タガノデュードが春の高い足場を見上げていたころ、シェイクユアハートもまた、別の場所で立ち止まっていた。
三勝クラス。
そこは、簡単には終わってくれない場所だった。
比叡ステークス、四着。
サンタクロースステークス、二着。
八坂ステークス、六着。
近づいたと思ったら離れる。
離れたと思ったら、また手が届きそうになる。
その繰り返しだった。
小倉の関門橋ステークス。
芝二千。
シェイクは古吉トレーナーと走り、三着だった。
悪くない。
悪くないけれど、勝っていない。
戻ってきたシェイクに、古吉トレーナーはいつものように言った。
「三着や」
「はいぃ……三着でしたぁ」
「前走よりは、また近いな」
「近いですぅ」
「けど、勝ってへんな」
「勝ってないですぅ……」
シェイクは、息を整えながら前を見ていた。
八坂ステークスの六着で少し離れたと思った場所が、また近くに見えた。
でも、それは一番前ではない。
三着。
掲示板。
馬券圏内。
でも、勝利ではない。
「近いの、難しいですぅ……」
シェイクが呟くと、古吉トレーナーは短く答えた。
「難しいな」
「古吉さん、もっと何かありませんかぁ?」
「近い時ほど、焦るな」
「焦ってますかぁ?」
「顔はほわほわしとる」
「はいぃ」
「でも、心臓が先に行っとる」
シェイクは胸に手を当てた。
心臓は、確かに鳴っていた。
勝ちたい。
届きたい。
もうそろそろ、と思ってしまう。
その音が、ときどき足より先に走り出す。
「心臓、待てが苦手ですぅ……」
「犬みたいやな」
「わん、ですぅ……」
「やめとけ」
古吉トレーナーはそう言って、少しだけ笑った。
春は続いた。
阪神のダイワスカーレットカップ。
芝二千。
シェイクはまた、古吉トレーナーと走った。
今度は二着だった。
サンタクロースステークスと同じ、二着。
一着の隣。
でも、一着ではない。
ゴールのあと、シェイクはしばらく前を見ていた。
「ほわ~……また、隣ですぅ……」
古吉トレーナーが来る。
「二着や」
「はいぃ……二着でしたぁ」
「よう走っとる」
「でも、勝ってないですぅ」
「せやな」
「また、近いですぅ」
「近いな」
「近いのに、遠いですぅ」
シェイクの声は、いつもより少し小さかった。
古吉トレーナーは、少しの間黙っていた。
それから、いつもの調子で言う。
「近いから遠く感じるんやろ」
「ほわ」
「全然届かんかったら、遠いなで終わる。でも、お前は見えとる」
「見えてますぅ」
「見えとるから、痛い」
シェイクは耳を伏せた。
「痛いですぅ……」
「なら、持って帰れ」
「痛いのもですかぁ?」
「せや。痛くない負けだけ持って帰っても、次に使えん」
シェイクは胸に手を当てた。
関門橋ステークス三着。
ダイワスカーレットカップ二着。
また、近い。
また、勝っていない。
けれど、その近さは確かに次へつながる痛みだった。
寮に戻ると、デュードが部屋で待っていた。
机の上には、デュードの春のメモが並んでいる。
こぶし賞、四着。
フローラルウォーク賞、三着。
アーリントンカップ、十着。
京都新聞杯、十四番人気で七着。
その隣に、シェイクの新しいメモが置かれた。
関門橋ステークス、三着。
ダイワスカーレットカップ、二着。
デュードは、その数字を見て言った。
「近いですね」
「近いですぅ」
「近いのに、勝ってないですね」
「勝ってないですぅ……」
「嫌な言い方ですけど」
「はいぃ」
「シェイクさん、ずっと完成検査前で手直しが出てるみたいです」
「ほわ~……つらい現場ですぅ……」
「完成しそうなのに、毎回どこかが通らない」
「通してほしいですぅ……」
デュードは湯呑みを置いた。
「でも、工事が止まってるわけじゃないです」
「はいぃ」
「進んではいます」
「進んでるんですかねぇ……」
「進んでます。進んでるから、余計につらいんです」
シェイクは、デュードの顔を見た。
デュードもまた、春に進んでいるようで迷っている子だった。
朝日杯で高い足場に立った。
でも、そのあと自己条件でも届かず、重賞では風の強さを知った。
京都新聞杯で十四番人気のまま終わらなかったけれど、勝ったわけではない。
二人の机には、勝利ではない数字ばかりが並んでいる。
