美幸トレーナーとの時間は、タガノデュードにとって不思議なものだった。
古吉トレーナーといる時、デュードは余計な荷物を一つずつ下ろしていく。
宮田先生といる時、デュードは自分の図面を見直す。
けれど美幸トレーナーといる時は、少し違った。
お菓子が出る。
お茶が出る。
作戦会議なのに、最初に聞かれるのは「最近どう?」だった。
デュードは最初、それに戸惑った。
現場なら、まず確認だ。
足場、資材、人員、天候、危険箇所。
走るなら、位置取り、相手、距離、馬場、過去の失敗。
それなのに、美幸トレーナーは急がなかった。
「全部組んでから走ろうとすると、走る前に疲れるやろ」
そう言った。
デュードは、その言葉を何度も考えた。
自分は、足場を組みすぎているのかもしれない。
高く、固く、安全に。
でも、あまりに立派な足場を組みすぎると、今度は走る場所が狭くなる。
シェイクユアハートにも、そう言われた。
「足場が立派すぎると、走るところが狭くなりませんかぁ?」
ほわっとした声なのに、胸に残る言葉だった。
夏の中京。
デュードの次走は、三歳以上一勝クラスに決まった。
中京、芝2200。
美幸トレーナーとの一戦。
朝日杯五着から始まった春は、こぶし賞四着、フローラルウォーク賞三着、アーリントンカップ十着、京都新聞杯十四番人気七着と、思ったより長く、思ったより高かった。
勝っていない。
でも、何もしていないわけではない。
デュードはそう自分に言い聞かせていた。
その日の朝、少しだけ違和感があった。
大きな痛みではない。
走れないほどではない。
ただ、歩き出した時、右脚の接地がほんの少し浅い気がした。
デュードは足元を見た。
気のせいかもしれない。
冬場の現場なら、凍結箇所を見つけた時点で報告する。
資材のずれを見つけたら、作業前に直す。
危険箇所を知っていて黙るのは、いちばん悪い。
分かっている。
分かっているのに、デュードは一瞬だけ黙りそうになった。
ここで止まったら。
また足場を組み直しだ。
美幸トレーナーとの一戦。
別の足場を試すための一日。
柔らかいまま走る練習。
ここで取り消したら、それが全部なくなる気がした。
「デュード?」
美幸トレーナーが声をかけた。
デュードは顔を上げた。
「どうしたん?」
「……右脚の接地が、少し浅いです」
口に出した瞬間、胸の奥が冷えた。
美幸トレーナーの表情が変わった。
にこにこした柔らかさはそのままだが、目だけがすっと真剣になる。
「いつから?」
「朝、歩き出した時です」
「痛い?」
「痛いというほどではないです」
「違和感?」
「はい」
「走れる?」
デュードは答えかけた。
走れます。
そう言おうとした。
けれど、その言葉の前に、美幸トレーナーが静かに言った。
「走れるかやなくて、走らせてええかやね」
デュードは黙った。
それは、古吉トレーナーが言いそうな言葉にも似ていた。
でも、美幸トレーナーの声はもっと柔らかかった。
柔らかいのに、逃げられない。
宮田先生と担当医が呼ばれた。
歩かされる。
軽く動かされる。
止まる。
また歩く。
大きな異常ではない。
明らかな故障でもない。
けれど、いつものデュードとは違った。
宮田先生は、腕を組んでしばらく見ていた。
美幸トレーナーは何も言わず、デュードの足元を見ていた。
デュードは、耐えきれずに言った。
「走れます」
その声は、自分でも少し硬いと思った。
「危険箇所は分かっています。避けて走れば――」
「危険箇所が分かっとるなら、今日は入場禁止や」
宮田先生が言った。
デュードの言葉が止まる。
「……わたし自身が、現場ですか」
「せや」
宮田先生の声は厳しかった。
「お前が一番分かっとるはずや。危ない現場に、作業員を入れるな」
デュードは唇を結んだ。
反論できなかった。
自分が現場なら。
自分の脚が足場なら。
自分の身体が資材なら。
危ないと分かっている場所に、走れと言えるか。
言えない。
でも。
「ここで取り消したら、また……」
「また、何や」
「また、組み直しです」
デュードの声は小さかった。
