心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

14 / 30
[第十四章]勝ち上がったはずの冬

冬のトレセンは、音が硬い。

 

朝の空気は冷たく、吐く息は白い。

廊下を歩く足音も、調教へ向かうウマ娘たちの声も、どこか少し乾いて聞こえる。

 

シェイクユアハートは、マフラーに顔を埋めながら呟いた。

 

「ほわ~……冬の心臓は、縮みますぅ……」

 

隣を歩いていたタガノデュードが、手袋を直しながら言う。

 

「筋肉も縮みます。準備運動はちゃんとしてください」

 

「デュードさん、現場監督ですぅ……」

 

「冬場の現場は事故が増えるので」

 

「ここ、トレセンですぅ……」

 

「現場です」

 

即答だった。

 

二人は同じ寮の同じ部屋で、冬を迎えていた。

 

秋から冬へ。

数字は確かに進んでいた。

 

デュードは未勝利を脱した。

朝日杯フューチュリティステークスでは五着。

勝てなかったが、GⅠの掲示板に名前を残した。

 

シェイクは二勝クラスを勝ち、三勝クラスへ上がった。

比叡ステークスは四着。

サンタクロースステークスは二着。

 

どちらも、前へ進んでいる。

 

進んでいるはずだった。

 

けれど冬になってから、二人の机に並ぶメモは、不思議と重くなっていた。

 

シェイクの机には、こう書かれている。

 

三勝クラス。

比叡ステークス四着。

サンタクロースステークス二着。

近い。

でも、勝っていない。

 

デュードの机には、こう書かれている。

 

二歳未勝利一着。

朝日杯フューチュリティステークス五着。

高い足場でも、立てた。

でも、次の足場はまだ見えない。

 

進んだはずなのに、まだ足元を見ている。

 

それが、二人の冬だった。

 

シェイクの次走は、八坂ステークスに決まった。

 

京都、芝2200。

三勝クラス。

 

サンタクロースステークスで二着に来たあとだったから、周囲の空気には少し期待があった。

 

次こそ。

もう届くのではないか。

前走だけ走れれば。

古吉トレーナーとなら。

 

そういう声が、はっきり言葉にならなくても、寮の空気に少し混じっていた。

 

シェイクはそれを感じていた。

 

「近いと、期待されますぅ……」

 

部屋で湯呑みを持ちながら、シェイクはぽつりと言った。

 

デュードは資料の角をそろえる手を止めた。

 

「二着でしたからね」

 

「はいぃ……一着の隣でしたぁ」

 

「隣なのに、違いますね」

 

「すごく違いましたぁ」

 

シェイクは湯呑みの中を見つめる。

 

サンタクロースステークス。

ゴール板の前。

一番前ではなかった。

でも、遠くもなかった。

 

それが、かえって胸に残った。

 

「遠かったら、もっと分かりやすいんですけどぉ……」

 

「近いと?」

 

「心臓が、そこに置いてきぼりになりますぅ」

 

デュードは少し黙った。

 

それから、静かに頷いた。

 

「分かります」

 

「デュードさんもですかぁ?」

 

「朝日杯の五着が、少しそうです」

 

デュードは、自分の机の上に置いた朝日杯のメモを見た。

 

エコロヴァルツ。

高い足場。

GⅠ五着。

次に会う時は、もう少し上で。

 

「勝てなかったのに、手応えが残ったんです。だから、次も何かできるんじゃないかって思ってしまう」

 

「はいぃ」

 

「でも、思ったからって、次に勝てるわけじゃない」

 

デュードは資料を閉じた。

 

「現場でいうと、前回うまくいった段取りをそのまま使ったら、天気も資材も人員も違って崩れるやつです」

 

「ほわ~……分かるような、分からないような……」

 

「だいたい危ないです」

 

「危ないんですねぇ……」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

前回近かった。

だから今回も近いとは限らない。

 

分かっている。

でも、心臓は少しだけ先へ行こうとする。

 

八坂ステークスの日、京都の空は冬らしく淡かった。

 

パドックを歩くシェイクの耳は、いつもより少し忙しかった。

寒さのせいか、期待のせいか、自分でも分からない。

 

古吉トレーナーは、隣でいつも通り資料を持っていた。

 

「硬いな」

 

「やっぱりですかぁ……」

 

「前走二着やからな」

 

「二着だと、硬くなりますかぁ?」

 

「なるやつはなる」

 