けれど、そのどれもが、消せない数字だった。
「デュードさん」
「はい」
「春、難しいですねぇ」
「難しいです」
「足場、高いですぅ」
「高いです」
「でも、見えますねぇ」
「……見えます」
デュードは少しだけ、窓の外を見た。
「見えるの、困りますね」
「困りますぅ」
その頃、宮田先生はデュードの今後について考えていた。
古吉トレーナーと合っていないわけではない。
むしろ、デュードは古吉トレーナーと走る時、余計な荷物を少し下ろせている。
だが、春の大きな舞台を通ってきたデュードは、少し足元の組み方が固まりすぎていた。
朝日杯の五着。
その後の届かなさ。
親の期待。
自分は能力上位馬じゃないという口癖。
そこに古吉トレーナーの言葉は効く。
効くが、効きすぎることもある。
宮田先生は、デュードを部屋に呼んだ。
「一回、別のトレーナーも試してみるか」
デュードは、しばらく黙った。
「古吉さんじゃ駄目ってことですか」
「違う」
宮田先生はすぐに言った。
「古吉さんとは合っとる。そこは間違いない」
「じゃあ、どうしてですか」
「合っとるからこそ、他の空気も見た方がええと思う」
デュードは眉を寄せた。
「よく分からないです」
「お前は今、古吉さんの言葉で足元を見られるようになっとる。けど、足場の組み方が一つだけになるのは怖い」
「一つだけ……」
「走る場所は変わる。相手も変わる。期待も変わる。古吉さんだけが正解になると、古吉さんじゃない日に崩れる」
デュードは黙った。
それは、少し怖い話だった。
古吉トレーナーは、自分にとって走りやすい。
でも、その人だけを足場にしてしまったら。
その人がいない日、自分はどうなるのか。
「誰ですか」
デュードが聞くと、宮田先生は資料を一枚出した。
「美幸トレーナー」
「美幸さん……」
「腕はある。空気は柔らかい。お前とは少し違うタイプや」
「柔らかい……」
「だから見せたい」
デュードは少し不安そうな顔をした。
「わたし、柔らかい人と合いますか」
「分からん」
「そこは言ってください」
「分からんから試すんや」
宮田先生はそう言って、少しだけ表情を緩めた。
「嫌なら、戻せばええ。これは見捨てる話やない」
デュードは、その言葉をゆっくり受け取った。
見捨てる話ではない。
別の足場を見る話。
「……分かりました」
デュードは頷いた。
「試します」
美幸トレーナーとの初顔合わせは、想像していたものとかなり違っていた。
デュードは、もっと作戦会議のようなものを想像していた。
資料を広げる。
過去のレース映像を見る。
次の条件を確認する。
自分の脚質、位置取り、弱点、修正点。
そういうものを想像していた。
しかし、部屋に入るなり、美幸トレーナーはにこにこと笑って言った。
「おかしたべる?」
「えっ」
デュードは固まった。
美幸トレーナーは、机の上に小さな菓子皿を出した。
袋菓子ではない。ちゃんと小皿に盛られている。
しかも、甘いものとしょっぱいものが両方ある。
「甘いのと、しょっぱいのあるよ」
「えっ、今、作戦会議では?」
「作戦会議やで」
「お菓子を食べながら?」
「食べながらの方が、喋りやすいやろ」
「そういうものですか」
「そういうものや」
デュードは、差し出された小さな焼き菓子を見た。
現場なら、作業前の確認は先にする。
資料を見て、段取りを決めて、安全を確認する。
お菓子は休憩だ。
だが、美幸トレーナーの空気には、不思議な力があった。
急かされない。
責められない。
朝日杯五着とも、こぶし賞四着とも、京都新聞杯十四番人気七着とも、いきなり向き合わされない。
まず、お菓子。
デュードは戸惑いながら、一つ取った。
「いただきます」
「どうぞ」
「……おいしいです」
「よかった」
美幸トレーナーは、にこにこしたままお茶を注いだ。
「で、最近どう?」
「最近……」
「走るの、しんどい?」
デュードは少し黙った。
美幸トレーナーの聞き方は、宮田先生とも古吉トレーナーとも違った。
宮田先生は、資料を見ながら核心を突く。
古吉トレーナーは、短い言葉で余計なものを横へ退かす。
美幸トレーナーは、まるで柔らかい布を差し出すように聞いてくる。
しんどい?
