」
デュードは資料を閉じた。
「じゃあ、親の期待は半分置きます。施設のみんなの応援は、少し持っていきます」
「はいぃ」
「能力上位じゃないって口癖は?」
「それは置いていきますぅ」
「勝手に決めますね」
「同室なのでぇ」
デュードは、少しだけ肩の力を抜いた。
「同室補正、便利ですね」
「はいぃ。万能ですぅ」
朝日杯の日が近づいても、シェイクの三勝クラスの足踏みは続いていた。
比叡ステークスの四着から、次のサンタクロースステークスへ向かう準備。
三勝クラスの相手は簡単には止まらない。
勝ち上がってきたこれまでとは違って、ここでは「悪くない」だけでは前へ行けない。
古吉トレーナーは、シェイクにもデュードにも同じように淡々としていた。
朝日杯へ向かうデュードには、短く言う。
「背伸びはしてええ」
「いいんですか」
「せんと届かん場所もある」
「はい」
「でも、爪先立ちで走るな。足の裏はちゃんと地面につけとけ」
デュードは少し黙って、それから頷いた。
「現場的に分かりやすいです」
「そうかい」
一方、三勝クラスで足踏みするシェイクには、こう言った。
「焦るな」
「はいぃ」
「デュードの大舞台見て、自分も何かせなと思うなよ」
「顔に出てましたかぁ?」
「出とる」
「ほわ……」
「お前はお前の三勝クラスや」
その言葉は、シェイクの胸に残った。
デュードは朝日杯へ。
自分はサンタクロースステークスへ。
同じ古吉トレーナー。
同じ宮田先生の寮。
同じ部屋。
でも、走る場所は違う。
朝日杯の日、デュードは静かだった。
パドックの空気は、未勝利とはまるで違った。
GⅠの熱。
観客の声。
名前のあるウマ娘たちの気配。
未来を見に来た人たちの視線。
デュードは、その全部を感じていた。
「古吉さん」
「何や」
「高いです」
「足場か」
「はい」
「足元見とけ」
「はい」
「親の夢は?」
「半分置いてきました」
「半分は?」
「応援として持ってきました」
「ほな、それでええ」
古吉トレーナーは、少しだけデュードの方を見た。
「能力上位じゃないってやつは?」
「置いてきました」
「なら行けるな」
「勝てますか」
「知らん」
「そこは言い切らないんですね」
「勝つかどうかは走ってからや」
デュードは小さく笑った。
「でも、走ってはきます」
「それでええ」
ゲートが開いた。
朝日杯の流れは、デュードが今まで知っていたものとは違っていた。
速い。
鋭い。
判断が一瞬遅れるだけで、置いていかれる。
それでも、デュードは自分の足元を見失わなかった。
高い足場。
強い風。
親の夢。
施設のみんなの応援。
古吉トレーナーの声。
背伸びはしていい。
でも、爪先立ちで走るな。
デュードは、足の裏で芝を踏んだ。
直線。
前には強い子たちがいた。
やっぱり簡単には届かない。
大きなところで勝つというのは、親が思うほど夢だけではできない。
自分が思うほど、遠すぎるだけでもない。
デュードは最後まで走った。
五着。
勝てなかった。
でも、沈まなかった。
掲示板に、名前が残った。
戻ってきたデュードに、古吉トレーナーは言った。
「よう走ったな」
「五着でした」
「GⅠの五着や」
「勝ってません」
「せやな」
「でも……」
デュードは息を整えながら、少しだけ顔を上げた。
「高い足場でも、立てました」
古吉トレーナーは頷いた。
「それ持って帰れ」
その夜、寮の部屋で、デュードは朝日杯のメモを書いた。
朝日杯フューチュリティステークス五着。
高い足場。
親の夢は半分置いて、半分持っていった。
能力上位じゃないは置いていった。
勝てなかった。
でも、立てた。
シェイクは向かいでそれを見ていた。
「デュードさん」
「はい」
「かっこいいですぅ」
「五着ですよ」
「GⅠの五着ですぅ」
「古吉さんと同じこと言いますね」
「古吉さん、正しいことも言いますぅ」
「雑だけど?」
「雑だけどですぅ」
デュードは少し笑った。
けれど、その目元は赤かった。
「親、喜んでました」
「よかったですぅ」
「勝ってないのに、泣いてました。施設のみんなも、掲示板に名前が出たって」
「はいぃ」
「わたし、勝たないと意味がないと思ってました」