「ほわ~……」

 

「お前はなる」

 

「断言されましたぁ……」

 

古吉トレーナーは、パドックの先を見たまま言った。

 

「前走は前走や」

 

「はいぃ」

 

「二着を持ってくるな、とは言わん。持っていけるもんは持っていけばええ」

 

「はいぃ」

 

「でも、二着の続きやと思うな」

 

シェイクの耳が動いた。

 

「続きじゃないんですかぁ?」

 

「違うレースや」

 

古吉トレーナーは短く言った。

 

「サンタクロースステークスの直線は、今日はない。今日あるんは、八坂ステークスの京都2200だけや」

 

その言葉は、冬の空気みたいに冷たかった。

 

でも、目が覚める冷たさだった。

 

「はいぃ……今日の京都2200を走りますぅ」

 

「それでええ」

 

ゲートに入る。

 

シェイクの心臓は鳴っていた。

 

サンタクロースステークスの二着。

比叡ステークスの四着。

三勝クラスの壁。

古吉トレーナーの声。

 

全部が胸の奥にある。

 

けれど、今日のレースは今日のレース。

 

扉が開いた。

 

シェイクは出た。

 

悪くない。

位置も取れている。

前を見ながら、無理に急がず、脚を残す。

 

古吉トレーナーの声が届く。

 

「そこでええ」

 

そこでいい。

 

一コーナー。

二コーナー。

 

流れは落ち着いているようで、簡単ではない。

三勝クラスの相手は、少し緩んだところで楽をさせてはくれない。

 

向こう正面。

シェイクは前を見た。

 

サンタクロースステークスのように、直線で届くイメージを探しかける。

 

でも、古吉トレーナーの言葉が戻ってきた。

 

今日は、八坂ステークスの京都2200だけ。

 

「はいぃ……」

 

シェイクは小さく息を吐いた。

 

三コーナー。

前が動く。

 

シェイクも準備する。

 

だが、今日は前走ほど身体がすっと上がってこなかった。

脚がないわけではない。

苦しいわけでもない。

でも、勝負どころでほんの少し、心臓と足の位置がずれる。

 

「シェイク、置いていかれるな」

 

古吉トレーナーの声。

 

シェイクは踏む。

四コーナー。

前が見える。

 

直線。

 

脚を使う。

 

一頭を追う。

前を追う。

でも、前との差が思ったほど詰まらない。

外から伸びる子がいる。

内で粘る子もいる。

 

シェイクも止まってはいない。

最後まで走っている。

けれど、今日の一番前には届かない。

 

ゴール板が過ぎる。

 

六着。

 

シェイクは、しばらく息を整えながら前を見ていた。

 

「ほわ~……」

 

前走は二着だった。

 

今日は六着。

 

遠くなった。

 

その感覚が、思ったより胸に痛かった。

 

古吉トレーナーが来た。

 

「六着や」

 

「はいぃ……六着でしたぁ」

 

「悪すぎるわけやない」

 

「でも、近くなかったですぅ……」

 

「せやな」

 

古吉トレーナーは、ごまかさなかった。

 

「前走みたいにはいかんかった」

 

「はいぃ」

 

「三勝クラスは、近づいたと思ったら離れる時がある」

 

シェイクは耳を伏せた。

 

「それ、困りますぅ……」

 

「困るな」

 

「どうしたらいいですかぁ?」

 

「持って帰れるもんだけ持って帰れ」

 

古吉トレーナーは、いつものように短く言った。

 

「二着のあとに六着になることもある。それを知った。今日はそれでええ」

 

「それで……」

 

「勝ってない日は、全部を意味にせんでええ。けど、何もなかったことにもするな」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

心臓は鳴っている。

サンタクロースステークスの時とは違う音だった。

 

近い音ではない。

少し離された音。

でも、止まった音ではない。

 

「はいぃ……持って帰りますぅ」

 

寮に戻った夜、デュードはシェイクの机に温かいお茶を置いた。

 

「六着でしたね」

 

「六着でしたぁ」

 

「悔しいですか」

 

「悔しいですぅ」

 

「二着のあとだから?」

 

「はいぃ……一回近かったのに、離れましたぁ」

 

シェイクは、八坂ステークスのメモに書く。

 

六着。

前走の続きではなかった。

三勝クラスは、近づいたと思ったら離れる。

何もなかったことにはしない。

 

デュードはそれを読んで、少し眉を下げた。

 