「美幸トレーナーとも、まだちゃんと走れてません。古吉さん以外の足場を見ろって言われて、やっと少し分かりかけて……」
美幸トレーナーが、そっと口を開いた。
「走らん日も、足場やで」
デュードは顔を上げた。
「走らないのに?」
「うん」
美幸トレーナーは頷いた。
「今日は走らせない。そう決めることも、次のための足場や」
「でも、今日のレースは戻ってきません」
「戻ってこないね」
「今日しかないです」
「うん。今日しかない」
美幸トレーナーは、そこで少しだけ笑った。
「でも、デュードも今日だけの子やないやろ」
デュードは何も言えなかった。
出走取消が決まった。
名前が消える。
レースには、出ない。
それは、思っていたより静かな出来事だった。
大きな音はしない。
誰かが泣き叫ぶわけでもない。
ただ、予定表の上に線が引かれるように、今日のレースから自分の名前が消える。
控室で、デュードは椅子に座っていた。
美幸トレーナーがお茶を置く。
「おかし、食べる?」
いつもの言葉だった。
けれど、今日は少しだけ違って聞こえた。
デュードは、しばらく菓子皿を見ていた。
「食べます」
小さく答えた。
「甘い方で」
「うん」
美幸トレーナーは何も言わず、甘い焼き菓子を一つ皿に取った。
レースは、自分抜きで始まった。
遠くから歓声が聞こえる。
自分が立つはずだったゲート。
自分が踏むはずだった芝。
自分が確認するはずだった足元。
すべてが、自分抜きで進んでいく。
デュードは焼き菓子をひと口食べた。
味は分かった。
でも、少し遠かった。
「美幸さん」
「うん?」
「走りたかったです」
「うん」
「でも、止めてくれてよかったとも思います」
「うん」
「それが、すごく嫌です」
美幸トレーナーは、静かに頷いた。
「嫌でええよ」
「ええんですか」
「走りたかったんやから」
デュードは湯呑みを握った。
自分で違和感を申告した。
宮田先生に止められた。
美幸トレーナーも止めた。
その判断は、きっと正しい。
正しいのに、悔しい。
それが、いちばん扱いづらかった。
夜、寮に戻ると、シェイクが部屋で待っていた。
「デュードさん……」
「取り消しました」
「はいぃ……」
「走りませんでした」
「はいぃ」
「走らせない日でした」
シェイクは、ゆっくり頷いた。
デュードは机に座り、メモを書いた。
三歳以上一勝クラス出走取消。
右脚の接地が浅かった。
走れるかではなく、走らせていいか。
自分自身が現場。
走らない日も、足場。
ペンが止まる。
「書きにくいですね」
「取消のメモですかぁ?」
「はい」
「でも、書けてますぅ」
「書かないと、なかったことにしそうなので」
シェイクは湯呑みを持って、デュードの向かいに座った。
「なかったことには、しない方がいいですぅ」
「はい」
「でも、全部を意味にしなくてもいいですぅ」
デュードは少し驚いた。
「古吉さんみたいなこと言いますね」
「古吉さんに言われましたぁ」
「でしょうね」
少しだけ、二人は笑った。
次の一戦は、揖斐川特別だった。
同じ中京。
芝2200。
一勝クラス。
取り消した日から、あまり間は空いていない。
デュードは、以前より慎重に準備した。
歩く。
止まる。
また歩く。
足元を見る。
少し神経質になっている自覚はあった。
美幸トレーナーは、それを急かさなかった。
「確認はしてええよ」
「しすぎですか」
「しすぎたら言う」
「今は?」
「今は、必要」
デュードは頷いた。
「走るの、怖いです」
「うん」
「また違和感が出たらと思うと」
「うん」
「でも、走りたいです」
「うん」
「今日は、走らせてもいいですか」
美幸トレーナーは、デュードの足元を見て、それから顔を上げた。
「今日は、走ろう」
その言葉に、デュードは小さく息を吐いた。
「はい」
揖斐川特別。
ゲートに入る時、デュードの心臓はいつもより静かに鳴っていた。
怖さはある。
取消の記憶もある。
走らない日も足場だと分かっていても、次に走る日はやはり怖い。
けれど、今日は走る日だ。
ゲートが開いた。
デュードは出た。
中京芝2200。
足元を確認する。
大丈夫。
