心臓は、まだ夢を見ている   作:ディーバイエム

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[第十六章]おかしたべる?

タガノデュードが春の高い足場を見上げていたころ、シェイクユアハートもまた、別の場所で立ち止まっていた。

 

三勝クラス。

 

そこは、簡単には終わってくれない場所だった。

 

比叡ステークス、四着。

サンタクロースステークス、二着。

八坂ステークス、六着。

 

近づいたと思ったら離れる。

離れたと思ったら、また手が届きそうになる。

 

その繰り返しだった。

 

小倉の関門橋ステークス。

 

芝二千。

シェイクは古吉トレーナーと走り、三着だった。

 

悪くない。

悪くないけれど、勝っていない。

 

戻ってきたシェイクに、古吉トレーナーはいつものように言った。

 

「三着や」

 

「はいぃ……三着でしたぁ」

 

「前走よりは、また近いな」

 

「近いですぅ」

 

「けど、勝ってへんな」

 

「勝ってないですぅ……」

 

シェイクは、息を整えながら前を見ていた。

 

八坂ステークスの六着で少し離れたと思った場所が、また近くに見えた。

でも、それは一番前ではない。

 

三着。

 

掲示板。

馬券圏内。

でも、勝利ではない。

 

「近いの、難しいですぅ……」

 

シェイクが呟くと、古吉トレーナーは短く答えた。

 

「難しいな」

 

「古吉さん、もっと何かありませんかぁ?」

 

「近い時ほど、焦るな」

 

「焦ってますかぁ?」

 

「顔はほわほわしとる」

 

「はいぃ」

 

「でも、心臓が先に行っとる」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

心臓は、確かに鳴っていた。

 

勝ちたい。

届きたい。

もうそろそろ、と思ってしまう。

 

その音が、ときどき足より先に走り出す。

 

「心臓、待てが苦手ですぅ……」

 

「犬みたいやな」

 

「わん、ですぅ……」

 

「やめとけ」

 

古吉トレーナーはそう言って、少しだけ笑った。

 

春は続いた。

 

阪神のダイワスカーレットカップ。

 

芝二千。

シェイクはまた、古吉トレーナーと走った。

 

今度は二着だった。

 

サンタクロースステークスと同じ、二着。

 

一着の隣。

でも、一着ではない。

 

ゴールのあと、シェイクはしばらく前を見ていた。

 

「ほわ~……また、隣ですぅ……」

 

古吉トレーナーが来る。

 

「二着や」

 

「はいぃ……二着でしたぁ」

 

「よう走っとる」

 

「でも、勝ってないですぅ」

 

「せやな」

 

「また、近いですぅ」

 

「近いな」

 

「近いのに、遠いですぅ」

 

シェイクの声は、いつもより少し小さかった。

 

古吉トレーナーは、少しの間黙っていた。

それから、いつもの調子で言う。

 

「近いから遠く感じるんやろ」

 

「ほわ」

 

「全然届かんかったら、遠いなで終わる。でも、お前は見えとる」

 

「見えてますぅ」

 

「見えとるから、痛い」

 

シェイクは耳を伏せた。

 

「痛いですぅ……」

 

「なら、持って帰れ」

 

「痛いのもですかぁ?」

 

「せや。痛くない負けだけ持って帰っても、次に使えん」

 

シェイクは胸に手を当てた。

 

関門橋ステークス三着。

ダイワスカーレットカップ二着。

 

また、近い。

また、勝っていない。

 

けれど、その近さは確かに次へつながる痛みだった。

 

寮に戻ると、デュードが部屋で待っていた。

 

机の上には、デュードの春のメモが並んでいる。

 

こぶし賞、四着。

フローラルウォーク賞、三着。

アーリントンカップ、十着。

京都新聞杯、十四番人気で七着。

 

その隣に、シェイクの新しいメモが置かれた。

 

関門橋ステークス、三着。

ダイワスカーレットカップ、二着。

 

デュードは、その数字を見て言った。

 

「近いですね」

 

「近いですぅ」

 

「近いのに、勝ってないですね」

 

「勝ってないですぅ……」

 

「嫌な言い方ですけど」

 

「はいぃ」

 

「シェイクさん、ずっと完成検査前で手直しが出てるみたいです」

 

「ほわ~……つらい現場ですぅ……」

 

「完成しそうなのに、毎回どこかが通らない」

 

「通してほしいですぅ……」

 

デュードは湯呑みを置いた。

 

「でも、工事が止まってるわけじゃないです」

 

「はいぃ」

 

「進んではいます」

 

「進んでるんですかねぇ……」

 

「進んでます。進んでるから、余計につらいんです」

 

シェイクは、デュードの顔を見た。

 

