冬のトレセンは、音が硬い。
朝の空気は冷たく、吐く息は白い。
廊下を歩く足音も、調教へ向かうウマ娘たちの声も、どこか少し乾いて聞こえる。
シェイクユアハートは、マフラーに顔を埋めながら呟いた。
「ほわ~……冬の心臓は、縮みますぅ……」
隣を歩いていたタガノデュードが、手袋を直しながら言う。
「筋肉も縮みます。準備運動はちゃんとしてください」
「デュードさん、現場監督ですぅ……」
「冬場の現場は事故が増えるので」
「ここ、トレセンですぅ……」
「現場です」
即答だった。
二人は同じ寮の同じ部屋で、冬を迎えていた。
秋から冬へ。
数字は確かに進んでいた。
デュードは未勝利を脱した。
朝日杯フューチュリティステークスでは五着。
勝てなかったが、GⅠの掲示板に名前を残した。
シェイクは二勝クラスを勝ち、三勝クラスへ上がった。
比叡ステークスは四着。
サンタクロースステークスは二着。
どちらも、前へ進んでいる。
進んでいるはずだった。
けれど冬になってから、二人の机に並ぶメモは、不思議と重くなっていた。
シェイクの机には、こう書かれている。
三勝クラス。
比叡ステークス四着。
サンタクロースステークス二着。
近い。
でも、勝っていない。
デュードの机には、こう書かれている。
二歳未勝利一着。
朝日杯フューチュリティステークス五着。
高い足場でも、立てた。
でも、次の足場はまだ見えない。
進んだはずなのに、まだ足元を見ている。
それが、二人の冬だった。
シェイクの次走は、八坂ステークスに決まった。
京都、芝2200。
三勝クラス。
サンタクロースステークスで二着に来たあとだったから、周囲の空気には少し期待があった。
次こそ。
もう届くのではないか。
前走だけ走れれば。
古吉トレーナーとなら。
そういう声が、はっきり言葉にならなくても、寮の空気に少し混じっていた。
シェイクはそれを感じていた。
「近いと、期待されますぅ……」
部屋で湯呑みを持ちながら、シェイクはぽつりと言った。
デュードは資料の角をそろえる手を止めた。
「二着でしたからね」
「はいぃ……一着の隣でしたぁ」
「隣なのに、違いますね」
「すごく違いましたぁ」
シェイクは湯呑みの中を見つめる。
サンタクロースステークス。
ゴール板の前。
一番前ではなかった。
でも、遠くもなかった。
それが、かえって胸に残った。
「遠かったら、もっと分かりやすいんですけどぉ……」
「近いと?」
「心臓が、そこに置いてきぼりになりますぅ」
デュードは少し黙った。
それから、静かに頷いた。
「分かります」
「デュードさんもですかぁ?」
「朝日杯の五着が、少しそうです」
デュードは、自分の机の上に置いた朝日杯のメモを見た。
エコロヴァルツ。
高い足場。
GⅠ五着。
次に会う時は、もう少し上で。
「勝てなかったのに、手応えが残ったんです。だから、次も何かできるんじゃないかって思ってしまう」
「はいぃ」
「でも、思ったからって、次に勝てるわけじゃない」
デュードは資料を閉じた。
「現場でいうと、前回うまくいった段取りをそのまま使ったら、天気も資材も人員も違って崩れるやつです」
「ほわ~……分かるような、分からないような……」
「だいたい危ないです」
「危ないんですねぇ……」
シェイクは胸に手を当てた。
前回近かった。
だから今回も近いとは限らない。
分かっている。
でも、心臓は少しだけ先へ行こうとする。
八坂ステークスの日、京都の空は冬らしく淡かった。
パドックを歩くシェイクの耳は、いつもより少し忙しかった。
寒さのせいか、期待のせいか、自分でも分からない。
古吉トレーナーは、隣でいつも通り資料を持っていた。
「硬いな」
「やっぱりですかぁ……」
「前走二着やからな」
「二着だと、硬くなりますかぁ?」
「なるやつはなる」
「ほわ~……」
