朝日杯の五着は、タガノデュードの中に妙な形で残った。
勝てなかった。
それは確かだった。
一番前にいたのはジャンタルマンタルという子で、デュードはその背中を見ることすら、最後は遠く感じた。
GⅠの直線は、未勝利の直線とは違っていた。
みんな速い。
みんな強い。
そして、強い子ほど止まらない。
それでも、デュードは沈まなかった。
五着。
掲示板に名前が残った。
親は泣いた。育成施設の人たちも騒いだ。
宮田先生は「よう立った」と言った。古吉トレーナーは「持って帰れる五着や」と言った。
けれど、デュードの胸に一番残ったのは、勝者の背中ではなかった。
エコロヴァルツ。
その子の名前だった。
朝日杯のあと、控えの通路にはいろいろな音が混ざっていた。
勝った子を称える声。
悔しさを噛みしめる息。
次を見ている先生たちの低い会話。
泣いている親。
笑っている関係者。
何も言わずに壁を見ているウマ娘。
デュードはタオルを肩にかけたまま、しばらく通路の端に立っていた。
「高い足場でも、立てた」
自分でそう言った。
確かにその通りだと思う。
でも、立てたからこそ、上にいる子たちが見えた。
その一人が、エコロヴァルツだった。
彼女は二着だった。
ジャンタルマンタルには届かなかった。
けれど、デュードより前にいた。
レース後の彼女は、悔しそうというより、何かを測っているような顔をしていた。
静かで、でも目の奥に熱がある。
勝った子を見ているのか、自分の脚を見ているのか、あるいはもっと先を見ているのか分からない。
デュードは、なぜかその横顔から目が離せなかった。
「エコロヴァルツさん」
名前を口に出すと、本人がこちらを向いた。
「はい」
「あっ、すみません。声に出てました」
「出てました」
エコロヴァルツは少しだけ笑った。
その笑い方も、どこか不思議だった。
柔らかいのに、芯がある。
ロマンチックな名前なのに、足元は現実を踏んでいる感じがする。
「タガノデュードさんですよね。五着」
「はい。五着でした」
「GⅠで五着。すごいです」
「いや、わたしは能力上位馬じゃないからな~……って言おうと思ったんですけど」
デュードは少し言葉を止めた。
「今日は、あんまり言わないようにしてます」
「どうして?」
「古吉さんに、足の裏を地面につけとけって言われたので」
「いい言葉ですね」
「雑な言葉ですよ」
「でも、残るでしょう」
デュードは少しだけ驚いた。
「残ります」
「なら、いい言葉です」
エコロヴァルツはそう言った。
デュードは、その言葉を聞いて、少し胸が軽くなるのを感じた。
「エコロって、変わった名前ですよね」
デュードが言うと、エコロヴァルツは自分の胸元に手を当てた。
「エコロジーと、ロマンチック。合わせて、エコロ」
「エコロジーとロマンチック……」
「造語みたいなものです。ちょっと不思議でしょう」
「はい。現場ではあまり見ない組み合わせです」
「現場?」
「実家が建設会社なので」
「ああ」
エコロヴァルツは納得したように頷いた。
「じゃあ、わたしの名前は現場向きではないですね」
「でも、足場には立ってました」
デュードは思ったままを言った。
「名前はロマンチックなのに、走りはちゃんと地面踏んでました」
エコロヴァルツは、少しだけ目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「それ、嬉しいです」
「褒めてます」
「分かります」
「よかったです」
二人の間に、少し沈黙が落ちた。
遠くで、ジャンタルマンタルの名前が呼ばれている。
勝者の周囲には、光が集まる。
それは当然のことだった。
けれどデュードは、その光を見ながら、なぜか思った。
自分がこれから何度も意識するのは、あの勝者ではないのかもしれない。
もちろん、ジャンタルマンタルは強かった。
今日の一番前にいた子だ。
届かなかった背中だ。
でも、長く同じ道のどこかで顔を合わせる気がしたのは、エコロヴァルツだった。
エコロジーとロマンチック。
現場と夢。
地面と名前。
妙に、気になる。
「エコロヴァルツさん」
「はい」
「また、どこかで走る気がします」
デュードが言うと、エコロヴァルツはまっすぐこちらを見た。
「わたしも、そんな気がします」
「次は、もう少し近くで」
「はい。できれば、もっと前で」
「勝者の近くですか」
「勝者になる場所かもしれません」