デュードもまた、春に進んでいるようで迷っている子だった。

 

朝日杯で高い足場に立った。

でも、そのあと自己条件でも届かず、重賞では風の強さを知った。

京都新聞杯で十四番人気のまま終わらなかったけれど、勝ったわけではない。

 

二人の机には、勝利ではない数字ばかりが並んでいる。

 

けれど、そのどれもが、消せない数字だった。

 

「デュードさん」

 

「はい」

 

「春、難しいですねぇ」

 

「難しいです」

 

「足場、高いですぅ」

 

「高いです」

 

「でも、見えますねぇ」

 

「……見えます」

 

デュードは少しだけ、窓の外を見た。

 

「見えるの、困りますね」

 

「困りますぅ」

 

その頃、宮田先生はデュードの今後について考えていた。

 

古吉トレーナーと合っていないわけではない。

むしろ、デュードは古吉トレーナーと走る時、余計な荷物を少し下ろせている。

 

だが、春の大きな舞台を通ってきたデュードは、少し足元の組み方が固まりすぎていた。

 

朝日杯の五着。

その後の届かなさ。

親の期待。

自分は能力上位馬じゃないという口癖。

 

そこに古吉トレーナーの言葉は効く。

効くが、効きすぎることもある。

 

宮田先生は、デュードを部屋に呼んだ。

 

「一回、別のトレーナーも試してみるか」

 

デュードは、しばらく黙った。

 

「古吉さんじゃ駄目ってことですか」

 

「違う」

 

宮田先生はすぐに言った。

 

「古吉さんとは合っとる。そこは間違いない」

 

「じゃあ、どうしてですか」

 

「合っとるからこそ、他の空気も見た方がええと思う」

 

デュードは眉を寄せた。

 

「よく分からないです」

 

「お前は今、古吉さんの言葉で足元を見られるようになっとる。けど、足場の組み方が一つだけになるのは怖い」

 

「一つだけ……」

 

「走る場所は変わる。相手も変わる。期待も変わる。古吉さんだけが正解になると、古吉さんじゃない日に崩れる」

 

デュードは黙った。

 

それは、少し怖い話だった。

 

古吉トレーナーは、自分にとって走りやすい。

でも、その人だけを足場にしてしまったら。

その人がいない日、自分はどうなるのか。

 

「誰ですか」

 

デュードが聞くと、宮田先生は資料を一枚出した。

 

「美幸トレーナー」

 

「美幸さん……」

 

「腕はある。空気は柔らかい。お前とは少し違うタイプや」

 

「柔らかい……」

 

「だから見せたい」

 

デュードは少し不安そうな顔をした。

 

「わたし、柔らかい人と合いますか」

 

「分からん」

 

「そこは言ってください」

 

「分からんから試すんや」

 

宮田先生はそう言って、少しだけ表情を緩めた。

 

「嫌なら、戻せばええ。これは見捨てる話やない」

 

デュードは、その言葉をゆっくり受け取った。

 

見捨てる話ではない。

 

別の足場を見る話。

 

「……分かりました」

 

デュードは頷いた。

 

「試します」

 

美幸トレーナーとの初顔合わせは、想像していたものとかなり違っていた。

 

デュードは、もっと作戦会議のようなものを想像していた。

 

資料を広げる。

過去のレース映像を見る。

次の条件を確認する。

自分の脚質、位置取り、弱点、修正点。

 

そういうものを想像していた。

 

しかし、部屋に入るなり、美幸トレーナーはにこにこと笑って言った。

 

「おかしたべる?」

 

「えっ」

 

デュードは固まった。

 

美幸トレーナーは、机の上に小さな菓子皿を出した。

袋菓子ではない。ちゃんと小皿に盛られている。

しかも、甘いものとしょっぱいものが両方ある。

 

「甘いのと、しょっぱいのあるよ」

 

「えっ、今、作戦会議では?」

 

「作戦会議やで」

 

「お菓子を食べながら?」

 

「食べながらの方が、喋りやすいやろ」

 

「そういうものですか」

 

「そういうものや」

 

デュードは、差し出された小さな焼き菓子を見た。

 

現場なら、作業前の確認は先にする。

資料を見て、段取りを決めて、安全を確認する。

お菓子は休憩だ。

 

だが、美幸トレーナーの空気には、不思議な力があった。

 

急かされない。

責められない。

朝日杯五着とも、こぶし賞四着とも、京都新聞杯十四番人気七着とも、いきなり向き合わされない。

 

まず、お菓子。

 

デュードは戸惑いながら、一つ取った。

 

「いただきます」

 

「どうぞ」

 

「……おいしいです」

 

「よかった」

 

美幸トレーナーは、にこにこしたままお茶を注いだ。

 

「で、最近どう?」

 

「最近……」

 

「走るの、しんどい?」

 

デュードは少し黙った。

 

美幸トレーナーの聞き方は、宮田先生とも古吉トレーナーとも違った。

 

宮田先生は、資料を見ながら核心を突く。

古吉トレーナーは、短い言葉で余計なものを横へ退かす。

 

美幸トレーナーは、まるで柔らかい布を差し出すように聞いてくる。

 

しんどい?