「お前はなる」
「断言されましたぁ……」
古吉トレーナーは、パドックの先を見たまま言った。
「前走は前走や」
「はいぃ」
「二着を持ってくるな、とは言わん。持っていけるもんは持っていけばええ」
「はいぃ」
「でも、二着の続きやと思うな」
シェイクの耳が動いた。
「続きじゃないんですかぁ?」
「違うレースや」
古吉トレーナーは短く言った。
「サンタクロースステークスの直線は、今日はない。今日あるんは、八坂ステークスの京都2200だけや」
その言葉は、冬の空気みたいに冷たかった。
でも、目が覚める冷たさだった。
「はいぃ……今日の京都2200を走りますぅ」
「それでええ」
ゲートに入る。
シェイクの心臓は鳴っていた。
サンタクロースステークスの二着。
比叡ステークスの四着。
三勝クラスの壁。
古吉トレーナーの声。
全部が胸の奥にある。
けれど、今日のレースは今日のレース。
扉が開いた。
シェイクは出た。
悪くない。
位置も取れている。
前を見ながら、無理に急がず、脚を残す。
古吉トレーナーの声が届く。
「そこでええ」
そこでいい。
一コーナー。
二コーナー。
流れは落ち着いているようで、簡単ではない。
三勝クラスの相手は、少し緩んだところで楽をさせてはくれない。
向こう正面。
シェイクは前を見た。
サンタクロースステークスのように、直線で届くイメージを探しかける。
でも、古吉トレーナーの言葉が戻ってきた。
今日は、八坂ステークスの京都2200だけ。
「はいぃ……」
シェイクは小さく息を吐いた。
三コーナー。
前が動く。
シェイクも準備する。
だが、今日は前走ほど身体がすっと上がってこなかった。
脚がないわけではない。
苦しいわけでもない。
でも、勝負どころでほんの少し、心臓と足の位置がずれる。
「シェイク、置いていかれるな」
古吉トレーナーの声。
シェイクは踏む。
四コーナー。
前が見える。
直線。
脚を使う。
一頭を追う。
前を追う。
でも、前との差が思ったほど詰まらない。
外から伸びる子がいる。
内で粘る子もいる。
シェイクも止まってはいない。
最後まで走っている。
けれど、今日の一番前には届かない。
ゴール板が過ぎる。
六着。
シェイクは、しばらく息を整えながら前を見ていた。
「ほわ~……」
前走は二着だった。
今日は六着。
遠くなった。
その感覚が、思ったより胸に痛かった。
古吉トレーナーが来た。
「六着や」
「はいぃ……六着でしたぁ」
「悪すぎるわけやない」
「でも、近くなかったですぅ……」
「せやな」
古吉トレーナーは、ごまかさなかった。
「前走みたいにはいかんかった」
「はいぃ」
「三勝クラスは、近づいたと思ったら離れる時がある」
シェイクは耳を伏せた。
「それ、困りますぅ……」
「困るな」
「どうしたらいいですかぁ?」
「持って帰れるもんだけ持って帰れ」
古吉トレーナーは、いつものように短く言った。
「二着のあとに六着になることもある。それを知った。今日はそれでええ」
「それで……」
「勝ってない日は、全部を意味にせんでええ。けど、何もなかったことにもするな」
シェイクは胸に手を当てた。
心臓は鳴っている。
サンタクロースステークスの時とは違う音だった。
近い音ではない。
少し離された音。
でも、止まった音ではない。
「はいぃ……持って帰りますぅ」
寮に戻った夜、デュードはシェイクの机に温かいお茶を置いた。
「六着でしたね」
「六着でしたぁ」
「悔しいですか」
「悔しいですぅ」
「二着のあとだから?」
「はいぃ……一回近かったのに、離れましたぁ」
シェイクは、八坂ステークスのメモに書く。
六着。
前走の続きではなかった。
三勝クラスは、近づいたと思ったら離れる。
何もなかったことにはしない。
デュードはそれを読んで、少し眉を下げた。
「現場でもあります」
