冬が終わりに向かっても、タガノデュードの机の上には、まだ少し冷たい数字が残っていた。
こぶし賞、四着。
朝日杯フューチュリティステークスで五着に入ったあと、自己条件へ戻っての四着。
掲示板には載った。
大きく崩れたわけではない。
けれど、勝ってはいない。馬券圏内にも届いていない。
デュードはその数字を、何度も見た。
朝日杯五着。
こぶし賞四着。
高い足場に立てたからといって、低い足場でつまずかないわけではない。
古吉トレーナーはそう言った。
その通りだった。
悔しいくらい、その通りだった。
「デュードさん、また見てますぅ」
向かいの机から、シェイクユアハートが湯呑みを両手で包みながら言った。
「見てます」
「穴が空きそうですぅ」
「空いたら、そこから何か分かるかもしれません」
「ほわ~……現場の人ですぅ……」
「現場でも、見すぎて穴が空いた図面は使えませんけどね」
デュードはそう言って、紙の角をそろえた。
シェイクの机にも、新しい数字があった。
八坂ステークス、六着。
サンタクロースステークスで二着に来たあと、次で六着。
三勝クラスの足場は、近づいたと思ったら離れる。
シェイクはそう書いていた。
同じ部屋に、二つの届かなかった数字が並んでいる。
六着。
四着。
どちらも勝利ではない。
どちらも、期待された結果ではない。
それでも、春は来る。
春は勝手に来る。
こちらの足場が凍っていようが、図面が直っていなかろうが、予定表には次のレース名が書き込まれていく。
デュードの次は、フローラルウォーク賞だった。
中京、芝千六。
一勝クラス。
朝日杯の五着と、こぶし賞の四着。
そのあいだで揺れたまま、デュードは春の入口に立つことになった。
「今度こそ、ですかね」
デュードが呟くと、シェイクは顔を上げた。
「今度こそ?」
「はい。朝日杯五着のあと、こぶし賞四着で。今度は、ちゃんと上に行かないとって」
「ちゃんと……」
「親も、施設の人たちも、たぶんそう思ってます」
デュードは資料を閉じた。
「わたしも、思ってます」
シェイクは少しだけ眉を下げた。
「デュードさん、それ持っていくと重そうですぅ」
「重いです」
「置きますかぁ?」
シェイクは部屋の隅を見た。
期待置き場。
何もない床。
でも、二人にとっては、少しだけ余計な荷物を置ける場所。
デュードはその場所を見て、少し考えた。
「全部は置けません」
「はいぃ」
「でも、親の“今度こそ”は半分置きます」
「施設の人たちは?」
「応援として少し持っていきます」
「朝日杯五着は?」
「証拠として持っていきます」
「こぶし賞四着は?」
デュードは一瞬、黙った。
「……足元として持っていきます」
シェイクはほわりと笑った。
「いいと思いますぅ」
「根拠あります?」
「同室なのでぇ」
「便利ですね、同室」
「はいぃ。万能ですぅ」
フローラルウォーク賞の日、中京の空は曇っていた。
春と呼ぶには、まだ少し肌寒い。
けれど冬ほど硬くはない。
空気の中に、少しだけ次の季節の匂いが混じっている。
デュードの隣には、古吉トレーナーがいた。
古吉トレーナーはいつも通りだった。
朝日杯五着のあとでも、こぶし賞四着のあとでも、春の一戦でも、変に熱を入れたりはしない。
「硬いな」
「またですか」
「またや」
「毎回言われてます」
「毎回硬いからな」
デュードは少しだけ口を尖らせた。
「少しは柔らかくなってませんか」
「前よりはな」
「なら、褒めてください」
「まだ硬い」
「褒める気あります?」
「あったら言う」
デュードは小さく息を吐いた。
こういうところが、古吉トレーナーだった。
優しくないわけではない。
でも、甘くはない。
余計な言葉で包まない。
走るのに邪魔なものだけ、少しずつ横へ退かす。
「今日は、何を持っていけばいいですか」
デュードが聞くと、古吉トレーナーは少し考えた。
「朝日杯の五着」
「はい」
「こぶし賞の四着」
「はい」
「親の期待は少しだけ」
「半分置いてきました」
「ならええ」
「能力上位馬じゃないってやつは?」
自分で聞いてから、デュードは少し苦笑した。
古吉トレーナーは言った。
「持っていきたいなら持っていけ」
「いいんですか」
「それで楽になるならな」
「逃げになるなら?」
「重くなる」
デュードは黙った。
「じゃあ、置いていきます」
「無理に置かんでもええ」
「今日は、置いていきます」
古吉トレーナーは頷いた。
「ほな、走れ」
ゲートが開いた。
デュードは出た。
中京の芝千六。
朝日杯とも、こぶし賞とも違う。