デュードはペンを置いた。
「でも、今日の五着は、意味があった気がします」
「ありますぅ」
「シェイクさんの四着も、意味ありますよ」
シェイクは瞬きをした。
「わたしの?」
「比叡ステークス。三勝クラスの四着。届いてないけど、意味はあります」
「ほわ~……」
「シェイクさんは、今、高い足場に慣れてるところです」
「デュードさん、現場監督ですぅ……」
「今日はちょっとだけ、言えます」
デュードは小さく笑った。
「GⅠ五着なので」
その数日後、シェイクはサンタクロースステークスへ向かった。
阪神、芝二千。
三勝クラス。
朝日杯でデュードが掲示板に載った熱が、寮にはまだ少し残っていた。
けれど古吉トレーナーは言った。
「お前はお前の三勝クラスや」
「はいぃ」
「デュードの五着を背負うな」
「持っていっちゃだめですかぁ?」
「応援くらいにしとけ」
「半分置いて、半分持つやつですぅ」
「そういうことや」
シェイクは走った。
三勝クラスの流れは、やはり簡単ではなかった。
比叡ステークスの四着より、少しだけ前へ。
けれど、まだ勝ち切れない。
二着。
届きそうで、届かない。
ゴールのあと、シェイクはしばらく前を見ていた。
「ほわ~……二着ですぅ……」
古吉トレーナーが来た。
「二着やな」
「近いですぅ」
「近いな」
「でも、勝ってないですぅ」
「せやな」
「三勝クラス、長そうですぅ……」
古吉トレーナーは、少しだけ苦笑した。
「気づいたか」
「はいぃ……」
「まあ、長いなら長いなりに歩くしかない」
「走るんじゃなくて?」
「歩かな持たん時もある」
シェイクは胸に手を当てた。
比叡ステークス四着。
サンタクロースステークス二着。
届きそうで届かない数字が、もう並び始めている。
寮に戻ると、デュードがお茶を淹れて待っていた。
「二着でしたね」
「二着でしたぁ」
「近いです」
「近いですぅ」
「悔しいですか」
「悔しいですぅ」
「じゃあ、意味あります」
デュードはそう言って、自分の朝日杯のメモの隣に、シェイクのサンタクロースステークス用の紙を置いた。
「今日は、半分お祝いで半分反省会ですね」
「デュードさん、それ好きですねぇ」
「便利なので」
二人はお茶を飲んだ。
部屋の隅の期待置き場には、また少し荷物が増えたり減ったりしている気がした。
デュードの親の夢。
シェイクの三勝クラスの壁。
古吉トレーナーの雑な言葉。
宮田先生の渋い顔。
朝日杯の五着。
サンタクロースステークスの二着。
それぞれの心臓が、それぞれの高さで鳴っている。
シェイクは、机の紙に書いた。
三勝クラス。
四着の次は二着。
近い。
でも、勝っていない。
長いかもしれない。
デュードは、自分の紙に小さく書き足した。
高い足場でも、立てた。
次は、組み上げる。
その夜、二人は消灯後もしばらく起きていた。
「デュードさん」
「はい」
「朝日杯、怖かったですかぁ?」
「怖かったです」
「また行きたいですかぁ?」
デュードは少し黙った。
「行きたいです」
「ほわ~……」
「勝てなかったけど、行きたいです。親のためだけじゃなくて、わたしが」
シェイクは暗闇の中で微笑んだ。
「それは、いいですねぇ」
「シェイクさんは、三勝クラス、嫌になりました?」
「なってないですぅ」
「長そうですよ」
「長そうですぅ」
「それでも?」
「はいぃ。近いところまでは来てますからぁ」
シェイクは胸に手を当てた。
「あと少しの場所って、ちょっと苦いですけど……心臓がよく鳴りますぅ」
デュードは小さく笑った。
「シェイクさんらしいです」
窓の外には、冬の気配があった。
シェイクが三勝クラスで足踏みしているころ、デュードは親の夢に押されるように朝日杯へ向かった。
未勝利を抜けたばかりの子には高すぎる足場に見えた。
それでも彼女は、古吉トレーナーとともにそこへ立ち、五着という意味のある数字を持って帰ってきた。
そしてシェイクは、サンタクロースステークスで二着になった。
一着ではない。
けれど、遠くもない。
遠くないから、苦しい。
遠くないから、次を見てしまう。
それぞれの夢は、まだ形になりきらない。
でも、部屋の中には確かに、次の足場を組む音がしていた。