「ありますかぁ?」
「昨日うまくいった段取りが、今日そのまま使えないこと」
「はいぃ」
「そのたびに、図面を直します」
「シェイクも、図面を直しますぅ……」
「一緒に直しましょう」
デュードはそう言って、自分の机に戻った。
彼女の次走は、こぶし賞だった。
京都、芝千六。
一勝クラス。
朝日杯でGⅠ五着になったあと、自己条件へ戻る一戦。
周囲からすれば、期待して当然の舞台だった。
GⅠで掲示板に載ったのだから、ここでは勝ってほしい。
親も、施設の人たちも、たぶん同じことを思っている。
デュード自身も、思っていた。
勝ちたい。
でも、その思いには少し別の重さが混じっていた。
「朝日杯五着の子って、言われるんですよね」
ある夜、デュードが言った。
シェイクは湯呑みを持ったまま首を傾げる。
「言われますかぁ?」
「はい。悪い意味ではないんです。むしろ褒められてます」
「はいぃ」
「でも、朝日杯五着の子が自己条件で届かなかったら、ちょっと困るじゃないですか」
「困りますかぁ?」
「困ります。たぶん親が」
「デュードさんは?」
デュードは少し黙った。
「わたしも、困ります」
そして、小さく息を吐く。
「高い足場に立てたなら、低い足場ではちゃんと歩けるはずって思ってしまうので」
「足場、高い低い、難しいですぅ……」
「難しいです」
デュードは自分の手を見た。
「わたしは能力上位馬じゃないからな~って言うの、最近ちょっと便利に使いすぎてた気がします」
「ほわ」
「負けた時に、まあそうだよねって言えるようにしてたんです。でも、朝日杯で五着に来たら、その言い訳も少し使いにくくなりました」
「じゃあ、言わないですかぁ?」
「言いたいです」
「言いたいんですかぁ……」
「怖いので」
デュードの声は静かだった。
「期待されるの、怖いです。親の夢も、施設の人たちの声も、朝日杯の五着も。全部ありがたいのに、全部重いです」
シェイクは部屋の隅を見た。
期待置き場。
「置きますかぁ?」
「半分置きます」
「はいぃ」
「でも、朝日杯の五着は少し持っていきます」
「速くなるものですかぁ?」
「たぶん」
デュードは少し考えて、頷いた。
「高い足場でも立てた、という証拠なので」
「じゃあ、持っていきましょう」
「はい」
こぶし賞の日、デュードの隣にも古吉トレーナーがいた。
シェイクは、少し離れたところでその姿を見ていた。
古吉トレーナーは、シェイクの時と同じように大げさなことは言わない。
朝日杯五着のデュードにも、未勝利を勝ったばかりのデュードにも、同じように立っている。
「硬いな」
古吉トレーナーが言った。
「硬いですか」
「硬い」
「朝日杯のあとだからですかね」
「知らん」
「そこは考えてください」
「考えるのはお前や」
デュードは少しだけ眉を寄せた。
でも、すぐに息を吐いた。
「はい」
「朝日杯の五着、持ってきたか」
「持ってきました」
「親の期待は?」
「半分置いてきました」
「能力上位じゃないってやつは?」
デュードは一瞬、言葉に詰まった。
「……今日は、置いてきたことにします」
「ことにします、か」
「完全には置けてないです」
「それでええ。全部きれいに片づけてから走れる日なんか、そうない」
古吉トレーナーは前を見た。
「散らかったまま、走れ」
デュードは目を丸くした。
「古吉さん、シェイクさんの机を見たことあります?」
「ある」
「それでその言葉ですか」
「せや」
「不安です」
「でも走るやろ」
デュードは、少しだけ笑った。
「走ります」
ゲートが開いた。
デュードは出た。
京都の芝千六。
朝日杯とは違う。
未勝利とも違う。
自己条件とはいえ、簡単な場所ではない。
それでも、デュードは流れに乗った。
足元を見る。
でも、低く組みすぎない。
前を見る。
でも、心臓だけ先に行かせない。