 

そう聞かれると、デュードは少し困った。

 

「しんどい、です」

 

ぽつりと答えた。

 

「親の期待もあります。施設の人たちの声もあります。朝日杯で五着に来たことも、逆に重くなりました」

 

「うん」

 

「でも、わたしは能力上位馬じゃないからな~って思ってて」

 

「うん」

 

「そう言って逃げてた部分もあって」

 

「うん」

 

「でも、朝日杯五着のあとに自己条件で四着とか、重賞で十着とか、十四番人気で七着とか……何を基準に自分を見ればいいのか、分からなくなりました」

 

美幸トレーナーは、最後まで遮らなかった。

 

ただ、頷いて聞いていた。

 

デュードは、思ったより多く話してしまったことに気づき、少し恥ずかしくなった。

 

「すみません。長くなりました」

 

「ええよ」

 

「作戦の話、できてません」

 

「今してるやん」

 

「これがですか?」

 

「うん。これも作戦や」

 

美幸トレーナーは、お茶を置いた。

 

「デュードは、走る前に頭の中で足場を組みすぎるんやな」

 

デュードは目を丸くした。

 

「足場の話、聞いてます?」

 

「宮田先生から少し」

 

「そうですか」

 

「でも、聞かんでも分かる気はするよ。段取りを見て、危ないところを見て、先に先に準備してる」

 

「悪いことですか」

 

「悪くない。強みやと思う」

 

美幸トレーナーは、焼き菓子を一つ手に取った。

 

「でも、全部組んでから走ろうとすると、走る前に疲れるやろ」

 

デュードは言葉に詰まった。

 

それは、少し当たっていた。

 

親の期待をどこに置くか。

朝日杯五着をどう扱うか。

能力上位じゃないという口癖を持っていくか置いていくか。

古吉トレーナーの言葉。

宮田先生の判断。

相手の強さ。

距離。

人気。

 

走る前に、頭の中で足場を組みすぎている。

 

「全部、現場で組まんでもええんよ」

 

美幸トレーナーは言った。

 

「少し、柔らかいまま行ってもええ」

 

「柔らかいまま……」

 

「うん」

 

デュードは、焼き菓子の皿を見た。

 

柔らかいまま。

 

それは、デュードにとって少し怖い言葉だった。

 

足場は固くないと危ない。

段取りは曖昧だと事故る。

現場は、ふわっとしていてはいけない。

 

けれど、美幸トレーナーは悪いことを言っているようには見えなかった。

 

「分からないです」

 

デュードは正直に言った。

 

「はい」

 

「でも、試してみます」

 

美幸トレーナーは笑った。

 

「それでええよ。おかし、もう一個食べる?」

 

「……食べます」

 

デュードはもう一つ取った。

 

その日の夜、デュードは部屋でシェイクに報告した。

 

「美幸トレーナー、お菓子を出してきました」

 

「ほわ~……素敵ですぅ」

 

「素敵ですか?」

 

「素敵ですぅ。作戦会議でお菓子、いいですぅ」

 

「シェイクさんは絶対そう言うと思いました」

 

「おいしかったですかぁ?」

 

「おいしかったです」

 

「じゃあ良い人ですぅ」

 

「判断が早いです」

 

デュードは椅子に座り、机にメモを書いた。

 

美幸トレーナー。

おかしたべる?

柔らかい。

全部組んでから走ろうとすると、走る前に疲れる。

少し柔らかいまま行ってもいい。

 

シェイクはその文字を覗き込んだ。

 

「柔らかいまま、ですかぁ」

 

「はい」

 

「デュードさんには難しそうですぅ」

 

「難しいです」

 

「でも、ちょっと良さそうですぅ」

 

「そうですか」

 

「はいぃ。デュードさん、いつも足場をきっちり組みすぎて、足場職人さんみたいになってますからぁ」

 

「建設会社の娘なので」

 

「でも、デュードさん自身が走る場所も必要ですぅ」

 

デュードはペンを止めた。

 

シェイクは、湯呑みを両手で持ちながら続ける。

 

「足場が立派すぎると、走るところが狭くなりませんかぁ?」

 

デュードは黙った。

 

ほわほわした言葉だった。

でも、なぜか胸に残った。

 

「……シェイクさん、たまに急に刺してきますよね」

 

「刺しましたかぁ?」

 