リズムを作る。
大丈夫。
美幸トレーナーの声が届く。
「急がんでええよ」
古吉トレーナーとは違う声。
柔らかい。
だが、ぼんやりしているわけではない。
「足元あるよ」
その言葉で、デュードは少しだけ息が入った。
足元はある。
取り消した日、消えたと思った足場は、まだ完全には消えていなかった。
三コーナー。
四コーナー。
前は見える。
届くかどうかは分からない。
でも、走れている。
直線。
デュードは脚を使った。
前を追う。
外から来る子がいる。
内で粘る子がいる。
一番前には届かない。
それでも、最後まで踏んだ。
ゴール。
三着。
デュードは息を整えながら、しばらく足元を見た。
走れた。
勝ってはいない。
でも、走れた。
美幸トレーナーが来る。
「三着やね」
「はい」
「走れたね」
「はい」
「悔しい?」
「悔しいです」
「よかった」
デュードは目を丸くした。
「よかったんですか」
「うん。ちゃんと走ったから悔しいんやろ」
その言葉に、デュードは少しだけ笑った。
「はい」
「勝ってないけど、今日は持って帰れるね」
「持って帰ります」
その夜、デュードはメモを書いた。
揖斐川特別三着。
美幸トレーナー。
取り消しのあと、走れた。
勝っていない。
でも、走れたから悔しい。
足元はあった。
シェイクはそのメモを見て、ほわりと笑った。
「足元、ありましたぁ」
「ありました」
「よかったですぅ」
「はい」
「美幸トレーナー、どうですかぁ?」
デュードは少し考えた。
「柔らかいです」
「はいぃ」
「でも、ただ柔らかいだけじゃなかったです」
「お菓子だけじゃないですかぁ?」
「お菓子だけじゃなかったです」
デュードはペンを置いた。
「走らせない日も、走る日も、ちゃんと見てくれました」
「いいですねぇ」
「はい。いい人です」
「古吉さんとは違いますかぁ?」
「違います」
「どっちがいいですかぁ?」
デュードはすぐには答えなかった。
古吉トレーナーは、余計な荷物を下ろしてくれる。
美幸トレーナーは、散らかったままの自分を少し柔らかくしてくれる。
どちらも悪くない。
どちらも必要だった。
けれど、同じではない。
「まだ、分かりません」
デュードは正直に答えた。
「でも、美幸さんで走れてよかったです」
シェイクは頷いた。
「それでいいと思いますぅ」
夏が終わり、秋が近づいた。
次にデュードの予定表へ書き込まれたのは、朝日セントライト記念だった。
中山、芝2200。
GⅡ。
そしてそこには、エコロヴァルツの名前があった。
朝日杯で出会った子。
勝者のジャンタルマンタルよりも、なぜか長い付き合いになりそうだと思った子。
エコロジーとロマンチックを合わせた、不思議な名前の子。
次に会う時は、もう少し上で。
そうメモに書いた子。
その子と、秋に再び走る。
今度のデュードの隣に立つのは、丹頂トレーナーだった。
丹頂トレーナーは、ローカル開催に強い人だった。
北海道、小倉、福島。
派手な大舞台の匂いよりも、その場の馬場、風、滞在、流れを読むのがうまい。
中央の王道路線をまっすぐ行くというより、今いる場所でどう走るかを知っている。
宮田先生は言った。
「今回は丹頂トレーナーで行く」
「古吉さんでも、美幸さんでもないんですね」
「せや」
「どうしてですか」
「今のお前には、別の場所の読み方もいる」
「別の場所」
「丹頂さんは、ローカルがうまい。中山はローカルではないが、流れを読む感覚は持っとる」
デュードは資料を見た。
セントライト記念。
エコロヴァルツ。
秋の大きな足場。
「分かりました」
デュードは頷いた。
「試します」
セントライト記念の日、中山の空は曇っていた。
パドックの空気は、朝日杯ともアーリントンカップとも違う。
秋の重賞。
クラシックの最後の大きな道へ続くかもしれない場所。
デュードは、そこにエコロヴァルツの姿を見つけた。
変わっていないようで、変わっていた。
朝日杯の時より、少しだけ輪郭がはっきりしている。
夢みたいな名前なのに、足元をきちんと踏んでいる感じは変わらない。
だが、その足場は、前より高く見えた。