そう聞かれると、デュードは少し困った。
「しんどい、です」
ぽつりと答えた。
「親の期待もあります。施設の人たちの声もあります。朝日杯で五着に来たことも、逆に重くなりました」
「うん」
「でも、わたしは能力上位馬じゃないからな~って思ってて」
「うん」
「そう言って逃げてた部分もあって」
「うん」
「でも、朝日杯五着のあとに自己条件で四着とか、重賞で十着とか、十四番人気で七着とか……何を基準に自分を見ればいいのか、分からなくなりました」
美幸トレーナーは、最後まで遮らなかった。
ただ、頷いて聞いていた。
デュードは、思ったより多く話してしまったことに気づき、少し恥ずかしくなった。
「すみません。長くなりました」
「ええよ」
「作戦の話、できてません」
「今してるやん」
「これがですか?」
「うん。これも作戦や」
美幸トレーナーは、お茶を置いた。
「デュードは、走る前に頭の中で足場を組みすぎるんやな」
デュードは目を丸くした。
「足場の話、聞いてます?」
「宮田先生から少し」
「そうですか」
「でも、聞かんでも分かる気はするよ。段取りを見て、危ないところを見て、先に先に準備してる」
「悪いことですか」
「悪くない。強みやと思う」
美幸トレーナーは、焼き菓子を一つ手に取った。
「でも、全部組んでから走ろうとすると、走る前に疲れるやろ」
デュードは言葉に詰まった。
それは、少し当たっていた。
親の期待をどこに置くか。
朝日杯五着をどう扱うか。
能力上位じゃないという口癖を持っていくか置いていくか。
古吉トレーナーの言葉。
宮田先生の判断。
相手の強さ。
距離。
人気。
走る前に、頭の中で足場を組みすぎている。
「全部、現場で組まんでもええんよ」
美幸トレーナーは言った。
「少し、柔らかいまま行ってもええ」
「柔らかいまま……」
「うん」
デュードは、焼き菓子の皿を見た。
柔らかいまま。
それは、デュードにとって少し怖い言葉だった。
足場は固くないと危ない。
段取りは曖昧だと事故る。
現場は、ふわっとしていてはいけない。
けれど、美幸トレーナーは悪いことを言っているようには見えなかった。
「分からないです」
デュードは正直に言った。
「はい」
「でも、試してみます」
美幸トレーナーは笑った。
「それでええよ。おかし、もう一個食べる?」
「……食べます」
デュードはもう一つ取った。
その日の夜、デュードは部屋でシェイクに報告した。
「美幸トレーナー、お菓子を出してきました」
「ほわ~……素敵ですぅ」
「素敵ですか?」
「素敵ですぅ。作戦会議でお菓子、いいですぅ」
「シェイクさんは絶対そう言うと思いました」
「おいしかったですかぁ?」
「おいしかったです」
「じゃあ良い人ですぅ」
「判断が早いです」
デュードは椅子に座り、机にメモを書いた。
美幸トレーナー。
おかしたべる?