「刺しました」

 

「ほわ~……ごめんなさいですぅ」

 

「いえ。たぶん、必要でした」

 

デュードはメモに一行足した。

 

足場が立派すぎると、走る場所が狭くなる。

 

それを見て、シェイクは少し得意げに笑った。

 

「シェイク名言ですぅ」

 

「今日は認めます」

 

「やりましたぁ」

 

その後も、シェイクは三勝クラスで走り続けた。

 

京都の下鴨ステークス。

 

三着。

 

また、近い。

また、勝っていない。

 

古吉トレーナーは言った。

 

「三着や」

 

「はいぃ」

 

「悪くない」

 

「でも、勝ってないですぅ」

 

「せやな」

 

「この会話、何回目ですかぁ?」

 

「数えるな」

 

「数えたくなりますぅ……」

 

「なら、メモに書いとけ」

 

「もう書いてますぅ」

 

シェイクの机には、また数字が増えた。

 

関門橋ステークス三着。

ダイワスカーレットカップ二着。

下鴨ステークス三着。

 

近い。

近い。

近い。

 

でも、勝っていない。

 

デュードはそのメモを見て、少しだけ眉を寄せた。

 

「シェイクさん、ずっと近いですね」

 

「はいぃ」

 

「ずっと近いの、かなりきついですね」

 

「きついですぅ……」

 

「完成検査前の手直しが、終わらない現場です」

 

「もう現場に住んでますぅ……」

 

「住まないでください」

 

「でも、三勝クラスの現場から帰れませんぅ……」

 

デュードは、小さく息を吐いた。

 

シェイクが悩んでいる。

それは分かる。

 

でも、自分もまた美幸トレーナーという新しい足場の前で、どう立てばいいのか分からずにいる。

 

二人とも、進んでいるようで、同じ場所に戻ってくる。

 

お茶を飲む。

メモを見る。

また次の予定表を見る。

 

その繰り返しだった。

 

ある夜、デュードは言った。

 

「シェイクさんは、古吉さんとずっと走れていいですね」

 

言ってから、少し後悔した。

 

シェイクは、湯呑みを持ったまま瞬きをした。

 

「いい、ですかぁ?」

 

「すみません。変な言い方でした」

 

「ううん……」

 

シェイクは少し考えた。

 

「古吉さんと走れるのは、走りやすいですぅ」

 

「はい」

 

「でも、古吉さんと走っても、勝てない時は勝てないですぅ」

 

「……はい」

 

「それが、最近ちょっと分かってきましたぁ」

 

シェイクは、自分のメモを見た。

 

古吉トレーナーと走った三着。

古吉トレーナーと走った二着。

古吉トレーナーと走った三着。

 

走りやすい。

けれど、勝てるとは限らない。

 

「古吉さんは、魔法じゃないですぅ」

 

シェイクは言った。

 

「でも、安全帯ですぅ」

 

デュードは、少しだけ笑った。

 

「定食屋兼安全帯ですか」

 

「そうですぅ」

 

「字面がひどいです」

 

「でも合ってますぅ」

 

「合ってますね」

 

二人は少し笑った。

 

笑えるだけ、まだ大丈夫だった。

 

けれど、春の足場はまだ高い。

 

シェイクは三勝クラスで、届きそうで届かない数字を積み続ける。

デュードは美幸トレーナーという柔らかい空気に戸惑いながら、古吉トレーナーだけではない走り方を探し始める。

 

親の期待。

施設の声。

朝日杯の五着。

シェイクの惜敗。

古吉トレーナーの短い言葉。

美幸トレーナーのお菓子。

 

全部が、部屋の中に少しずつ増えていく。

 

デュードは、机のメモをもう一度見た。

 

少し柔らかいまま行ってもいい。

足場が立派すぎると、走る場所が狭くなる。

 

そして、最後に小さく書き足した。

 

美幸トレーナー。

悪くない。

でも、まだ分からない。

 

シェイクはそれを見て、ほわりと笑った。

 

「分からない、も持っていきましょう」

 

「持っていくんですか」

 

「はいぃ。分からないまま走る日もありますぅ」

 

「古吉さんみたいなこと言いますね」

 

「シェイクさんですぅ」

 

「そうでした」

 

外では、春の夜風が窓を揺らしていた。

 

春は、思っていたより高かった。

 

けれど二人は、まだ落ちてはいない。

 

シェイクは三勝クラスの壁の前で、心臓の待たせ方を覚えようとしている。

デュードは美幸トレーナーのお菓子をきっかけに、少し柔らかい足場を知ろうとしている。

 

勝っていない数字ばかりが、机に並ぶ。

 

それでも、その数字の間に、次の道の線が少しずつ引かれていた。

 

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