だが、流れには乗れている。
足元は見えている。
低く組みすぎてはいない。
前を見る。
急がない。
でも、下げすぎない。
古吉トレーナーの声が届く。
「そこでええ」
そこでいい。
デュードは息を入れた。
朝日杯の高い足場。
こぶし賞の凍った足元。
親の期待。
能力上位馬じゃないという口癖。
全部が消えたわけではない。
でも今日は、足の裏がちゃんと芝を踏んでいる。
三コーナー。
四コーナー。
前が動く。
デュードも動く。
直線。
デュードは脚を使った。
前が近づく。
届きそうで、届かない。
でも、こぶし賞の時よりは、足場が少しだけ高い。
一頭を追う。
もう一頭を追う。
最後まで踏む。
ゴール。
三着。
デュードは息を弾ませながら、前を見た。
一番前ではない。
二番目でもない。
けれど、こぶし賞より一つ前。
三着。
古吉トレーナーが来た。
「三着や」
「はい」
「前よりは上がったな」
「はい」
「でも勝ってへんな」
「はい」
デュードは頷いた。
悔しい。
けれど、少しだけ息ができる。
「古吉さん」
「何や」
「足場、少し組めました」
「せやな」
「でも、まだ上までは行けてません」
「せやな」
「勝てませんでした」
「せやな」
「でも、こぶし賞の四着は、持ってきてよかったです」
古吉トレーナーは、ほんの少し目を細めた。
「なら、今日の三着も持って帰れ」
「はい」
「次に使える」
デュードは頷いた。
「持って帰ります」
その夜、寮の部屋で、シェイクはデュードのメモを覗き込んだ。
フローラルウォーク賞三着。
こぶし賞より、一つ前。
でも、勝ってはいない。
足場は少し組めた。
まだ上までは行けていない。
「三着ですぅ」
「三着です」
「近づきましたぁ」
「近づきました」
「でも、勝ってないですぅ」
「それ、シェイクさんみたいなこと言いますね」
「ほわ」
二人は顔を見合わせた。
シェイクは三勝クラスで、ずっとそう言っている。
近い。
でも、勝っていない。
デュードはまだ一勝クラスにいる。
けれど、同じ言葉が少しずつ自分の机にも入り込んできていた。
「デュードさんも、沼ですかぁ?」
「やめてください」
「ほわ~……」
「まだ沼って言わないでください。まだ足場です」
「足場沼……」
「混ぜないでください」
デュードはそう言って、けれど少しだけ笑った。
春は、まだ始まったばかりだった。
しかし春の足場は、思っていたより高かった。
フローラルウォーク賞の三着から少しして、デュードの予定表には、アーリントンカップの文字が書き込まれた。
阪神、芝千六。
GⅢ。
朝日杯五着のあと、一勝クラスで四着、三着。
そして再び、重賞へ。
「早くないですか」
デュードは、宮田先生の部屋でそう言った。
宮田先生は資料を見ながら、渋い顔をしている。
「早いか遅いかで言えば、早い」
「ですよね」
「ただ、朝日杯で掲示板に載っとる。春のうちにもう一回、上でどこまでやれるか見たいという気持ちも分かる」
「親ですか」
「親もやし、周りもや」
「わたしは?」
デュードが聞くと、宮田先生は資料から顔を上げた。
「お前はどうや」
逆に聞かれた。
デュードはすぐに答えられなかった。
怖い。
それが最初にある。
朝日杯五着。
エコロヴァルツ。
高い足場でも立てた感触。
でも、こぶし賞は四着。フローラルウォーク賞は三着。
まだ自己条件も勝っていない。
その状態で、また重賞へ行く。
「怖いです」
デュードは正直に言った。
「でも……行きたくないわけじゃないです」
宮田先生は黙って聞いていた。
「朝日杯の五着が、たまたまだったのか。そうじゃないのか。知りたいです」
「知るには、傷つくかもしれんぞ」
「はい」
「それでもか」
デュードは足元を見た。
自分の足場は、まだ低い。
でも、低く組みすぎるなと言われた。
高いところへ行きたいなら、背伸びしないと届かない時もある。
「行きます」
そう答えた。
アーリントンカップの日、阪神の空は晴れていた。
パドックの空気は、フローラルウォーク賞とは違っていた。
重賞の熱。
強い子たちの気配。
前を見ている子たちの集中。
デュードは、その中で少し呼吸が浅くなるのを感じた。
古吉トレーナーが隣に来る。
「硬い」
「分かってます」
「分かっとるならええ」
「よくないです」
「ほな、ほどけ」
「どうやってですか」
「走りながら」
「そればっかりですね」
「それしかない時もある」
デュードは小さく息を吐いた。
「今日は、何を持っていけばいいですか」
「朝日杯五着」
「はい」