「現場でもあります」

 

「ありますかぁ?」

 

「昨日うまくいった段取りが、今日そのまま使えないこと」

 

「はいぃ」

 

「そのたびに、図面を直します」

 

「シェイクも、図面を直しますぅ……」

 

「一緒に直しましょう」

 

デュードはそう言って、自分の机に戻った。

 

彼女の次走は、こぶし賞だった。

 

京都、芝千六。

一勝クラス。

 

朝日杯でGⅠ五着になったあと、自己条件へ戻る一戦。

 

周囲からすれば、期待して当然の舞台だった。

GⅠで掲示板に載ったのだから、ここでは勝ってほしい。

親も、施設の人たちも、たぶん同じことを思っている。

 

デュード自身も、思っていた。

 

勝ちたい。

 

でも、その思いには少し別の重さが混じっていた。

 

「朝日杯五着の子って、言われるんですよね」

 

ある夜、デュードが言った。

 

シェイクは湯呑みを持ったまま首を傾げる。

 

「言われますかぁ?」

 

「はい。悪い意味ではないんです。むしろ褒められてます」

 

「はいぃ」

 

「でも、朝日杯五着の子が自己条件で届かなかったら、ちょっと困るじゃないですか」

 

「困りますかぁ?」

 

「困ります。たぶん親が」

 

「デュードさんは?」

 

デュードは少し黙った。

 

「わたしも、困ります」

 

そして、小さく息を吐く。

 

「高い足場に立てたなら、低い足場ではちゃんと歩けるはずって思ってしまうので」

 

「足場、高い低い、難しいですぅ……」

 

「難しいです」

 

デュードは自分の手を見た。

 

「わたしは能力上位馬じゃないからな~って言うの、最近ちょっと便利に使いすぎてた気がします」

 

「ほわ」

 

「負けた時に、まあそうだよねって言えるようにしてたんです。でも、朝日杯で五着に来たら、その言い訳も少し使いにくくなりました」

 

「じゃあ、言わないですかぁ?」

 

「言いたいです」

 

「言いたいんですかぁ……」

 

「怖いので」

 

デュードの声は静かだった。

 

「期待されるの、怖いです。親の夢も、施設の人たちの声も、朝日杯の五着も。全部ありがたいのに、全部重いです」

 

シェイクは部屋の隅を見た。

 

期待置き場。

 

「置きますかぁ?」

 

「半分置きます」

 

「はいぃ」

 

「でも、朝日杯の五着は少し持っていきます」

 

「速くなるものですかぁ?」

 

「たぶん」

 

デュードは少し考えて、頷いた。

 

「高い足場でも立てた、という証拠なので」

 

「じゃあ、持っていきましょう」

 

「はい」

 

こぶし賞の日、デュードの隣にも古吉トレーナーがいた。

 

シェイクは、少し離れたところでその姿を見ていた。

 

古吉トレーナーは、シェイクの時と同じように大げさなことは言わない。

朝日杯五着のデュードにも、未勝利を勝ったばかりのデュードにも、同じように立っている。

 

「硬いな」

 

古吉トレーナーが言った。

 

「硬いですか」

 

「硬い」

 

「朝日杯のあとだからですかね」

 

「知らん」

 

「そこは考えてください」

 

「考えるのはお前や」

 

デュードは少しだけ眉を寄せた。

 

でも、すぐに息を吐いた。

 

「はい」

 

「朝日杯の五着、持ってきたか」

 

「持ってきました」

 

「親の期待は?」

 

「半分置いてきました」

 

「能力上位じゃないってやつは?」

 

デュードは一瞬、言葉に詰まった。

 

「……今日は、置いてきたことにします」

 

「ことにします、か」

 

「完全には置けてないです」

 

「それでええ。全部きれいに片づけてから走れる日なんか、そうない」

 

古吉トレーナーは前を見た。

 

「散らかったまま、走れ」

 

デュードは目を丸くした。

 

「古吉さん、シェイクさんの机を見たことあります?」

 

「ある」

 

「それでその言葉ですか」

 

「せや」

 

「不安です」

 

「でも走るやろ」

 

デュードは、少しだけ笑った。

 

「走ります」

 

ゲートが開いた。

 

デュードは出た。

 

京都の芝千六。

朝日杯とは違う。

未勝利とも違う。

自己条件とはいえ、簡単な場所ではない。

 

それでも、デュードは流れに乗った。

 