古吉トレーナーの声が届く。
「そこでええ」
デュードは走る。
朝日杯の高い足場。
親の期待。
エコロヴァルツの名前。
能力上位馬じゃないという口癖。
全部が頭の中にある。
でも、足の裏は芝を踏んでいる。
直線。
デュードは前を追った。
届きそうだった。
前の背中が見える。
脚も使っている。
でも、一番前には届かない。
二番目にも、三番目にも届かない。
ゴール。
四着。
デュードは、少しの間、前を見たまま動かなかった。
古吉トレーナーが来る。
「四着や」
「はい」
「掲示板には来た」
「はい」
「けど、券には足りん」
「……はい」
デュードは、息を整えながら言った。
「朝日杯五着の子が、自己条件で四着です」
「朝日杯は朝日杯や」
古吉トレーナーは短く返した。
「今日はこぶし賞や」
「分かってます」
「分かっとる顔やないな」
「分かりたくない顔です」
デュードは、少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
「高い足場に立てたからって、下の足場でつまずかないわけじゃないんですね」
「せやな」
「自己条件なら、もっとちゃんと歩けると思ってました」
「思ってたより、足場が凍っとったな」
その言葉に、デュードは少しだけ目を伏せた。
「……冬なので」
「冬やからな」
古吉トレーナーは、デュードの方を見た。
「今日の四着は、なくしてええ四着やない」
「持って帰るんですか」
「持って帰れ。朝日杯五着だけ持っとったら、足元見えへんようになる」
デュードは黙った。
朝日杯五着。
こぶし賞四着。
高い足場と、凍った足元。
両方持たなければ、自分の現在地が分からない。
「はい」
デュードはゆっくり頷いた。
「持って帰ります」
寮に戻った夜、二人の机には、また新しいメモが増えた。
シェイク。
八坂ステークス六着。
近づいたと思ったら離れた。
三勝クラスは、前走の続きではない。
何もなかったことにはしない。
デュード。
こぶし賞四着。
朝日杯五着でも、自己条件は簡単じゃない。
高い足場に立てたからって、下の足場でつまずかないわけじゃない。
朝日杯五着だけ持っていたら、足元が見えなくなる。
シェイクはデュードのメモを覗き込んだ。
「足元、凍ってましたかぁ」
「凍ってました」
「滑りましたかぁ」
「少し」
「転びましたかぁ?」
「転んではないです。四着なので」
デュードはペンを置いた。
「でも、思っていたより遠かったです」
「はいぃ……わたしも今日は遠かったですぅ」
六着。
四着。
シェイクは三勝クラスで離された。
デュードは自己条件で届かなかった。
どちらも、思っていたより遠かった。
二人はしばらく黙ってお茶を飲んだ。
冬の夜は静かだった。
外の空気は冷たく、窓には白い息が少しだけ映る。
「デュードさん」
「はい」
「勝ち上がったはずなのに、冬って難しいですねぇ」
「はい」
「足場、凍ってますぅ」
「凍ってますね」
「滑りますかぁ?」
「滑ります」
「転ばないようにするには?」
「組み直します」
デュードは湯呑みを置いた。
「シェイクさんも、三勝クラスの図面を直しましょう」
「はいぃ」
「わたしも、一勝クラスの足場を直します」
「一緒に直しますぅ」
二人の机の上には、勝利ではない数字が並んでいた。
六着。
四着。
期待された数字ではなかった。
胸が震えるほど近い数字でもなかった。
それでも、そのどちらも、次へ持っていく冬の材料だった。
シェイクユアハートは、三勝クラスの寒さを知った。
タガノデュードは、朝日杯のあとにも足元を見なければならないことを知った。
勝ち上がったはずの冬。
それは、思っていたより冷たかった。
でも二人は、まだ同じ部屋でお茶を飲んでいる。
机の上のメモを並べ直しながら、次の足場を、少しずつ組み直している。