「フローラルウォーク賞三着」
「はい」
「こぶし賞四着」
「それもですか」
「いるやろ」
「いりますか」
「足元見るにはいる」
デュードは頷いた。
「能力上位じゃないは?」
「今日は持っていくな」
古吉トレーナーは短く言った。
デュードは少し驚いた。
「今日は、ですか」
「重賞でそれ持っとると、下がる理由ばかり探す」
「……はい」
「上を見ろ。ただし、足元も忘れるな」
「難しいですね」
「難しい場所や」
ゲートが開いた。
アーリントンカップの流れは速かった。
朝日杯とも違う。
自己条件とも違う。
前へ行く子の圧。
外から動く気配。
内で脚を溜める子たち。
デュードは流れに乗ろうとした。
乗れていないわけではない。
だが、楽ではない。
足場が高い。
風が強い。
フローラルウォーク賞で組めたと思った板が、ここでは少し薄く感じる。
古吉トレーナーの声が届く。
「焦るな」
焦らない。
「下がるな」
下がらない。
「前見とけ」
前を見る。
でも、前は遠い。
三コーナー。
四コーナー。
デュードは動こうとする。
しかし、強い子たちはもう先に動いている。
自分が踏む前に、前の足場が組み上がっていく。
直線。
脚は使っている。
けれど、一番前の争いには入れない。
どこかで見た高い足場。
朝日杯では立てた場所。
今日は、そこに長く立てない。
ゴール。
十着。
デュードは、息を整えながら、前を見た。
朝日杯五着の子が。
フローラルウォーク賞三着の子が。
重賞で十着。
古吉トレーナーが来た。
「十着や」
「はい」
「今日は、足りんかったな」
「はい」
「崩れた、とは言わん」
「でも、立てませんでした」
デュードの声は低かった。
「高い足場に、長く立てませんでした」
古吉トレーナーは黙って聞いた。
「朝日杯は、立てた気がしたんです。でも今日は……途中で、風が強くて」
「せやな」
「朝日杯五着だけじゃ、足場にはならないんですね」
「ならんな」
「悔しいです」
「おう」
「でも、怖かったです」
「それも持って帰れ」
デュードは顔を上げた。
「怖さもですか」
「捨てると、また同じ場所で足元見えへん」
古吉トレーナーは前を見た。
「今日は十着。高い足場で風が強かった。それだけや」
「それだけ……」
「それ以上でも、それ以下でもない」
デュードは唇を結んだ。
「はい」
アーリントンカップの十着は、デュードのメモに少し濃い字で残った。
アーリントンカップ十着。
重賞の足場は高い。
朝日杯五着だけでは、足場にならない。
怖かった。
でも、捨てない。
シェイクはそのメモを読んで、しばらく黙っていた。
「デュードさん」
「はい」
「春の風、強いですねぇ」
「強いです」
「寒いですかぁ?」
「寒いというより、足元を持っていかれます」
「ほわ~……」
シェイクは自分の三勝クラスのメモを見た。
勝てない。
近づいて、離れて、また近づく。
デュードは、朝日杯の五着から春の重賞へ向かい、十着になった。
違う場所にいる。
でも、苦さはどこか似ていた。
「お茶、濃いめにしますぅ」
「お願いします」
二人はその夜、いつもより少し濃いお茶を飲んだ。
しかし春は、まだデュードを離してくれなかった。
次の予定表に書かれたのは、京都新聞杯。
京都、芝2200。
GⅡ。
十四番人気。
それを見た時、デュードは少し笑ってしまった。
「十四番人気です」
部屋で資料を見ながら、デュードが言った。
「ほわ?」
「人気、十四です」
「たくさん下がりましたねぇ……」
「アーリントンカップ十着でしたからね」
「でも、出るんですかぁ?」
「出ます」
シェイクは、デュードの顔を見た。
怖がっている。
でも、逃げようとしている顔ではない。
「行きたいんですかぁ?」
シェイクが聞くと、デュードはしばらく黙った。
「行きたいというより、確認したいです」
「何をですかぁ?」
「春の大きい足場が、本当にわたしに高すぎるのか」
デュードは資料を閉じた。
「あと、親にも、施設の人たちにも、ちゃんと見せたいんです。朝日杯の五着だけじゃなくて、アーリントンカップの十着も、今のわたしだって」
「京都新聞杯も?」
「はい。たとえ十四番人気でも」
シェイクはほわりと頷いた。
「デュードさん、足場を低く組みすぎてないですねぇ」
「最近、組み方が分からなくなってるだけです」
「それでも、組もうとしてますぅ」
デュードは少しだけ笑った。
「同室補正ですか?」
「同室補正ですぅ」
京都新聞杯の日、デュードは不思議とアーリントンカップの時より静かだった。