柔らかい。
全部組んでから走ろうとすると、走る前に疲れる。
少し柔らかいまま行ってもいい。
シェイクはその文字を覗き込んだ。
「柔らかいまま、ですかぁ」
「はい」
「デュードさんには難しそうですぅ」
「難しいです」
「でも、ちょっと良さそうですぅ」
「そうですか」
「はいぃ。デュードさん、いつも足場をきっちり組みすぎて、足場職人さんみたいになってますからぁ」
「建設会社の娘なので」
「でも、デュードさん自身が走る場所も必要ですぅ」
デュードはペンを止めた。
シェイクは、湯呑みを両手で持ちながら続ける。
「足場が立派すぎると、走るところが狭くなりませんかぁ?」
デュードは黙った。
ほわほわした言葉だった。
でも、なぜか胸に残った。
「……シェイクさん、たまに急に刺してきますよね」
「刺しましたかぁ?」
「刺しました」
「ほわ~……ごめんなさいですぅ」
「いえ。たぶん、必要でした」
デュードはメモに一行足した。
足場が立派すぎると、走る場所が狭くなる。
それを見て、シェイクは少し得意げに笑った。
「シェイク名言ですぅ」
「今日は認めます」
「やりましたぁ」
その後も、シェイクは三勝クラスで走り続けた。
京都の下鴨ステークス。
三着。
また、近い。
また、勝っていない。
古吉トレーナーは言った。
「三着や」
「はいぃ」
「悪くない」
「でも、勝ってないですぅ」
「せやな」
「この会話、何回目ですかぁ?」
「数えるな」
「数えたくなりますぅ……」
「なら、メモに書いとけ」
「もう書いてますぅ」
シェイクの机には、また数字が増えた。
関門橋ステークス三着。
ダイワスカーレットカップ二着。
下鴨ステークス三着。
近い。
近い。
近い。
でも、勝っていない。
デュードはそのメモを見て、少しだけ眉を寄せた。
「シェイクさん、ずっと近いですね」
「はいぃ」
「ずっと近いの、かなりきついですね」
「きついですぅ……」
「完成検査前の手直しが、終わらない現場です」
「もう現場に住んでますぅ……」
「住まないでください」
「でも、三勝クラスの現場から帰れませんぅ……」
デュードは、小さく息を吐いた。
シェイクが悩んでいる。
それは分かる。
でも、自分もまた美幸トレーナーという新しい足場の前で、どう立てばいいのか分からずにいる。
二人とも、進んでいるようで、同じ場所に戻ってくる。
お茶を飲む。
メモを見る。
また次の予定表を見る。
その繰り返しだった。
ある夜、デュードは言った。
「シェイクさんは、古吉さんとずっと走れていいですね」
言ってから、少し後悔した。
シェイクは、湯呑みを持ったまま瞬きをした。
「いい、ですかぁ?」
「すみません。変な言い方でした」
「ううん……」
シェイクは少し考えた。
「古吉さんと走れるのは、走りやすいですぅ」
「はい」
「でも、古吉さんと走っても、勝てない時は勝てないですぅ」
「……はい」
「それが、最近ちょっと分かってきましたぁ」
シェイクは、自分のメモを見た。
古吉トレーナーと走った三着。
古吉トレーナーと走った二着。
古吉トレーナーと走った三着。
走りやすい。
けれど、勝てるとは限らない。
「古吉さんは、魔法じゃないですぅ」
シェイクは言った。
「でも、安全帯ですぅ」
デュードは、少しだけ笑った。
「定食屋兼安全帯ですか」
「そうですぅ」
「字面がひどいです」
「でも合ってますぅ」
「合ってますね」
二人は少し笑った。
笑えるだけ、まだ大丈夫だった。
けれど、春の足場はまだ高い。
シェイクは三勝クラスで、届きそうで届かない数字を積み続ける。
デュードは美幸トレーナーという柔らかい空気に戸惑いながら、古吉トレーナーだけではない走り方を探し始める。
親の期待。
施設の声。
朝日杯の五着。
シェイクの惜敗。
古吉トレーナーの短い言葉。
美幸トレーナーのお菓子。
全部が、部屋の中に少しずつ増えていく。
デュードは、机のメモをもう一度見た。
少し柔らかいまま行ってもいい。
足場が立派すぎると、走る場所が狭くなる。
そして、最後に小さく書き足した。
美幸トレーナー。
悪くない。
でも、まだ分からない。
シェイクはそれを見て、ほわりと笑った。
「分からない、も持っていきましょう」
「持っていくんですか」
「はいぃ。分からないまま走る日もありますぅ」
「古吉さんみたいなこと言いますね」
「シェイクさんですぅ」
「そうでした」
外では、春の夜風が窓を揺らしていた。
春は、思っていたより高かった。
けれど二人は、まだ落ちてはいない。
シェイクは三勝クラスの壁の前で、心臓の待たせ方を覚えようとしている。
デュードは美幸トレーナーのお菓子をきっかけに、少し柔らかい足場を知ろうとしている。
勝っていない数字ばかりが、机に並ぶ。
それでも、その数字の間に、次の道の線が少しずつ引かれていた。