その言葉は静かだった。
でも、ロマンチックなだけではなかった。
ちゃんと地面を踏んでいる言葉だった。
デュードは少し笑った。
「わたし、能力上位馬じゃないんですけど」
「今日は言わない日では?」
「そうでした」
「じゃあ、言い直してください」
エコロヴァルツにそう言われ、デュードは少し考えた。
「わたしは、今日GⅠで五着でした」
「はい」
「高い足場でも、立てました」
「はい」
「次は、もう少し上に組みます」
エコロヴァルツは頷いた。
「いいと思います」
その夜、寮に戻ったデュードは、朝日杯のメモにもう一行書き足した。
エコロヴァルツ。
エコロジーとロマンチック。
名前は夢みたいなのに、足は地面を踏んでいた。
勝者より、この子とは長い付き合いになりそう。
向かいの机で、シェイクユアハートが湯呑みを持ったまま覗き込んだ。
「エコロヴァルツさんですかぁ」
「はい。二着の子です」
「気になるんですかぁ?」
「気になりますね」
「ライバルですかぁ?」
「まだ分かりません」
デュードはペンを置いた。
「でも、勝ったジャンタルマンタルさんより、なぜかこの子の方が今後も顔を見る気がしました」
「ほわ~……長い付き合いの予感ですぅ」
「そういう感じです」
「いいですねぇ」
シェイクはほわりと笑った。
「デュードさんにも、そういう子ができたんですねぇ」
「そういう子?」
「前を見る時に、ちょっと横にもいる子ですぅ」
デュードは少し考えた。
勝者は前にいる。
でも、長い道で気になる相手は、必ずしも一番前にいる子だけではない。
同じ高さの足場を、別の組み方で上がっている子。
名前も性格も違うのに、なぜか同じ現場に何度もいる気がする子。
「前を見る時に、横にもいる子」
デュードは繰り返した。
「それ、いいですね」
「はいぃ。シェイク名言ですぅ」
「自分で言います?」
「言いますぅ」
二人は少し笑った。
そのあと、シェイクは自分の三勝クラスのメモを見た。
比叡ステークス四着。
サンタクロースステークス二着。
近いのに、まだ届かない。
「シェイクさん」
デュードが声をかけた。
「はいぃ」
「シェイクさんにも、前を見る時に横にいる子、いますか?」
シェイクは少し考えた。
同じ三勝クラスを走る子たち。
先に行く子。
後ろから来る子。
毎回違う相手。
でも、今一番近くで自分の足音を聞いているのは、レース場の誰かではなかった。
「デュードさんですぅ」
「わたし?」
「はいぃ。同じレースではないですけど、同じ部屋にいますからぁ」
デュードは目を丸くした。
「それ、ライバルとは違いません?」
「違いますぅ。でも、横にいますぅ」
シェイクは湯呑みを持って、にこりとした。
「デュードさんは、わたしの足場を見てくれる子ですぅ」
デュードは少し黙った。
それから、照れ隠しのように資料の角を揃えた。
「じゃあ、ちゃんと崩れないように見ます」
「お願いしますぅ」
「その代わり、シェイクさんは、わたしが足場を低く組みすぎたら言ってください」
「言いますぅ」
「ほわっと言わずに」
「ほわっと言いますぅ」
「そこは直らないんですね」
「はいぃ」
部屋の外では、冬の風が廊下の窓を鳴らしていた。
朝日杯は終わった。
勝者の名前は大きく残る。
ジャンタルマンタル。
その強さは、誰の目にも明らかだった。
けれど、デュードのメモには別の名前が強く残っている。
エコロヴァルツ。
夢みたいな名前で、地面を踏んでいた子。
今日の二着。
これから長く、どこかで顔を合わせる気がする子。
デュードはペンをもう一度取った。
最後に、小さく書き足す。
次に会う時は、もう少し上で。
その文字は、いつもの彼女より少しだけ高い足場にあった。
シェイクはそれを見て、ほわりと笑った。
「デュードさん」
「はい」
「今日は、能力上位馬じゃないって言わない日、延長ですねぇ」
デュードは少し考えた。
「そうですね」
そして、静かに頷いた。
「今日だけ、延長します」
その夜、タガノデュードは眠る前にもう一度、朝日杯の直線を思い出した。
届かなかった勝者。
前にいたエコロヴァルツ。
自分の足元。
古吉トレーナーの声。
高い足場でも、立てた。
次は、もう少し上に組む。
その決意はまだ小さい。
でも、低すぎはしなかった。
エコロジーとロマンチック。
夢と地面。
エコロヴァルツという名前は、デュードの胸の中で、不思議な響きを残していた。