人気はない。
期待も、朝日杯の時ほど熱くない。
親の声も、少し落ち着いていた。
それが寂しくもあり、少し楽でもあった。
古吉トレーナーは、やはりいつも通りだった。
「十四番人気やな」
「はい」
「気楽か」
「少し」
「腹立つか」
「少し」
「ならええ」
「いいんですか」
「何も感じんよりはええ」
デュードはパドックの先を見た。
「今日は、何を持っていけばいいですか」
「朝日杯五着」
「はい」
「こぶし賞四着」
「はい」
「フローラルウォーク賞三着」
「はい」
「アーリントンカップ十着」
「はい」
「十四番人気」
デュードは少しだけ笑った。
「それも持っていくんですか」
「それも今のお前やろ」
「はい」
「ただし、十四番人気らしく走るな」
デュードは顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「誰も見とらんみたいな顔するな、ってことや」
古吉トレーナーは短く言った。
「お前はお前を見とけ」
ゲートが開いた。
京都の芝2200。
距離も、流れも、これまでとは違う。
楽ではない。
だが、アーリントンカップの時のように、最初から足元を持っていかれる感じはなかった。
デュードは走った。
十四番人気。
朝日杯五着。
アーリントンカップ十着。
親の期待。
施設の視線。
エコロヴァルツの名前。
全部を抱えている。
でも、今日は少し違った。
人気がないなら、自分で自分を見るしかない。
誰かの期待が少ないなら、自分の足元を自分で見るしかない。
三コーナー。
四コーナー。
前は強い。
上位の子たちは簡単には止まらない。
けれど、デュードは沈まなかった。
直線。
脚を使う。
届かない。
勝負には届かない。
でも、完全に風に持っていかれることはない。
ゴール。
七着。
十四番人気、七着。
デュードは、息を弾ませながら、少しだけ空を見た。
勝っていない。
掲示板にも載っていない。
けれど、アーリントンカップの十着とは違う。
高すぎる足場から、ただ落ちたわけではなかった。
古吉トレーナーが来た。
「七着や」
「はい」
「十四番人気で七着」
「はい」
「よう走った方やな」
デュードは、少しだけ驚いた。
「褒めました?」
「少しな」
「珍しいですね」
「珍しいから覚えとけ」
デュードは笑おうとして、少しだけ目元が熱くなった。
「勝ってません」
「せやな」
「掲示板でもないです」
「せや」
「でも、今日は……」
デュードは言葉を探した。
「今日は、十四番人気のまま終わらなかった気がします」
古吉トレーナーは頷いた。
「それでええ」
「持って帰れますか」
「持って帰れ」
デュードは深く頷いた。
「はい」
その夜、部屋の机には、春のメモが並んだ。
こぶし賞四着。
フローラルウォーク賞三着。
アーリントンカップ十着。
京都新聞杯十四番人気、七着。
シェイクは、それを一枚ずつ読んだ。
「間違えないように並べましたぁ」
「ありがとうございます」
「こぶし賞は四着ですぅ」
「はい」
「フローラルウォーク賞は三着ですぅ」
「はい」
「アーリントンカップは十着ですぅ」
「はい」
「京都新聞杯は、十四番人気で七着ですぅ」
「はい」
デュードは少し笑った。
「シェイクさん、確認係みたいです」
「デュードさんの戦歴、間違えると足場が崩れますからぁ」
「そうですね」
デュードは、自分のメモに最後の一行を書き足した。
春の足場は高かった。
でも、全部から落ちたわけじゃない。
シェイクはその文字を見て、ほわりと笑った。
「いいですぅ」
「いいですか」
「はいぃ。春、怖かったですけど、終わってないですぅ」
「シェイクさんの三勝クラスも?」
「終わってないですぅ」
「わたしの一勝クラスも?」
「終わってないですぅ」
デュードは湯呑みを持った。
外では、春の夜が静かに降りていた。
デュードは朝日杯の五着で高い足場に立った。
こぶし賞でつまずき、フローラルウォーク賞で少し組み直し、アーリントンカップで風に押され、京都新聞杯で十四番人気のままでは終わらなかった。
春の足場は高すぎた。
けれど、高いからといって、もう見上げないわけではない。
デュードはまだ、自分の足場の組み方を探している。
シェイクもまた、三勝クラスの壁の前で、心臓の鳴らし方を探している。
二人の机の上には、勝利ではない数字ばかりが並んでいた。
でも、その数字は全部、次の図面になる。
春は、まだ遠い。
それでも二人は、同じ部屋でお茶を飲みながら、それぞれの足場を組み直していた。