エコロヴァルツもこちらに気づいた。
「デュードさん」
「エコロヴァルツさん」
「また会いましたね」
「はい」
「もう少し上で、でしたっけ」
デュードは少しだけ笑った。
「覚えてたんですか」
「覚えてます」
エコロヴァルツは静かに言った。
「今日は、もっと上へ行きたいですね」
「はい」
デュードは頷いた。
もっと上へ。
朝日杯の時は、横にいる子だと思った。
同じ高さの足場を、別の組み方で上がっている子。
けれど、今日のエコロヴァルツは少し前に見えた。
レースが始まった。
セントライト記念の流れは、重かった。
速いだけではない。
簡単に脚を使わせてくれない。
距離も、相手も、空気も、春の失敗や夏の取り消しを持ったデュードには少し深かった。
丹頂トレーナーの声が届く。
「急がなくていい。今いる場所で脚を残して」
ローカルを知る人の声だった。
場所を見る。
流れを見る。
今の自分で走れる形を探す。
デュードはそれに応えようとした。
だが、前には強い子たちがいた。
エコロヴァルツが見える。
ちゃんと前にいる。
レースの形の中で、崩れず、踏んでいる。
三コーナー。
四コーナー。
デュードも動く。
けれど、届かない。
直線。
前は遠い。
エコロヴァルツは、その前の争いに残っている。
デュードはそこへ入れない。
脚を使っている。
走っている。
でも、横に並べない。
ゴール。
エコロヴァルツ、三着。
デュード、九着。
数字は、はっきり分かれた。
戻ってきたデュードは、しばらく何も言えなかった。
丹頂トレーナーが隣に来る。
「九着だったね」
「はい」
「悪いところだけじゃない。でも、前とは差があった」
「はい」
「エコロヴァルツ、三着だった」
「見えてました」
デュードは、前を見たまま言った。
「横にいる子だと思ってたんです」
丹頂トレーナーは黙って聞いていた。
「でも、前にいました。ちゃんと、前に」
「追いかけたい?」
デュードは少しだけ息を吸った。
「追いかけたいです」
声が震えた。
「たぶん、悔しいので」
その夜、寮の部屋で、シェイクはデュードの話を聞いた。
シェイク自身も三勝クラスで足踏みを続けている。
近いのに勝てない場所。
見えているのに届かない場所。
だから、デュードの言葉は少し分かった。
「横にいる子だと思ってたんです」
デュードは、机の上で手を組んだ。
「でも、前にいました」
「はいぃ」
「ちゃんと、前に」
「追いかけたいですかぁ?」
「追いかけたいです」
デュードは顔を上げた。
「見えない方が楽ですね」
シェイクは静かに頷いた。
「見えちゃいましたねぇ」
「見えちゃいました」
デュードはメモを書いた。
朝日セントライト記念九着。
丹頂トレーナー。
エコロヴァルツ三着。
横にいると思っていた子が、前にいた。
見えない方が楽。
でも、見えた。
追いかけたい。
シェイクはその文字を見て、湯呑みを置いた。
「デュードさん」
「はい」
「追いかけたいって、いいですねぇ」
「苦しいです」
「苦しいけど、いいですぅ」
「そうですか」
「はいぃ。心臓が、ちゃんとそっち向いてますぅ」
デュードは、胸に手を当てた。
心臓は、痛いくらい鳴っていた。
取り消した夏。
美幸トレーナーとの三着。
丹頂トレーナーとの九着。
そして、前にいたエコロヴァルツ。
走らせない日も、足場。
走って届かなかった日も、足場。
横だと思った子が前にいた日も、きっと足場。
デュードはペンを取り、最後に一行書き足した。
次は、もう一度、横へ。
シェイクはそれを見て、ほわりと笑った。
「いいですぅ」
「いいですか」
「はいぃ。デュードさんの足場、また少し組めましたぁ」
「まだ低いです」
「でも、低すぎません」
デュードは少しだけ笑った。
「同室補正ですか?」
「同室補正ですぅ」
秋の夜が、窓の外で深くなっていく。
走らせない日があった。
走って三着の日があった。
別のトレーナーと、九着の日があった。
そして、前にいるエコロヴァルツを見た日があった。
デュードの足場は、まだ完成していない。
それでも、どこへ組みたいのかは、少しずつ見えてきていた。