足元を見る。

でも、低く組みすぎない。

前を見る。

でも、心臓だけ先に行かせない。

 

古吉トレーナーの声が届く。

 

「そこでええ」

 

デュードは走る。

 

朝日杯の高い足場。

親の期待。

エコロヴァルツの名前。

能力上位馬じゃないという口癖。

 

全部が頭の中にある。

 

でも、足の裏は芝を踏んでいる。

 

直線。

 

デュードは前を追った。

 

届きそうだった。

前の背中が見える。

脚も使っている。

でも、一番前には届かない。

二番目にも、三番目にも届かない。

 

ゴール。

 

四着。

 

デュードは、少しの間、前を見たまま動かなかった。

 

古吉トレーナーが来る。

 

「四着や」

 

「はい」

 

「掲示板には来た」

 

「はい」

 

「けど、券には足りん」

 

「……はい」

 

デュードは、息を整えながら言った。

 

「朝日杯五着の子が、自己条件で四着です」

 

「朝日杯は朝日杯や」

 

古吉トレーナーは短く返した。

 

「今日はこぶし賞や」

 

「分かってます」

 

「分かっとる顔やないな」

 

「分かりたくない顔です」

 

デュードは、少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。

 

「高い足場に立てたからって、下の足場でつまずかないわけじゃないんですね」

 

「せやな」

 

「自己条件なら、もっとちゃんと歩けると思ってました」

 

「思ってたより、足場が凍っとったな」

 

その言葉に、デュードは少しだけ目を伏せた。

 

「……冬なので」

 

「冬やからな」

 

古吉トレーナーは、デュードの方を見た。

 

「今日の四着は、なくしてええ四着やない」

 

「持って帰るんですか」

 

「持って帰れ。朝日杯五着だけ持っとったら、足元見えへんようになる」

 

デュードは黙った。

 

朝日杯五着。

こぶし賞四着。

 

高い足場と、凍った足元。

 

両方持たなければ、自分の現在地が分からない。

 

「はい」

 

デュードはゆっくり頷いた。

 

「持って帰ります」

 

寮に戻った夜、二人の机には、また新しいメモが増えた。

 

シェイク。

 

八坂ステークス六着。

近づいたと思ったら離れた。

三勝クラスは、前走の続きではない。

何もなかったことにはしない。

 

デュード。

 

こぶし賞四着。

朝日杯五着でも、自己条件は簡単じゃない。

高い足場に立てたからって、下の足場でつまずかないわけじゃない。

朝日杯五着だけ持っていたら、足元が見えなくなる。

 

シェイクはデュードのメモを覗き込んだ。

 

「足元、凍ってましたかぁ」

 

「凍ってました」

 

「滑りましたかぁ」

 

「少し」

 

「転びましたかぁ?」

 

「転んではないです。四着なので」

 

デュードはペンを置いた。

 

「でも、思っていたより遠かったです」

 

「はいぃ……わたしも今日は遠かったですぅ」

 

六着。

四着。

 

シェイクは三勝クラスで離された。

デュードは自己条件で届かなかった。

 

どちらも、思っていたより遠かった。

 

二人はしばらく黙ってお茶を飲んだ。

 

冬の夜は静かだった。

外の空気は冷たく、窓には白い息が少しだけ映る。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「勝ち上がったはずなのに、冬って難しいですねぇ」

 

「はい」

 

「足場、凍ってますぅ」

 

「凍ってますね」

 

「滑りますかぁ?」

 

「滑ります」

 

「転ばないようにするには?」

 

「組み直します」

 

デュードは湯呑みを置いた。

 

「シェイクさんも、三勝クラスの図面を直しましょう」

 

「はいぃ」

 

「わたしも、一勝クラスの足場を直します」

 

「一緒に直しますぅ」

 

二人の机の上には、勝利ではない数字が並んでいた。

 

六着。

四着。

 

期待された数字ではなかった。

胸が震えるほど近い数字でもなかった。

 

それでも、そのどちらも、次へ持っていく冬の材料だった。

 

シェイクユアハートは、三勝クラスの寒さを知った。

タガノデュードは、朝日杯のあとにも足元を見なければならないことを知った。

 

勝ち上がったはずの冬。

 

それは、思っていたより冷たかった。

 

でも二人は、まだ同じ部屋でお茶を飲んでいる。

机の上のメモを並べ直しながら、次の足場を、少しずつ組み直している。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。